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1930年の1月から3月まで、朱徳は紅軍主力の司令官として、旧雲南軍に対して迅速にして激烈をきわめた作戦をみずから指導した。

この雲南軍は、かつて彼が旅団長をしていたことがあるのだが、いまは蒋介石の命令で「紅匪」を撃破し根絶するために江西省へひきかえしてきていたのである。

6月までに、この雲南軍の諸部隊はめちゃくちゃに粉砕され、すっかり不満をいだいて離反してしまったので、蒋介石は彼らを新しい部隊と交代しなければならなくなった。


雲南軍の崩壊のしかたは、朱将軍をとてもよろこばせた。

彼の語りによると、雲南軍の諸部隊は、上官の命令をサボタージュしただけでなく、農民を使いにして朱徳のもとへ定期的に報告を送ってきたのである。

また、非常にたくさんの兵士が、農民に1ドルか2ドルをはらって、一番近くにいる紅軍の部隊へ案内されてやってきた。


作戦を開始した1月のはじめ、雲南軍の「掃匪司令」羅炳輝大佐は、一個連隊の部下をひきいて紅軍に加わり、13年後ついにたおれるまで紅軍の陣営でたたかった。


この特別な作戦のあいだ、やはり諸部隊を指揮していた毛沢東はただちに、あらたに解放された地域の再組織と再建にとりかかった。
朱将軍は、できるだけ多くの若い農民を召集し、組織するまではほんの少しの時間も惜しんでじっとしていなかった。


いつものように、多くの市や町や村々に人民代表会議(ソビエト)をつくりあげたのち、すべての古い税金が廃棄された、と朱将軍は当時を回想しながらいった。

そのかわり、穀物の収穫に対する、単一の累進税をとりいれた。

紅軍が、自分たちの補給を敵からの鹵獲(ろかく)品でまかなうようになってからは、税金収入はすべて再建にあてるようになった。

高利貸しとアヘンは厳禁され、抵当証券と借金証文は返済され、小学校と各種の合作社がつくられ、最初の小さな農民銀行が設立された。



by far-east2040 | 2018-11-30 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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土地の再分配をするまえに、毛沢東は数組の政治工作員を派遣して、土地事情を調査させた。

これは、この地方でおこなわれた最初の調査であった。
この調査の結果、大荘田や、寺廟、祠堂をふくめた土地の70%が、人口の1ないし2%にすぎない地主に所有されているか、あるいはその支配下にあることが明らかになった。
残りの30%の土地うち、約半分は富農の所有であり、その残りが中貧農の土地であった。


調査で、農民の70%が貧農で、20%が中農、10%が富農であることが明かになった。

富農は、自分の土地を所有し耕作しているが、同時に労働者をやとっており、地主と同じように金貸しをやってはいるが、小規模にやっているものである。
中農は、自分の土地をもち、みずから耕し、労働者をやとわず、金貸しもやっていないものである。
貧農とは小作人で、もっともましな場合でも、ごく零細な土地をもっているにすぎないものである。


この調査を目安にして、土地を持たない農民や農業労働者のあいだに、土地の再分配がおこなわれた。
自分のもっている土地だけではせますぎて家族をやしなえない中農も、分配にあずかった。


ソビエトの文化部は寺院を開放して、貧しい子どもたちのための小学校にした。

夜になって子供たちが帰ってゆくと、こんどは大人の文盲がやってきた。
寺院はまた、大衆組織者の訓練場所や、紅軍の大衆組織の司令部につかわれた。

先生もすくなく、教科書はほとんどなく、紙もわずかしかなく、黒板さえなかった。

紅軍は、その年の7月、湖南省の長沙を占領し、10月には江西省の吉安を占領した。

そのさい、国民党がつかっていた印刷機を没収して、農村にもってきた。
そのときはじめて、大衆教育のための入門書や小型の新聞やパンフレットを印刷することができた。
最初の大衆向けパンフレットは、『農民のはなし』『労働者のはなし』『兵士のはなし』『婦人のはなし』という素朴なシリーズであった。



by far-east2040 | 2018-11-29 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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こうして、朱徳のいう「中国史上最大の学習運動」がはじまった。

この運動は、壁やがけや木の幹にまで書きこまれた、つぎのようなスローガンにあらわれている。

学べ、学べ、それから、学べ!……陽が沈むまで学習せよ!……雪明かりで学習せよ!


