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朱将軍はこんなふうに答えた。中国は百年のあいだ帝国主義列強の半植民地であった半封建の国だ。この1世紀の間、中国の政府は西欧帝国主義の卑しい道具だった。北京や南京や上海は、国の利益を最高入札者に売りわたそうとする反逆的陰謀の策源地だった。


 確かに中国には、革命途上のほかの国より多くの反逆者がいる、――と彼は認めたが、それは中国の領土や人口が大きいからだという。


 「アメリカも革命戦争の時には多数の反逆者を出した」と、私に思い出させた。「そのことは学校では教えないだろうが、あなたの国の解放戦争では、大勢のアメリカ人が、イギリスの暴君に積極的に奉仕した。スペインをヒトラーとムッソリーニに売りわたしているフランコやその手下どものことを考えるといい。資本主義列強に身売りして、十月革命のあいだ自国の人民と戦った白系ロシア人のことも考えるといい。インドや朝鮮の状態をみるといい。世界中を見わたしてみなさい。権力と金のために、いつでも自国民を裏切る連中が、どこにもいることがわかるだろう。


 「われわれの党も反逆者を出した。中国の革命は長距離をゆく列車のようなものだ。途中で降りるものもあり乗りこんでくるものもある。だが大部分のものは終着駅まで乗ってゆく。張国燾は右翼機会主義者の政策についていって、わが軍に重大な損害をもたらした。しかし、わが党の正しい指導と、わが軍隊の政治的自覚と忠誠が、結局彼の政策を匡正し、軍と党を強化した。張のような人間が、さらに多くの人々を殺すかも知れないが、歴史の流れを変えることはできない。わが党とわが軍は、革命の勝利を実現するだろうし、それはあらゆる植民地の抑圧された民衆に、いや全世界の民衆に影響を及ぼすだろう」



by far-east2040 | 2019-04-19 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 以上のようにして、江西省寛田を出てから満21ヵ月と19日で、長征という一大叙事詩の幕がおりた。再集結した紅軍の実勢力は、8万で、193410月に江西を出発したときの中央軍の戦闘力とほぼ同じだった。西北の山野に集まったこの勢力は、歴史的に類のない独自の勢力だった。


 紅軍の本拠は、19371月から延安に移ったが、そこで張国燾は党中央委員会の審判にかけられた。党の創立に力のあった彼自身が、党の基本綱領と政策に違反したのだ。張と彼の配下の少数の将校は、部下の将兵や、彼が捕虜にした朱徳や劉伯承や他の参謀などの証言に対抗して自分たちを弁護した。


 この審判で朱将軍は、彼自身が張からどのように扱われたかということには、少しも触れず、張が紅軍と党との綱領や政策を犯した点だけを問題にした。張は愛想よく、しかも狡猾に、朱徳に対する態度を陳謝し、審判の決定に服した――それは誤りが矯正されるまで学習する、という決定だった。


 1938年の夏、抗日戦がはじまった時、国民党軍事使節の一行が延安を訪れたが、彼らは帰るときひそかに張国燾を漢口に連れ去った。張はそこで、恐るべき秘密警察・藍衣社の首領載笠将軍の幕僚に加わった。


 朱将軍とこの事件の話をしていた時、私は何千という中国人が、日本の中国征服を積極的に手伝っていることや、共産党創立者の一人さえも秘密警察に加わって、中国の進歩主義者を狩り立てる結果になったことを慨嘆した。



by far-east2040 | 2019-04-18 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 「119日、10日、11日。第一、第二、第四各方面軍司令官が連日朱徳や参謀と会合。蒋の軍隊は依然として集中しつつあるが、われわれはもう後退しない。戦闘を前にした、息詰まるような数日、方々で紅軍戦士の集会がひらかれ、なぜわれわれが広い地域から撤退してきたかが説明される。――それは、抗日戦のため、あらゆる部隊を出来るだけ傷つけたくなかったためであり、敵を統一戦線側に獲得するためでもあった。王均将軍が飛行機の墜落事故で死んだ。われわれがその死体を見つけた。朱徳は四川にいた頃、この男を見たことがある。


