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『偉大なる道』第9巻で張国燾に囚われた朱徳が、敵の四川省の将校に統一戦線結成をよびかけるために公開した文章に感動した。ことばにしてはじめて伝わるものだ。


もう30年もむかしの話しになるけれど、勤めていたアジア図書館では週末に、アジアに関わる活動をやっている市民を招いて小さな講演会を企画していた。この講演会は今も続いているはず。


大学教員や留学生、○○協会というような団体の代表や音楽などのサークル系の人たち、アジアの恵まれない境遇の子どもたちに援助の手をさしのべる活動をしている人たち、とにかくアジアを見てきたなど、いろいろな方に登壇していただいた。


ちょうどバブル経済前後のころで、今から振り返ると、想像できないぐらい経済的文化的に豊かな時代を謳歌していたし、新聞でも「アジア」と「環境」をキーワードにした記事をよく目にした。講演者も集まる参加者も、個性的な自由人が多かったと思い出される。


そんな講演者の中で、ベトナムの身体障害児の支援をやっていた一人の女性を思い出す。

スライド上映をすすめながら、わかりやすい解説で参加者をひきつける。最後に、参加者に各自気持ち分の寄付を入れてもらうために大きな封筒をテーブルにまわしていく。ちょうどキリスト教会で礼拝のあとにかごをまわして献金を集めるように。


彼女の市民目線の語り口は、参加者の財布をもつ手を優しくさせた。けっこう集めていたように傍からは見えた。彼女は、こういうふうに各地で講演後集めた寄付金を貯めて、ベトナムまで持って行き、支援している障害児の施設に手渡して、車椅子や義足などの器具を購入してもらっていた。

今も状況は変わらないかも知れないが、当時ベトナムにはこういう支援を必要とする障害児が多かった。


彼女は、なぜベトナムにかかわるのか、どうして一人でやっているのかを参加者に説明した。

若いころはベトナム戦争反対の学生デモによく参加していた意識の高い学生だったようだ。そしてそのデモを終え解散すると、必ずみんなで居酒屋に流れ、ビールで乾杯していたと振り返っていた。結婚して母親になり余裕ができてベトナムへの関心をあたためなおしていたとき、若いころの反省から確実に援助を届けられる活動を選んでいったという。


一概に個人でやるのがいいとはいわない。ケースバイケースだと思う。しかし、私については、彼女のやり方の方がさわやかで好きだなと思った。社交嫌いで群れるのも好まないし、みんなで一緒に何かやるのがとても苦手で、個と個で向き合う方が好きだからだ。


いまこのブログでアジアのことや自分のことを考えたり、隣国中国の建国に多大な貢献をした孫文や朱徳を紹介する記事を書いているが、自分の知識を確認するためにやっていて、+アルファ時空をこえた誰かに共感してもらえたらうれしいと思っている。

このブログを訪問する人なんてわずかだ。しかし感動したり、肯定的または否定的に何か考える素材として受け取ってもらえたり、かつての私のように出口や居場所を見つけるためにウロウロしているような個人がきっといると思ってやっている。


現在、畑を借りて自給分の野菜をほぼ無農薬で作っている。余分があるので、できたら東日本の人に食べてもらえたらと思い、ある人に定期的に送っていて、幸い続いている。日本はお返し文化の国。普通なら何か同等のものでお返しされるけれども、受け取ってくれる彼女もそこはわかってくれていて、私に「返す」ことはしていない。

一人でやれることはわずかだけれど、自分の手から相手の手に確実に渡せるので、自己満足であるが、楽しいけれど楽ではない農作業の励みにもなっている。


わたしはひとりでこれからもやりたい。


ここで、とても書きにくいことを書かせてもらう。


個人的な私信を本人の許可なくして第三者に情報として渡すことは、道義的に問題ではないのかな? 