「抑圧され、いためつけられた」人たちが、生まれてはじめての知識欲でがつがつと学んでいる姿は、朱将軍の胸を誇りでいっぱいにしたが、同時に、憂うつにもさせた。

その当時は、紅軍は、ほとんどなにからなにまでやらねばならなかった、と朱将軍は回想する。知識を教えることができる紅軍の兵士たちはだれでも、彼がもっているあらゆる余暇を提供して、彼が知っている常識や政治知識を農民に教えた。

教師の数は非常にすくなかったし、遠くはなれて、ところどころにしかいなかったので、どこかの寺で子どもたちの学校をひらくとふれておいて、臨時の小学校の先生たちが約束の時間にきてみると、おじいさんから、胸に赤ん坊をだいた母親たちにいたるまで、ほとんど村じゅうのものが子どもたちといっしょに学校のベンチにぎっしりとならび、お寺の庭にまであふれているありさまだった。
これらの先生たちは、できるかぎりの最善をつくしたので、まもなく、もっとも進歩した子どもたちをえらんで、「小先生」にしたて、ほかのものに教えることができるようになった。


婦人に対する工作は、それまでは、きわめて貧弱だったが、各地方ソビエトに設立された「婦人青年事務部」の指導のもとに急速に進歩した。

婦人たちは、男女の平等についてもっとも戦闘的な主唱者になり、はっきりと協力しない男たちに対しては、これに対抗する独特の方法をつかったのである。


最大の問題は、経済問題である。
というのは、江西はもともと貧しい省であるうえに、ソビエト区と国民党の支配する地方との交易はきわめて弱く、散発的にしかおこなわれていなかったからである。
ほかの多くの品物もそうだが、とくに塩は品数がすくなく高価であった。



by far-east2040 | 2018-11-28 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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             朱徳夫妻(ネットより借用)


この再建の期間、朱将軍は主として軍事問題に没頭していた。

彼はいたるところにたむろしている敵の部隊や、「紅匪掃滅」活動の功績で、蒋介石から栄誉と償金をもらおうと考えている臨時雇いの連隊を片付けてゆかねばならなかった。

こういう連隊が南京にどんな報告を送っているのかは、もちろん朱将軍も知るよしはなかったのだが、だいたい、事実とはまったく違うでたらめらしいということだけは確信していた。

この種のある連隊が、南の方の広東省のある市からじつに勇敢に進撃してきたことがある。

朱徳は彼らを山間に待ち伏せし、彼の部隊はまるで地すべりのように敵軍に襲いかかった。
紅軍は、敵の敗残部隊を敵が基地にしている都市の向こう側まで徹底的に追跡した。

その帰りがけに、敵の補給中継地のいたるところで、すべての補給物資を捕獲していったのである。

そのとき以来、朱徳のふしぎな作戦の評判は大変なものになり、瑞金――将来のソビエト首都――にいた敵軍一個旅団全部が、朱徳軍の接近の報を耳に入れるや、たちまち反乱を起こして逃げてしまったほどだった。

しかも、このときの逃げ足の速さたるや、名に負う朱徳軍の迅速部隊でさえ、つかまえることができなかったほどであった。


こうした仕事で数ヵ月間多忙をきわめていたので、妻にも全然あうことができなかったが、妻はどこか遠くで、あたらしい婦人連合会を組織する仕事についていた、と彼はいった。

この偶然のきっかけから、話が彼の4番目の妻である康克清の話におよんだのであった。

彼女は農民の娘で、1928年の末に朱徳と結婚した

それは、朱徳の3番目の妻で婦人作家だった呉玉蘭が国民党軍にとらわれ、首を切られてから、9ヵ月か10ヵ月たってからのことであった。


康克清は当時10代のおわりにちかい農民の娘で、頑強な身体をしていて、朱徳軍が農村一帯をかけまわっていたとき、農民たちといっしょに戦闘に加わるまでは、地主の畑で農業労働者として働いていた。

朱徳がはじめて出会ったときには、彼女はまだ文盲だったが、1937年には、紅軍の軍事指導者と政治指導者を訓練するため延安に設立された「抗大」すなわち、抗日軍政大学の学生になっていた。

ほかの婦人の学生と同様、彼女もこの数年間軍服を着ていて、いまは「抗大」の婦人学生宿舎に住んでいる。
そして1週間に1日の休日だけ、自由に夫や友だちをたずねていた。



by far-east2040 | 2018-11-27 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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朱将軍は康克清を愛してもいたし、誇りにもしていた。
彼女のことを、「紅軍のなかで成長し、教育された娘、つまり、紅軍がつくりあげた人間の典型」だといっていた。
紅軍に加わったそのときから勉強をはじめ、党員になり、党から与えられた仕事をはたしてきた。
「長征」に加わり、大平原や数多くの河や雪におおわれた中国の山々をのりこえてきた。

