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まるで際限もなく沈黙がつづいたように思われたのちに、やっと、扉がすこし開き、そのすきまから老人が頭をのぞかせ、槍や、猟銃や、たぶん分捕り品のピストルや小銃で武装した百姓たちと、ささやきをかわす。
老人は、扉を大きくあけて、夜の闇の中へ出てゆく、それから耳をすましている家の中へ向かっていうーー


「やつらのいったことは本当だ!」


まるで夢の中のできごとのように、村中の戸があいて、男たちが外へあふれ出てくる。
彼らは稲むらからわらをとって、家の中へはこび、土間にわらの寝床を造る。
それから扉がふたたび静かに閉められる。
ゲリラ隊員と家のあるじは、わら床の上に腰をおろし、ひそひそ声で語りあう。
女たちの方は、泥のかまどに鍋をかけて、火をつけ、遠くから米をはこんできて、料理する。


こういったような光景が、華南のいたるところで、その後数年間にわたって、くり返された。
このような事実が、朱将軍に、しばしばくりかえし、このようにいわせたのである。
「中国の農民は、地球上でもっとも革命的な人民だ」

中国の農民が必要としているもののすべては、すぐれた指導、堅実な綱領、そして武器だけだ、と。

1927年の冬の、あの暗澹たる時代に、朱将軍が部隊をひきつれてかえっていったのは、この湖南省南部の小世界であった。
そこで、彼は、その後20年間、朱徳と毛沢東が指導した軍隊の基本的性格となった土地革命の模範を、つくりあげたのであった。



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by far-east2040 | 2018-09-19 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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湖南省は、農民たちが「郷紳」と総称している、中国で最も残忍な幾人かの「虎地主」どもの領地として有名であるが、このときすでに、農民の反乱は、湖南じゅうを震撼させていた。

必死になった農民たちは、毎晩のように、闇にまぎれて、民団の哨兵をねらいうちにし、その武器をうばって武装し、「郷紳」の邸宅を襲撃した。
するとこんどは「郷紳」どもが、彼らの民団をひきつれて、眠りについた村々をおそい、農民の指導者をつかまえて、殺し、その首を棒の先につきさして、さらに、おそろしい見せしめにした。
それは、どちら側にもまったく容赦のない無慈悲で残忍な闘争であった。
ぼろをまとった農民たちは、襲い、戦い、そしてのろいの言葉をはきながら死んでいった。

このとき南湖南の数百の村々で演じられた数多くの悲劇は、後年、この筆者自身が目撃したことーーつまり、地主と彼らの下僕どもが、日本帝国陸軍と協力して、その日、軍に対して行動する、主として農民からなる共産ゲリラ隊と戦った事実とまったく同じものであった。


食糧もかくれ家もなく、負傷者をかついで、農民反乱者たちは、夜中になってから、眠りについた村へこっそり入ってゆく。
つっかえ棒で押さえてある扉をトントンたたきながら、おし殺した低い声でいうーー


「仲間だろ、あけてくれ! おれたちは農民自衛隊だ。
宿をかしてくれないか!」

ふかい静寂が村中をおおっている。
どのあばら屋も、じっと耳をすましている。
だがまだ、ことりとも音がしないし、一筋の光ももれてこない。
小屋の内側では、夜も昼も区別なくいつもぼろ服を身につけている男や女たちが、わらの寝床から黙ってそっとはいあがり、扉のところの物音に、じっと聞き入っている。
女たちは男の耳元でそっとささやくーー


「あけてはだめ! 地主のウーや民団かも知れないよ!」


もう一度、農民ゲリラは、扉をたたき、さし迫った声でいうーー


「仲間だろ! 
おれたちは、民団とたたかってきたんだ。
おれたちは負傷しているんだ」



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by far-east2040 | 2018-09-18 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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革命軍の分散した部隊が集結し、広東省北部の広東市から2、3日行程のところにあるショウ関市に達したときは、すでに12月半ばになっていた。

