2018年 10月 27日
孫文研究家故山口一郎氏への謝意

大阪でアジア図書館を運営している市民団体アジアセンター21の代表をなさっていた山口一郎氏が亡くなったことは、当時購読していた新聞の訃報欄で知った。
たしか、学会が何かの出席のために中国に滞在していたときに、ホテルで入浴中に亡くなられたと記憶している。
2000年の秋、84歳という高齢での旅先からの知らせだった。
存じ上げている人の名前を新聞の訃報欄で見つけるなんてことは、はじめてだったと思う。
私が、未練や解放感など複雑な感情を秘めて市民団体アジアセンター21を辞めたのは、その亡くなられる5年ほど前だった。
その際に、労をねぎらう言葉を直接かけていただいたことは決して忘れていない。
「韓国をふくめて中国と日本がむきあって何かやれないかと考えている」
正確にはもう覚えていないが、おだやかな声でこういう趣旨のことをいってくださっていた。
山口氏は、アジアセンター21の理念を表象する代表ということで、実際の現場にはほとんど顔を見せることはなかった。
年に数回講演者として接するぐらいで、ことばを直接かわすこともなく、末端のスタッフと代表という関係でしかなく、離れたところで静かに眺めていたような気がする。
「企業にまわって寄付を集めるような器用なことができないため、現場で働く人に苦労をかけている」という内容のことを、直接か間接か忘れたけれど、一度聞いたことはある。
働いていたころは、山口一郎氏は関西大学文学部名誉教授と孫文の研究家としてしかあまり知らなかった。
調べてみると、1915年に中国の撫順市で生まれ、東京大学文学部中国哲学科を卒業されている。
戦争には行かなかったのだろうか?
なぜ孫文?
どうして1915年に中国で生まれたのかな?

そんな山口氏に「再会」したのは、子育てが落ち着いて自分の時間がとれだしたころ、地域の図書館で借りた1冊の本がきっかけだった。
築地書館から2000年に出版された『孫文 百年先を見た男』に、山口氏に著者が直接取材している箇所があり、ページの中に山口氏の顔写真ものせていた。
奇しくも、山口氏が突然亡くなった年に出版されたことになっている。
孫文の人と功績について書かれた一般向けの本はあまり見当たらないことを思うと、この本は読みやすくて貴重だ。
月日が流れ、限られた時間のなかで好きなことを選んでいったら、いつのまにか自分の言葉の世界に孫逸仙(孫文)を取り込み、自分の言葉で理解するという作業をしていることになる。
それから、孫文の理念を実現させていく朱徳の生き様を知り、ふたりが生きた困難な時代を追体験している。
その際、できるだけ東アジアの国境の垣根は取り払いたいと考えてきた。
『偉大なる道』を読み進めると、あらためて孫逸仙(孫文)の功績を認識する。
いま手元に2011年に再編集して出版された『孫文 百年先を見た男』の文庫本があるが、著者が
「先生にとって、孫文とは結局なんですか」
とたずねると、
「孫文の偉さは、最初はわからなかった。背後にある学識の広さと、人間と社会に対する考え方がわかってくるにつれて、大変な人だと思うようになりました」
と答えている。
つづいて神戸市垂水区の舞子の浜にある孫中山記念館(移情閣)の館長や、大阪のボランティア組織、アジアセンター21の代表を無報酬でつとめていることなどが書かれていて、
「孫文が夢見たように、日本、中国、それに朝鮮半島の人たちも、お互い顔を向きあっての交流を深め、平和を確かなものにできないものですかね」
と語ったことを紹介している。
その文面に何回か目をとおすうちに、今まで読み過ごしていたところがあまりに唐突すぎて妙に気になり始めた。
……点と点がつながった感じ。
孫文と朝鮮半島はほとんど接点がないので、他の研究者なら別にふれないし、ふれなくても別に無視しているような文の流れではない。
ここで、「朝鮮半島の人たち」という言葉を出された山口氏に深い感謝の念を表したいと思った。

