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         楊貴妃の別荘として知られていた臨潼(『抗日解放の中国』より借用)


   憂愁は春日をおおい、

   太行の嶺はけわしくそびえる。

   忠誠な心は峻険にあって涙せず、

   強い意思は北征を求める。

   億万の新軍は敵をおびやかし、

   旧き山西は多くの英雄をつくる。

   激戦に従うこと三歳、

   倭魔撃滅のため乾杯する。

                    朱徳

 

蒋介石と彼の幕僚は、軍事会議をひらくため、1936127日西安に到着した。そして蒋は郊外の硫黄泉臨潼に入り、参謀たちは城内の西安招待所に宿泊した。情勢は、「政治的に絶好」と朱徳がいいそうなものだった。


蒋としては、もう一度大規模な掃共戦をやるには、その前にまず、日本としか戦わないと決意している東北軍を抑える必要があった。この「破壊的な」傾向を変えるには、総統はまず、西北における彼の副司令である「青年元帥」張学良を処置すべきだろう。ずっと以前から張学良は、民主主義の「危険思想」をいだく青年たちや、日本を中国から追い出す必要を説く青年たちに、取りまかれていた。


青年元帥と彼の幕僚も、腹をきめて蒋を迎えた。彼らは、内戦を続行せずにすべての中国の軍隊の抗日統一戦線をつくる計画を、起草していた。その十項目〈八項目?〉の綱領では、中国人民に市民的権利をあたえること、抗日運動に対する一切の法律や制限を撤廃すること、政治犯を釈放すること、孫逸仙の遺志を実行すること、各党各派をふくむ救国政府を樹立すること、などを要求していた。


蒋総統は、そうした計画を討議する全体会議を召集せず、東北軍最高幹部ひとりひとりをよびつけて、青年元帥をしりぞかせて掃共戦に出動するように、地位と金をえさにして誘惑した。


だが、蒋の勧誘にのったのはひとりだけだった――しかもそのひとりの将軍も、まもなく若い東北軍の将校に暗殺された。他の者はみな、日本が彼らの故郷を占領し家族を殺したこと、東北軍が望むことは同胞との戦いではなく、日本との戦いであること、を総統に強く告げた。しかし蒋は頑として意をひるがえさなかった。





by far-east2040 | 2019-06-14 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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朱将軍、毛沢東と彼らの幕僚たちは、延安でほとんど絶え間なしに会議をひらいた。19372月、周恩来を長とする共産党代表団が南京に出むいていたときだが、朱と毛は、それぞれ共産党と紅軍を代表して、南京で開会中の国民党の国民党中央員会に長文の電報をおくった。そして民族統一戦線の結成をうったえ、国民党が国内の民主的改革をおこなうなら、大幅な譲歩をしてもいいとよびかけた。もし統一戦線がつくられ、紅軍が国民党軍と同じ待遇をあたえられるなら、紅軍は名前を変えて、中央軍事委員会の全般的指揮の下にはいる、という。また、国内のあらゆる人材を抗日闘争に引きこむため、地主所有地の没収を中止し、西北のソビエト地区を特別行政区――共産主義者が管理するが中央政府の指揮下におかれる――に変えることも申し出た。そしてこの地区では孫逸仙の綱領と政策を完全に実行するつもりだ、と声明した。


共産党と紅軍は、これらの譲歩と引きかえに、国民党を督促して、大衆の市民的自由を回復させ、命をかけて戦う値打ちのあるものを、大衆にあたえさせようとした。彼らはまた、すべての政治犯を釈放し、抗日闘争のための組織と武装の権利を人民にあたえなければならないと主張した。


