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もっとも、日本兵の死体のポケットからこんなビラが発見される以前から、八路軍政治部は敵に対する宣伝工作をやっていた。しかし「対敵工作部」はここにいたって一段と工作を進め、部隊に日本語を教えるように命令された――この活動は最後には、八路軍と新四軍全体に普及した。日本の兵隊について話すとき、朱将軍は冷ややかな憎悪をこめて、いいだした。


「日本兵は捕虜になるより死をえらぶが、彼らの死にものぐるいの戦闘ぶりは、単純に勇敢さのせいとはいえない。それは罪の意識と恐怖のせいだ。ひじょうに多くのわが人民を殺し、婦女に暴行を加えた。だからわれわれに捕まるのをおそれている。彼らは公然と『虐殺戦』を自慢している。そして彼らが捕えた中国兵をなぶり殺しにしているように、われわれも彼らをなぶり殺すものと考えている。今後は日本兵の捕虜をつかまえることに特別の注意をはらおう」


こんな話のあった翌日、朱将軍はただちに正太線に向かって南下するよう命令を受けた。この戦線を突破した日本軍が太原府に向かって進んでいたからである。


その夜彼の司令部には、夜どおし明かりがつき、夜明けには、われわれは山西省東部のかわききった無人の山脈を越えて南方に行軍していた。賀竜の師団は山西省北部にのこった。また八路軍の卓越した行政家の一人である聶栄臻(じょうえいしん)将軍も、第115師団の二個大隊と共に五台山にとどまって、結局ここを敵の背後の強力な晋察冀(現在の山西省、河北省、遼寧省、内モンゴル自治区にまたがる地域)基地に仕立てあげた。のこりの軍は、朱徳の司令部と共に移動した。そして日本軍第二十師団が、飛行機を先導に東方からなだれこむ寸前、正太線を横断した。


 11月はじめの3日間、八路軍の第115師団は当面の敵に損害を与えたばかりの第129師団といっしょになって、この進撃中の敵師団に対して、双方移動しながらの闘争を開始した。この戦闘ではじめて、二人の無傷の捕虜をとらえたが、ひとりは無電兵、もうひとりは歩兵大尉だった。また食糧、薬品、弾薬、冬用外套、その他各種の軍需品を満載した4百頭以上の駄馬からなる輸送隊を奪取した。この馬の世話に徴用されていた30人の満州出身の農民も、捕虜にした。


しかしそうした作戦も、日本軍の1113日の太原府占領をさまたげることはできなかった。そのあと朱将軍は、日本が権力をかためるのを妨害するため、第129師団を鉄道沿線に残しておいて、自分は総司令部と第115師団をひきいて山西省内を南下した。凍りつくような雨や吹雪に難行しながら、途中の町や村で民衆大会をひらいた。そして省内を中国の抵抗基地に変えるため、いたるところに組織者を残しておいた。



by far-east2040 | 2019-05-31 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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ある町での出来事であるが、民衆大会でふたりの日本人捕虜に話をさせようとしたら、ものすごい騒動になって、「鬼を殺せ!」という殺気立った叫びがあがった。八路軍の代表者たちは群衆をしずめようと必死になっていた。そこへ「朱徳だ、朱徳だ」という声がきこえた。朱徳は大股で演壇にあがった。議長をしていた町長が進み出て群衆にいった。


「われわれはみな、何年も前から朱徳という名を聞いていた。その彼がいま現にここにいる! いまさら私から紹介することはない」


朱将軍は、はじめに抵抗戦争における人民の役割についてかたった。

そのあとで、日本の兵隊たちは、日本の軍閥や財閥のために徴兵されて中国に送られた労働者や農民だ、ということを知ってもらいたいとのべた。そしてつづけた。日本の人民がこの戦争をはじめたのではない。日本の多数の反ファシストたちが、戦争に反対して、投獄されたり殺されたりしている。八路軍は日本兵をとらえて教育し訓練し、彼ら自身の貪欲な支配階級とたたかい、中国の勝利を助けてもらうつもりだ。


この地方のひとびとにとっては、こんな考えを聞くのはこれがはじめてだった。日本人捕虜のひとり、無線兵が演壇の前にすすみでて話した。


「私は兵隊だが、労働者でもある。日本の軍閥はこの戦争を望んでいるが、日本の人民は望んでいない。私は、強制的に徴兵されて、この国に送られてきたが、捕虜になるまでは、中国の人民がこんなに親切だとは知らなかった。これからは私は中国の人民と肩を組んでゆくつもりでいる」