 「1123日、24日。戦闘は終わった。紅軍は爆撃機の来ない夜明けに攻撃をおこなった。寧夏大平原からくる身を切るような寒風が吹きとおしていた。手指はこごえて、引き金を引くのも手榴弾のふたを取るのも、思うようにならなかった。そこで銃剣突撃を敢行した。敵兵をひっつかんで武装解除したものも多かったし、すりこぎ状の柄のついた手榴弾を棍棒がわりに使って敵兵を頭からたたきふせたものもいた。紅軍騎兵(元東北軍)は支離滅裂になって逃げる白軍の連隊を追撃した。敵兵の死体が、数マイルにわたって路上に散らばっていた。私はある谷のはずれで、150の敵兵の死体が重なっているのを見た。その他の場所でも数百の死体を見た。また数百人の敵兵が渓谷や空井戸に落ちて死んだ。われわれは綱でそれを引き上げるのに一日かかった。


 「捕虜と話をした。彼らは湖南から鉄道でつれてこられたが、日本と戦うために綏遠に送るといって連れ出されたのだという。紅軍と戦うために列車からおろされた時には、俸給を二倍やるといわれたけれども――もらったことはない。ファシストが、部隊中に入りこんでいて、紅軍の残虐行為を吹きこんで、兵士たちをかりたてているという。捕虜たちは、今では大事に扱われ、毎日講義や芝居を見聞したり、わが軍の兵士と接触したりして、啓蒙されている。胡宗南将軍は陣営の立てなおしをやっている。


 「123日。私は、ソビエト政府と紅軍の本拠である保安に帰っている。朱将軍や毛沢東や参謀たちは会合して、長時間討議した。人びとが張国燾を『口先のうまい男』と噂しているのをきく」



by far-east2040 | 2019-04-17 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 「1030日。紅軍士官学校での、朱徳の第1回目の講演をきく。明快にきびきびと語った。情熱的で、将来に確信をもっている。学生たちに、来たる抗日戦において中国の当面する偉大な任務に応ずるため、日夜学習するよう訓示した。賀竜も話をした。何と張りきって話しをする人だろう。声量のある明瞭な声で身振り手振りいっぱいで話す。そして意気阻喪したものや虚脱したものの戦闘精神を呼びさます。


 「111日。党西北局にゆく。……そこで103日付の天津『大公報』を見ると、毛沢東のひきいる紅軍が徽県で惨敗したと書いてある。徽県では、朱徳の軍が戦闘なしに集結したのだ。そのとき毛沢東は千3百里離れた保安にいた。


 「113日。空襲があって、部隊と共に最近紅軍にうつってきた東北軍二個連隊の指揮官たちと、洞穴に退避した。空襲の間、3時間も彼らと話をした。彼らと彼らの部隊は抗日民族統一戦線を望んでいる。後でその部隊と話をした。統一戦線綱領を普及するため、紅軍が彼らを元の東北軍に送りかえすことを決めたので、彼らは悲観して意気消沈している。その両連隊を丘の斜面に集めて朱徳が話すのをきいた。朱は、彼らが元の隊に帰って、同僚を抗日統一戦線に転向させることがいかに緊急事であるかを説いた。朱は率直で、きわめて真面目で、説得力のある話し手である。考えを注意深くまとめ、教師のように、たびたび繰り返しながら、ゆっくりと明快にのべてゆく。思いあまった悲しげな面持ちの兵隊たちが、その後で彼のまわりに集まった。朱徳は慈父のようだ。すべての兵隊を愛している……



by far-east2040 | 2019-04-16 09:00 | 第9巻「長征」改編

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           延安で食事中の張学良(『抗日解放の中国』より借用)


 1026日シャオ・ホ・チェンで、この地方にいる全紅軍の大集会がもたれた。林彪やその他の指導者が立って、西北の情勢、紅軍と白軍の配置、日本軍の綏遠侵入などについて詳しく報告した。蒋介石は、胡宗南と王均がひきいる十個師団を甘粛省に送って紅軍と戦っていた。


