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大阪でアジア図書館を運営している市民団体アジアセンター21の代表をなさっていた山口一郎氏が亡くなったことは、当時購読していた新聞の訃報欄で知った。

たしか、学会が何かの出席のために中国に滞在していたときに、ホテルで入浴中に亡くなられたと記憶している。

2000年の秋、84歳という高齢での旅先からの知らせだった。

存じ上げている人の名前を新聞の訃報欄で見つけるなんてことは、はじめてだったと思う。

私が、未練や解放感など複雑な感情を秘めて市民団体アジアセンター21を辞めたのは、その亡くなられる5年ほど前だった。

その際に、労をねぎらう言葉を直接かけていただいたことは決して忘れていない。


「韓国をふくめて中国と日本がむきあって何かやれないかと考えている」

正確にはもう覚えていないが、おだやかな声でこういう趣旨のことをいってくださっていた。


山口氏は、アジアセンター21の理念を表象する代表ということで、実際の現場にはほとんど顔を見せることはなかった。

年に数回講演者として接するぐらいで、ことばを直接かわすこともなく、末端のスタッフと代表という関係でしかなく、離れたところで静かに眺めていたような気がする。


「企業にまわって寄付を集めるような器用なことができないため、現場で働く人に苦労をかけている」という内容のことを、直接か間接か忘れたけれど、一度聞いたことはある。


働いていたころは、山口一郎氏は関西大学文学部名誉教授と孫文の研究家としてしかあまり知らなかった。

調べてみると、1915年に中国の撫順市で生まれ、東京大学文学部中国哲学科を卒業されている。

戦争には行かなかったのだろうか?

なぜ孫文? 

どうして1915年に中国で生まれたのかな?

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そんな山口氏に「再会」したのは、子育てが落ち着いて自分の時間がとれだしたころ、地域の図書館で借りた1冊の本がきっかけだった。

築地書館から2000年に出版された『孫文 百年先を見た男』に、山口氏に著者が直接取材している箇所があり、ページの中に山口氏の顔写真ものせていた。

奇しくも、山口氏が突然亡くなった年に出版されたことになっている。

孫文の人と功績について書かれた一般向けの本はあまり見当たらないことを思うと、この本は読みやすくて貴重だ。


月日が流れ、限られた時間のなかで好きなことを選んでいったら、いつのまにか自分の言葉の世界に孫逸仙(孫文)を取り込み、自分の言葉で理解するという作業をしていることになる。

それから、孫文の理念を実現させていく朱徳の生き様を知り、ふたりが生きた困難な時代を追体験している。

その際、できるだけ東アジアの国境の垣根は取り払いたいと考えてきた。

『偉大なる道』を読み進めると、あらためて孫逸仙(孫文)の功績を認識する。


いま手元に2011年に再編集して出版された『孫文 百年先を見た男』の文庫本があるが、著者が

「先生にとって、孫文とは結局なんですか」

とたずねると、

「孫文の偉さは、最初はわからなかった。背後にある学識の広さと、人間と社会に対する考え方がわかってくるにつれて、大変な人だと思うようになりました」

と答えている。


つづいて神戸市垂水区の舞子の浜にある孫中山記念館(移情閣)の館長や、大阪のボランティア組織、アジアセンター21の代表を無報酬でつとめていることなどが書かれていて、

「孫文が夢見たように、日本、中国、それに朝鮮半島の人たちも、お互い顔を向きあっての交流を深め、平和を確かなものにできないものですかね」


と語ったことを紹介している。
その文面に何回か目をとおすうちに、今まで読み過ごしていたところがあまりに唐突すぎて妙に気になり始めた。

……点と点がつながった感じ。


孫文と朝鮮半島はほとんど接点がないので、他の研究者なら別にふれないし、ふれなくても別に無視しているような文の流れではない。

ここで、「朝鮮半島の人たち」という言葉を出された山口氏に深い感謝の念を表したいと思った。


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いま自宅に移情閣の絵葉書を額にいれて飾っている。

行き詰まったときや、朗報をききたいときはこの浜から海を眺めてきた。


【参照】山口一郎氏について書いた過去記事





by far-east2040 | 2018-10-27 16:55 | 『偉大なる道』

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           宋慶齡(Wikiより借用)