いま自宅に移情閣の絵葉書を額にいれて飾っている。
行き詰まったときや、朗報をききたいときはこの浜から海を眺めてきた。
【参照】山口一郎氏について書いた過去記事
2017年 06月 30日
『偉大なる道』にまつわる客家いろいろ

客家(ハッカ)いう言葉は、アジア図書館に勤めていたころ初めて聞いた。
それ以来何だろうとずっと気にはなっていた。
どうやら中国の歴史において被差別者集団として扱われた時期があったらしいと知ってなおさらだった。
台湾人の女性留学生が「私も客家です」といっていたのが耳に残っていて、こういう風に表現するんだわなんて思ったものだ。
このいい方から、彼女は台湾人だけれども、実は大陸にルーツがあり、客家語が母語かも知れないことがわかる。
四川省で生まれた作家ハン・スーインの一族も客家だった。
彼女は、読書人階級だったおかげで、文字で残されていた一族の膨大な資料を読み込んで、客家とはどういう集団であるかを自伝の中でかなりのページをさいて説明していた。
こういう試みは彼女だけではなくて、アジア図書館には客家について書かれた日本語中国語の本が、一つのコーナーができるぐらい数多く所蔵されていた。
同じ漢民族ではあるが、集団で中国国内を大移動してきた人たちといわれている。
中原と呼ばれた古代王朝の中心地である黄河中流周辺地域から、自然災害や戦乱に追われて南方に移ったと伝えられ、主に広東、福建、江西省の境界の山岳地に住んだといわれている。
中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類されていて、最初が秦の時代といわれているので紀元前となる。
ハン・スーインの自伝では、確かイングランドかスコットランドぐらいの土地の面積からの人口移動になるという。
中国らしいスケールの大きさを感じる。
しかも現在客家を自称する人は1億を越えるだろうというから、一つの国と考えてもよさそうだ。
客家の人々はその土地においてよそ者なので、当然周辺に住む他の集団とは異なり、山間部に好んでというか仕方なく居住することが多く、独特の言語・文化を保ってきた。
客家の典型的な住居は、何家族も一緒に住む丸い家で、観光地になっていることがある。
なぜ丸いかといえば、外部から攻撃してくる者の侵入を防ぎやすいからだ。
さらに何世紀も経て、広東、福建、江西省にいったん定着した集団から内陸部の四川省に移動する人たちが出てきた。
ハン・スーインの一族で最初に四川省に来た先祖は、貧しい塩の行商人だったが、世代を重ねていく間に富を蓄え、学問を身につけていき、やがて読書人階級を形成するまでになったという。
四川省出身の政治家トウ小平や朱徳の配下にいた陳毅も、似たような階級形成の歴史を持つ一族と思われる。
朱徳の一族も、広東省に本家がある客家なので、次のように『偉大なる道』には書かれている。
「……彼らは他地方から移住してきたのであり、まだ八代と経ってはおらず、従ってはえぬきの人または郷土創建の家系ーーと見られる権利は獲得していなかった。朱の族の最初の一団は、白蓮教の大叛乱の直後、つまり18世紀の末から19世紀の初めかに、はるか南の広東省からやってきた。その叛乱と満州朝による制圧とが、この地方の人口を稀薄にしたので、広東や広西の貧農たちが流れこんできて……」
朱徳の家族は、80年も四川に住んでいたが、まだ広東語を使い、広東の習俗を保っていて、朱徳の代になって広東と四川の二つの方言を話せるようになったという。
朱徳はここでは広東語といっているが、これは厳密にいえば客家語のことだと思っている。
先祖がかつて移動してきてよそ者として苦労した経験から、外の世界に目を向ける子孫が生まれたと考えるのは自然なことで、華僑の中で客家が占める割合が多いのもうなづける。
世の中の不正義に対して敏感であることや、勤勉であることも客家の特質として語られる。