しかし、統一戦線が具体的な形をとりはじめたのは、数ヵ月たってからだった。国民党は、共産主義者の申し出を降伏と解釈し、この機会をうまく利用して、紅軍をつぶそうと企てた。そして紅軍の七個師団のうち、四個師団を解体して、のこりの三個師団を国民党将校を入れた新たな軍隊に再編成することを要求した。共産主義者は、彼らの軍隊の解体には絶対に反対し、そのかわり、国民党軍と紅軍との間で、将校を友情の証として交換することを提案した――この提案におそれあわてた国民党は、ひどく熱い焼芋をつかんだ時のように、あわててこの問題を取りさげた。



by far-east2040 | 2019-06-10 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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両共産軍と華北華中の人民は、彼らの胃袋を自分たちで満たさなければならないという境遇におちいりながらも、いわゆる「大業」に着手したのだが、それは数年後にその結果を見たものは驚異の目をみはらせるに十分だった。何ヵ月かの惨憺たる苦闘ののち、新四軍は華北にあるような安定した遊撃基地をつくった。その管下の全地域で、平等普通選挙権と自由選挙をともなう公民権が導入された。行政機関、小工場、兵器廠、病院、学校、広報施設なども華北と同じ型のものが作られた。


重慶は公然とした内戦政策からはしりぞいた。第二次世界大戦が終わった1945年まで、武装休戦の状態がつづいた。共産党側代表は以前のとおり重慶に駐在したが、孤立させられていた。彼らの新聞『新華日報』は最も過酷な検閲の下で、辛うじて発行を認められていた。


共産主義者たちはいつもこういっていた――可能なかぎり統一戦線を維持するが、攻撃されたら防衛し、そして従来どおり孫逸仙博士の三民主義と基本政策の実現につとめる。そして国民党にも同じことをするようによびかけた。


後に私に送った手紙の中で、朱将軍は次のようにのべている。


「金と軍需品の供給を絶たれたが、いまやわが軍は、抗日戦をつづけるために統一された指揮の下にまとまった。われわれは精力的な生産運動を開始し、部隊も党その他の機関も、すべてこれに参加した。すべての人びとが、農耕、牧畜、紡織、その他われわれ自身と華北人民との自給自足に必要なあらゆる種類の仕事ではたらいた。最初の年はひどかったが、事態はその後しだいに改善された。最初の年の苦難のもとで、われわれの新しい政治、経済、軍事の政策を強化し、新民主主義を発展させたが、それについては毛同志が同じ名の著書の中で定義をあたえている。われわれと人民とは相互に依存しあっているが、われわれの生産運動が累進的に成長するにつれ、わが軍は完全に自給自足になり、人民によりかからなくてもよくなるだろう」


歴史との「出合い」をつづけることは容易なことではない。



by far-east2040 | 2019-05-13 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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この本を読むまでは、長征については内容的にはほとんど知らなかったので、ただ驚くばかり。それも侵略してくる日本軍と闘うために、兵力を温存して統一戦線の結成をよびかけるためだったとわかるとなおさら。ことはすべて計画的におこなわれた。


長征について、中国は国威発揚を意識した建造物や出版物を自らの手でたくさん世に送りだしてきたと思うが、スメドレーの朱徳たち革命側への敬意と愛情と客観性という点で、この本は国内で発行された本と比べて、引けをとらないのではないだろうか。


長征は、いろいろな確執を経て、毛沢東が権力を握っていく過程でもあった。「革命は、客を招いてごちそうすることではない」は毛沢東の有名な弁で、実際地主やそれに類する階級に属する人びとを大衆裁判を通して処刑したらしい。建国後の大躍進や文化大革命の時代ではなく、革命途上で内戦中のことであるし、国民党側の無差別の民衆大虐殺に比べても、一方的に責められることではないと思っている。

毛沢東に会見したエドガー・スノーは、このあたりは各自が資料を求めて判断することとしている。スメドレーも、この本では意図的かどうかわからないが、さらっと流している感じがする。


(気になるキーワード)


陳毅―
最高司令官として長征に参加せず残留。

   

李徳(オットー・ブラウン)―
ドイツ人


死亡記事―

今でいう大新聞に、朱徳は自分の死亡記事が10回掲載された。こういうことは歴史を振り返ってもかなりめずらしいというか皆無では? その結果、不死身という伝説も生まれた? 蒋介石はこの人にほんとに亡くなってもらいたかったけれど、もし戦死しても伝説は生き延びていったと思う。それからどうなるかなと妄想してしまう。
  

