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さらにその夜に、報徳懐からの報告を持った伝令が到着した。

これは第二番目の伝令だった。
最初の伝令は捕えられ、殺された。
さて、彭の紅軍第三軍団は、二日二晩、敵軍第四十三師団――北方からきた軍――の前面と背面の両方に猛攻を加えて、山上の堡砦(ほうさい)をうばって、谷間に追い落とし、そこで半数を武装解除した、のこりは、水南にいる友軍第四十七師団のところに逃げた。


全西方戦線は今や紅軍の掌中にあった。

しかも朱将軍が2つの戦闘を回想するときの声は、機嫌が悪そうにひびいた。
どうしてかといえば、収穫は、小銃7千、その他、機関銃、臼砲、それに医療品と多量の糧食、弾薬、かなりの額の金、でしかなかった。
この貧弱な収穫は、彼の説明によれば、第二十八師団と四十三師団は、第一次掃共戦で壊滅された第十八師団の半分の大きさでしかなかったからだ。


朱徳と毛沢東は、解放された地区には、パルチザンといくつかの中隊の正規軍を展開させ、司令部は無電学校とともに、主力と合流したが、その主力は、紅軍史上もっとも劇的な攻撃に出るために動き出していた。


その軍が、第四十三師団の残存部隊が第四十七師団と合流して立てこもる水南の城壁にむかって進撃したとき、婦女子もふくめた数千の農民が、かごをかつぎ棍棒をかざして、部隊のまわりに渦巻きうごいた。

北方軍の一連隊が武装解除され、残りのものは、軍需品の大集積を置いたまま、東方に滑走した。

紅軍は、「おれたちの補給部隊」といいながら大笑いした。


朱徳がその軍需品をいそいで点検したとき、数千の農民はすでにそれを始末しているところだったが、朱が、「借りた米は、日を決めてちゃんと返す、とわしはいっただろ」というと、どっと笑った。



by far-east2040 | 2019-01-21 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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敵の攻撃が開始される――朱徳はその正確な日時を知っていた――その前の三日間の夜のあいだ、紅軍の本隊は、吉安地方の敵の背面にむかって強行軍をおこなった。

敵の爆撃をさけて、夜だけ行進し、月のある夜にたたかった。
暗い夜には、夜明けに攻撃した。


戦闘は17日の夜に始まることになっていたが、一発の砲声も朱徳と毛沢東の耳に入ってこなかった。

さらに2日がすぎても、何らの報告もなく、戦闘の音も聞こえなかった。

黄公略の紅軍第三軍は、東固と吉安のあいだの前線を保持すること、一方報徳懐と、とくに林彪の部隊は敵の背後を攻撃することが、命令されていたが、黄からも何らの報がなく、谷間には何の響きもきこえなかった。


その沈黙は、あまりにも不気味だったので、朱徳は、彼の参謀長と、二個中隊の護衛をひきいて、調査のために山をおりて西にむかった。

ほとんど山麓におりてきて、2つの峰のあいだの狭い谷に入ったとき、だしぬけに、山上に向かって進撃しつつある第二十八師団の先鋒部隊と、鉢合わせをしてしまった。


「やっとのことで山腹の森林に入って散って、交戦しながら退くことができた」と朱将軍はいった。

「だが、敵が慎重にうごいているところを見ると、こちらの戦力を知りかねているのだ、ということは明白だった。
3時間後に、われわれが東固高原の近くまで引き、毛が、司令部と病院と民衆の撤退準備をしつつあったときに、敵が兵を退けはじめたのをしった。

遠くからの銃砲声がひびく……紅軍第三軍が第二十八師団の背後を衝いていたのだ。
そして、夜までには、その師団の大部分を武装解除した。

公秉藩将軍もその捕虜の中にいたが、彼は第一次作戦である教訓を学びとっていたので、階級章もつかぬ兵隊服をきて、兵の中にまじっていた。
われわれが捕虜の兵のひとりずつに3元をやって故郷に帰れと告げたときに、公将軍も列をつくってその3元をもらったが、……一生のうち、こんなはした金をもらったことはなかっただろう。

彼は、われわれを手玉に取ったが、われわれの方では、彼の銃砲と軍需品を取り、例の無電学校の生徒たちは、咽喉を鳴らしながら『手つかず』の彼の新無電機と技手を、受け取ったのだ」



by far-east2040 | 2019-01-20 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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              何応欽(Wikiより借用)