 孫逸仙夫人は、国民党に対する歴史的宣言のなかで、中国人民に深い感銘をあたえた。


 「わたしたちは、人民をあざむいてはなりません。わたしたちは、人民のあいだに、偉大な希望をそだてあげてきました。人民は、わたしたちに深い信頼をささげてきました。この信頼にたいして、わたしたちは、最後まで、忠誠をつくす義務があります」


 しかし、そのときすでに、国民党は人民を裏切っていた。内陸のあらゆる主要都市はもとより、無数の街や村の路上は、労働者や農民やインテリの血の洪水と化していた。反動どもは、「あれは共産主義だ」という野蛮な叫びをあげながら、胸の奥に偉大な希望のともしびを燃やしている貧しい人びとを、かたっぱしから殺していた。事実、そのとおり、中国共産党こそ、これらの貧しい人びとをふるいたたせ、組織し、指導していた。共産党が貧しい人びとの党だったからだ。


 いたるところで希望が失われてゆくのを見たとき、いまや、この党は、敵と闘うか、それとも降伏するか、いずれかを選ばなければならなかった。ずっとむかし、19世紀の半ば、偉大な「太平」の指導者、石達開も、ちょうど同じような窮地にたたされたことがあったが、そのとき彼は、こう叫んだ――


 「戦っても死ぬ。戦わなくとも死ぬ。それならいっそ、戦おうではないか」


 歴史は決して、ぴったりそのとおりにくり返すものではない、ということを、共産主義者はよく心得ている。だから彼らは、断固として戦い、――かつ、生きのびようと決意した。



by far-east2040 | 2018-10-23 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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 1927年7月18日、朱徳将軍は、ただちに任地を離れて、江西省北部の、南昌からそれほど遠くない小さな村でひらかれる共産党秘密会議に出席せよ、という招請をうけとった。その日の夕刻、ある大きな建物へ入ってゆくと、そこには共産党の主な指導者たちが、多勢あつまっていた。


 あたりには彼のよく知っている人びともたくさんいたが、名前だけしか聞いたことがない人もたくさんいた。上海で殺されそうになって、あやうく脱出した周恩来もきていた。みんなは、周のことをただ「鉄の人」と呼んでいた。四川省でかろうじて死地を脱出した劉泊承もいた。中国総工会の書記で、漢口政府の労工部長をしていた蘇兆徴も、農業部長の譚平山といっしょにきていた。「鉄軍」の第十一軍と第二十軍の指揮官や参謀たちや政治指導者たち――葉挺、賀竜、葉剣英、李立三、劉志丹――もきていたが、彼らこそ、その後の歴史をつくった人たちだ。劉志丹は、もっとも初期から孫逸仙の運動に参加した一人だ。


 朱徳将軍が会ったことはあるが、名前は知らない人たちもいた。そのひとりに、背の高い、やせた男がいた。その名前は毛沢東といい、農民運動の指導者で、共産党の政治局員であり、かつ国民党の中央委員にもなっていた。


 朱将軍は、もっぱら、この会議で採決した諸決定の大すじだけを、私に話してくれた。


 「われわれは、国民党に対するこれまでの政策を変更した。一方で反軍閥、反帝国主義闘争はつづけながら、同時に、農民と労働者に武装させ、土地革命をはじめるという方針を採択した。

私も発言して、この決議に賛成した。しかし、このような決定的な時期においてさえ、われわれが採決した農民政策は、極度に制限をうけていた。地主の土地の没収に対しても、あるいは、農民の蜂起を援助するためでさえ、『鉄軍』をつかう計画をたてることができなかった。この種の活動は、種々の人民組織や、党の幹部にまかされた。われわれの党は、まだ若く、経験も浅かった。あまりにも急速に大きくなったので、われわれはまだ、党の統一をかため、党の幹部を理論的に教育することができていなかった。われわれは、はじめ、たやすく手にいれた勝利に陶酔してしまい、まもなく、いきなり、反革命によって、絶望のふちへたたきこまれていった。



by far-east2040 | 2018-10-22 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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           瞿秋白(Wikiより借用)