Xさんのように、私の書いた文章が載っている冊子を偶然見つけ嬉々としてカバンにつめる。その他いろいろ。どんな便宜目当てにこんな無様なことをするの? その便宜を問いただしても返事は沈黙でしたよね。表と裏の顔のギャップを知れば、パートナーは捨てるわ。


Yさん、私信を第三者に渡してないでしょうね。ひとつは闘病生活を知ってそれを見舞う手紙でした。もしそうであれば、かなり心理的なハードルは高かったと思う。私ならできないわ。それを越えさせたものは何? 


Zさん、あなたが引用で築いているネット上の空間作りに興味をもち、かつては勝手なファンでしたね。本が詰まった重いみかん箱で図書館作りなんてしていたので、軽くて空間の制約から自由なネットの世界で何かできないか模索していたときには新鮮にうつった。


下半身ネタで茶化されたり、ネット上の残酷な仕打ち。目の前にいたならば、平手打ちは返していたと思う。どんな便宜のために? 人物を問いただしても否定。ネット上のことでやめてほしいと頼んでもやめない。鍵をかけても人を介してこじあける。私はからまれていた。


Xさん、Yさん、リアルの世界なので、もう会うことはないでしょう。

Zさん、SNSは数年前にやめたので、ミュートの期間からふくめてもう何年も読んでいません。但し、ネット上を有益な情報を求めて散歩はときおりするので、看板は見かけますが、訪問は一切していません。


Xさん、Zさんへ、何かあれば、次回は実名で相関図を書きます。もちろん高みからそんなことはしませんよ。「さしちがえる」覚悟です。



by far-east2040 | 2019-04-28 11:08 | 生き方・友情……

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             『抗日解放の中国』より借用


   長征の歌

   十月、索漠たる秋風裡、

   中央紅軍は長征に旅立つ。

 
   星空の下にウ都をすぎ、

   古ハ、信豊で戦って勝つ。

 
   11月、宜章、臨武、藍山、道県を占領、

   敵の第二封鎖戦を粉砕し、

   走狗何鍵の心胆を寒からしむ。

 
   12月、湘江をわたる。

 
   広西軍閥ために戦慄する。

 
   第三封鎖線は竹を割るごとく、

   無抵抗に破れ去る。

 
   12月(1月の誤りか)、梅花の香のうちに、

   貴州省に入り鳥江をわたり、

   やつぎばやに十県を占領。

 
   紅軍の名声四海に振るう。

 
   二月、桐梓と遵義において、

   軍の改革と再編成をおこなう。

 
   四川南部に遊撃隊を展開し、

   新たなる義勇兵を加える。

 
   三月、再び貴州省に転戦し、

   再び遵義を占拠した―

   軍閥王の八個連隊を打破し、

   シェとチョウの二個師を掃滅す。

 
   4月、われわれは南方に転じ、

   貴陽より昆明にかけて作戦し、

   勝利のうちに金沙江をわたり、

   四川西部を行軍す。

 
   5月、濾定橋において、

   劉文輝にひと泡ふかせ、

   悠々大渡河をわたる。

 
   十七英雄の名は、軍旗にしるされた。

 
   6月の暑さに夾金山はなお雪をいただく。

 
   第一、第四の両軍は懋功で合流す。

 
   7月、四川西北部に入る―

   ここは黒水が流れ、

   青麦が李花の風にそよいでいた。

 
   8月、飢えと寒さを物ともせず、

   人跡未踏のところ、

   おそるべき大草原を突破した。

 
   紅軍は辛酸をなめつつ、すべてに打ちかつ、

   日本を撃退し中国を救うために。

   9月、パンチュチェンを去って西北に進み、

   拉子口、渭水をわたり、

   歩兵や砲兵と戦いつつ、

   われらは、ついに陜西北部に到達した。

 
   南北の紅軍は一体となった―

   敵の新たな掃討戦を突き崩し

   救国の道に人民を糾合しつつ。


 どんな事実や数字をあげても、また踏破した何百という山や川の名前をあげてみても、紅軍が敢行した長征の歴史的意味を説明しつくすことはできないし、それに加わった十万の人びとの、不撓不屈の決意や辛苦をありのままの姿で伝えることはできない。