ロロ族との同盟―

劉伯承はロロ語を少し理解できた人だったらしい。ロロ族の酋長と会衆の前で鶏の血を飲むことで同盟を誓うシーンは忘れられない。中国でこういうシーンを映像化したことあるのかな。衛生的にはかなり問題はあるが。

大渡河(だいとが)―

70数年前、太平天国の石達開の軍はこの河を渡れず滅びた。蒋介石は歴史を繰り返せと命令したが、この事実を民衆の一人として知っていた。それに対して、朱徳は笑って、2回目は茶番だと言い切った。

菫必武(とうひつぶ)―

朱徳と同じ1886年生まれで、法政大学で学び、日本での孫逸仙(孫文)の側近のひとりだった。その後中国共産党設立メンバーの一人となり、毛沢東が建国宣言をしたときには近いところで見守っていたはず。共産党設立メンバーとして天安門に立ったのは毛沢東とこの人だけだったらしい。孫逸仙を知るこの人が、なんとか生き延びて、建国の瞬間に立ち会ったことは感動だ。筋を通した。

安順場―

日本語ではあんじゅんじょうと呼べばいいのかな。72年前に石達開の軍が滅びた船着場。暗夜に亡くなった兵士のすすり泣きが聞こえるといわれていて、不気味なところだったらしい。
まず林彪が指揮する第一軍団の先鋒隊が大渡河に達した。対岸には四川省の独裁者の一人の劉将軍の一個連隊だけがいた。ここでエドガー・スノーが「運命の力」と書いた「助け舟」を見つける。


劉将軍は紅軍が迫ってきていることはわかっていたが、援軍もこちらに進軍していたので、一個連隊で充分だと思ったし、さらに紅軍が到着するには幾日もかかると判断した。
舟は3隻。すべて北側につながれていれば、劉将軍の判断は正しかったのに、なんと1隻だけが南側にあった。

劉将軍は安順場生まれの夫人とともに、親戚や友人をたずねて宴を共にするために南側に渡っていたからだった。劉将軍は油断した。


林彪の一団は小さな戦闘をへて、なんとかこの舟で無事に渡りきることができた。そこへ敵の爆撃機が攻撃してきて、毛沢東の主力をふくむ残りは渡れないまま。はらはらするシーンだ。しかし、林彪の先鋒隊だけでも北側に渡れたことは、その後の展開に大きく貢献することになる。


このあたりから石達開も地の下でおちおち眠っていられなくなったのでは。


濾定橋―

安順場から約225キロはなれた鉄の鎖でできた吊り橋。林彪の先鋒隊以外は決死隊のおかげでこの橋で大渡河を渡った。この橋を渡れなかったならば、どうなっていたかな。終戦も解放も建国もすべて後ろにずれこんだだろう。敵側がこの橋を前もって爆破しておかなかった理由は、スノーが著作で説明している。

だが四川人は数少ない彼らの橋には感傷的であった。再建するのは容易ではなく、
また莫大な費用がかかった。濾定橋の『架設には十八省の富が捧げられた』といわれていた。それにこの鎖だけの橋を紅軍が気狂い沙汰にも渡ろうなどとは誰が考えたであろう。だが、まさにそれを彼らはやりとげたのであった。

 

石達開も地の下で感涙にむせぶ?

チベット人―
このころも漢民族にとってあまりいい印象はないようだ。

     