5月のはじめに、南京政府の軍政部長何応欽を最高指揮官とする15万の国民党軍は堡砦線の後方の陣地についた。

その堡砦線は、そのときには、西は吉安から東は福建省の建寧まで、ジグザグに江西省を走り、その長さは約7百里、つまり約250マイルに及んでいた。

こうして第二次掃共戦が開始された。


朱将軍は、平然と、紅軍はこの敵の堡砦線についてのすべてを知っていた、といった。

つまり、構築のために強制労働させられた農民が、そのあり場所を告げたばかりでなく、その濠はどのくらい深く、それぞれの堡砦(ほうさい)がいくつの銃眼をもち、それぞれどのくらいの煉瓦と石が用いられたか、などまで説明し、さらに、地面に略図をかいて、そこにゆく抜け道まで詳細にしめしたからである。


「われわれは、第一次戦のときと同じ戦術を用いることにした。
それは、まず敵をその堡砦戦のうしろから出てこさせ、ソビエト地区、つまり紅軍と人民の勢力圏の中におびきよせ、迅速な大迂回行動をとって、その背面を攻撃して壊滅する、というのだ。
最初に東固と吉安との間で、第二十八師団ほか2個師団をたたくことに決めた。
われわれは、敵の堡砦線の後方の糧食弾薬の集積を必要としていたし、無電学校の連中は、第二十八師団の新式無電装備をほしがって、わいわいといっていた」


1931年5月16日の夜、朱徳と毛沢東は正規の紅軍と補助のパルチザン部隊に戦闘命令を出したのち、司令部を東固山岳地の要害にうつしたが、そこにはまた衛生部隊が、二つの後方基地病院を設営していた。
民衆は、勝利を信じてうたがわず、何千という数のものが、さまざまな地点にあつまったが、あるものは、紅軍の負傷兵をはこぶための、ありとあらゆる形の担架を用意し、またあるものは、捕獲した敵の軍需品をはこぶために、かごと担い棒をたずさえてきていた。


朱将軍は、農民の心の中に残っている古い封建意識については、包みかくすことなく、あからさまにかたった。

農民は、敵の負傷兵も紅軍病院にはこび、味方と同じように扱えという彼の命令に服従することをこばんだ。

大衆集会をひらいてみたが、朱は、近代戦争の法を説いてみてもむだだと知った。
農民たちは、敵の兵隊が、たとえ傷ついたとはいっても、相手を親切にあつかう、という理屈がわからなかった。
どう考えても、奴らは、自分たちをこの世から追っぱらいにやってきたものだ。
農民の心をいくらかでも動かす理屈があるとすれば、それはただ、敵といえども革命の味方に引き入れる、ということだったが、しかしその場合にも、彼らはいやな顔をし、中には腹を立てるものもあった。



by far-east2040 | 2019-01-19 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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「われわれはまた、軍隊のために、軍事と政治の定時講義をし、文盲退治の運動を、いっそう強化した。

外部から、多くの知識階級出身者が入ってきて、われわれを助けた。

しかし、まだその数は足りず、われわれの軍医部隊は貧弱だった。

上海から印刷工、そのほか多くの都市から産業労働者が、敵の戦線をくぐって、われわれのところにきた。


「私はまた、新しい無電学校にも力を入れたが、それは第十八師団の無電機を捕獲したときに設立されたものだった。
主任の王ソウは、われわれに加盟するやいなや、新無電学校を組織した。
王は、いまもこの延安の無電学校長で、『無電の父』とよばれている。


「同志になると、王は敵の通信を傍受しはじめたが、それによると、公秉藩将軍の第二十八師団は新式の無電装備をもっていることがわかった。

こちらの無電学校の生徒は、大いにそれを欲しがったが、私もそれに大賛成だった。

また、敵の通信を傍受すると、敵はかねて、第二次掃滅作戦のために堡砦(ほうさい)を構築しつつあったが、それらの後方には軍需品や糧食が集積されている、ということも知った。

そうした堡砦(ほうさい)については、われわれは完全に知っていた、というのは、国民党は農民を徴発して築かせたからだ。


「4月のころには、われわれの糧食弾薬の問題は危機にせまってきたが、第二次の作戦のための蓄えを消費してしまうことを恐れて、農民から返却の日を決めて米を借りることにした。