朱将軍は、のちに私に、日本人大尉の、捕虜になってからの横柄な態度のことを話してくれた。あるとき林彪が、この捕虜のいる家に入ってゆくと、彼はすわったまま、林に鶏や卵や米を持ってくるよう命じた。林は冷ややかに落ち着いた声でこたえた。「われわれが君を親切に扱うのを誤解してはいけない。われわれが君の目下のもの、という意味ではぜったいない。われわれは粟を食べてるが、君には米をやっている。君は君を見に来た農民をなぐったというではないか。このため君を殺そうとは思わないが、今後中国人をなぐったら、公衆の面前で鞭打つぞ」


この話をしながら、朱将軍は唇をかみ、じっと目を見すえた。


「今まであの男は徒歩だった」彼はいった。「今日あいつに私の馬をやって乗らせた。捕獲した日本煙草の一箱もやった。とまどったようだが、うけ取った。あの男もわかってくるだろう」



by far-east2040 | 2019-05-30 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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朱将軍は、彭徳懐との連名で発令したばかりの、八路軍全軍に対する命令書の写しもくれた。それは次のとおりだった。


「日本兵士は日本の勤労大衆の子弟である。彼らは日本の軍閥と財閥の欺瞞と強制のもとに、われわれと戦うことを強いられている。したがって、


(1)日本人捕虜に対し、いかなる種類の加害ないし侮辱も厳重にこれを禁止する。かれらの個人的所有物を没収し、あるいは毀損することは許されない。わが軍の指揮官や各級戦闘員で、この命令に背くものは処罰される。


(2)すべての傷病日本人捕虜に対しては、特別の保護と適当な医療処置をあたえなければならない。


(3)本国または原隊に帰ることを望む日本人捕虜に対しては、あらゆる可能な便宜をあたえなければならない。


(4)中国にとどまり、あるいは中国軍のために働くことを望む日本人捕虜には、適当な仕事をあたえ、勉学することを望むものには、適当な学校への入学を斡旋してやる。


(5)家族または友人との連絡を望むものには便宜をあたえる。


(6)戦死した日本兵は埋葬し、適当な石または木の墓標を設けるものとする」


朱将軍はこの命令の(3)について次のように説明した。


「われわれが日本人捕虜を原隊に帰らせると、紅軍は捕虜をなぶり殺すといった種類の将校たちの宣伝のうそが、暴露することになる。われわれはこの命令書を日本人捕虜ふたりに見せた。彼らは、日本の軍事法規では捕虜になったものは、本国に帰ることを許されないし、原隊に帰るものは射殺される、といっていた」


「そうなっているかも知れないが、われわれは、原隊に帰ることを望む日本人捕虜を帰すつもりだ。もし将校が彼らを殺せば、兵隊のあいだの不安をかきたてるだけのことになる。やがては日本の兵隊が、戦わずにわれわれに降伏するとか、あるいは脱走して参加するような時がくるにちがいない」


数日後、私は朱将軍が村で買ったビスケットを日本人大尉にあたえて話しかけているところに出くわした。大尉は礼をいって、考えぶかげにビスケットを食べた。そして話しだした。


「現在の紛争処理のやり方を変更する国際的な運動があってもいいはずだと思う。ここでは中国人と日本人とひとりのアメリカ人がいて、みなじつに仲良くやっている!」


「君はいま、そういう運動とともに行進しているんだ――だからこそ君も生命が続いているわけだ」朱将軍が答えた。「君の軍の中にも、その運動の一員であるひとびとがいるよ。われわれは戦場で、彼らのポケットから反戦パンフレットをとってきている」


「私はそんなパンフレットのことはきいたことがない」大尉はさけんだ。


「君が将校だったからだ。日本の兵隊がわれわれを手伝って日本軍閥をやっつける日が必ずくるだろう」


「日本軍を負かすのはそんな簡単なことではない!」大尉がぷっつりといった。


「だが、必ずそうなる」朱将軍は反駁した。



by far-east2040 | 2019-05-29 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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どろどろの雪どけの中を行軍し、民衆大会や共産党分会などで演説したりしながら、朱将軍はついに部隊を山西省南部の洪洞地方に誘導し、ここで一部は休息と学習につとめ、一部は日本が占拠した太原府の西方地区に進出した。まもなく朱将軍の司令部のまわりの麦畑は、背の高い頑丈な農民義勇隊の訓練で、朝から晩までにぎやかになった。



