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経済的な思惑で戦争に向かいそうな世界的な気配を感じて、人間は進歩せず、歴史は繰り返すだけかと思い気分は暗い。

そのうえさらに地震や噴火や異常気象などが続いているのだから、悲観主義におちいりそうだ。


とにかく、この本に描かれた時代の中国の建国の努力とくに中間層の指導者たちの努力は好きだわ。


それと、太平洋戦争に比べて、その前から続いていた日中戦争の一般向けの情報が圧倒的に少ないような気がする。


キーワード


西安事件―

紅軍にとって「えー、張学良がそんなことしたの?」ではなくて、スメドレーも断定的に書いていないけれど、紅軍をふくめたなんらかの計画のもとにおこなわれたと個人的には読みとれた。

国内だけでなく国際事件になり、「日本の陰謀」ともいわれたりして、当時情報が錯綜したとある。


張学良―

元匪賊から軍閥にのし上がった父親を日本軍に裏切られて殺されている。この事実は大きい。かんたんに水に流せることではない。あまり多くを語らず台湾で亡くなったが、誠実で話しのわかるリベラルな男性という印象がある。


民族統一戦線の結成―

紅軍は、侵略してくる日本軍と戦うために国民党軍にかなり譲歩した。


延安―

紅軍の根拠地だが、にわかに脚光を浴びて、全国から志のある青年や職人などがぞくぞく流れこんできた。毛沢東の最後の夫人となる江青もそのなかにいた。


盧溝橋事件―

中国では七七事変と呼ばれる? 193777月に日本軍は北京付近の盧溝橋で攻撃を開始。このあたりややこしくて日本軍は当然言い分を持っている。戦争の発端はパターンがあるように感じる。とにかくこの日を日中戦争のはじまりととらえるらしい。

この本では盧溝橋事件、七七事変という名称は使われていない。

第二次世界大戦中のインパール作戦で有名な牟田口廉也もこの事件にかかわっている。

延安でもこの事件から戦闘態勢に入り、蒋介石もしぶしぶ日本軍への抵抗を国民に訴えた。


日本軍による南京陥落―

日本軍は19378月に揚子江流域で戦端をひらき上海を占領し、その後12月南京を占領。その際多くの市民や捕虜が虐殺された。これが現在も語られる南京事件で、スメドレーはその数は20万人と表現している。

スメドレーは、まだ核とした情報をつかんでいないからだろうか、事実をかんたんに語ることで終わっている。現在もときおり話題になる南京事件なので、「日本軍はこんなひどいことをした」というような感情的な語りではないところが意外だった。それよりも紅軍や国民党軍側がどう動いたかに重点をおいている。


戦中発表された、南京事件にかかわった日本軍を扱った小説『生きていいる兵隊』を描いた作家石川達三は、南京陥落直後に中央公論社の特派員として南京に入っている。発表当時は伏字だらけだったが、現在はすべて読めるのだが、文体が今の私には読みにくくて、読んでいない。


陳毅―

延安から遠くなはれた揚子江流域で新四軍を結成した指揮官のひとり。民族統一戦線を結成したので、裏切って攻撃してくる国民党軍を応射できない。よく殺されずに生き延びたなと思う。全滅しなかったのが不思議だ。建国後は外務大臣などをやった人。

その後文化大革命のときに、紅衛兵たちが陳毅の自宅まで侵入して攻撃しようとしたとき、周恩来が前に立ちはだかって「俺を倒してから入れ」というような内容のことを語り、陳毅を守ったというエピソードを読んだことがある。

毛沢東も自分より早くに亡くなった陳毅の葬儀に列席し、夫人に「陳毅はえらかった」ということばをかけたと読んだことがある。

エドガー・スノーは「真の英雄」と表現。


汪精衛―

日本軍との良好な関係を維持していて、そこが蒋介石と違う。蒋介石と汪精衛の立場の違いがわかったことで見識がひろがった。


百団出撃―

国土を取り返すためにここまでしたということ。これに立ち向かう日本兵の正義はどこにあるのか。

葉挺将軍―

飛行機事故で亡くなったが、真の英雄のひとりだと思う。建国の瞬間に立ち会えなかったことはほんとに残念。



by far-east2040 | 2019-06-24 12:18 | 『偉大なる道』

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         楊貴妃の別荘として知られていた臨潼(『抗日解放の中国』より借用)


   憂愁は春日をおおい、

   太行の嶺はけわしくそびえる。

   忠誠な心は峻険にあって涙せず、

   強い意思は北征を求める。

   億万の新軍は敵をおびやかし、

   旧き山西は多くの英雄をつくる。

   激戦に従うこと三歳、

   倭魔撃滅のため乾杯する。

                    朱徳

 