 紅軍は数ヵ月来これらの師団にむかって、抗日戦線の統一を呼びかけていた。「青年元帥」張学良は、蒋介石の厳命によって、引きつづき部下の東北軍に紅軍との戦闘を命じていたが、逆に紅軍に加わる部隊も多くあった。紅軍には、全員元東北軍騎兵から編成された騎兵師団さえあった。


 毛沢東は、すでに1020日には命令を出して、自衛のためやむを得ない場合のほか、国民党部隊との戦闘をやめ、もっぱら宣伝を強化するよう、紅軍に伝えていた。また、東北軍を紅軍に編入することも、これ以上やらないように命じた。1027日には、紅軍はいたるところに統一戦線のビラを貼ったうえで、敵軍の前面から撤退し始めた。胡宗南将軍は、これに対して、兵力を増強して押していった。ジョージ・ヘイテムの日記は、それに続く事態の経過をありありと伝えている――


 「1029日。胡宗南軍の四個師団が、われわれを包囲しようとしている、というニュース。われわれは、敵の正確な位置と計画を知っている。……本日、胡軍騎兵指揮官のひとりが、わが司令部に来て、明朝11時基地で紅軍を攻撃せよという命令をうけた、とつたえた。胡将軍は飛行機に搭乗して、白軍を監視するので、私自身も見せかけの戦闘をせねばならない、と彼はいい、われわれが、攻撃開始5時間前の午前6時に、彼の地区を通過するようにと助言した。このためわれわれは計画を変更して、日中の急行軍を開始した。敵機がわれわれを発見して爆撃を始め、多くの小さな集落を破壊した。




by far-east2040 | 2019-04-15 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 ヘイテムは手紙のひとつに次のように書いている――


 「朱徳のことで、もっともおどろくべきことは、すこしも軍司令官らしく見えないことだ。まるで紅軍の親父といった印象だ。射すくめるような眼をしているが、すばらしい微笑をたたえながら、物静かにゆっくりと話をする。自動拳銃をたずさえており、射撃の名手で、ヘビースモーカーでもある。五十歳だが、年よりも老けていて、顔には深いしわがある。だが動作はきびきびしていて、健康上まったく問題はない。彼の司令部は、伝令や指揮官たちがいそがしそうに出はいりし、電話がしじゅう鳴りつづけ、無電機がたえず音をたてているといった状態で、まるで蜂の巣のようなさわぎだ。


 「政治部主席の張国燾は、太っていて、背が高く、すべすべしている。ほかの人がみなやせ細っているのに、どうして彼だけが太っているのか、ふしぎだ。


 「徽県で朱徳が司令部に足を踏みいれたちょうどその時、第四方面軍の師団長陳コウから、電話がかかってきた。朱徳は昂奮を感じた。この地方の紅軍の再会を記念する式が、次の日――毎日やってくる敵の爆撃機をさけるため――夕方近くにもよおされた。


 「何という再会だろう! 涙と笑いにむせびながら、たがいに抱きつくものがあり、腕をくんで歩きながらしきりに友の安否をたずねるものもある。朱徳も完全にその雰囲気にのみこまれた。


 「傷病兵輸送用として捕獲した西安蘭州公路のバス何台かが、送られてきた。第四方面軍には、バスをみたこともない農民がいた。彼らは、こんな代物に乗るのをこわがって、病気なのに歩いてゆくと言いはるのだった」



by far-east2040 | 2019-04-14 09:00 | 第9巻「長征」改編

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              林彪(『抗日解放の中国』より借用)


 朱徳の軍と林彪の第一方面軍がおちあった当時の状況については、1936年の夏、紅軍に加わったアメリカ人の若い医師、ジョージ・ヘイテムの書いたものがある。ヘイテムはスイスとシリアのベイルートの医学校を卒業した医師だが、紅軍衛生部隊に参加して、ひきつづきこの重要な時期の間、紅軍と行動を共にした人だ。