ある晩、朱徳将軍の司令部にすわりこんでアメリカのコーヒーをすすりながら、よもやま話にふけったことがあった。私が臨潼の衛立煌将軍のところまでの小旅行から帰ってきたところだったが、ニュージーランドのジャーナリストのジェイムス・バートラムとアメリカ海兵隊の情報将校エヴァンス・F・カールソンが司令部に到着していることがわかった。コーヒーを持ってきたのはカールソンだった。カールソンはエナメルコップのコーヒーをすすりながら、私たちの話をきいていた。私は臨潼で国民党の将軍と会談中に空襲にあったときのことを話した。


「私たちが練兵場を走って洞窟に達したとき、敵機は二回目にもどってきました」私がいうと、朱将軍の参謀の一人が慇懃に訊ねた。


「誰が一番に洞窟につきましたか? そして誰が最後にそこを出ましたか? それは多分衛将軍だったでしょう?」


「とにかく衛将軍の参謀達はあなたがたより大分スタイルがいい」私はいった。「あの人たちは、立派な毛織のカーキ色の制服、鏡のように磨きあげた深い皮の長靴、しゃれた将校用の剣帯、ぴかぴかする階級章をつけています。毛皮の帽子と毛皮の襟をつけた冬用外套も着ています」


「連中はたしかにわれわれより大分スタイルがいい。だがわれわれの方がはるかに重要だ」朱徳は笑いながらいった。「日本軍はわれわれの方にいっそう注目している。彼らは最近も、紅軍に関する情報や、紅軍の出した文書類を提供するものに、褒美をやるという公告を、太原府その他の城壁に貼りまわしたばかりだ。彼らは、われわれをせん滅するために中国に乗り込んだと公言している」



by far-east2040 | 2019-05-28 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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「ところであなたは洪洞の外国人宣教師から贈られた新約聖書を読むおつもりですか」と私はぶしつけにたずねてみた。実際、ある年配の外国人宣教師が彼に中国語訳の新約聖書をおくり、朱将軍はお返しに『ファシズムとは何か』を一部贈呈していた。


「私は何でも読む」朱将軍は考え込むようにしていった。「私が宣教師と贈り物をやりとりしたなんて、誰も想像しないだろうな。私が聞いた話では、彼の聖書学校は紅軍をクリスチャンに改宗させるため、信者を派遣しているらしい」


「そうです」と私が答えた。「彼らは私さえ改宗させようとしたんです。私は絶対に改宗しないというとおこりました」


「誰が、誰を改宗させるか、みていようじゃないか」朱将軍はきっぱりといった。


誰が、誰を改宗させたか、というのは正しかった。ウォルター・ジャッド博士――のちに有力なアメリカ国会議員になったが、当時は山西省汾陽の医療宣教師だった――は、1938年1月14日、漢口の医療宣教師の友人あてに手紙を書き、その人がその手紙を私に転送してくれた。

ジャッドはこう書いていた。


「多くの人々は、閻錫山は日本と裏で取引している、と考えている。事実、閻錫山軍の副司令は、6日前に私が彼の性病の治療をしていたとき、ここではもう戦闘はないだろうといっていた。中国の力は非常に小さく、打ちのめされているから、『政治的解決』しかないだろうというのだ。確かに山西軍の幹部たちはそう考えている。……将校たちは政治的平和を信じている。だが兵隊たちはそうではない。……そして八路軍は日本と裏で取引するような連中でないことははっきりしている。彼らは郷村、とくに山間の郷村を組織し、衣料その他の供給さえ準備している、――敵が疲れきるまで、何年でも自給自足でやっていこうというのだ。われわれのミッション・スクールでは、学生の半数が八路軍に加わったし、何人かの伝道師や教師も、それに参加した。彼らは30元から70元の月給の仕事をすてて、10元の仕事に移っており、しかも献身的で、信念に満ちあふれてはたらいている。私たちの教会の仕事が、なぜあんな風に中国人の心情をつかむことができないのか、不思議でならない。あのような信念と献身こそ宣教師の使命ではないか、と私は思う。だが、私が受けたような感銘を、私の同僚たちのあいだで共有することはできなかった。私たちの失敗の大きな原因は、私たちが教会の信者たちに十分な犠牲を求めなかった点にあるのではないか、と思う。彼らはあまりにも生ぬるい安易な地位にいる――私たちは、八路軍でなされているように、彼らのすべてを打ちこむことを求めなかったのだ……