ファン族―

中国は少数民族といい関係を築かないとやっていけない国だ。

張国燾―
この人の容貌から受ける印象は国民党的な感じがする。なぜこの人が共産党の創立メンバーだったのか不思議だ。


エチオピアー
エチオピアの歴史をほとんど知らないことに気づく。朱徳はラジオで世界情勢に通じていた。


何応欽・梅津秘密協定


日本軍の綏遠(すいえん)省侵略ー


東京・ベルリン・南京防共協定ー


張群ー


ジョージ・ヘイテムー


満州事変ー



以前「ルビコン河を渡る」という言葉が文章に出てきて意味がわからず調べたことがある。「どこの河?」っていう感じ。欧米では頻繁に使われる格言なのかな。

「ルビコン河を渡る」が定着しているのなら、「濾定橋を渡る」も使いたい。当時の日本にとってはいい話しではないけれど。


個人的には「孟母三遷」「四面楚歌」などと同じように「安順場の一隻の舟」「濾定橋を渡る」「石達開の感涙」を格言にしたいと思っている。


続いて第10巻からは現代に近づいてくる。1945年8月については、日本軍は武装解除されて、はい、それでおしまいではない。国民党軍との関係でややこしい展開になっていく。



by far-east2040 | 2019-05-08 12:50 | 『偉大なる道』

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大阪でアジア図書館を運営している市民団体アジアセンター21の代表をなさっていた山口一郎氏が亡くなったことは、当時購読していた新聞の訃報欄で知った。

たしか、学会が何かの出席のために中国に滞在していたときに、ホテルで入浴中に亡くなられたと記憶している。

2000年の秋、84歳という高齢での旅先からの知らせだった。

存じ上げている人の名前を新聞の訃報欄で見つけるなんてことは、はじめてだったと思う。

私が、未練や解放感など複雑な感情を秘めて市民団体アジアセンター21を辞めたのは、その亡くなられる5年ほど前だった。

その際に、労をねぎらう言葉を直接かけていただいたことは決して忘れていない。


「韓国をふくめて中国と日本がむきあって何かやれないかと考えている」

正確にはもう覚えていないが、おだやかな声でこういう趣旨のことをいってくださっていた。


山口氏は、アジアセンター21の理念を表象する代表ということで、実際の現場にはほとんど顔を見せることはなかった。

年に数回講演者として接するぐらいで、ことばを直接かわすこともなく、末端のスタッフと代表という関係でしかなく、離れたところで静かに眺めていたような気がする。


「企業にまわって寄付を集めるような器用なことができないため、現場で働く人に苦労をかけている」という内容のことを、直接か間接か忘れたけれど、一度聞いたことはある。


働いていたころは、山口一郎氏は関西大学文学部名誉教授と孫文の研究家としてしかあまり知らなかった。

調べてみると、1915年に中国の撫順市で生まれ、東京大学文学部中国哲学科を卒業されている。

戦争には行かなかったのだろうか?

なぜ孫文? 

どうして1915年に中国で生まれたのかな?

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そんな山口氏に「再会」したのは、子育てが落ち着いて自分の時間がとれだしたころ、地域の図書館で借りた1冊の本がきっかけだった。

築地書館から2000年に出版された『孫文 百年先を見た男』に、山口氏に著者が直接取材している箇所があり、ページの中に山口氏の顔写真ものせていた。

奇しくも、山口氏が突然亡くなった年に出版されたことになっている。

孫文の人と功績について書かれた一般向けの本はあまり見当たらないことを思うと、この本は読みやすくて貴重だ。


月日が流れ、限られた時間のなかで好きなことを選んでいったら、いつのまにか自分の言葉の世界に孫逸仙(孫文)を取り込み、自分の言葉で理解するという作業をしていることになる。

それから、孫文の理念を実現させていく朱徳の生き様を知り、ふたりが生きた困難な時代を追体験している。

その際、できるだけ東アジアの国境の垣根は取り払いたいと考えてきた。

『偉大なる道』を読み進めると、あらためて孫逸仙(孫文)の功績を認識する。


いま手元に2011年に再編集して出版された『孫文 百年先を見た男』の文庫本があるが、著者が

「先生にとって、孫文とは結局なんですか」

とたずねると、

「孫文の偉さは、最初はわからなかった。背後にある学識の広さと、人間と社会に対する考え方がわかってくるにつれて、大変な人だと思うようになりました」

と答えている。


つづいて神戸市垂水区の舞子の浜にある孫中山記念館(移情閣)の館長や、大阪のボランティア組織、アジアセンター21の代表を無報酬でつとめていることなどが書かれていて、