 このアメリカ人医師は、手紙や日記のなかで、第一方面軍が甘粛省中南部の六区を占領して辺境地区から入ってくる朱徳軍の到着を迎えた、当時のありさまを伝えている。徽県の県城と付近の部落の全戸が、朱徳軍のために部屋を提供した。一方、第一方面軍は朱徳軍に給付するため、紅軍衣料廠で作った4万着の冬服と食糧を運びこんだ。


 ひとりの農民は、朱将軍から第一方面軍にあてた第一報を伝えるため、四日がかりで急行してきて、返事をもってすぐ引き返していった。


 朱将軍の先鋒師団は、1936107日徽県に着いた。しかし後続部隊に余地を残すため、県城を通り抜けて先へ進んだ。


 翌日8日には第四方面軍の部隊が、朱将軍と張国燾に同行して到着した。第四方面軍ののこりの部隊は、その翌日着いた。しかし賀竜と肅克がひきいる後衛の第二方面軍が着いたのは、1019日から20日にかけてだった。


 これらの部隊は、ヘイテムがいうには、比較的良好な状態であり、兵器はむしろ優秀だった。彼らは途中で何十回も戦ってきたので、みな捕獲した余分の小銃、機関銃、弾薬などをかついでいた、だが人数が多すぎて、準備した4万着の冬服では間にあわず、追加しなければならなかった。そのため、ぼろぼろの賀竜軍が、新しい制服を受領したのは2ヵ月もたってからだった。


 ヘイテムは朱徳将軍のことを「幽霊のようにやせているが、丈夫で強くて、ひげをのばしっぱなしにし、しらみだらけの毛皮の外套を着ていた」と書いている。朱将軍はここで新しい冬服と外套に着がえた。しかし、ひげは、毛沢東がソビエト政府と紅軍総司令部をおいた陝西省北西部の保安に着くまで、落とさなかった。




by far-east2040 | 2019-04-13 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 南京政権は、193611月の東京・ベルリン防共協定には調印しなかったが、蒋介石の外交部長張群将軍は「中国は共産主義に対する断固たる態度を一時も放棄するつもりはない」ことを、くり返し日本に保証した。


 親日要人として有名な張群は、すでに1935年のはじめにも、日本政府にむかって、中国政府は中国の共産主義に対する日本の関心を了解しているが、「それは一国内における扇動は隣国にも影響するからであり」そして中国政府は害悪の根源をすみやかに除去するため、断固たる闘争を続けている、という了解をあたえている。


 そこで、蒋介石の新たな掃共戦は、日本が直接に協力していないにしても、少なくとも南京その他主要都市にいる日本の軍事代表と外交代表の監視の下におこなわれた。青年元帥の本拠の西安は、中国の戦略的要地の中で、そのような日本の「オブザーバー」たちがいない唯一の都市だった。四川省では、民衆がその種の「オブザーバー」の日本人を襲撃した。国民党軍と秘密警察は躍起になって、そうした事件の発生を抑えた。法律家、銀行家、新聞人などをふくむ数千人の愛国者たちが、内戦の停止と抗日統一戦線の樹立を要求したという理由で「共産主義者」として逮捕、投獄、または殺害された。


 朱徳が紅軍をひきいて、チベットと中国の辺境地帯から西北に入ってきた当時の、政治、軍事上の情勢は、以上のようなものだった。長征はまさに成就されつつあり、紅軍は歴史との出会いの道に立ちつづけた。



by far-east2040 | 2019-04-12 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 日本の綏遠進撃は、蒋介石のあらたな掃共作戦と呼応して、紅軍だけでなく、青年元帥張学良の旧東北軍や彼と同盟関係の楊虎城の陝西省「保安軍」に対する挟み撃ち作戦の形になった。蒋は、紅軍討伐に対する西北軍の反対気運を「規律と指導の欠陥」に過ぎないと解釈して、事態を刷新するために1211日西安で特別な掃共軍事会議をひらくことにした。西安は青年元帥と楊将軍のそれぞれの司令部の所在地であった。