筆者がはじめて会った1937年には、彼女はまじめでよく訓練された、勤勉な古参兵であった。

彼女が朱徳のことを話すときは、まるで自分とは関係ない他人のことのような話し方をした。
彼女の分析はこうである――

おそらく朱徳のもっとも大きな特質は、じつに強固な忠誠心と人間的誠実さ、それに個人的な政治的野心をまったくもっていないことである。
だからこそ、党が軍を指導するという、軍に対する党組織の権威に一貫してしたがうことができたのである。

その上、おおむねいつも親切で、心のおだやかな人であるし、兵隊たちを愛し、逆に兵隊たちからも慕われている。


そうです、あの人は、軍事や政治の本を手に入れることができたとき、実によく勉強する学徒になります、と彼女は質問にこたえた。
それに、新聞や報告書は丹念に読み、かならず傍線を書き込む。

朱徳は、「抗大」で受け持っている講義に対しては、いつもとても注意深く準備をしている。
それから、彼女自身が生徒の一人としてよく知っていることだが、彼はとても厳格な先生である。
兵隊や一般の人が参加する大衆集会では、彼はいつもやさしい言葉をつかう。
そして、みなが理解できないと、たびたびくり返して説明する。
彼がもっているユーモアのセンスは、毛沢東ほど痛烈で辛辣なものではない。


朱将軍も康克清も、ふたりの年齢がかなりはなれていることはすこしも問題にしていないようであった。

しかも、それはけっして見せかけだけではなかった。

なにしろ、彼は歳はたしか51歳(1937年)になっていても、身体は頑強で、元気旺盛であり、力に満ちあふれた男ざかりだった。
ふたりはとても釣り合いのとれた夫婦だった。

ふたりとも農民の出身であり、彼らに生命を与えた土のように強くかつ自然なたくましさをもっている。

そして、外見は素朴だが、鋭敏な知性は外見から受ける印象とまったく逆である。

明らかに、彼女は彼からとても多くのものを学びとっているし、かつ彼の指導にしたがってはいるが、同時に彼女は、新しい革命的中国婦人と同じようにしっかりした独立性ももっていた。

42歳の歳になってはじめて、彼は、一生の伴侶、いつも彼とともに歩むことができ、彼の生活のあらゆる面の苦楽をともに分けあうことができる婦人を見いだした。
たがいにどのように思いあっているか、ということについては、どちらも語らなかった。

ぴったりつながっている夫婦がそうであるように、彼らは、たがいに普通のことととらえていたのだ。
そもそも中国では、結婚とは何も時別なことではないのである。



by far-east2040 | 2018-11-26 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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1930年の6月に入ったころ、朱徳は、福建省の西部山地にある城市汀州で、重要会議をひらくために、毛沢東やその他の党指導者たちが、江西省から山を越えてやって来るのを待っていた。

それまでの5ヵ月間というもの、彼の部隊はわずか2、3日ではあるが、休養をとったのだが、朱徳は一日も休むひまがなかった。

この5ヵ月のあいだ、彼は部隊といっしょに徒歩で行軍しまわっていたのである。
44歳にもなっているのに、そのやせた身体は鋼鉄のように頑強で、一日4時間かそれ以下の睡眠でやってゆくことができた。


ちょうどそこへ、上海にある共産党中央委員会からの使者が汀州に到着した。

上海では、国民党が支配しているその他の都市と同じように、すべての共産党員やその他の革命家にたいして、間断なく公然たる弾圧がつづけられていた。

この使者は、紅軍に2つの決定つまり指令をもってきた。

2つとも、共産党組織部長であり、当時もっとも有力な政治局員であった李立三が署名したものだった。


2つの指令の第一は、紅軍の再編成についての全面的計画だった。

それによると、朱徳と毛沢東の軍だけでなく、中国各地に散在する全紅軍は単一の中央集権化された指揮におかれ、朱徳が総司令に、毛沢東が政治委員、すなわち最高の党代表になることになっていた。