「孫文が夢見たように、日本、中国、それに朝鮮半島の人たちも、お互い顔を向きあっての交流を深め、平和を確かなものにできないものですかね」


と語ったことを紹介している。
その文面に何回か目をとおすうちに、今まで読み過ごしていたところがあまりに唐突すぎて妙に気になり始めた。

……点と点がつながった感じ。


孫文と朝鮮半島はほとんど接点がないので、他の研究者なら別にふれないし、ふれなくても別に無視しているような文の流れではない。

ここで、「朝鮮半島の人たち」という言葉を出された山口氏に深い感謝の念を表したいと思った。


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いま自宅に移情閣の絵葉書を額にいれて飾っている。

行き詰まったときや、朗報をききたいときはこの浜から海を眺めてきた。


【参照】山口一郎氏について書いた過去記事





by far-east2040 | 2018-10-27 16:55 | 『偉大なる道』

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           宋慶齡(Wikiより借用)


 孫逸仙夫人は、国民党に対する歴史的宣言のなかで、中国人民に深い感銘をあたえた。


 「わたしたちは、人民をあざむいてはなりません。わたしたちは、人民のあいだに、偉大な希望をそだてあげてきました。人民は、わたしたちに深い信頼をささげてきました。この信頼にたいして、わたしたちは、最後まで、忠誠をつくす義務があります」


 しかし、そのときすでに、国民党は人民を裏切っていた。内陸のあらゆる主要都市はもとより、無数の街や村の路上は、労働者や農民やインテリの血の洪水と化していた。反動どもは、「あれは共産主義だ」という野蛮な叫びをあげながら、胸の奥に偉大な希望のともしびを燃やしている貧しい人びとを、かたっぱしから殺していた。事実、そのとおり、中国共産党こそ、これらの貧しい人びとをふるいたたせ、組織し、指導していた。共産党が貧しい人びとの党だったからだ。


 いたるところで希望が失われてゆくのを見たとき、いまや、この党は、敵と闘うか、それとも降伏するか、いずれかを選ばなければならなかった。ずっとむかし、19世紀の半ば、偉大な「太平」の指導者、石達開も、ちょうど同じような窮地にたたされたことがあったが、そのとき彼は、こう叫んだ――


 「戦っても死ぬ。戦わなくとも死ぬ。それならいっそ、戦おうではないか」


 歴史は決して、ぴったりそのとおりにくり返すものではない、ということを、共産主義者はよく心得ている。だから彼らは、断固として戦い、――かつ、生きのびようと決意した。



by far-east2040 | 2018-10-23 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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 1927年7月18日、朱徳将軍は、ただちに任地を離れて、江西省北部の、南昌からそれほど遠くない小さな村でひらかれる共産党秘密会議に出席せよ、という招請をうけとった。その日の夕刻、ある大きな建物へ入ってゆくと、そこには共産党の主な指導者たちが、多勢あつまっていた。


 あたりには彼のよく知っている人びともたくさんいたが、名前だけしか聞いたことがない人もたくさんいた。上海で殺されそうになって、あやうく脱出した周恩来もきていた。みんなは、周のことをただ「鉄の人」と呼んでいた。四川省でかろうじて死地を脱出した劉泊承もいた。中国総工会の書記で、漢口政府の労工部長をしていた蘇兆徴も、農業部長の譚平山といっしょにきていた。「鉄軍」の第十一軍と第二十軍の指揮官や参謀たちや政治指導者たち――葉挺、賀竜、葉剣英、李立三、劉志丹――もきていたが、彼らこそ、その後の歴史をつくった人たちだ。劉志丹は、もっとも初期から孫逸仙の運動に参加した一人だ。


 朱徳将軍が会ったことはあるが、名前は知らない人たちもいた。そのひとりに、背の高い、やせた男がいた。その名前は毛沢東といい、農民運動の指導者で、共産党の政治局員であり、かつ国民党の中央委員にもなっていた。