 長征の途についた江西と福建から、はるばる荒野や激流や万年雪をいただく山脈を越えて、中国西北に達するまでの距離はおよそ2万5千里、つまり約8千マイル(約12,872キロ)あった。朱徳はもっと歩いた。本隊をひきいた毛沢東は、まっすぐに西北へ向かったが、朱将軍の部隊は、途中チベットとの境の西康省に1年ほどとどまっていたので、西北についたのは江西を出て2年後だった。


by far-east2040 | 2019-04-19 09:00 | 第9巻「長征」改編

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             『抗日解放の中国』より借用

 「1934年9月のはじめだった」と朱将軍はかたりはじめる。「長い準備のあとで、われわれは、政治軍事の主な幹部を瑞金に召集して撤退計画をはなした。ソビエト政府副首席の党中央委員頂英は、東部戦線からやってきていた。われわれは彼を党指導者、ならびに政治部主席として中央ソビエト地区にとどめて、闘争を継続するために後に残す部隊と政治委員全体を指揮させることにした。また興国戦線の部隊指揮官だった陳毅を、最高司令官として残留させることにした。陳の政治部主席の聶栄臻(じょうえいしん)はマラリヤにかかっていたが、つれていくことにした。

 「後に残した部隊は、周建平の指揮する第二十四師団の5千名、福建省紅軍の3千6百名、江西省紅軍の2千4百名、江南省紅軍の2千4百名、そして江西省北部の抗日前衛隊の1万5千名だった。


 「われわれはまた、軍事、政治、それに大衆組織の有能な指導者をたくさん残した。全国総工会の議長もそのひとりだが、彼は7ヵ月後に国民党につかまって、斬首(ざんしゅ)された。監察人民委員何叔衛と教育人民委員瞿秋白ものこした。何は60歳を越えていたし、瞿はひどい肺結核だったからだ。瞿秋白は文芸復興の指導者のひとりであり、孫逸仙の下での国民党中央委員会のメンバーだった。何と瞿はひそかに上海に送りこまれる手はずになっていた。彼らは8ヵ月後に国民党に捕えられ、何人かの女性指導者たちといっしょに竜岩で斬首された。


 「われわれは、山の中の病院にちらばった2万人ほどの傷病兵ものこした。彼らは、回復次第病院を出て任務にかえった。障害が残ったものには、金をわたして家に帰し、金50元の年金を与えた。この年金は、われわれの江西の同志の手元に金がなくなるまで支払われていた。


 「敵は、ソビエト地区の主な町を占領するために二十個師団全部を使った。彼らは、人民が武器をもつ農村を完全に征服することはできなかったが、何十万の人民を虐殺することには成功した。多数の婦女子が捕えられ、1人当たり5元で国民党の兵隊や将校、地主、妓楼主などに売りつけられた。「以前逃げた地主やならず者たちが、白軍といっしょに帰ってきて役職についた。だが、見つかると農民たちに撃たれるから部落には寄りつかなかった。白軍のソビエト地区占領は極めて慎重にかつ残酷なやり方でおこなわれたが、われわれが残した武装兵力は、決して根こそぎにされはしなかった」


by far-east2040 | 2019-04-18 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 長征には10万人の男と35人の女が選抜された。彼らの80パーセントは意欲に満ちて規律正しい古強者で、その他は党と政府の要員や、革命運動で指導的な役割を演じた人びとだった。


 紅軍中央兵器廠の技師長が、私に撤退の様子を話してくれた。彼は9月の末に、大きな機械や大砲を破壊せよという命令を受けた。その後兵器廠を6つの単位に分けた――1つは長征にもってゆくもの、その他は江西と福建の5つの地区に分配するものだった。兵器廠の労働者のうち、百人が長征に加わることになり、その他のものは機械といっしょに各ソビエト地区に送られた。兵器廠の労働者と職員は、5百人の援護兵といっしょに、中隊組織に編成され、長征のあいだじゅう機械や補給品をはこび通した。