 この西安会議につづいて、ただちに実施にうつる予定であった第六次掃共戦の準備として、蒋は、全作戦に必要な食糧、弾薬、現金、衣料などといっしょに、新たな師団を甘粛省に輸送した。それと同時に、武器をもつ数百人の秘密警察を、無電機とともに秘密裏に西安に送りこんだが、それは青年元帥に対する武装蜂起を準備するためであった。


 憤慨した共産主義者その他の中国人は、内外の情勢から判断して、国民党と日本との間に、中国のすべての抗日勢力に対する共同の陰謀が存在することを確信した。塘沽協定と何応欽・梅津協定は、この確信を裏づけるものだし、日本と南京の多くの公式声明もまたそうであった。


 たとえば、毛沢東縦隊が西北に着いてまもなく、日本の外務大臣広田広毅は「アジアの共産化を防止する」ための東京・ベルリン・南京防共協定を提案した。そのすこし後に、広田は議会で次のように声明した――


 「東洋における共産主義活動の抑圧、したがってまた中国を赤の脅威より解放することは、単に中国のみならず極東および世界の安定のため、最優先される重要課題だ。……共産主義を根絶するため、種々の方法で中国と協力することを、日本政府は切望している」


 広田はさらにつけ加えて、今日なお中国で、学生の扇動的運動があることは「日本にとってまことに遺憾」であり、「それはわれわれの企図する精神と背馳する」ものだ。しかし「現在の状態は、中国当局によって、間もなく匡正されることを期待している」



by far-east2040 | 2019-04-11 09:00 | 第9巻「長征」改編

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           張学良(『抗日解放の中国』より借用)


 ファシスト胡宗南軍や、回教軍、旧東北軍と何回も激戦を交えた後、19351020日、毛の縦隊はついに陝西省北部に到達し、劉志丹のひきいる1万の紅軍遊撃隊と合流した。劉の遊撃隊は1927年以来この地方で戦っていた。1934年第四方面軍が西北に残していった徐海東の連隊は、今では師団に成長して甘粛省東部で戦っていた。


 その1年あと、朱徳はのこりの紅軍をひきいて、主力とほとんど同じ経路を行軍し、1936106日、甘粛省南部の徽県で林彪の第一方面軍と連絡をとった。


 これとほとんど同じ日に、1931年日本のために満州を追われた旧東北軍の総司令張学良将軍が、陝西省西安から蒋介石総統に電信を送り、抗日のために紅軍と民族統一戦線を結成することを提案した。蒋は憤慨してこの提案をしりぞけ、共産主義者がいっぱいいると蒋が非難した、西安の軍政訓練学校を閉鎖するよう、青年元帥に命令した。青年元帥は、彼の学校は、祖国を愛し祖国のために戦うことを望むものものならば、だれでも入校させている、と答えた。


 蒋介石総統は、洛陽に「掃共軍事会議」を召集し、集った西北の将軍達を前にして、中国の第一の敵は日本ではなくて「反逆者紅匪」であるとのべた。胡宗南や王均など、甘粛に派遣された蒋の最も優秀な司令官達は、彼の意見に賛成したが、紅軍との戦いで多くの連隊をうしなった青年元帥の考えはちがっていた。


 そうした情勢の間に、日本軍は華北五省を包囲して切りとるため、綏遠省に侵入しつつあった。華北の鉱山、鉄道、その他戦略資源は、日本が全中国を計画的に征服するために、必要不可欠なものだった。これに対して綏遠省長官の傅作儀将軍が戦闘を開始した。だが激高した全国民は、彼の部隊がほんのしばらくしかもちこたえられないことを知っていた。何千人もの華北の学生が、戦いに加わるためにぞくぞくと綏遠にむかった。ところが、蒋介石がしぶしぶ綏遠に送った三個師団は、前線にも出ず、日本軍に対して一発もはなたなかった。




by far-east2040 | 2019-04-10 09:00 | 第9巻「長征」改編