 朱将軍は、もっぱら、この会議で採決した諸決定の大すじだけを、私に話してくれた。


 「われわれは、国民党に対するこれまでの政策を変更した。一方で反軍閥、反帝国主義闘争はつづけながら、同時に、農民と労働者に武装させ、土地革命をはじめるという方針を採択した。

私も発言して、この決議に賛成した。しかし、このような決定的な時期においてさえ、われわれが採決した農民政策は、極度に制限をうけていた。地主の土地の没収に対しても、あるいは、農民の蜂起を援助するためでさえ、『鉄軍』をつかう計画をたてることができなかった。この種の活動は、種々の人民組織や、党の幹部にまかされた。われわれの党は、まだ若く、経験も浅かった。あまりにも急速に大きくなったので、われわれはまだ、党の統一をかため、党の幹部を理論的に教育することができていなかった。われわれは、はじめ、たやすく手にいれた勝利に陶酔してしまい、まもなく、いきなり、反革命によって、絶望のふちへたたきこまれていった。



by far-east2040 | 2018-10-22 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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           瞿秋白(Wikiより借用)


 南昌の町は、いまや、革命旗の海と化した。数万におよぶ人民と兵士が、どっと大集会に群れあつまり、演説する人のための演壇が10いくつもつくられた。蜂起の翌朝、共産党の緊急会議が召集された。陳独秀が、党書記長の地位を追われ、瞿秋白(くはくしゅう)が選出された。この新しい書記は、有名な作家で、文芸復興運動の主要な指導者のひとりだった。


 この会議は、革命委員会も選出したが、委員は、共産党員と当時まだ革命に忠実だった国民党指導員で構成された。これらの国民党員の中には、孫逸仙夫人や、漢口政府の外交部長、陳友仁も加わっていた。「鉄軍」は、そのとき南昌にいた革命委員会の委員たちとともに、広東省へ向かって南進を開始し、新たな革命政府を樹立することになった。この遠征の資金をまかなうために、「鉄軍」と共産党から選ばれた委員会が、市中をまわって、銀行家やそのほか金持ちの家から、金を没収して歩いた。


 ちょうどそのころ、朱徳は、新しい師団、第九師を編成して、みずからその指揮をとるように命じられた。彼がにぎっていた軍官学校生3百人、南昌警察隊の全員4百人、それに数10人の労働者と学生が、この新師団に編入された。しかし、蜂起で捕獲した小銃のほとんど全部は、すでに労働者や農民の手にわたってしまっていた。農民運動講習所の男女6百人は、小銃と弾薬を小舟に積み、その上にわらをかぶせてかくし、流れをくだって、江西省のそれぞれの郷里へ帰り、農民を組織し、武装させる仕事にとりかかった。方志敏は、多数の農民とともに、江西省東北にある彼の郷里、弋陽(よくよう)へ向かった。その後数年足らずで、彼らはこの地方に、紅軍第十軍団をきずきあげた。


 こうした事情から、朱徳は、彼の新師団の編成にあたって、わずか1千人の武装兵力しか動員することができなかった。


 いよいよ土地革命が始まった。



by far-east2040 | 2018-10-17 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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 わが軍はいまや、危険地帯にはいり、海岸にある敵軍から攻撃されやすい距離にはいっていた。いまや行動の迅速さが一切を決定する。夜中の1時に汀州を出発した彭湃は、「鉄軍」をみちびいて、彼の故郷である広東省東江地方へ向かって、真南へ強行軍をおこなった。この東江地方こそ、かつて逸仙の保護のもとに、最初の農民組合と農民自衛隊が生まれた土地だ。だが今では、この地方の農民運動は地下に追いこまれ、「虎地主」と武装部隊である民団が再び覇権をにぎって、血なまぐさい勝利をほこっていた。


 彭湃の前衛隊から出た斥候兵たちは、猟犬グレイハウンドのような速さで行動をおこし、たちまち福建―広東省境をこえて、村々のあいだに、「鉄軍」が来るぞ、という言葉をひろめていった。すぐそのあとから次から次へと、迅速に行動する諸部隊がつづいた。たちまち殺到したこれらの部隊は、その途上で、地主の民団を破滅し、粉砕しつつ、省境を越えて、有名な東江地方にはいっていった。