 「10月13日のことだが――と、この技師はつづける――ある大きな牧草地で、私は中央兵器廠長の満州出身の技師とならんで、私の隊の6百人がかたわらを通りすぎるのを見ていた。みな5斤(3キロ)の携行米を身につけており、天びん棒もかついでいた。天びん棒には弾薬か手榴弾を入れた2つの小型の箱か、われわれの一番大事な機械や道具を入れた大きな石油缶をさげていた。また、各自の背負袋には、毛布か布団1枚、綿入り冬服1着、先とかかとにかねを打った丈夫な布靴3足が入っている。これらは人民から餞別(せんべつ)にもらったものが多いが、そのほか乾燥野菜、胡椒なども贈られた。また各自が飲用コップをもち、箸を巻脚絆にさしこみ、軍帽のつばの裏に針と糸をつけていた。全員が、竹を薄く二重に編んで油紙を貼った、晴雨兼用の大きな編笠をかぶっていて、背負袋に番傘をさし込んでいるものも多い。そして全員が小銃を身につけていた。


 「みなが同じ服装と装備を身につけていた。そしてみなが武装していた」


 「われわれはまだソビエト地区にいて、人びとは別れを告げに出て来てくれたが、敵地に入る前に夜間行軍に慣れておくために、行軍はたいてい夜だった。10月14日、われわれは集合地点の寛田に着いた。興国戦線で戦っていた林彪指揮下の第一軍団と、東部戦線にいた彭徳懐指揮下の第三軍団は、われわれ後続部隊の進路を安全なものにするために、すでに出発していた。野戦参謀長劉伯承もそれに同行していた。


by far-east2040 | 2019-04-17 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 「われわれ後続部隊は、その日から翌日にかけて、ぞくぞく寛田に到着した。私は、朱徳将軍と周恩来が、総指令部の人たちといっしょに乗り込んでくるのを見た。毛沢東と中央委員会が、それに続いた。毛はやせて弱々しそうだった。


 「15日の日没、われわれは西南に向かって山路をたどりはじめた。行軍序列は朱徳将軍から発令された。第一隊は朱将軍司令部の参謀長葉剣英の指揮下にある、紅軍大学の連隊だった。総司令部、革命軍事委員会、党中央委員会がこれにつづいた。つぎにソビエト政府、党、共産青年同盟の要員と反帝同盟の一部がゆき、それにつづいて補給部、われわれの兵器廠部隊、印刷機械や材料をかついだ印刷担任者たち、政府造幣廠、医者や看護婦や、4人ずつでかつぐ百二十組の担架隊を引きつれた衛生部隊、ミシンをかついだ大勢の裁縫職人をつれた紅軍衣料廠、そのあとに各部の補給品をはこぶ長い隊列がつづいた。


 「第七軍団がわれわれの左側面の防衛にあたり、第九軍団が右側面の防衛にあたった。そして薫振堂の指揮する第五軍団が後衛部隊だった。


 「私は、中国労働運動の草分けのひとりである頂英が、朱徳や毛沢東といっしょに寛田に来ていたことを覚えている。彼は小高い丘の上にたたずんで、われわれの出発をじっと見送っていたが、それから第二十四師団にもどっていった。その数週間後、彼の師団が瑞金の南の会昌で敵の旅団をやっつけたことを無電で朱徳に知らせてきたが、敵の力が圧倒的に強かったので、師団は大隊単位に分散して遊撃戦にうつった。


by far-east2040 | 2019-04-16 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 「10月21日に第一、第二軍団は信豊地区の敵の第一防衛戦を通過した。われわれ後続部隊もそれにつづいた。11月3日われわれは敵の第二防衛戦を通過し、10日後にオウ漢鉄道に沿う第三防衛戦を突破した。われわれが敵の第二防衛戦を打ちやぶって、その背後に出るまで、敵はわれわれの行動に少しも気づかなかった。