海外で商いで成功した者が出てくるのも当然だ。
有名な太平天国の乱の洪秀全や石達開など指導者や兵士にも、客家が多かった。
孫逸仙もそうだし、朱徳の参謀長だった葉剣英も広東の豪商出身で客家だった。
その他中国革命に関わった有名無名の客家出身の人材はたくさんいて、毛沢東も客家について論文を書いている。
革命途上で、客家の特異性について考察せざるを得ない情況を見てきたのだと思う。
客家の歴史への興味は尽きない。
2017年 06月 19日
『偉大なる道』にまつわる出版いろいろ

国家的偉業をなした人物の伝記はたくさん出版されてきている。
『偉大なる道』で描かれている朱徳についても、中国では国家的事業としてたくさんの伝記が出版されてきているはずだ。
ただし、偉大なことは教育を通じて認識しているけれども、もう過去の人物として普段の生活では忘れられた存在だろう。
このあたりの実感はよくわからない。
毛沢東や周恩来など他の革命の指導者の伝記もそうだと思う。
朱徳の最後の夫人だった康克清は、革命に参加するまでは文盲で地主の畑の農作業に従事していた人なので、中国で伝記が出版されていることがネットでわかったときは読んでみたいと思った。
中国語がわからないので無理な話だけど。
朱徳たちが生きた時代から見れば、信じられないぐらい豊かな大国にのし上がってきている中国では、こういう革命世代の伝記なんて「もう古いもの」として、ほとんど読まれていないと想像する。
実際古い話だ。
古い異国の人物にこだわる私は、つくづくはぐれ者だと思う。
国家的事業で書かれた政治家の伝記は読む気がしない。
どうしても実際よりも美化したり、悪い面はトーンダウンしたりしていい面を強調しているように勘ぐってしまうからだ。。
だいたいこの種の伝記は出版はされても、さほど読まれないと思うのだが。
政治家とくに旧共産主義国の功労者としての政治家や宗教団体の教祖の伝記モノとか。
司馬遼太郎は、膨大な資料の読み込みと行動で独特の作品群を産みだした作家で、紀行文は好きで親しんだ時期があった。
坂本龍馬を扱ったフィクションは、残された資料に基づくこの作家の知性による創作人物であり、娯楽として楽しむ以上のものは期待できないと思っている。
『偉大なる道』を司馬遼太郎の作品と比べるのも無理な話だけれど、あの時期に革命途上にある人物から直接または周辺から参考になる話を聞いて、自分のジャーナリストとしての見識を動員して編集したという点で、重ね重ねすごく希少価値があると思うのだが。
アグネス・スメドレーは1892年生まれで、中国人の農民を描いた『大地』の作家パール・バックと奇しくも同年齢でしかも女性ということも共通している。
生い立ちはかなり違うが、中国を愛しているという点でもどちらも引けをとらない。
バックは1931年から1935年に出版された『大地』の三部作が評価され、1938年にノーベル文学賞を受賞している。
ぱっと出て、さっと賞をもらったという感じ。
スメドレーはこの『大地』を読んでいたかどうかわからないけれど、これだけ有名になっていたので、中国の農民の生活をきめ細かく描いた作品ということは知っていただろう。
バックは、両親がキリスト教の宣教師で幼い頃から中国で育ち、英語と中国語のバイリンガルで、中国の名前をもち、自分は中国人と思っていたぐらい中国社会に溶け込んでいた人だった。
私は、中学生ぐらいの頃に彼女の三部作は読んでいて、好きな作品だったので、『偉大なる道』を読んでいるときこの『大地』を想い出すことが何度もあった。
フィクションだけれど、バックが描く中国の貧しい農民、そこからのし上がっていく一族の個々の姿が、『偉大なる道』に出てくる人物たちと重なって、中国人でない作家がここまで創作して描けられることに、感心しながら振り返れたものだった。
スメドレーの『偉大なる道』はフィクションではない。