 南昌の町は、いまや、革命旗の海と化した。数万におよぶ人民と兵士が、どっと大集会に群れあつまり、演説する人のための演壇が10いくつもつくられた。蜂起の翌朝、共産党の緊急会議が召集された。陳独秀が、党書記長の地位を追われ、瞿秋白(くはくしゅう)が選出された。この新しい書記は、有名な作家で、文芸復興運動の主要な指導者のひとりだった。


 この会議は、革命委員会も選出したが、委員は、共産党員と当時まだ革命に忠実だった国民党指導員で構成された。これらの国民党員の中には、孫逸仙夫人や、漢口政府の外交部長、陳友仁も加わっていた。「鉄軍」は、そのとき南昌にいた革命委員会の委員たちとともに、広東省へ向かって南進を開始し、新たな革命政府を樹立することになった。この遠征の資金をまかなうために、「鉄軍」と共産党から選ばれた委員会が、市中をまわって、銀行家やそのほか金持ちの家から、金を没収して歩いた。


 ちょうどそのころ、朱徳は、新しい師団、第九師を編成して、みずからその指揮をとるように命じられた。彼がにぎっていた軍官学校生3百人、南昌警察隊の全員4百人、それに数10人の労働者と学生が、この新師団に編入された。しかし、蜂起で捕獲した小銃のほとんど全部は、すでに労働者や農民の手にわたってしまっていた。農民運動講習所の男女6百人は、小銃と弾薬を小舟に積み、その上にわらをかぶせてかくし、流れをくだって、江西省のそれぞれの郷里へ帰り、農民を組織し、武装させる仕事にとりかかった。方志敏は、多数の農民とともに、江西省東北にある彼の郷里、弋陽(よくよう)へ向かった。その後数年足らずで、彼らはこの地方に、紅軍第十軍団をきずきあげた。


 こうした事情から、朱徳は、彼の新師団の編成にあたって、わずか1千人の武装兵力しか動員することができなかった。


 いよいよ土地革命が始まった。



by far-east2040 | 2018-10-17 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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 わが軍はいまや、危険地帯にはいり、海岸にある敵軍から攻撃されやすい距離にはいっていた。いまや行動の迅速さが一切を決定する。夜中の1時に汀州を出発した彭湃は、「鉄軍」をみちびいて、彼の故郷である広東省東江地方へ向かって、真南へ強行軍をおこなった。この東江地方こそ、かつて逸仙の保護のもとに、最初の農民組合と農民自衛隊が生まれた土地だ。だが今では、この地方の農民運動は地下に追いこまれ、「虎地主」と武装部隊である民団が再び覇権をにぎって、血なまぐさい勝利をほこっていた。


 彭湃の前衛隊から出た斥候兵たちは、猟犬グレイハウンドのような速さで行動をおこし、たちまち福建―広東省境をこえて、村々のあいだに、「鉄軍」が来るぞ、という言葉をひろめていった。すぐそのあとから次から次へと、迅速に行動する諸部隊がつづいた。たちまち殺到したこれらの部隊は、その途上で、地主の民団を破滅し、粉砕しつつ、省境を越えて、有名な東江地方にはいっていった。


 汕頭港で海にそそぐ韓江に沿って南下しはじめた瞬間から、朱徳の部隊の行軍はお祭りのようになった。はじめは小さな農民の群れだったのが、だんだん大きな集団になってゆき、男も女も、考えられるかぎりのありとあらゆる武器をもって出てきて、部隊を迎え、部隊に加わった。
彼らは行軍しながら、ひどくみじめな生活を訴えた。どの村もどの村も、食糧と飲みものを用意して部隊を待っていた。韓江の岸辺には、部隊を渡河させるために数百の船頭が集まっていた。