そのとき、彼らがいた地方一帯には、民団と「軍閥軍」――国民党軍全体とそのほかの反動軍をひっくるめて、朱徳はいつもこの名前で呼んでいたーーが、いっぱいむらがっていた。


朱徳の軍が、山地をとおりぬけてゆく道を探している最中、広東市の将校訓練連隊の武装した候補生たちの一個中隊と出くわした。

彼らは、しゃがれ声の歓声をあげながら、朱徳軍に向かって走ってきた。
これら候補生たちの話によると、広東市の蜂起は12月11日におこり、彼らと連隊も参加した。
しかし、この蜂起の中で結成された
広東コミューンは、3日後には、国民党軍と英国砲艦の共同攻撃によって打ち破られてしまった。
数千の労働者、農民、革命軍兵士に対する、ものすごい大虐殺がおこなわれた。

やっと逃げだした人びとは、小さな群れをつくって、この候補生たちの一隊と同じように、朱徳軍に加わって革命をつづけるために、こちらへたどりつこうと奮闘していた。


朱徳将軍がかたった、この時期における国内情勢の要約は、次のようなものであったーー

広東コミューンは、ありとあらゆる大衆運動にたいする、反革命テロの新しい波を招くことになった。

新たに加わった2百人の候補生を含めて、現在朱徳の直接指揮下にある工農革命軍の総数は、約1千7百人になった。

北方の茶陵には、5百人の漢口守備隊がおり、さらに、そこからあまり遠くない井岡山には、毛沢東が指揮する千人の部隊がいた。


賀竜将軍は湖南省北西部のどこかで再び農民軍を結集しつつあった。

農民指導者、方志敏は、江西省北東部で農民運動を指導していたし、また、黄埔軍官学校卒業生の一小集団は、江西省中央部の東固山岳地帯に革命基地をきずきあげようとしていた。

広東省東江地方では、彭湃がまだ「鉄軍」残存部隊と農民パルチザンとをひきいて活動していた。



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by far-east2040 | 2018-09-17 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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朱徳と彼の参謀は、数個中隊をひきいて南へ進軍をつづけた。
彼らはまだ古い国民党の旗をかかげていたので、これを見た地主どもは、朱徳の軍隊が農民を鎮圧するためにきてくれたのだと勘違いして、どっと野蛮な歓声をあげてとびだしてきた。


そういう場合には、朱将軍は次のような策略をもちいたので、その後20年間も、国民党の新聞は朱将軍のことを、「狡猾で背信的な匪賊の頭目」と呼んだのである。
朱将軍は、重大問題を熱心に聞くときには、いつも、両脚を大きく開いてすくっと立ち、両手を腰のうしろにまわしてぎゅっと組むのが、長いあいだの習慣になっていた。
そういう姿勢で、朱将軍は、地主どもが、彼の軍隊をつかって、軽蔑すべき農民の反乱を粉砕してくれ、と熱心に懇願するのを、じっと聞いていた。
朱将軍はこう質問した。
――地主の家族の男たちが腰にぶらさげている自動ピストルは別として、彼の民団は、小銃やその他の武器をどれだけもっているのか? 
これまでに農民を弾圧するのにどういうことをしたのか? 
また何人殺し、何人牢獄にぶちこんだのか? 
国民党軍から軍事的援助を受けるために、どういう手段をとったのか?


これらの質問にたいする回答をすべて聞いたあと、地主の傭兵を連れてこさせて、査問した。
そして民団と彼らの御主人たちが、気をつけの姿勢でつったっているあいだに、朱将軍は彼らを武装解除してしまい、その武器を農民にあたえ、地主たちと民団を農民裁判へ引きわたしたのであった。



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by far-east2040 | 2018-09-16 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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湖南省南部と広東省北部から集まった党代表の
桂陽会議は、3日間つづいた。
それから代表たちは、12月の半ばに一斉に始まることになった蜂起の準備のため、それぞれの郷里へ帰っていった。