by far-east2040 | 2019-05-27 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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「閻錫山が、八路軍を山西省によび入れたのは、そうすることで日本軍の進入をずっと抑えていけると思っていたからであり、また八路軍も彼と同様かそれ以上に、南京に対してあいまいな立場を続けるだろうし、日本が潰滅した後の善後策としては、閻が分けてやるだけのもので満足するだろうと考えたからだった。ところが今では、閻は日本をご主人に持つ立場になっており、彼としては、できるだけその立場を利用しなければならない。八路軍は彼にとってきわめて厄介なものになってきた。

当地の多くのひとびとは、いずれわかるだろうが彼の今回の漢口旅行は日本のための調停だと考えているが、日本は、中央政府が八路軍との関係を断ち、華北で占領した権益の大部分や上海海関などを日本に譲ることを認めるならば、中央政府に対して寛大な取り扱いをすると約束している。……これに関連して面白いことは、日本軍が太谷を占領したとき、町中の家が掠奪されたのに孔祥煕の生家だけは『経済提携』一味が封印して、日本軍部隊にも手を触れさせなかったことだ……」


ジャッド博士の手紙には1ヵ所まちがいがある。彼の信者たちは「月給10元」の仕事のために、彼をすてたのではなかった。彼らが移ったのは月に50セント足らず、ときにはそれさえもないような仕事だった。この当時の朱徳の月給は3元だが、それさえもらっていなかった。というのは、中央政府から出る三個師団分の金を、八路軍の七個師団全部で分けるからだった。八路軍将校の給料は、国民党将校と同じ計算だったし、兵隊も同様だった。しかしその金を全部まとめておいて、全員の食糧や衣料をまかなっていた。ポケットに10セント持っているものは、金持ちといえる状態だった。


当時アメリカ海兵隊の大尉だったエヴァンス・F・カールソンは、こうした状況を見て、ただただ感嘆し、そして朱徳将軍に対する畏敬の念に打たれた。彼は、何年も前から「匪賊」朱徳のことを聞いていたが、こうして直接本人に会い、八路軍の行動や教育制度を研究した現在、感激して私にいった。


「これまでは、組合協会牧師だった私の父が、私の知る限り唯一の実践的クリスチャンでした。だが朱徳は、第二の実践的クリスチャンです」


「朱徳はクリスチャンではありません」と私が反論した。


「私がいうのは、賛美歌を歌ったり、恩寵をたたえたりする意味でクリスチャンといってるのではない」カールソンは答えた。「私がいうのは、貧しい者や圧迫された者を解放し保護するために、一身をささげる人、自分に取りこむことをしないで真に兄弟愛を実践する人のことです」


カールソンの発言に続いていろいろな議論が出たが、結局結論に達しないまま終わった。というのは、1937年が暮れて、山西省の全面的占領と八路軍の掃蕩をめざす日本軍の新たな攻勢作戦がはじまったからだった。カールソンは、八路軍といっしょに五台山に去り、私は八路軍や西北の遊撃隊の医療品、衣料、資金などを集めるため漢口に向かった。

そして朱将軍は、国民党軍を援助して日本軍の進撃を阻止するため、二個連隊と新兵の一隊をひきいて東の太行山脈中に出動した。



by far-east2040 | 2019-05-26 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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日本軍は、1938年はじめの野蛮な攻勢作戦によって山西省の主な都会を占領し、国民党軍を、黄河の向こうや省境のポケット地域に追った。五台山の八路軍基地には、6つの別々の道から敵の6つの縦隊が押し寄せた。彼らはそこで停滞したが、それから、徐々に山西省西北部に進出した。そこには賀竜の第120師団が、山西―綏遠省境の山間に別の遊撃基地を設けていた。

 

この同じ敵の攻勢作戦で、林彪の第115師団は、地方パルチザン部隊と延安からの正規兵の支援を受けて、山西省西部で、激戦を繰り返して、日本軍が黄河に達して延安地区にわたるのを阻止した。林彪自身も、この会戦で重傷をうけた。