 「敵地に入ってからは、空襲をさけるため、たいてい夜間行軍をした。月が出てそよ風がふく夜などの夜間行軍は、すばらしい。近くに敵の部隊がいないときは、一つの中隊が歌うと他の中隊がこれに呼応して歌う。暗い夜だと、敵が遠い場合は松の枝や割竹でたいまつをつくるが、ほんとに美しかった。山のふもとから見上げると、えんえんたる火の列がまるで火焔竜のように山腹を取り巻いて登っていった。山頂から見下ろすと、山の両側数マイルのたいまつが火の波のようにうねってゆく。そして部隊の過ぎていく方向の空は、ばら色の輝きで明るく映えた。


 「われわれは江西省を通り抜け、広東、湖南、広西省境の山の尾根に沿って進んだ。何週間もかかって、戦闘しながら平野を突破しなければならない時もあった。そのときは、町々を占領し、地主の蔵や敵の弾薬集積所から補給した。われわれは3つの縦隊になって並行して進んだ。右が第一軍団、左が第三軍団、中央がわれわれで、後衛の第五軍団がわれわれに続く。


 「湖南省南部だけでも9万の敵軍が集められた。だが恐怖にかられた軍閥の何鍵はそれでも不安で、われわれが賀竜の第二軍団と合流するのを防ぐため、一帯の8つの県にわたって焦土戦術を実行した。そして何鍵は、自分たちが放火破壊のかぎりをつくしながら、逆に紅軍が湖南南部を荒らしたと宣伝した。広西省の軍閥たちも、われわれの進路から農民を追っぱらって村々を焼き、紅軍がやったと逆宣伝した。われわれが行ったこともない、はるか南方の村々が燃えているのを見たこともたびたびあったし、広西側の手先が村に放火しているのを捕まえて射殺したこともあった。


by far-east2040 | 2019-04-15 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 「第一軍団と第三軍団は、しばしば敵の中を実力で突破して、都市を占領したり、村落を保護したりしたが、地主や軍国主義者の役人の財産を没収して、自分たちに必要な分の食糧をおさえると同時に、残りは貧農や都市の貧民に分配した。大きな塩蔵をおさえたときなど、われわれはみな、ポケットにいっぱい入れて砂糖のようになめた。医療関係の連中は、どこでもキニーネその他の薬品を探しまわったが、大した獲物はなかった。

 

 「われわれはまた、民衆を集めて大会をひらいた。そこで演劇部隊が芝居をやったり、歌ったりする一方、政治工作員はスローガンを書いたり、ソビエト憲法やソビエト政府基本法の写しをくばったりした。たとえ一晩でも1ヵ所にとどまる場合は、われわれは農民に少なくとも次の六文字の書き方を教えた――「打倒土豪」(封建的な郷紳と地主を倒せ)「分地」(土地を分けろ)だった。


 「優勢な敵軍が急にせまってきたような場合は、日中も行軍したが、そんなときは爆撃機に襲撃された。われわれは散らばって伏し、起きあがって歩き出し、また散らばって伏し、何時間もそれを続けた。


 「わが軍の死傷者が多かったので、医療関係者は過酷な困難に直面した。農民たちはいつも、われわれに援助を申し出て、傷病者や疲労困憊(こんぱい)したものを引き取ろうといってくれた。そこでそこに残してゆくものには、いくらかの金や小銃や弾薬をあたえ、回復次第農民を指導してパルチザン戦を展開するように指示した。ときには戦闘で1つか2つの中隊が主力から引き離されることがあったが、この場合も同様に、彼らは山の中にしりぞいてパルチザン地区をうち立てた。