農民たちは私に、期限をきったりして大丈夫か、ときくので、私は彼らに、今まで約束を破ったことはあるか、ときき返した。

彼らは、いやそんなことはなかった、といってみな大いに笑った。

というのは、農民はそれが何を意味するのかを知っていたからだ」――と、朱将軍は、誇らかにつけ加えた。


朱将軍が語りおわったときは、真夜中すぎだった。
彼は、蝋燭の灯かげに、白い強健な歯をきらめかせ、あくびをし、笑いながらいった。

「私の1931年の春の生活の、典型的な一日といえば、ざっとこうしたものだった」



by far-east2040 | 2019-01-18 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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「1931年の3月はじめに、われわれは、上海で秘密にひらかれた党の第4回代表者会議で通過した決議を受けとった。

われわれもその会議に代表をおくった。
そしてその会議で李立三の方針が否決され、われわれの方針が確認された。

その時にわれわれが受けとった決議は、軍隊に体系的な教育をほどこすこと、軍とソビエトと民衆の諸組織との仕事の区分を明らかにすること、を指令していた。

会議はまた、1931年8月1日――南昌蜂起の4周年記念を期して、江西南部でひらかれる全中国ソビエト大会のための準備をすることを、われわれに要請した。


「われわれは決議の実践に取りかかった。

まずすべてのソビエト地区からの党代表の会議を召集し、それからふたたび司令部を、――今度はシャンタンという小さな山村にうつしたが、そこにはある豪家の祠堂があって、司令部と会議の代議員を収容するだけの広さをもっていた。


「会議はほとんど1ヵ月つづいた。

とくに8月1日の全中国ソビエト大会のための準備委員会を設定した。

しかし、まもなく敵の新作戦がはじまって、会議は、まず11月7日まで、それからまた12月11日まで、延期された。
12月11日は、広東コンミューンの記念日だった。


「シャンタンの会議には、私は常任幹部会のひとりとして、時には議長として出席したが、その会議によって、われわれの仕事は強化されていった。

そのとき以来、ソビエトと民衆の組織は、軍から独立することになった。


ソビエト内の個人的関係は――ある場合には大きな影響を持ってきたのだが――一掃され、すべてのソビエトすなわち評議会は、能率的な行政機関として、財政、土地、通信、地方武装隊、衛生、教育、生産、それから婦女子問題などを取りあつかった。

ソビエトは、村を基底とし、それから区、それから省と、ピラミッド型に組織された。
1931年の12月11日以後は、最高機関は、瑞金の中央ソビエト政府であり、首席は毛沢東であった。



by far-east2040 | 2019-01-17 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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「またわれわれは、全ソビエト地域にわたって、空襲警報の施設を作ることにしたが、わが軍の中の、鉱山労働者から組織した技術部隊は、高度の技術をもつ熟練者のむれであって、爆弾の製法や使用法はいうにおよばず、多方面の能力をもっていた。

そのうちの多くは、今まで働いていた鉱坑の中での爆発のために、耳が聞こえなくなっていた。

わが軍に参加する前から、彼らの政治的意識はきわめて高い水準をもっていたが、もちろん、大部分が古い党員で、労働運動の初期の時代から、労働者の組織者であり指導者であったのだ。

私はたびたび、彼らが召集した、新しい防衛方法を立案するための会議に、参加した。


「そのほかにも多くの仕事が、毎日のように押しよせてきた。

われわれは、人民の軍隊だったので、ずっと以前から、あらゆる種類の民衆の活動と結びついてきていた。

古くからあったソビエト地区では、その再組織を手伝い、新しいところでは、人民の主権を固める手伝いをした。

われわれは、地主からは食糧と土地を取り上げ、土地の分配の世話をし、人民組織とソビエトを樹立し、増産のための、土地すきや種まきの新運動を指導した。



by far-east2040 | 2019-01-16 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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「第1回の敵の作戦を撃破したのちに」と朱将軍はつづけた。
「われわれの軍は広い地域に拡散した。

彭徳懐は北方の前線を占拠していたが、そこには新しく二県が加えられていた。

彭は、城市南豊から許克祥将軍を追っぱらったが、その許は、『農民殺し』とよばれ、蒋介石がわれわれに国民党による第二次掃滅作戦をしかけてくる時まではと、しがみついていたのだ。