会議の最終日、長い列をつくった農民の輸送隊が、范石生の司令部から、2、3百着の軍服と、かなりの量の弾薬をもって到着した。

朱将軍が、広東市の共産党からの招請状をうけとったのは、ちょうど、5百人の漢口守備隊を、湖南省東部の茶陵という山の中の町へ送りかえし、さらにほかの部隊をほかの地方へ派遣する用意をしていたところであった。
広東市からの招請は、ここでも12月半ばに計画している蜂起を援助するために、朱将軍にただちに行軍を開始することを要求していた。


12月のはじめ、ただちに朱将軍は南方へ向かって進軍をはじめた。

しかし朱将軍の部隊が行動をおこすやいなや、農民たちは、革命の合図の鐘が鳴りわたったものと考えて、いっせいに蜂起しはじめた。

またたく間に、この小さな革命軍は、南湖南から北部広東にわたる全域に広がったはげしい土地革命の嵐の中に、完全に巻きこまれてしまった。

農民は蜂起し、地主と彼らの民団を襲撃し、朱徳のもとへ使者を送って、援助部隊を送ってくれと必死にたのんできた。

朱徳は、四方八方へ小部隊を派遣したが、同時にこれらの部隊に対して、南方の一定地点で集結し、広東市へ向かって進軍するように命じたのであった。



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by far-east2040 | 2018-09-15 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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この進軍についてかたった朱将軍の話は、まるで、不朽の名作『水滸伝』――すなわち血盟の兄弟の物語――の一節を聞いているような感じであった。
革命が押しつぶされ、むかしからの抑圧的支配階級が復活し、権力を握ってからというものは、ふたたび国中に匪賊どもがうじゃうじゃとむらがっていた。

彼らは絶望した農民たちを自分たちの隊列に引き入れて、それぞれの地方一帯に支配権を打ち立て、多少とも繁栄している地方に対して、血なまぐさい襲撃をつづけていた。

ある夜ある村で、朱徳と一個連隊が眠りこんでいたところ、匪賊の小部隊との戦闘がはじまり、朱徳もかろうじて死地を脱したことがあった。

彼の部隊のある分隊は、本隊に合流しようと迅速に行動をこし、退却する匪賊のすぐ後を追っていった。

ところがさらに、20人ほどの匪賊が、くらやみの中で彼らを仲間だと勘違いして、そのあとについていった。

集合地点について点呼がおこなわれたときはじめて、20人の匪賊は、自分たちが革命軍に取り囲まれていることに気がついたのであった。


「この連中とよく話し合ったのち、われわれは、むかしから匪賊だった連中はそのまま釈放したが、それといっしょにいた貧しい農民たちには、わが軍に参加するようにすすめた。
そして彼らはわれわれといっしょになった」と朱将軍は説明した。

「あちこちいたるところで、われわれは国民党軍の小部隊と遭遇したり、その噂を聞いたりした。
当時彼らは、何の目標ももたずに国中をうろつきまわっていた。
彼らは、われわれが近づくと、すぐ逃げてしまうので、彼らと話し合うことはできなかった。

桂陽についてまもなく、われわれは、強力な武器をもった広西軍一連隊の兵力が近づいている、という情報を得た。

このような強力な部隊とまともに戦闘することは、不可能だったので、われわれは桂陽の町を撤退して、山岳地帯のあいだに布陣した。
しかし、これらの軍隊は結局、彼らの郷里へ帰る途上にあった一連隊のうちの、ばらばらになった一部の兵力にすぎないことがわかった。
われわれが探りえたところでは、全員が脱走兵であった」



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by far-east2040 | 2018-09-14 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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異様なかっこうをしたいくつかの部隊が、歓喜の叫びをあげながら、近づいてきた。

彼らは、十分な装備を身につけた約5百人の部隊で、南昌蜂起ののち、秋収蜂起を援助するために、毛沢東が指導して、湖南省へ進出した、漢口守備隊の一部であることがわかった。