 「朱将軍はたびたび全部隊を巡視して、みなを励ましたが、わが軍の士気はいつも変わらず高かった。朱将軍は心やさしい人だが、みかけは痩せぎすで頑強だった。彼は老けていて、顔には深いしわがあった。だが、病気をしたことがなく、悲観的な考えにおちいることもなかった」参考までにいうと、長征がはじまった当時、朱徳は48歳だった。


by far-east2040 | 2019-04-14 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 長征は、革命戦史上の一大叙事詩であるだけでなく、偉大な民族文学の苗床だった。紅軍将兵数百人の物語、詩、スケッチ、日記などを集めた上下2巻の『長征史』が出版されているが、私はその中に次のような物語を見つけた――


 「われわれは、どんな時にもっとも辛い試練を受けたかといえば、狭く危険な山路を進んでいるときや、その先の方で狭い峠を抜けたり、狭い橋をわたったり、氷のような渓流を泳いだりしなければならないような場合だった。そんな時は、先の方の部隊から遅れてくるので、後の方では一歩ごとに十を数えられるほど、じっと立たされる。進むことも、すわって休むこともできない。立ったまま眠りこんでしまうものさえいた。


 「時にはまた、体をたたきつけるような猛烈な暴風雨の中を行軍した。たいまつも使えないし、道はすべるし、危険きわまりない。そして一晩かかって2,3里(約9.8キロ)しか進めないこともあったし、水びたしのまま野天で夜を明かしたこともあった。


 広西省境の老山では、前の人の足の裏しか目に入らないほど険しい山をよじ登った。山の地はだの岩に段々が彫ってあったが、それは人の腰くらいの高さだった。政治工作員たちは、のぼったりくだったりして、へたばろうとしている人たちを励ましたり、傷病者を助けたりした。……先遣部隊が切り立った崖にぶつかって馬を引き上げることができない、という知らせが前の方からつたわってきた。しばらくして、現在地で就寝し明朝登山を続行せよ、という命令がきた。


 「この小道はどこも幅が2尺(60.6センチ)ぐらいしかなかった。たとえ横になることができても、寝返りを打てば、山腹をころげ落ちる。そのうえ、いたるところに大きな岩が突き出ていて、道には、尖った小石がいっぱいある。


 「仕方がないので、私は毛布を折って下に敷き、できるだけ身体を縮めて横になった。ひどく疲れていたから、ぐっすり寝こんだ。夜中に何度か寒さで目がさめた。私は毛布で身体をつつんで、小さなまりのように、できるだけ身体を丸めた。だが寝入れなかった。私は横になったまま、空にまたたく星をみつめた。それは黒いとばりの上の硬玉のように見えた。私のまわりにそそり立つ黒い峰々は、おそろしい巨人のようだった。われわれは井戸の底にいるように思えた。


 道のあちらこちらに、寒さで目覚めた人たちのともした小さな明かりが見えた。彼らは差し向かいにすわったり、低い声で話したりしていた。そのかすかな声以外は、あたりは静寂そのもので、それは耳に響いてくるように感じられた。――近づいてきたり遠ざかったり、高くなったりかすかになったり、時には、桑の葉をくう春蚕のざわめきのように聞こえた。私がもっと注意深く聞きとろうとすると、その声は山の泉のつぶやきのようにも、また遠い大洋のざわめきのようにも思われてきた……


 「あくる朝私たちも、前夜、部隊を立ち往生させた切り立った断崖に到着した。それは雷公崖という90度の角度で空中に突き出た岩の崖だった。その表面に、幅1尺(30.3センチ)ほどの階段が彫られていて、われわれは何もつかまるものなしに、この段を登らなければならなかった。崖の下は足を折った馬が横たわっていた。


 「いちばん苦労したのは衛生隊だった。担架からおろした傷病兵を、這って登らせるか、押したり引いたり背負ったりして登らせるほかなかったからだ。衛生隊の婦人同志たちは、疲れた気配も見せず、たえず患者をなぐさめたり、助けたりした。