「その戦いの準備のために、われわれは軍を拡充し、多くの要衝の地点に軍需品の蓄積をして兵士の訓練にはげんだ。

敵の飛行機は定期的にわが軍を爆撃し、反ボルシェヴィキ(AB)団はいたるところで活動を強化していた。

その活動に抵抗するために、時にはわれわれは徹夜で会議しなければならなかった。


「爆撃や食糧不足のためにわれわれ司令部は、4ヵ月の間に4、5回も移動した。

春の種まきの時期だったので、深刻な食糧危機にさらされ、われわれの地域は狭く、われわれの蓄えは少なく、しかもわれわれは、まじかに迫り来る敵の攻撃にそなえて、米をたくわえなければならなかった。

わが軍は、地主どもから、米を取りあげたが、それにも限りがあって、われわれは、農民を手伝って、土地を耕したり種をまいたりしたどころか、兵士たちは、貧弱な荒野の開拓すらもしたのだが、それも貧寒な土地であった。


わが軍は、各師団ごとに、兵士の委員会という特殊な組織をもっていて、そこが、給与の処理をし、軍規を保持し、教育と娯楽の活動の指示をしていた。

1931年の春のあいだは、こうした委員会は、食糧をたくわえるという仕事に、労力をそそいでいた。

そして、われわれの配給までけずったものだから、われわれは、一日に2回、――10時と4時に、まずしいものを食うだけだった。

食糧はお粗末なもので、われわれは、はじめから終わりまで腹ペコだった。

病気の兵士と負傷兵だけは十分にあてがわれた。



by far-east2040 | 2019-01-15 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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まだほかにも仕事はあった、と、言葉をつづけ、将兵に軍務がないときには、農民を手伝って、春には土地をすき、種をまき、秋には収穫をしたと語った。
朱将軍も、できるかぎり農作業を手伝ったが、それは「私の健康を保つには最上の手段だった」

紅軍の慰安や文化活動は、そのころは比較的手薄だったけれども、いくつかの演劇隊が、ソビエト地区を巡回して、兵士や農民にみせていたが、もしそれが司令部からゆける所であれば、朱将軍は地べたにすわるか、前列のベンチにかけるかしていた。
軍にはいくつかの歌があったが、歌うことは、いま彼が語っている延安時代ほど発展していなかった、ということだ。


「まだほかにも、日々の情報や報道を読んでそれぞれ処理しなければならなかった」と彼は加えた。

「私は、新聞や本を見つけ次第読んだが、そのころは、本や雑誌を手にいれることはかんたんでなかった。

ときどき、上海から本の小包がきたが、みながすごく読みたがっていたので、私の手元にまわってくるまえに、ほかのものが取る、ということも多かった。

当時私は、マルクス・レーニン主義の知識を向上させようと努めていたので、その主題の本は、手に入り次第、くりかえし読んだ。

最初の敵全滅作戦のとき、戦略戦術の本やパンフレットをたくさん接収したので、私はそれを読んだが、わが軍のために役立った」


長沙と吉安の占領の時には、どちらでも、軍は国民党の印刷機を接収して、それを村落地区にうつした。
そして月2回の軍報道を出すことになったが、それには、他の紅軍や、パルチザン地区や、全国の情勢などについての報告がのせられた。
そのころ、上海、北京、その他の国民党支配下の都市の、教師や教授のあいだに、紅軍や、ソビエト地区の小学校のための教科書の元をつくろうという運動がおこった。
そうした原稿は、敵の戦線をこえて密輸されてきて、印刷されたり、石版にされたりしたが、朱将軍は、その兵士のための本を読んだこともあった。



by far-east2040 | 2019-01-14 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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そのつぎに朱将軍が、生涯の話を語りにきたときに、私は提案して、1931年の典型的な一日をえらんで、その日の朝から晩まで何をしたか、話してくださいといった。


しばらく考えてから、彼は答えた――ある一日にしたことすべてを思い出すことなんて無理だが、できるだけやってみよう。
以下が、彼が語ったことである。


「私は生涯、かなり早起きする習慣をつづけてきた。
寝るのは仕事がおわってからなので、かなりおそく、ほとんどいつも夜中すぎになる。
私の生活は、仕事と学習による鍛錬、ということを中心にして築かれてきたのだが、仕事と学習は、決して規則的なものではなかった。