朱徳将軍が、同志たちの反対をおしきり自ら二個連隊と新兵の一隊を指揮して太行山脈中の敵にあたり、何回かの激戦で危うく死をのがれたのも、この当時だった。


朝から晩まで空をおおう爆撃機や戦闘機を先導にして、日本軍はついに山西南部のすべての都市を占領し、全省内の主な公路や鉄道の巡回警備を開始した。八路軍と農民パルチザンは、郷村を拠点にして、鉄道爆破、橋梁破壊、輸送トラックの襲撃などに懸命の努力をはらった。


この攻勢作戦の間に敵の手に落ちた山西省東南部の11区は、1938年半ばまでには朱将軍の部隊によって、奪回された。新たな山岳基地が、山西―河南省境の太行山脈中に設けられた。ここの行政主任は、北京の国立大学の教授だった。


朱将軍の司令部に行っていたオーストラリアの看護婦が、恐ろしい話をもって、漢口――揚子江岸の臨時首都――に帰ってきた。朱将軍の司令部は山西省東部の広い谷の中のある町にあった、と彼女はかたった。そこに着くまでに、彼女は、日本軍に爆撃されたり焼かれたりした数百の部落を通りすぎた。何千という薄く土をかけただけの墓や、無数の埋葬されていない死骸を見た。部落の中の生きのこった人たちは、その家の廃墟をうろうろしていたり、瀕死の親戚や隣人をみとったりしていた。


八路軍は、わずかな食糧を民衆と分けあっていたが、とぼしいものだった。朱将軍の司令部の近くの野戦病院は、軍と一般人の傷病者であふれていた。


朱徳将軍は彼女の働く場所を自由に選ばせた。そして病院で分けうるかぎりの薬をあたえた。彼女は部落をまわって仕事をしたが、ついに自身も脚気でふくれ上がった。彼女は自分の生命が危うくなったので、漢口に帰ってきたのだった。


この恐ろしい時期に、朱徳将軍は、手帳にいくつかの短詩を書きとめたが、後にそれを私に送ってきた。一つは


  余は太行山に馬を乗り入れる。

白雪は絶え間なく舞う。

戦士はうすい征衣に震えつつも、

夜ごとに倭匪をたおす



by far-east2040 | 2019-05-25 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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 1938
年夏の半ばころ、朱将軍は、日本軍の警戒線を西に横切って、両岸の断崖が雲に包まれている、渦巻く黄河をわたって、延安におもむいて、八路軍の抗日戦争1年目の報告をおこなった。この報告書は、その年の秋の共産党中央委員会第六回総会に提出された。


報告書によれば、戦争1年目に八路軍のこうむった損傷は、25千で、約3分の1が戦死者だった。損傷のうち7千人が共産党員であった。この当時八路軍部隊は、陝西の山々から黄海まで、南は黄河から北は内蒙の熱河省(ここにも山岳基地を作り、満州義勇軍と協同して作戦していた)にいたる華北全域にわたって作戦を展開していた。彼らは、山東省の省都済南さえ襲撃したし、北京近郊の炭鉱や発電所も攻撃した。北京郊外6マイルにあるアメリカのミッション経営の燕京大学の学生や若干の教授は、八路遊撃隊といっしょに活動していた。また多数の燕京卒業生は大学から、直接八路軍に参加した(戦争が終わるまでに、実に7百人の燕京大卒業者が八路軍に参加した)。


朱将軍は、その報告書の中で、日本軍が黄河をわたって南進し国民党軍を撃つことができないのは、華北における八路軍と民間遊撃隊の活動があるためであるとのべた。日本軍は通信線と輸送線の警備、襲撃に対する防禦、道路、橋梁の修理などに兵力を分散するため、南進を停止させられていた。彼らも、国民党の内戦10年間にやったのと同じように、堡塁を建設しはじめたし、また大量虐殺によって住民を文字通り「鎮定」しだした。


朱将軍は、戦争がはじまったときの南京の会議でも提案したが、ここでふたたび、全国家的戦略の必要性と、「中国の長所と敵の短所」を基本とする戦術の採用を主張した。彼は断言する。中国は「陣地に腰をすえて敵にたたきつぶされるのを待つ」やり方では、守ることができない。そうではなくて、中国軍はすべて好適な場所と時を選んで戦うべきであり、装備のいちじるしく優秀な敵と同等の条件で戦うことは避けなければならない。



by far-east2040 | 2019-05-24 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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八路軍も大きな損傷をこうむったが、敵の損害は34千であった。