この部隊は、チャン・ツェ・チンウ・チュン・ハオが指揮していたが、ふたりとも黄埔軍官学校出身であった。


朱将軍は、これらの人たちから聞いて、現在、毛沢東が、ここから北方、江西省西部の湖南省境にほど近い、井岡山として知られている、戦略的山岳地帯にいることを知った。

むかしから抑圧のはげしい時代には、同じような山塞が、どこにでもあったように、井岡山も、極端な貧弱と無知におしひしがれたこの数十年のあいだ、匪賊のかくれ家になっていた。

大革命のあいだ、農民運動は、その社会的目標を大いに吹き込んだので、この地方の農民運動の指導者、王佐袁文才は、農民を指導して、土地分配のための激しい闘争をおこなった。

しかし、その後の反革命の嵐でこっぴどくたたかれたので、彼らは、毛沢東が部隊と農民たちを引き連れて、この地区に入ってくるまでのあいだ、昔ながらの匪賊の習慣にもどっていたのである。

毛沢東は、王佐袁文才らと同盟を結び、井岡山を、農村革命のための革命的軍事基地にしてしまった。


毛沢東のもとへ代表を急派したのち、朱徳は、農民蜂起計画を立てるため桂陽会議に集まってくる各地の共産党代表に会うために、いまや総数約2千名にのぼる、彼の小さな工農革命軍をひきいて、山岳地方をぬけて西方にくだっていった。



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by far-east2040 | 2018-09-13 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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             范石生(ネットからの借用)


大余、われわれは、部隊を5つの分隊に再編成した。

この各分隊に一人ずつの政治指導者をつけ、部隊の政治教育と、できるだけ多くの隊員を入党させる義務を負わせた。

旧式の軍の指揮系統をやめて、直接指揮の体制にかえた。

軍は工農革命軍と改称した。

しかし、われわれは、まだ、旧い国民党の旗をかかげていた。

兵士と指揮官の全体会議で、私は、総司令官にえらばれ、陳毅私の政治委員に就任した。

林彪は、5分隊の中のひとつの指揮をとった。

大余にとどまっていたあいだ、われわれは、たびたび大衆集会をひらいて、人民に、わが軍の綱領と目的を説明し、わが軍が強大になって人民の政権をうち立てるまで、革命に忠誠を尽くしてくれるようにと呼びかけた」


大余町ですごした1週間目の終わりごろ、当時、湖南省南部から広東省の省境に駐屯していた旧雲南軍すなわち第五路軍の范石生将軍のもとから、朱徳将軍のもとへ、ひとりの参謀将校――彼はその後共産党員になったーーが、使者としてやってきた。

范将軍は、朱徳に送ってきた手紙で、二人は長いあいだの戦友であり友人でもあるから、自分は革命軍と戦いたくない、むしろ援助したい、といってきた。

范将軍はまたこう書いていた。

自分の軍隊の中には、まだ共産党の細胞がある。

党員たちはいずれも立派な革命家であることを実証している。

自分は、これらの党員の活動に反対するつもりはない、と。

また、范将軍の手紙には、自分が聞いた話では、旧雲南軍の強力な数個部隊が、現在、大余を目ざして進軍中である、とも書かれていた。


その後、20日間ほど、この小さな革命軍は、大余以西の山地のなかのある市場町に駐屯して、部隊を訓練し、教育し、それまで抑圧されていた大衆組織を復活させ、土地革命の基礎をきずいていった。

湖南省南部と広東省の各地にいる党細胞へ、多くの使者が派遣された。
これらの使者たちは、各細胞へ、きたる11月26日、湖南省南部の
桂陽で、革命軍を先頭とする農民蜂起計画をたてるための会議を開くので、代表を送るように、と指令して歩いた。

同時に、朱将軍は、范石生軍の司令部へ連絡将校を送り、衣類、毛布、弾薬の供給を依頼した。


この間に、前に軍隊から逃げ出した連中のうち、約2百人がかえってきて、朱将軍の言葉でいえば、「なんらの偏見もなく、受け入れられた」
この町にいた最後の週のこと、革命軍は、突然、北側の山地から彼らに向かって急襲してくる、兵力不明の敵軍に対して、ただちに戦闘配置につくよう、命令が発せられた。