第二の文書は、朱毛軍ならびに各地の紅軍にたいする指令で、農村地帯をはなれ、大工業都市を占拠せよ、と命じたものだった。

「大革命」のときと同じように、大都市の工業労働者をゼネストに立ちあがらせようというのである。


この全国にわたって適用される、新しい戦略方針は、肉体以外に売るべき財産をもたないプロレタリアートだけが、土地革命と民族革命を指導して、急速な勝利をみちびくことができるという理論にもとづいて、革命運動の比重の中心を農村から工業地帯にうつすことを要求していた。



by far-east2040 | 2018-11-25 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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これらの計画や指令をふりかえってみて、朱将軍はこう言明した。
――李立三と彼の支持者たちは、中国の土地革命を、いいかえれば、大衆がそれを通じて自己の力を行使する人民代表会議、すなわちソビエトの問題をほとんど信頼もしなかったし、理解もしなかった。
彼らはまた、中国の軍事情勢と政治情勢の事実にもとづいた、毛沢東の指導方針も信用しなかった。
李立三は、「そんな戦術では、革命が勝利する前に、われわれはみな、白髪の老人になってしまうだろう」といったとのことである。


この新しい指令にしたがって、4方面の主要な紅軍が軍団に再編成された。

――第一軍団は、元どおり朱徳が総司令となり、毛沢東が政治委員、すなわち党代表にとどまった。

湖南省西部と湖北省にまたがる賀竜軍は、第二軍団になった。

江西省北西部の彭徳懐軍は、第三軍団になった。

中国の中央部、揚子江北側の山岳地帯にいるゲリラ部隊は第四軍団に編成された。

この軍団は徐向前が軍司令官となり、張国燾が政治委員になった。


朱徳と毛沢東は、この新しい革命戦略全体の基礎となっている理論について疑念をもっていたが、とくに軍隊の再編成計画の一部にたいしては断固として反対した。

指令に書かれている内容によると、すべての武器は紅軍の手中に集められなければならなかった。

このことは、農民パルチザンが、紅軍正規軍の一部となり、工業都市を攻撃する作戦で紅軍とともにソビエト地区をはなれなければならないことを意味する。

朱徳も毛沢東もふたりともこの案を拒否した。

その理由は、朱将軍の説明によれば、もしこの案を実行すれば、ソビエト区には武装した防衛兵力がまったくいなくなり、全地域は敵軍に占領され、その結果、紅軍は革命の基地をうばわれることになるからである。
しかし、「われわれは、理論的にだけこの案を承認した」と彼はいった。
彼らは、農民パルチザンを3つの小さな軍に編成し、第一軍団の指揮下においたが、それぞれの郷土を守るために現在地にとどまるよう、命令したというわけだった。



by far-east2040 | 2018-11-24 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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朱将軍の新戦略にたいする態度は、つぎの言葉のうちにあらわれている。


「毛沢東と私は、この計画ぜんたいに対して深い疑念をもっていた。
しかし、われわれは、この数年間奥地に孤立しており、国内や国際情勢についてわれわれがもっている知識ははなはだ不完全であった。
したがって、われわれとしては、中央委員会がおくってきたような情勢分析を承認せざるをえなかった。
われわれは、資本主義の大恐慌のことも知っていたし、中国の国内情勢が、1911年に清朝が打倒されたときよりも、さらに悪化しているということも一般的に知っていた。
われわれとしては、わが国が全国的な動乱の前夜にあるとのべている、中央委員会の分析を承認しなければならなかった。


「それにもかかわらず、われわれの軍も、われわれの知っているかぎりではほかの紅軍も、まだきわめて弱体で、貧弱な武装しかしていなかった。
たとえ、2、3の工業都市を占領することに成功したとしても、工業労働者の援助だけでこれらの都市を維持できるかどうか、はなはだ疑問であった。
反革命勢力は、数のうえではるかに優勢だったし、また比較にならないほど優秀な装備をもっていた。
またわれわれは、国民党独裁政権を支持する帝国主義列強がこの独裁政権を守るために、われわれに対して積極的に干渉してくるだろうということを、前にもまして確信していた。
なるほど、蒋介石は馮玉祥将軍と戦争していたけれども、彼がわれわれに対して大攻勢を計画しており、しかも、きわめて近い将来、それをはじめるだろうということも確信していた。