敵の捕虜――その大部分は傀儡中国人だった――は2094人で、その他に徴兵されていた満州兵1366人が、日本の兵器をもったまま八路軍に入ってきた。


八路軍が開戦当時もっていた貧弱な装備を考えると、捕獲した戦利品は目を見張るものだった。具体的には、小銃6387丁、軽機関銃171丁、重機関銃84丁、野砲72門、臼砲25門、乗用車190台、トラック847台、ラジオセット4個、拡声器6個、電話セット19台、観測鏡9個であった。なおその他に5箱の毒ガスがあった。つまり日本軍は八路軍をせん滅するためなら、どんな手段でも許されると考えていたとなる。


紅軍はまた、山西北部の飛行場で敵機24機を破壊した――これに対して蒋介石は2万米ドルの褒賞金を出した。その他戦車5台、装甲車5台、乗用車とトラック901台を破壊した。なお1937年末、私が朱将軍の司令部にいた当時すでに、数千人の八路軍部隊が、捕獲した日本軍の外套を着ていた。


八路軍の力が大きくなり、その影響力が華北全体に拡がるにつれて、国民党反動たちの中の恐怖心も増大した。八路軍が敵の手から解放した地域で改革を実施したというニュースが漢口に伝わると、以前からあった「共産主義の脅威」という叫びが聞かれだした。北部と北西部の各解放区では、18歳以上のすべての男女に完全な選挙権が与えられた。彼らは元の国民党の役人に代わる町村の行政機関を選挙した。国民党の役人たちは、日本軍がくると逃亡するか、あるいはこれに加担して傀儡地方政府を動かしていたものだ。こうした反逆者の多くが、大地主だったから、解放区で、農民が彼らの土地を没収して分配した。地主の中には、逃亡したが反逆者にならなかったものもいた。こういう地主の土地は没収はされなかったが、小作する農民は敵から逃げ出したものに地代を払う気持ちになれなかった。


そうした情勢を考慮しながら、朱将軍はかたっている。


「中央政府は、人民の生活状態を改善するため、あらゆる努力をはらい、それによって人民の具体的支持をえて、人力を動員するようにしなければならない。政府はまた、愛国的組織や活動を後援し、大衆を直接間接戦争に参加するよう組織しなければならない」



by far-east2040 | 2019-05-23 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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戦争の1年間に、政府は、政治犯を釈放し、その管下の人民にある程度の政治的自由をゆるしたが、ふたたび反動が勢力をもり返す不吉なきざしがあらわれた。汪精衞行政院長は、多くの追随者に支持されて「共産主義の匪賊行為」に対する警鐘をうちならし、日本の講和条件を受け入れるよう主張していた。また国民党内の反動的な「C・C団」も、人民の組織と武装に反対し妨害した。汪精衞は、戦争がつづけば中国は共産主義者に乗っとられるだろう、と警告した。


蒋介石は、日本に降伏すれば自分の立場がなくなることを知っていたので、敵のあらゆる和平提案を拒否した。しかし赤い同盟者をおそれる点では汪と同じ立場だった。たとえば1938年の夏には、蒋介石は八路軍の解放した地区を接収するため、特別の部隊を華北に派遣した。それと同時に黄河沿岸の国民党部隊は、解放区に侵入し始めた。一方、延安地区の北境に接する綏遠省西部の国民党軍は、八路軍を共同攻撃するため、日本軍と停戦や同盟を結びだした。


193810月中旬、日本軍が漢口をめざして進撃していたとき、朱徳将軍は国防参議会で協議するため、首都に飛び、前述のような活動に対して警告を発するとともに、民主的改革を全国的に採用するよう要請した。そうした改革によってはじめて、人民の生活を改善することができ、彼らに命がけで戦い守るべきものを与えることができる、と述べた。彼はその論拠として、華北を敵の収奪に対する防壁に変えた八路軍の業績について報告した。選挙される町村の委員会は完全に民主的であって、共産主義者の参加は3分の1に制限されていることを力説した。


朱将軍の提案はたいした成果をおさめなかったけれども、八路軍と弟分の新四軍は統一戦線を守り、国民党軍との緊密な友好関係の維持に努力する気であることを政府に確信させた。


日本軍が1025日漢口を占領してから2ヵ月後、汪精衞と追随者たちは飛行機で重慶を去って、インドシナに行くという奇怪な行動をとった。そこから上海に入り、そして日本人の手に飛び込んだ。19393月、汪は、日本の傀儡政府を南京につくったが、その目的は「共産主義の絶滅」であると宣言した。



by far-east2040 | 2019-05-22 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編