蒋介石と彼の幕僚は、軍事会議をひらくため、1936127日西安に到着した。そして蒋は郊外の硫黄泉臨潼に入り、参謀たちは城内の西安招待所に宿泊した。情勢は、「政治的に絶好」と朱徳がいいそうなものだった。


蒋としては、もう一度大規模な掃共戦をやるには、その前にまず、日本としか戦わないと決意している東北軍を抑える必要があった。この「破壊的な」傾向を変えるには、総統はまず、西北における彼の副司令である「青年元帥」張学良を処置すべきだろう。ずっと以前から張学良は、民主主義の「危険思想」をいだく青年たちや、日本を中国から追い出す必要を説く青年たちに、取りまかれていた。


青年元帥と彼の幕僚も、腹をきめて蒋を迎えた。彼らは、内戦を続行せずにすべての中国の軍隊の抗日統一戦線をつくる計画を、起草していた。その十項目〈八項目?〉の綱領では、中国人民に市民的権利をあたえること、抗日運動に対する一切の法律や制限を撤廃すること、政治犯を釈放すること、孫逸仙の遺志を実行すること、各党各派をふくむ救国政府を樹立すること、などを要求していた。


蒋総統は、そうした計画を討議する全体会議を召集せず、東北軍最高幹部ひとりひとりをよびつけて、青年元帥をしりぞかせて掃共戦に出動するように、地位と金をえさにして誘惑した。


だが、蒋の勧誘にのったのはひとりだけだった――しかもそのひとりの将軍も、まもなく若い東北軍の将校に暗殺された。他の者はみな、日本が彼らの故郷を占領し家族を殺したこと、東北軍が望むことは同胞との戦いではなく、日本との戦いであること、を総統に強く告げた。しかし蒋は頑として意をひるがえさなかった。





by far-east2040 | 2019-06-14 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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 そこで、1211日の明け方、張学良の部隊は行動をおこした。蒋が連れて来た秘密警察と国民党のそれぞれの本拠地と、蒋が任命した陝西省政府主席邵力子の邸宅をおそって、全員を逮捕した。蒋の参謀たちの泊まっている西安招待所をおそった一団は、将校たちをベッドからたたきおこし、自動車につめこんで、青年元帥の司令部に連行した。


西安で機関銃や小銃の音がするころ、若い東北軍将校が部隊をつれて臨潼に急行した。そこで蒋介石の甥――全国でもっとも憎まれていたファシストの一人だった――と彼の護衛を射殺した。蒋介石は寝巻着のまま逃げたが、とらえられて、西安の張学良元帥と楊将軍のところへ運ばれた。総統はそこで、西北の抗日軍隊の要求を相談するために抑留する、といいわたされた。


西北各地の東北軍は、蒋が内戦のために持ちこんできた弾薬、食糧、衣料など一切の物資を差しおさえた。同時に紅軍は、西安から数マイルのところまで進出し、省を横切って歩哨線をしく一方、朱徳と毛沢東は、北方の延安を占領して、本拠地をそこに移した。


蒋が「誘拐」(国民党や外国人は彼の抑留をこうよんだ)され、それから3日後に、西安に新たに軍事委員会がもうけられ、紅軍をふくむすべての抗日軍隊は、代表者を送るように勧誘された。掃共戦のため西安飛行場に集められた25機の爆撃機や戦闘機を捕獲した青年元帥は、その1機をおくって、紅軍代表を軍事会議に連れてきた。紅軍代表団主席の周恩来は、ここで、蒋がしぶしぶ引き受けていた会談に、新たに参加した。



by far-east2040 | 2019-06-13 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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 「西安事変」の詳細はまだまとめられていないし、後に蒋介石夫妻の名で刊行された本(蒋介石夫妻著『西安回顧録』上海1937年刊)も事実をかたっていない。否定してはいるが、蒋は内戦の停止――西安事変によってすでに実現していた――と、抗日民族統一戦線の結成について、共産党と交渉を始めることに同意した。


蒋の抑留は全世界の反動たちの活動をうながした。満州と華北の日本の将軍たちは、ただちに天津に集まって、秘密軍事会議をひらいた――全面的中国占領の時機が来たかどうかを決めるためだったことは疑いない。ムッソリーニの娘――彼女の夫は前駐華大使だったが――は狂気のように青年元帥に打電して、蒋の釈放をもとめた。またアメリカ、イギリス、フランスなどの外交官も、本国との情報連絡に狂奔していた。中国にあるアメリカや国民党の放送局は、朱徳将軍が西安に乗りこんだとか、城壁に赤旗がひるがえっているとか、紅軍が、西安の北郊で、掠奪、虐殺、かよわい女たちの強姦を手当たりしだいにはじめた、という放送をした。