この岸辺で、部隊は行軍を中止し、汕頭攻略の作戦計画をねった。すでに国民党軍一個師団は集結を終わって待機していて、もう一個師団が南から北上中であった。


 農民は、それぞれ米や野菜のはいったかごを天秤棒でかついで、いくつもの長い列を作って、野営地へやってきた。彼らはみんな、目を輝かせて、こういった――


 「お前さんがた、とうとうきてくれましたな! とうとうきてくれましたな!」


 船頭たちが、つぎからつぎへと、汕頭から川をさかのぼってきて、敵軍の防衛準備の情報をもってきた。汕頭港内には、英国の砲艦があり、国民党軍の将校たちがその砲艦に出入りしているという警報もはいった。国民党軍の別の諸部隊が、海上から汕頭に上陸するという噂もひろまっていた。北方からやってきた農民たちは、別の敵軍一個師団が福建省を南下中だという警報をもってきた。



by far-east2040 | 2018-10-13 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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              陳毅(ネットより借用)


 この計画は、文字通り、そのまま実行され、六個中隊の全員が捕虜になり武装解除された。丘のあいだの窪地につれてこられ、そこで、朱徳と陳毅が、工農革命軍の性格と綱領について説明をおこなった。まるで、友だちとはなしあっているような陳毅の演説は、捕虜のあいだに、深い感銘を与えた。というのは、陳毅自身が、古い学者の家柄の出身だったからだ。それから、孫逸仙が広東にたてた、有名な黄埔軍官学校も卒業した。捕虜たちと同じ階級に生まれたが、どうして、軍国主義と帝国主義に対して、たたかいつづける道を選んだかを説明したのち、陳は、彼らが護衛兵につれられて、おだやかに宜省へゆき、そこで、陳や朱徳と同じような他の人びととよく話し合いをするようにと、説得した。それからもし、郷里へ帰りたいというならば、そうしてもいい。帰りたいものには、旅費と軍の通行証を支給してあげよう。革命のために、たたかいたいという人は、大歓迎する、しかし、革命の道は長く、かつきびしいことを知ってもらわねばならない。


 「われわれ中国の青年には、奴隷にされることよりも恐ろしいことがあるだろうか?」と陳毅は、みんなにたずねた。捕虜のなかから、多くの声がいっせいに答えた。「ない!」と。


 ある若い革命軍の指揮官も立ちあがって、説明を始めた。彼も、かつて学生であり、その全家族が大革命に参加した。反革命がはじまったとき、1人の妹と2人の兄弟が殺された、と。つづいてひとりの農民兵が、封建的地主とたたかった彼の家族の悲劇的な運命について、ものがたった。話している間に、彼の頬にとめどなく涙が流れ、とうとう話しつづけることができなくなった。朱徳が捕虜たちの方をずっと見まわしてみると、捕虜の中にも、すすり泣いているものがあった。


 「訴苦会」として有名になったこのような集会は、革命が勝利するまで、その後20年以上にわたって、中国革命の一つの典型になった。


 学生六個中隊は、宜章に送り返され、そこで、わずか15人を除いて、全員が革命軍に加わった。


 朱将軍が筆者に話をしてくれた1937年には、すでに彼らの多くが、朱徳軍の軍事的あるいは政治的幹部になっていた。



by far-east2040 | 2018-09-20 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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 郴(ちん)県にのこっていた敵の五個中隊は、朱徳軍接近の噂を聞くと、たちまち、逃げ出してしまったので、朱徳は、一発もうたずに県城を占領した。郴県ソビエトは湖南省につくられた2番目のソビエトだった。これにつづいて、県内のすべての村々に村ソビエトがつくられた。その後、南湖南のほかの県や地区も相次いで、革命の側に投じた。当時、毛沢東は、井岡山をなだれ降りて、江西省一円を掃討してまわっていたし、茶陵にあった漢口守備兵大隊は、朱徳の言葉でいえば「湖南省南部と東部全域に、人民政権が設立される」まではと、四方にうって出ていた。


 郴県の北方に、耒陽(らいよう)県という大きな県があり、その県城も耒陽という名だ。そこは、「農民とインテリが、戦闘的で英雄主義ということで有名であり、地主は、残虐なことで知られていた」ここを占領するために、朱徳は、みずから数個部隊をひきいて進撃した。県城の南門から、数里のところで、彼は、およそ千人の武装した農民に出あった。彼らの報告によると、地主どもは、みすから、千人近くの装備のよい民団を指揮して、南門一帯に防御工事をほどこしていた。しかし、彼らは、ほかはどこも防御は手薄で、北門は、いつも開けはなたれていて、6人足らずで守っているだけだった。