というのは、われわれが行なってきたような戦争では、司令部が直接手を出して監督しなければならないことが、じつに多かったからだ。


「たいていは、――といっても規則正しくではないが、部隊のものに軍事についての講義をし、ひんぱんに近くの部隊を視察して、統制と行動をしらべた。

また私は、定期の参謀会議に出席したが、そのほかにも、週に1、2回は党の集会、それから司令部細胞の会合もあった。

たびたび、軍の各部面の統率者との会議があり、さらに臨時に問題がおこったさいの会議もあった。

一つの戦闘の前には、戦闘部隊の動員会議が1、2回ひらかれ、そこでは、軍の指揮官が、わが軍の作戦と敵側の情勢について報告し、政治指導員は、戦闘または作戦の意義、それから、戦いつつ敵の士気を沮喪させ、あるいは帰投させる、政治技術について説明した。


「戦闘ののちには、時間があればだったが、――作戦ののちには必ず、会議を2回ひらいた。

1回は指揮官だけのもの、もう一回は指揮官と兵士と合同のもので、そこでは戦闘または作戦の分析をおこなった。

それは、わが軍にとっては、戦術的にも教育的にも、大きな価値のあるものだったので、私はそういう会議にはつとめて出席した。

そうした合同の会議では、兵士も指揮官も、完全な言葉の自由をもっていた。

たがいに批判することが認められ、根本計画の各部分や、実施された方法について批判してもかまわない。

このような方法で、われわれは過失をただし、弱腰の指揮者を排除し、能力があるものを昇進させることができた。

そして、われわれは、すべての封建的な悪習を根絶やしにし、軍隊を民主化し、兵士のあいだに自発的な軍規が生まれることを、ねらった。

臆病だったり判断をあやまったりした兵士、戦闘の最中に命令にそむいた兵士は、その行動を公に語って、その過失をただすことを学ばなければならなかった。

兵士をののしったり殴ったり、その他軍規をおかした指揮官は、大衆裁判の前に立って答えなければならず、もし有罪と決まれば、司令部によって処置されるだろう。

こうした会議の結果は、パンフレットで発表されて全軍の研究の資料として用いられた」



by far-east2040 | 2019-01-13 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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何週間かすぎたころ、上海の共産党中央委員会から一人の使者が、朱将軍の司令部に来た。

持参した手紙によると、蒋介石が張将軍の釈放を請い、その代償として多数の政治犯を釈放し、20万ドルを払うというのであった。


「処刑したことを、われわれは後悔した」と朱将軍はいった。
「金のためではなかった。
蒋介石は、復讐として、獄中のわれわれの同志の多くのものを殺したのだ」


紅軍の勝利は、たしかに、国民党と、それを支持する外国筋と、財政援助者をがくぜんとさせ、そのため新しいテロの波が国民党支配下の中国に広がっていった。

蒋介石元帥は、みずから南京政府の教育部長になり、宣言を発表して、彼の「心をいためる」ものは、学生たちが、「共産主義の食いものにされて」集会をしたり、ビラをまいたり、はなはだしきにいたっては、「政府への反抗に等しい行為――すなわち彼らの大学の学長に反抗する」のを見ることだ、といった。
そして元帥は、「学生といえども、容赦なく射殺する」と声明し、かつその実証を見せはじめた。


5つの大学が閉じられ、多数の学生が、秘密裏に上海で捕らえられ、その後の消息はすこしもわからなかった。

上海の新聞は、あっさりと、北京国立大学の60名、天津で10余名、そのほか広東、長沙、漢口で多数がとらえられたと報道した。

1931年2月7日には、上海のイギリス警察は、若い作家、美術家、俳優など24名をとらえて、国民党の守備隊長に引きわたし、そこで彼らはその夜射殺され、自分たちが掘らされた大きな穴の中に捨てられた。


南昌の国民党が発行する『反共月刊』の1931年2月号は、ひとりの国民党高官の談話をのせている。


「もし政府が、紅匪問題の解決に、今日用いつつある方法以上のものを見出し得ないならば、われわれは、すべての紅匪地区をまず隔離し、毒ガスをつかって一人のこらず殺すほかないであろう。
これらの地区の、10歳以上60歳までのあらゆる男と女は、紅軍のためにはたらくスパイであるか、紅軍兵そのものであるからである」



by far-east2040 | 2019-01-12 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編