ナチのドイツでは、もっと手のこんだ陰険な事件が起こっていた。南京政府の前行政院長汪精衛は、何年か前に十九路軍を裏切ったことからその青年将校に狙撃されて受けた傷の治療のために、ドイツにきていた。蒋介石逮捕のニュースを耳にするとすぐ汪は、ベルリンに急行して、ヒトラーと相談した。ヒトラーは、蒋が西安で処刑されるだろうと予想し、汪に南京政府の実権をとらせて、中国を枢軸陣営に引き入れようと、彼を飛行機に乗せて本国に送りとどけた。


中国を枢軸側に引きずり込もうとする、こうした国際的な動きがあったこと――このことが、当時モスクワの新聞社説で蒋の逮捕を「日本の陰謀」と決めつけた理由を、説明することができる唯一の事情ではないかと思われる。このモスクワの非難は、東北軍のあいだに大きな反感を生んだ。しかしまた、この非難は、この際蒋に危害を加えることは、ファシストを援助することになるとモスクワが危惧している、ということを共産主義者にはっきりわからせた。



by far-east2040 | 2019-06-12 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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  西安事件解決後、延安の飛行場で周恩来を迎えた毛沢東(『抗日解放の中国』より借用)


蒋が釈放されたのは、日本帝国主義にたいして中国の救国に努力することを誓ったからだった。

 

1225日、青年元帥は自分の「誠実」を証明するため、蒋を釈放し、同じ飛行機で南京に飛んだ。青年元帥は、そこで裁判にかけられ、禁錮の判決を下されたが、すぐ特赦で釈放された。自分の身上にうけた侮辱を犯罪視する蒋介石は、「青年元帥」をとらえて、浙江省の彼の郷里の家に監禁した。この時以来青年元帥は、蒋介石の個人的な囚人になってしまった。蒋の釈放とともに、民族統一戦線結成のための、長い苦悩に満ちた闘争がはじまった。青年元帥をうしなって志気沮喪した東北軍は、まもなく蒋に解体されて、全国にばらまかれた――そのいくつかの師団は後に紅軍に加わった。1月半ばに極右翼の胡宗南将軍が、西安を接収し、愛国者たちは四方に散り、ある者は紅軍に加わり、ある者は華北の元の場所に帰って、闘争を続けた。


延安は、全国の抗日運動の中心地になった。労働者、学生、学者、文化指導者などが次から次へと陝西省北部に流れこんだ。彼らは敵意をもつ国民党軍隊――この当時でも「日本は皮膚病だが共産主義者は心臓の病気だ」と公言していた――を避けるため、大迂回してやってきた。



by far-east2040 | 2019-06-11 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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朱将軍、毛沢東と彼らの幕僚たちは、延安でほとんど絶え間なしに会議をひらいた。19372月、周恩来を長とする共産党代表団が南京に出むいていたときだが、朱と毛は、それぞれ共産党と紅軍を代表して、南京で開会中の国民党の国民党中央員会に長文の電報をおくった。そして民族統一戦線の結成をうったえ、国民党が国内の民主的改革をおこなうなら、大幅な譲歩をしてもいいとよびかけた。もし統一戦線がつくられ、紅軍が国民党軍と同じ待遇をあたえられるなら、紅軍は名前を変えて、中央軍事委員会の全般的指揮の下にはいる、という。また、国内のあらゆる人材を抗日闘争に引きこむため、地主所有地の没収を中止し、西北のソビエト地区を特別行政区――共産主義者が管理するが中央政府の指揮下におかれる――に変えることも申し出た。そしてこの地区では孫逸仙の綱領と政策を完全に実行するつもりだ、と声明した。


共産党と紅軍は、これらの譲歩と引きかえに、国民党を督促して、大衆の市民的自由を回復させ、命をかけて戦う値打ちのあるものを、大衆にあたえさせようとした。彼らはまた、すべての政治犯を釈放し、抗日闘争のための組織と武装の権利を人民にあたえなければならないと主張した。


しかし、統一戦線が具体的な形をとりはじめたのは、数ヵ月たってからだった。国民党は、共産主義者の申し出を降伏と解釈し、この機会をうまく利用して、紅軍をつぶそうと企てた。そして紅軍の七個師団のうち、四個師団を解体して、のこりの三個師団を国民党将校を入れた新たな軍隊に再編成することを要求した。共産主義者は、彼らの軍隊の解体には絶対に反対し、そのかわり、国民党軍と紅軍との間で、将校を友情の証として交換することを提案した――この提案におそれあわてた国民党は、ひどく熱い焼芋をつかんだ時のように、あわててこの問題を取りさげた。



by far-east2040 | 2019-06-10 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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こうした国民党の策動について私と話をしていたとき、朱将軍ははっきりいった。