朱徳は、今回も、農民が進言した計画にしたがった。その夜、彼は山岳地帯をとおって耒陽の東側へ行軍した。眠りに落ちた村々を通過すると、男たちはみな寝床からとびだして、持っている武器を手に取り、革命軍といっしょに行軍していった。あくる朝、地主の指揮官と民団兵たちが、夜間勤務をしていたものと交代するために、南門の防御線にでかけていったときには、革命軍は、すでに町のなかに進入し、町を通り抜けて地主と民団兵を背後から襲撃した。餓え苦しむ人間のように、農民たちは、いっせいに民団へおそいいかかり、武器をうばいとった。農民の手中におちたなん人かの地主は、その場でなぐり殺された。


 2週間のあいだ、農民たちは、耒陽の解放と、耒陽ソビエトの建設を祝った。数千の人々が、きちんと列をつくって、町へ流れこんできた。見物をし、民衆大会に出席したのち、それぞれの村へ列をつくって帰っていった。どの列も、それぞれ農民自衛隊の偉大な旗――中央に白い鋤をうかせた大きな赤旗――をかかげていた。この旗は、かつて、孫逸仙が広東で農民運動をはじめたとき、農民組合とその自衛隊が使ったものだ。



by far-east2040 | 2018-09-19 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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 井岡山にいるあいだに、朱将軍は、紅軍がつかっていた歌をあつめ、それをふやすのに一生けんめいになりはじめた。1937年には、これらの歌は、彼の上着のポケットに、さっとすくすべりこませることができるくらいの大きさの、およそ2百ページの小さな本になっていた。この本は、ページのすみがめちゃくちゃに折れ、手あかでよごれ、あるページはほとんど読めなくなっていた。この本には歌や短い詩、紅軍の規則、共産党の歴史と原則についての短い論文、さらに紅軍が祝うさまざまな民族的ならびに国際的記念日の一覧表などがのっていた。

 これらの記念日には、理論的なものと、象徴的なものと2つあった。たとえば――3月8日、国際婦人デー。3月12日、孫逸仙逝去の記念日。3月18日、パリ・コンミューンの記念日。4月12日、上海大虐殺の記念日。5月1日、国際労働デー。5月4日、学生運動生誕の日。5月5日、カール・マルクス誕生日。5月21日、許克祥による湖南農民の大虐殺の記念日。5月30日、1925年の英国による上海大虐殺の記念日。6月23日、英仏軍による広東大虐殺記念日。8月1日、南昌蜂起の日。10月10日、1911年の革命記念日。11月7日、10月ロシア革命記念日。12月11日、広東コンミューンの記念日。12月25日、1915年蔡顎の雲南蜂起記念日。1月4日、レーニンの逝去記念日。


 朱将軍の歌の本にあった最初のいくつかの歌は、奴隷の状態から立ちあがったばかりの人間が、その情熱を発露したもの、というひびきをもっていた。そのほか、古い民謡を新しい言葉に書きかえたものもあった。「インターナショナル」や「国際青年の歌」もあった。教練や射撃をうたった単純な歌もあった。さらに、軍の規則さえもが、音楽にあわされていた。また、敵軍にたいして使う宣伝の歌や、広東コミューンを回想した歌もあった。井岡山についてうたった郷愁的な歌もあったが、それは、アメリカの歌「ディキシー」の音楽にあわせたもので、かなりおかしなものであった。



by far-east2040 | 2018-09-09 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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             楊森将軍と妻妾たち(ネットより借用)