「毛沢東と私をのぞいて、李立三路線に反対するものはほとんどいなかった。
われわれは、これを承認するよりほか、どうしようもなかった。
そこで、6月19日に、いまや2万人の兵力になっていた、わが軍の再編成を完了し、われわれは最初に革命にたいする忠誠の宣誓をおこなった。
そののち紅軍各部隊は、8月1日の1927年の南昌蜂起記念日に忠誠の宣誓をおこなった」



by far-east2040 | 2018-11-23 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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最高の軍事・政治機関であり、中国ソビエト政府の先駆でもある革命軍事委員会の中核はこの時結成された、と朱将軍はかたった。

この委員会は、全国各地の各軍団の司令官と政治委員の全員で構成された。

この機関は「当時においては、観念以上のなにものでもなかった。
というのは、当時、われわれがもっていた通信方法はきわめて貧弱で、もっぱら使者にたよっていたので、ほかの紅軍へ連絡することがほとんどできなかったからだ」と朱将軍はつけ加えた。


このような疑念を胸におさめたまま、6月22日、朱徳と毛沢東は、まず中央委員会がおくってきた国内情勢の分析を要約し、ついで、大都市にたいする攻撃において各軍がはたす任務、行軍の道筋、集結点を明示した命令に連署した。

ふたりの指揮下にある各部隊は、江西省中央部にある市に集結したのち、敵の勢力圏を突破し、江西省北端にある省都、南昌に向かうことになっていた。

南昌を占領したならば、その真北にあたる、揚子江南岸の九江をとり、ついで揚子江沿いに西進して、1911年の革命の発祥地である漢口、漢陽、武昌のいわゆる大武漢三鎮に進撃することになっていた。


同時に、彭徳懐の第三軍団は、江西省北西の基地を出発して西進し、湖南省の首都長沙を占領し、後に北に方向を変えて武漢に向かうはずであった。

そのあいだ、賀竜指揮下の第二軍団は西から、徐向前と張国燾の第四軍団は北から武漢に向かって兵力を集中し、他方、武漢の内部からは1925―27年の「北伐」のときと同じように、工業労働者がゼネストに立ちあがる予定だった。

東と西に向かっては揚子江を抑え、北と南にたいしては北京―広東鉄道を支配する、「中国のシカゴ」と呼ばれる武漢三鎮は、このようにして、中国人民の同盟軍の手中におちるだろう。
武漢がおちれば……全中国もやがておちるだろう。






by far-east2040 | 2018-11-22 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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「文学的に見れば」と、筆者は朱徳の話に引きずりこまれて、われを忘れて口をはさんだ。
「すばらしい、劇的な戦略です。
――抑圧されている都市の人民を解放するために、大軍が進撃する……一世紀にわたる従属の鎖をたち切るために、大衆が立ちあがる……一つの民族が、九天の高きにたちのぼろうとしている!」すると朱徳将軍は目を細めたが、表情はかなり謎めいたものになった。


「まったく、この作戦は芝居だった!」みじかくちらっと笑って答えた。
「しかし、これは文章を書く練習ではなかった。
第一、わが軍は大軍ではなかった――それどころか、数は少なく、装備はきわめて貧弱なものだけだった。
これに反して、軍閥の軍隊は兵力も大きく、大砲をもっており、国の資源も注ぎこむことができた。

その上帝国主義諸国の軍艦が、沿岸水域はもちろん、揚子江の奥ふかく侵入して哨戒していて、大都市、武漢の真ん前にもいかりをおろしていた。

われわれの戦略は純然たる冒険主義だった。

つまり、中国が解放されるまえに、まず直面し解決しなければならない大きな困難を飛びこえてゆこうとしたということだった。


「毛沢東と私は、このことをよく知っていた。
しかし、この計画を阻止するだけの十分な情報をもっていなかった。

しかも、こういう疑念をいだいていたのは、じっさい、われわれ二人だけだった」


多数の政治工作員が、部隊に先行してすすみ、農民にたちあがるように呼びかけた。

紅軍が江西省を縦断して進撃するにつれて、敵軍はかくれたり、ばらばらに逃げさったり、南昌へ退却したりした。


「進軍の途上で、数万の農民をわが軍にあつめた」

朱将軍の言葉を正確につたえると、こうである。

「われわれは、農民をその場ですぐ武装させ、各戦闘部隊に配属し、行軍の途中で訓練した。
あらゆる大都市には戒厳令がしかれ、その路上には労働者やインテリの首がごろごろところがっていた。
ゼネストの準備は進行していたが、労働者の指導者たちはすでに殺されていた。
われわれが彼らを解放しないかぎり、労働者はなにもできなかった」



by far-east2040 | 2018-11-21 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編