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by far-east2040 | 2018-09-12 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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「私は、全軍が崩壊してしまうのではないか、と心配した」

遠くすぎさった光景を思いおこすように、朱将軍は語りつづけた。
やっと、この大量逃亡はしだいに小きざみになり、そして、ついに終わった。
あとに残ったものは、およそ9百人足らずであった。
みな汚くよごれ、餓えてやつれていたが、しかし、まっすぐに、しっかりと立っていた。
そしていまでは多くのものが、3丁か4丁の小銃をかついでいた。


「われわれは、分隊長会議を召集し、大急ぎで部隊の再編成をおこなった。

つづいて、徴発委員会を任命した。

私は、この委員会だけが、地主から徴発できる権限をもつという命令を出した。

敗北主義者がいなくなったので、絶望と士気の低下はなくなり、かわりに希望に満ちた精神が生まれてきた。

あくる朝、われわれは、信豊を急襲し、地主の傭兵を粉砕し、金持ちから米と金を挑発した。

2日後、われわれは、江西省西南部の大きなタングステン鉱山のある大余の町にはいった。

そこに1週間とどまって、休息をとり、再編成をおこない、農民や、タングステン精錬工場の労働者のあいだで、義勇兵を募集した。

この町には、北伐の際、旧「鉄軍」第四軍が設置して、そのまま残していった輸送倉庫があり、2、3百の軍服、毛布、その他の補給物資が、貯蔵されていた。
これを管理していた人たちは、これらの物資をわれわれに引きわたし、われわれの隊伍に加わった。

さらに2、3百の労働者、農民も入隊した。

われわれの徴発委員会は、町を巡察して、金持ちから米と金を徴発してまわった。

われわれが必要とする以上のあまった米や金は、町の貧しいものたちに分配した。



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by far-east2040 | 2018-09-11 08:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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              陳毅(ネットより借用)


朱将軍は、敗北主義者を納得させることはできず、彼らはいぜんとして、ひそかに軍紀をみだすたくらみをつづけた。

しかし、朱将軍は、その後の20年間、中国の歴史をきずきあげた多くの若い将校たちからは支持されていた。

たとえば、林彪、陳毅、チョー・ツェー・ケン、王爾卓らがいたが、彼らはみな部隊の下級指揮官であった。


朱徳がもっていた資金は、まもなく使いはたされ、部隊は飢えに悩まされはじめ、脱走するものまで出てきた。

そこで朱徳は、江西省九連山脈のなかで、ある地主の邸宅を包囲し、「義援金」を要求した。

その地主は、2千ドルを出した。

部隊が、江西省西部の信豊の町に近いある村に着くまで、この金でもった。

ここで朱徳は、今度こそ敗北主義者との問題を最終的に解決しようとして、会議を召集した。

彼は、部隊の軍紀弛緩、絶望的な空気、逃亡、一部の部隊がおこなった盗賊行為などは、これら敗北主義者の責任であると、その責を追求した。


語気はげしく、朱将軍は、わが軍からはなれたいと思うものは、だれでも、すぐ出ていかせるべきである、と提案した。

その提案はうけいれられ、即刻、実行された。

朱将軍の参謀長は、まっさきに部隊を去り、その後上海へいった。

1937年、その当時から10年たったのちでさえ、この逃亡についてかたるときの朱将軍は、嫌悪の情をはっきりとあらわしていた。

つづいて、ぞくぞく離脱者が出はじめ、去っていった指揮官や兵士たちの数は3百人以上に達した。

一人、また一人と、つぎつぎに隊列をはなれ、小銃を積みあげては去ってゆく部下を、じっと見つめていた朱徳の胸の中は、不安と絶望でさいなまれていた。



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by far-east2040 | 2018-09-10 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編