実在の人物からいい話も答えにくい話も、時には沈黙という形で直接聞きとりしているだけに、迫力やためらいなどが伝わり、ノンフィクションならではの読みごたえがある。
スメドレーが朱徳に聞き取りを申し出た理由のひとつは、中国の農民がかつて外部の世界に向かって口をひらいたことがないという確信だった。
フィクションではなくて、直接の聞き取りを活字にして発信したかったのだと思う。
だから、女性ならではの衣食住にわたる生活の細かいことも聞き取りできている。
このあたりバックの『大地』を少し意識していたように感じる。
エドガー・スノーというジャーナリストが、同時期に延安で毛沢東に直接聞き取りをした『中国の赤い星』という本も一時期有名だったらしい。
もちろん最盛期のアジア図書館で一覧できる中国コーナーには何気なく並んでいた。
残念ながらこの本を手に取る機会がなかった。
スノーが女性だったら、読んでいた可能性は高い。
『偉大なる道』よりもイデオロギーが強く出た作品になっているらしいと、どこかで読んだことがある。
中国共産党を全世界、とくにアメリカに広く好意的に紹介したことで有名な作品らしい。
スメドレーの『偉大なる道』をアメリカで出版できるように骨折ってくれたのもスノーだった。
この本の価値がわかっていたのだ。
彼女は全米でマッカーシズムが吹き荒れる最中に遭遇したので、出版どころか住む家を見つけるのも困難な情況に追い込まれ、結局イギリスに向かった。
彼女が日本で出版されることを知ることなくイギリスで1950年に亡くなり、その骨は中国に埋められていることはよく知られている。
その墓石の文字は、朱徳自らの揮毫によるものだ。
なお、スメドレーが共産主義に共感を持っていたことは行動と主張から事実である。
経済的な援助をふくめて当時のソ連の機関とある程度の接触があったと考えても不思議ではない。
有名なゾルゲ事件の関係者で、戦中に死刑になった日本人ジャーナリスト尾崎秀実とは中国で愛人関係だった、とどこかで読んだことがある。
尾崎秀実は日本に妻子がいる身だった。
元は兄嫁だった妻と娘に獄中から書いた手紙が、『愛情はふる星のごとく』という題で出版され多くの人に読まれたらしい。
情熱的な人だ。
愛人関係か事実上夫婦だったかどうか事実は知らないが、どちらも異国で共感するものをもつジャーナリストであったことを考えると、十分ありえると個人的には思った。
スメドレーもゾルゲ事件の関連からだろうか、当然スパイ扱いされたらしく、そのことでも戦ってきた。
政府からの嫌がらせはひどかったらしい。
ゾルゲ事件については現在定説になっていることも、ほんとうの所はどうだろうかと私は思っている。
すっきりし過ぎている感じがする。
で、スメドレーがあの当時どんな主義を信奉していたなんてあまりこだわりがない。
『偉大なる道』を残した事実と彼女の見識、良心、勇気にただ感服している。
2016年 10月 05日
朱徳の半生記『偉大なる道』

「これは、中国人民解放軍の総司令官朱徳将軍の生涯の、六十歳の時までの物語である」
で始まる、アグネス・スメドレーが実際に朱徳から聞き取りをして、アメリカで編集し、日本で阿部知二の翻訳で1955年に単行本として出版されたこの本がずっと好きだった。
アジア図書館がすべての蔵書を一覧できるように配架していた時期に、中国コーナーの天井に近い棚の上に納まっていた。
わざわざ台を持ってきて手に取るまでは時間はなかったので、とうとう眺めるだけで辞めてしまった。
記憶では全体に変色した単行本だったので、1955年に発行された本が、中国に関心を持った読者の手をへて、アジア図書館にやってきたことになる。
アジア図書館という場ではいろいろな本や文章に出会ったので、きっとこの本を推す真摯な文章を目にしたのだろう。
だから、アメリカ人女性が書いたこの本のことを気にかけていたとふりかえる。
用事があってその棚の近くにくると、見上げたりしたものだった。
その頃は朱徳のことはほとんど知らなかった。