 「鉄軍」が武漢を奪取したのちにも、
楊森は狐疑逡巡していたが、まもなく朱は、その理由がわかった。湖南や武漢三市から逃れてきた地主や産業家が、彼の司令部に来ては、北伐軍の内部は大きく二つに割れているといううわさを伝えた。彼らは楊に、北伐軍の士官の多くは、地主や、地主の子弟か産業家の一族のものである、といった。北伐軍の士官になったのは、靴もはかず読み書きもできない愚純な百姓が、自分たちの土地やその他の財産を没収するのを助けるためではなかった。ところが、各地に農民組合が生まれて、村々を占拠し、あるものは土地を没収して分配すらしていた。国民党政府は、そのようなやり方に反対だったが、農民はすこしも耳をかさなかった。北伐軍の総司令官蒋介石は、農民組合から共産党員と国民党急進分子を追い出し、また軍内の政治部を弾圧しようとしていた。軍内の「政治工作者」は、ロシアから模倣してとり入れたものであり、蒋たちの頭痛の種であった。彼らは、兵士たちにいろいろなことを吹きこみ、その狂熱をあおり、村々に入り込んでは農民組合の組織を助けていた。彼らの声は、いたるところに響きわたって、人民をたちあがらせ、社会の秩序をひっくりかえした。そのあげくには、兵士や農民や労働者は、目上の人たちと平等であって、あらゆる種類の「権利」をもつと思いあがるにいたった。


 いや、さらにけしからんことは、多くの「政治工作者」は既婚未婚の女であって、髪を短く切り、男のような制服をきていた。良家の出の女学生が、身分卑しき兵士といっしょに行進して過激思想を鼓吹するという奇怪な光景が、かつて中国史上にあっただろうか。


 だが、こういうことは一切、まもなく終焉するだろう。国民軍は内紛のためにばらばらになってはいるが、蒋介石自身は、これらすべての崩壊の責任はソ連人顧問にあるとして、ソ連との同盟を断とうとしていた。孫逸仙はかつて、三大政策を採用して、共産党との協力、ソ連との同盟、労働者農民運動を唱道した。しかし――地主らの楊への報告によれば、国民党のもっとも「健全」な指導者たちは、そういう政策に反対だから、それらが廃棄されるのは、時間の問題であった。そして、あらゆる革命運動もしゅんと消えて、法と秩序は回復するだろう。



by far-east2040 | 2018-08-17 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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             若き毛沢東(『抗日解放の中国』より借用)


 自分が農民出身だったので、彼が注目したのは農民運動だったが、それは中国南部に大洪水のようにひろがって、幼い労働運動とともに、国民軍の高級士官――彼らは、地主だったり、地主や商人の買弁の家族出身だった――を、恐怖におとしいれたのであった。


 朱将軍は、毛沢東が書いた、いくつかの農民運動についての論文を読んだことを記憶している。毛沢東は、まもなく、彼の「第二の自己」になり、それからの彼の生活は、毛の生活と、じつに密接に結び合うことになったので、人びとは、長い年月のあいだ、しばしばふたりを、「朱毛」という名のひとりの人物だと思いちがいしたことすらあった。


 この毛沢東という人物は、教育を受けた農民であり、1911年の革命には一兵卒としてたたかい、「五四運動」のときには、郷里の湖南省で、指導的なはたらきをし、その省で、はじめてのマルクス主義研究団体をつくり、やがて省の共産党のグループをつくった。そして、1921年7月1日に、中国共産党の創建大会には、代議員として出席した。この毛沢東という人は、ふしぎなほど学識があり、深い思索力をもっており、新聞雑誌の編集者、評論家、詩人であり、1925年には、彼の省で、最初の農民運動の地下組織の基礎をつくった。孫逸仙が広東政府を樹立したときには、それに協力して、最初の、農民運動講習所を開設し、国民党の執行委員会の一員にもえらばれた。


 孫逸仙が広東省に植えつけた農民運動は、となりの湖南省にあふれ出してゆき、そこでは、広東の同志からの刺激によって、農民組合および、農民自衛隊の形をとるまでになったが、地主階級と地方軍閥は、北伐の前後で、封建主義特有の蛮行で農民運動に戦いをいどんだ。しばしば激烈な戦闘をまじえて、無数の農民がたおれ、農民の組織者や指導者は、闇のうちに連れ去られたり、首をはねられたりして、地主たちは、いつも山地から匪賊をまねいて、闇夜に乗じて村を焼かせ、農民を殺させた。



by far-east2040 | 2018-08-14 09:00 | 第5巻「大革命について」改編