 「老山はわれわれがそれまでに登った中で、もっとも困難な山だった。――だが、金沙江、大渡河、大雪山脈、大草原などを通過した後になってみると、老山の困難などは、大したことではないと思われた」


by far-east2040 | 2019-04-13 09:00 | 第9巻「長征」改編

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 1935年1月、紅軍は大損害をこうむった後、貴州省に押しいって、敵の防禦陣地を粉砕し、鳥江をわたり、省都貴陽と重慶を結ぶ道路上の要地遵義を占領した。一方、蒋介石は、それまでに揚子江流域の各省から軍隊をあつめて、道路阻塞(そそく)をもうけたり、揚子江のあらゆる渡河点に防禦施設を設けたりして、紅軍の北進に備えた。それと同時に四川の軍閥たちは、テロ政策を始め、少しでも自由主義の傾向があると思うものを、片っぱしから逮捕処刑した。


 その当時のことだが、朱将軍は、国民党側の新聞に、彼の2番目の妻ユー・チェンと息子に関するニュースがのっているのを見た。国民党軍国主義者どもが、南渓の彼の妻の家をおそい、すべてを破壊してしまった。19歳の学生だった朱徳の息子は逃れ、「目下追跡中」という簡単な記事だった。朱将軍は、息子が紅軍の彼のもとにたどりつくのを、首を長くして待った。しかしふたたび、妻や息子の消息をきくことはなかった。彼らが国民党に殺されたことは、彼にとって疑問の余地のないことだった。


by far-east2040 | 2019-04-12 09:00 | 第9巻「長征」改編


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            『抗日解放の中国』より借用


 1935年1月はじめの遵義占領の頃までは、紅軍は、まだ少数の有力な中央委員に支持されていた外国人顧問李徳の助言によって作戦を立てていた。李徳はドイツ人で、ソビエト騎兵隊の出身、1933年に江西ソビエト地区にやってきて、それ以来3年間唯一の外国人顧問だった。ドイツ人顧問のついている国民党側の将軍の行動を事前に予想するには、彼は非常に役に立った。だが、1934年の国民党の第五次総攻撃のとき、彼は紅軍に陣地戦をすすめた。毛や朱や多くの軍司令官は、第五次総攻撃に対する戦術の失敗――その結果、ソビエト地区を失い、莫大な人命を犠牲にし、しかもついに江西省から撤退せざるを得なくなった――は李徳と彼の支持者の責任であるとした。


 十九路軍との統一戦線が失敗したのも、また、長征の初期に、敵にあうと恐怖のあまり逃げまわったのも、この一派の責任だった。


 毛や朱やその他の司令官たちは、ドイツには適しているかも知れないが、中国革命にとっては、悲劇的な打撃をもたらした戦略戦術によって、長年の革命の成果がうちこわされるのを見てきた。我慢できなくなった彼らは、ついに遵義に着いたとき、中央政治局のいわゆる遵義会議を要求し、その席で朱徳らに支持された毛沢東が、李徳とその一派の権力をとりあげた。


 それ以後は、毛沢東が統制した。李徳一派はその後もずっと紅軍と行動を共にし、ほかの人と変わりない宿泊給与を与えられた。だが、それ以外では、彼らは紅軍にいないのも同然だった。だれひとり言葉をかわすものもなかった。彼らは中国のボイコットにあったということだ。それは実に徹底したものだった。


 百対一の劣勢だったが、紅軍は今度は敵に立ち向かい、4ヵ月にわたって、朱や毛が得意とする機動戦を展開しはじめた。省軍閥のアヘンびたりの部隊は問題ではなく、まもなく、たたきつけられて、動けなくなってしまった、と朱将軍はかたった。しかし、貴州省内には、蒋介石の精兵20万が集結し、それを指揮するため、蒋自身が省都貴陽に乗りこんできた。


by far-east2040 | 2019-04-11 09:00 | 第9巻「長征」改編