実際に読んだのは、子育てが落ち着いた頃だった。
この本をアカやマルクス主義者、共産主義者というレッテルを貼って避けるのはもったいないぐらい、中国の貧農の生活ぶりが細かく記録されていて、この種の歴史的記録文書として貴重な証言集だと思う。
直接農民から聞き取りをしているのだから、他には見当たらないだろう。
ラジオなど何もない時代、農民がどうやって外の世界の情報を得たかも、毎年定期的に泊っていく職人がもたらしたとわかって興味深かった。
たぶん東アジアの農耕民族は似たり寄ったりではないかと思った。
もちろん一人の英雄史、一人の男性史としても面白く読めた。
ベルギー人の母と中国人の父をもつハン・スーインが、動乱の中国の現代史を家の歴史を絡ませてみずからが書いた「自伝的中国現代史」シリーズも、興味深い本だった。
この本は、当時の中国の特権階級の生活ぶりを通して、中国の近現代史を読者にわかりやすく解説している。
生い立ちから受けた自らの傷口を癒すために書かれていて感動する本だった。
この本は同じ女性ということもあって、大好きな一冊だった。
『偉大なる道』はハン・スーインと同じように客家出身ではあるが、貧農で本来ならば教育を受ける機会もなかったような朱徳から、アグネス・スメドレーが聞き取りをしていった記録になっている。
まだ革命途上にあった。
「あなたが農民だからです。いまのお国の十人の中の八人は農民です。しかも一人も、世界に向って自分のことを話さなかったのです。もしあなたが私に身の上話をして下さったならば、ここにはじめて農民が口をひらいた、ということになります」
とスメドレーから申し出を受けても、朱徳は最初は断っている。
「待ちなさい。もっと眼を広くして、色々な人に会ってから決めなさい」と。
そして他のもっと劇的な人物たちを勧められた。
しかし、アグネス・スメドレーは「中国の農民は劇的ではないのだ」と思い、朱徳からの聞き取りを固執した。
彼女のいってることは正しく、農民しかも貧農の記録なんて過去においてなかったのだから、これは彼女の洞察がするどかった。
それとこの本の魅力は、女性しかも文化の違うアメリカ人が聞き取りをしているところだ。
男対女ということで、多少の照れや遠慮も働いただろうし、互いに共感するところもあり、この組み合わせは他にないのではと思っている。
出版に際しても、アメリカではその頃マッカーシー旋風がアメリカ全土を覆い、彼女の本は危険な書物として一掃された。
彼女自身の生きる場も追われるような状況にいた。
ところが、日本では雑誌『世界』に翻訳が少し試しに連載されると高く評価され、連載が続き、出版までされ、朱徳の半生記が日本人には読まれることになった。
誰からも好まれる周恩来とはまた違った意味合いで、朱徳に敬愛の念を抱く日本人は多かったと思う。
私は一番あとからこの日本人の列に加わったことになるかも知れない。
アジア図書館の蔵書の中でアジアを知る1冊を選べといわれたら、人によっていろいろな読み方ができるこの本を挙げると思う。
話しはそれるが、北京オリンピックの開会式のイベントでは漢字の誕生あたりから表現していて、さすがに中国だと気よく観ていたが、毛沢東はもちろん朱徳たちの長征など建国の苦労がまったく触れられてなくがっかりした。
ここを無視したか……
かわいい女の子の口パク問題より残念で覚めてしまった。
ということで、アジアで圧倒的多数だった農民の生活を描き、欧米列強や日本にあれだけむしばまれた国を再建するために、半生を革命に捧げた一人の英雄史として出版できた奇跡に感謝する。
2016年 07月 12日
孫文と孫文記念館

日本では孫文として知られているが、中国や台湾では孫中山、欧米では広東語のローマ字表記であるSun Yat-sen(孫逸山)として知られている。一旦定着したものを変えるのはむずかしいかも知れないが、孫中山で揃えた方がいいように思うが。