「もし国民党の提案を承認したなら、わが軍はつぶされただろうし、日本に対する抵抗は問題にならなかっただろう。蒋と彼の一派は、日本と戦うことなど本気で望んでいない。だが、戦わなければ、紅軍その他の抗日軍隊や中国民衆の手で、おのれが歴史の舞台から一掃されることを、蒋は知っている。わが軍は三個師団分の補助金や弾薬で我慢しなければならないかも知れないが、あとの四個師団を解体しようとは思わない。というのは、まもなく日本との戦争が勃発することははっきりしているし、そうなれば、国内のあらゆる人力と資源を勝利のために動員しなければならないことは明かだ。国民党は、口径の如何をとわず、新しい銃器の供給を拒絶した。また衣料や毛布や薬品も拒絶した。われわれが与えられるのはせいぜい三個師団分の金と弾薬ぐらいだろう。


「しかし、戦争がはじまれば、わが軍の部隊は全部前線にゆく。われわれは、いつもそうしてきたように、人民のなかに根をはやして、彼らを動員し、訓練し、武装し、教育する。われわれは生きのびて戦うのだ」


この会話をしたあと、まもないころ、国民党の軍事使節団が、紅軍を視察するため西北に到着し、延安を訪ねた。私も胡宗南が西安を接収したときに、逃れて延安に入っていた。


国民党軍事使節団は、延安に1週間滞在していたが、私はそのあいだ朱将軍が、10年間も彼に戦争を仕掛けた将軍たちや大佐たちの接待をつとめるのを見ていた。その場合の彼は、私がこれまでに知っていたぶっきらぼうで素朴な兵隊ではなく、旧い社会秩序の上品さがすっかり板についていて、しかもまわりくどさやお世辞の伴わない人柄にみえた。その上品さの底には、威厳と重厚さと自信の、きびしいものが流れていた。国民党の将校たちをむかえた最初の朝食会の席で――私もそれに列席していた――彼は次のような飾り気のない言葉で、歓迎のあいさつをした。


「本席は、数百万のわが国最良の子弟が亡くなった、血で血を洗う兄弟殺しの10年が、いま終わったことをしめす歴史的な瞬間であります。

この民族統一戦線が、数年前に成立していたなら、中国の人力や天然資源は乱費されず、領土をうしなうこともなく、今日われわれは日本と対等に戦えるほど強くなっていたでしょう。


「中国はいま新しい時代に入りつつあり、紅軍と共産党は、国家と民族の生存のための戦争をたたかうため、統一戦線をかため、かつ維持することに全力をあげる覚悟であります。


「中国は弱くて日本と戦えない、という人がいまでもおります。そうではありません。われわれは、戦闘のまっただ中で、わが国の人民を動員し、訓練し、武装することができるのです。紅軍の歴史がこのことを証明しております。われわれは、中国の人民をおそれていません。中国の人民は善良な人びとです。ただ抵抗戦争の原因と目的を説明してやり、生活問題の解決を助けてやりさえすれば、いいのです」



by far-east2040 | 2019-06-09 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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私は、その後朱将軍に、紅軍の兵隊は統一戦線をどう思っているでしょうかとたずねたことがあるが、彼はとても率直に答えてくれた。


「わが軍の兵隊は、労働者と農民だ。彼らは知識人や文化人ではない。そのイデオロギーは、紅軍イデオロギーだ。農民や労働者として、心から地主や軍閥を憎んできた。だから、以前にはどうやるかということがよくわかっていた。ところが今になって、日本帝国主義と戦う意思をもつすべての人といっしょにやれ、といわれても、なかなか難しい。そこで、彼らを再訓練するため、数百人の幹部を延安に召集して、抗大(紅軍大学)で、統一戦線の原理と戦術に関する特別の訓練課程を受けさせている。この課程をおわると、彼らは部隊に帰って、ほかのものを訓練することになる。わが軍は、統一戦線実行の模範にならなければならない。


「これまでは『われわれは労働者農民の子、労働者農民の利害はわれわれの利害』というのが、主な紅軍規律だった。これからは『われわれは中国国民の子、国民の利害はわれわれの利害』といわなければならない。われわれは、もし中国が日本の植民地になれば、国民党も共産党もなく、奴隷のような国民が残るだけだということを、兵隊にわかるように教えなければならない。たえず最後の目標に眼をむけて、右翼または小児病的左翼からの誘惑や敵意に迷わされないようにしなければならない」