 汕頭港で海にそそぐ韓江に沿って南下しはじめた瞬間から、朱徳の部隊の行軍はお祭りのようになった。はじめは小さな農民の群れだったのが、だんだん大きな集団になってゆき、男も女も、考えられるかぎりのありとあらゆる武器をもって出てきて、部隊を迎え、部隊に加わった。
彼らは行軍しながら、ひどくみじめな生活を訴えた。どの村もどの村も、食糧と飲みものを用意して部隊を待っていた。韓江の岸辺には、部隊を渡河させるために数百の船頭が集まっていた。

この岸辺で、部隊は行軍を中止し、汕頭攻略の作戦計画をねった。すでに国民党軍一個師団は集結を終わって待機していて、もう一個師団が南から北上中であった。


 農民は、それぞれ米や野菜のはいったかごを天秤棒でかついで、いくつもの長い列を作って、野営地へやってきた。彼らはみんな、目を輝かせて、こういった――


 「お前さんがた、とうとうきてくれましたな! とうとうきてくれましたな!」


 船頭たちが、つぎからつぎへと、汕頭から川をさかのぼってきて、敵軍の防衛準備の情報をもってきた。汕頭港内には、英国の砲艦があり、国民党軍の将校たちがその砲艦に出入りしているという警報もはいった。国民党軍の別の諸部隊が、海上から汕頭に上陸するという噂もひろまっていた。北方からやってきた農民たちは、別の敵軍一個師団が福建省を南下中だという警報をもってきた。



by far-east2040 | 2018-10-13 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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              陳毅(ネットより借用)


 この計画は、文字通り、そのまま実行され、六個中隊の全員が捕虜になり武装解除された。丘のあいだの窪地につれてこられ、そこで、朱徳と陳毅が、工農革命軍の性格と綱領について説明をおこなった。まるで、友だちとはなしあっているような陳毅の演説は、捕虜のあいだに、深い感銘を与えた。というのは、陳毅自身が、古い学者の家柄の出身だったからだ。それから、孫逸仙が広東にたてた、有名な黄埔軍官学校も卒業した。捕虜たちと同じ階級に生まれたが、どうして、軍国主義と帝国主義に対して、たたかいつづける道を選んだかを説明したのち、陳は、彼らが護衛兵につれられて、おだやかに宜省へゆき、そこで、陳や朱徳と同じような他の人びととよく話し合いをするようにと、説得した。それからもし、郷里へ帰りたいというならば、そうしてもいい。帰りたいものには、旅費と軍の通行証を支給してあげよう。革命のために、たたかいたいという人は、大歓迎する、しかし、革命の道は長く、かつきびしいことを知ってもらわねばならない。


 「われわれ中国の青年には、奴隷にされることよりも恐ろしいことがあるだろうか?」と陳毅は、みんなにたずねた。捕虜のなかから、多くの声がいっせいに答えた。「ない!」と。


 ある若い革命軍の指揮官も立ちあがって、説明を始めた。彼も、かつて学生であり、その全家族が大革命に参加した。反革命がはじまったとき、1人の妹と2人の兄弟が殺された、と。つづいてひとりの農民兵が、封建的地主とたたかった彼の家族の悲劇的な運命について、ものがたった。話している間に、彼の頬にとめどなく涙が流れ、とうとう話しつづけることができなくなった。朱徳が捕虜たちの方をずっと見まわしてみると、捕虜の中にも、すすり泣いているものがあった。


 「訴苦会」として有名になったこのような集会は、革命が勝利するまで、その後20年以上にわたって、中国革命の一つの典型になった。


 学生六個中隊は、宜章に送り返され、そこで、わずか15人を除いて、全員が革命軍に加わった。


 朱将軍が筆者に話をしてくれた1937年には、すでに彼らの多くが、朱徳軍の軍事的あるいは政治的幹部になっていた。



by far-east2040 | 2018-09-20 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編