孫文記念館には3回ほど行ったが、料金は200円だったと記憶している。中国語を話す観光客が来てるときや中国語の講座もあるそうだが、普段はガラガラで必ずしもおもしろい場所とはいえない。イベントをするには小さすぎる空間だが、孫文を扱った珍しい映画などをときどき見せてくれたらいいのに。そうしたら、私は多分常連になりそうだ。
孫文については、私の好きな人物である朱徳は実際会っていてすごく誠実な人間だったとアグネス・スメドレーに語っているし、ハン・スーインはあの動乱の時代にあって誠実すぎたと捉えていた。
アジアの中の一員としての自分を発見する方法は人によっていろいろだが、私は教科書でしか知らなかった孫文を再認識することだった。
2010-09-22 公開
アジア図書館を運営している団体「アジアセンター21」の代表をなさっていた方が、関西大学教授の山口一郎先生だった。辛亥革命の父と仰がれた孫文の研究家として知られていた。
山口先生を初めとする関係者の働きかけがあったからである。
私も一度だけ訪れたことがあるが、とてもかわいらしい建物で、海岸は目の前だった。
何度かアジアを囲む会という小さな講演会で孫文について講演していただいたが、私にはむずかしかった。孫文についてはほとんど知らなかったし、まして辛亥革命の歴史的意義ももう一つわかっていなかったからだった。
山口先生が参加者にできるだけわかりやすく語るその穏やかな口調を、スタッフとしての作業をしながら耳にしてきて、とても功績のあるえらい人なんだとは感じてきた。
大学生が「こんな初歩的な質問していいですか」と恥ずかしそうに前置きして、
「孫文って結局、右ですか左ですか?」
と質問してくれたとき、私が聞きたいことを聞いてくれた感じがした。
先生は「右でも左でもない」ということをていねいに説明されていて、ちょっと孫文に近づけた感じがした。
孫文は私は幕末の吉田松陰と高杉晋作を足して2で割ったような人物と考えているが、的外れかな。
アジア図書館を辞めてから、山口先生が学会出席のためにいた中国で亡くなられたことを知った。山口先生を思い出すと、そこでの仕事は孫文の理念の実践でもあったことを思う。
2016年 07月 08日
ハン・スーイン著『悲傷の樹』

市民団体が運営していたアジア図書館で働いていたときに出会い、一番いい影響を受けた本である。
この本ぐらいの知的影響を受けたのは、朱徳の半生を描いたアグネス・スメドレー著『偉大なる道』だった。
こちらは天井に近い、棚の一番上に並べられていたこともあって、いつか読みたいと眺めるだけでとうとう読む機会がなかった。
子育てが落ち着いた頃だろうか、何がきっかけで読み始めたのか覚えていないが、読んでしまうとすっかり朱徳の人間性にはまってしまった。
大同小異のもと、病んだ自国を救おうとする人間の活動や情熱が好きだし、アグネス・スメドレーやハン・スーインのように文筆活動をしたかったんだと思う。
人生はいろいろなことをするには短すぎる。
なお、ハン・スーインの父方の祖母は、太平天国の乱で有名な曽国藩の親友であり側近の娘だった。
彼女の先祖は、太平天国の乱ではみな体制側の人間として戦った勝者だった。
以下の文は2010年7月16日に公開したもの。
ハン・スーイン著『自伝的中国現代史シリーズ』は全5巻で1冊1冊読み応えのある本である。
なかでも第1巻の『悲傷の樹』は昭和45年10月発行で、私が一番好きな巻。
かんたんに言えば、彼女の家の歴史を横糸にして激動する現代までの中国の歴史を綴った大河ドラマである。
欧米列強の侵略と軍閥の圧制に苦しむ祖国中国の歴史を映し出しながら、その中で成長していく彼女自身も描き出していく。
そして彼女のような存在、つまりベルギー人の母と中国人の父をもつものが、どういう歴史的背景のもとに生まれたのかも明らかにしていく。
すでに作家として地位を確立したあとに、ライフワークとしてこの大作に着手している。