まもなく延安は、全国いたるところからたえず流れこんでくる数千人の青年でいっぱいになった。彼らを収容するために、新しい学校を作らなければならなかった。陝北大学、魯迅芸術学院、それに西安に近い紅軍前線の特殊学校が創設された。毛沢東と朱徳は、他の指導員も同じだが、何とか時間をみつけて、新設の学校で講義をしたが、朱将軍はやはり抗大の講義に一番多く時間をささげた。



by far-east2040 | 2019-06-08 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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 延安は、もともと小さな町で、これほど大勢の人間は収容しきれなかった。住居の不足を解決するため、谷に沿った黄土の崖に洞窟を掘りはじめた。これまで肉体労働をやったことのない学生たちが、つるはしやシャベルを取り、兵隊と協力して、この地域全体を洞窟住民の小都市に変えていった。戦争がはじまった後には、延安は人口5万の小都市に発展した。


反動の堅い殻にも、あちこちひびが入りだした。4月には、上海の印刷技術者の一団が、新しい印刷機をたずさえて、西安から紅軍のトラックで乗りこんできた。これまで貧弱な印刷だった『新華日報』が面目を一新し、420日には共産党の中央機関紙『解放日報』が創刊された。


この新しい『解放日報』の巻頭論文は、スペイン内乱に関するものだった。それは朱徳が書いたもので、彼の主な論文と同じように、歴史的な意義のあるものだった。はじめに民主主義のためのスペインの長い闘争について述べ、それにつづいて、


「今日のスペインでは、10万のイタリアとドイツのファシストたちが戦っている。……スペインは自身の独立のため戦っているばかりでなく、西欧がドイツとイタリアの手中に落ちるのを防ぐためにも戦っている。
……スペイン人民は、国際民主主義部隊――アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、ポーランド、ロシア、その他の義勇軍――に支持されている。……中国でもスペインのような内戦になると考える人も多いが、中国には対日戦争のための統一戦線があるから、スペインのような内戦はない。中国で内戦をかき立てようとするものは、日本人を手助けするものだ」


中国では、もとソビエト地区が改編されてできた特別行政辺区だけが、スペイン共和派に対する支持を声明した。その後しばらくして、スペイン共和国政府から送られたポスターが、陝西省の町や村の壁に貼り出された。



by far-east2040 | 2019-06-07 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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      停戦交渉のため南京入りした中共代表団(右端が朱徳、左端が周恩来)


日本帝国主義は193777日、北京付近で二十九路軍を攻撃し、前から計画していた中国征服を開始したが、統一戦線は、このときまだかたまっていなかったし、蒋介石も戦う決心をしていなかった。しかし、特別行政辺区、または延安辺区は、ただちに戦争体制に入り、24時間以内に、抗大で勉強していた指揮者たちは、それぞれの部隊に帰るため、南に向かって出発し、一方数百人のものが、部隊を離れて延安に向かってきた。


日本の侵撃がはじまって10日たって、やっと蒋介石は声明を発表して、国民に抵抗をうったえ、「もはやしりぞくことはできない」とのべた。その時までに、日本は河北省を占領し、西北に殺到しつつあった。813日には日本軍が揚子江流域で戦端を開き、上海占領から12月の南京占領へと、拡大していった。


蒋介石の軍隊が真剣に戦いだしたのは、上海戦からであり、南京が危うくなってはじめて、紅軍との積極的な協力に同意した。朱徳将軍と周恩来は、8月9日、紅軍と共産党の代表団を連れて南京に飛び、国防参議会の会議に出席した。


96日、紅軍の三個師団が朱徳将軍を総司令、彭徳懐を副司令とする国民革命第八路軍に改編された。この三個師団(第115師団、第120師団、第129師団)には一丁の新しい銃器も補給されず、供給された医療品も、結晶ヨード3ポンドとアスピリン錠2ポンドだけだった。だが三個師団分の弾薬と金は供給された。


選りすぐりの45千で編成されたこの三個師団は、ただちに山西省の前線に向かって出発した。彼らは、まだもとの紅軍の制服と軍帽をつけていた。毛布一枚交付はされなかった。蒋介石軍のひとりの中尉が、あとで皮肉まじりに私にいったものだ。


「赤の連中は、これまで鉄砲もその他の給付もすべてわれわれ国民党軍から取ってきたと自慢していた。こんどは同じように日本軍からうばい取ったらいいだろう」



by far-east2040 | 2019-06-06 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編