中国の父方の縁故や友人知人をたずね、またベルギーの母方の実家や親族を訪問して聞き取りや資料を集め、関係文書や記録を蒐集したことは書かれている内容の濃密さから充分伝わってくる。
その結果、とても魅力的な時代の証言に出来上がっている。
この本で私は、中国近現代史に興味を持ち、この基点にしていろいろな中国関連の文献に触れたように思う。
彼女は、家の歴史を明らかにしていく中で「客家(ハッカ)」出身であることに触れていく。
いわば封建社会の中での中国の巨大な被差別グループである。
彼女は記録書で辿れる限り過去にさかのぼって「客家」としての父系の家のルーツをたどっていく。
私が「東洋のユダヤ人」とも表現される「客家(ハッカ)」の歴史に関心をもったのは、彼女のこの著作に負うている。
同じ漢民族で、中国大陸内を移動することで形成された集団なのだが、人口規模も土地面積もヨーロッパの一国に相当し、スケールが大きい。
アジア図書館にも「客家」に関する書物だけでも、かなり蒐集されている。
また彼女自身の家庭の中でのポジションや父と母との関係に私自身と重なるものを見出し、一人の女性史としても興味深いものだった。
ヨーロッパから中国に嫁としてやってきたベルギー人の母も、「こんなはずじゃなかった」という失意の日々を繰り返す。
そんな母親と思春期をむかえた彼女は家庭の中でぶつかる。
外ではユーラシアンとして奇異の目で見られ、当時の医学書を開くとユーラシアンのことを「ばけもの」と書かれていることを知り、心の中で悲鳴をあげる。
当時のたいていの混血の中国人は、「差別」や「不利益」を逃れるように非中国人として生きることを選んでいった。
彼女の兄や妹たちがそうだった。
映画「慕情」の中でもそのことはよく描かれてる。
だが、彼女はあえて中国人の道を選んでいく。
さらに、彼女のような特権階級出身者にとっては、新しい中国へ変わっていこうとする、受け入れがたい「変化」を理性的に受け入れていく。
若い頃に出会った思い出の本を問われれば、迷わずこの本を挙げる。
2016年 07月 04日
作家ハン・スーイン(Han Suyin)

数年前から本についても断捨離をしているので、この女性の本はもう手元にない。
2012年に96歳でスイスで亡くなったという訃報を得て感慨深いものがあった。
1916年にユーラシアンとして中国で生れ育ったけれど、中国人としても西洋人としてもはまりにくい位置から、想像以上に生きにくかったことは自伝を読めばわかる。
例えば、西洋人の母親と自分たち子どもたちを他の西洋人紳士が、動物園の珍しい動物を見るかのような眼差しを向けてきたこととか。
結局、彼女は、時代の波に翻弄されて内面をつぶされていく兄や妹二人とは決別して、カトリックも捨て、中国人として生きるという選択をしていく。
現在のアジア図書館の運営から離れて久しいので、現在のことはよくわからないが、中国コーナーにきちんと全巻並んでいるはず。
こんな図書館他にないと思う。
2010-07-15 公開
アジア関係の本を収集している「アジア図書館」という民間図書館で働いていた時期がある。
多分野にわたる本に囲まれていたが、働いていると、さほど好きな本に手を延ばし読むという時間はとれなかった。
しかしここでなければ出会えたなかったように思える本はあった。
アメリカ映画の「慕情」をご存知の方は多いと思う。
私のように中年以降の方かな。
イギリス人と中国人のハーフである美しい女医とアメリカ人男性との香港を舞台にした悲恋物語。
女優ジェニファー・ジョーンズのチャイナドレス姿を思い出す方も多いかと思う。
私は彼女の古風な黒い水着姿とたばこを介したラブシーンの方が印象的。
この映画の原作は、実際はベルギー人の母と中国人の父とのユーラシアンであるハン・スーインという女性が書いた『多くの光彩を放つもの』である。
ただし、日本では『慕情』という題名で、映画の原作であることがわかるように発行されている。
女医であるヒロインの名前もハン・スーインなので、記憶されている人も多いはず。
悲恋のお相手はイギリス人男性。
アメリカ映画として映画化された時点で、主人公の国籍はベルギーがイギリスに、恋人の国籍はイギリスがアメリカに変わったのだろうか。
春秋社から出版された彼女の『自伝的中国現代史シリーズ』が忘れられない本である。
全5巻で、それぞれかなりのボリュームのある作品。
中国史に興味がある方には、なかなか興味深い内容であることは保証する。
この図書館にどなたの手をへてたどついたのだろうか。
全巻は揃ってなくて第1巻から第3巻までしかない。
3巻とも同じ所有者だったのか、別々のルートで縁があって並んだのかわからない。
出会いを待っていられないので、第4巻、第5巻は書店で求めたので、わが家の本棚に納まっている。
アジア図書館は現在改装中らしいが、いずれはここに寄贈するつもりである。
2016年 06月 26日
在韓被爆者に寄り添った松井義子さん
こういう方に直接お会いできたこと今でもよかったと思っている。
*
祖国が解放された頃、亡父はふるさとに戻っていたので、広島から帰国してきた原爆被害者から直接原爆の恐ろしさを陜川(ハプチョン)郡のどこかで聞いている。
「電車が舞い上がった」と。
日本育ちの亡父は生々しい証言を聞いて、
「ああ、自分を育ててくれた日本がもうめちゃくちゃになったんだ」という感慨で胸がつぶれそうだったと。
*
機会があれば、知る人はもう誰もいないふるさとに一度訪ねてみたいと思っている。
*
2010-07-16公開
在韓被爆者の救済に中心的役割を果たした「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の代表をなさっていた方である。
*
スタッフとして働いていたアジア図書館で企画した「アジアを囲む会」という集まりでお話しをしていただいたことがある。もう20年ほど前になる。テーマが硬いとやはり人の集まりは望めなく、この日もごく内輪の人の集まりになってしまった。
*
当時は「アジアブーム」といわれていた頃なので、テーマ次第では椅子が足りなくなるぐらい人が集まったので、裏方として申し訳ない気持ちでいっぱいだった。しかし松井さんはほとんど気になさらず、それまでの活動のあらましに始まり、当時何が問題になっていたのかを講演してくださった。
*
講演後は車で来ておられたので、スタッフと近所の喫茶店でお茶をご一緒した。
ちょうど真向かいにすわることができたので、
「ふるさとは陜川(ハプチョン)郡なんです」
と普段口にしない故郷の名前を出すと、
「韓国の広島といわれているところですね」
と即座に返してくださったのだが、会話がとぎれてしまった。
*
私もふるさとが「韓国の広島」と呼ばれていることは知っていて、
「そうであったかも知れないけれど、そうではなかったという立場」をどう表現すればいいのか、どうしても運がよかったということになりそうな気がして、ことばが続かず失礼してしまった。ただ活動に対して敬服していることを一言いいたかったのだが。
*
1998年12月に70歳で亡くなられたことを新聞の小さな死亡欄の記事で知った。確か葬儀もなさらなかったと記憶している。偶然参加していた集会で司会をされていた、きりっとした痩身の姿を思い浮かべて、あの方らしい生き方でしめくくられたという印象を持った。
*
現在でも、密かにこういうふうに生きたいと思っている方のお一人である。
*
後日、植民地だった「満州」の大連で生まれ、戦後無教会派のキリスト者として活動をなされた経歴を知った。著作も多いので紹介させていただく。
*
『台所の聖書』 (聖燈社 1976)
『わすれなぐさ』 (キリスト教図書出版社 1985)
『平和のパン種』 (東方出版 1993)
『死ひとつひとつ』 (松井昌次・松井義子追悼文集)(松井謙介編
番紅花舎(さふらんしゃ) 2003)