<   2018年 10月 ( 25 )   > この月の画像一覧

f0364260_15444815.jpg

大阪でアジア図書館を運営している市民団体アジアセンター21の代表をなさっていた山口一郎氏が亡くなったことは、当時購読していた新聞の訃報欄で知った。

たしか、学会が何かの出席のために中国に滞在していたときに、ホテルで入浴中に亡くなられたと記憶している。

2000年の秋、84歳という高齢での旅先からの知らせだった。

存じ上げている人の名前を新聞の訃報欄で見つけるなんてことは、はじめてだったと思う。

私が、未練や解放感など複雑な感情を秘めて市民団体アジアセンター21を辞めたのは、その亡くなられる5年ほど前だった。

その際に、労をねぎらう言葉を直接かけていただいたことは決して忘れていない。


「韓国をふくめて中国と日本がむきあって何かやれないかと考えている」

正確にはもう覚えていないが、おだやかな声でこういう趣旨のことをいってくださっていた。


山口氏は、アジアセンター21の理念を表象する代表ということで、実際の現場にはほとんど顔を見せることはなかった。

年に数回講演者として接するぐらいで、ことばを直接かわすこともなく、末端のスタッフと代表という関係でしかなく、離れたところで静かに眺めていたような気がする。


「企業にまわって寄付を集めるような器用なことができないため、現場で働く人に苦労をかけている」という内容のことを、直接か間接か忘れたけれど、一度聞いたことはある。


働いていたころは、山口一郎氏は関西大学文学部名誉教授と孫文の研究家としてしかあまり知らなかった。

調べてみると、1915年に中国の撫順市で生まれ、東京大学文学部中国哲学科を卒業されている。

戦争には行かなかったのだろうか?

なぜ孫文? 

どうして1915年に中国で生まれたのかな?

f0364260_15450344.jpg


そんな山口氏に「再会」したのは、子育てが落ち着いて自分の時間がとれだしたころ、地域の図書館で借りた1冊の本がきっかけだった。

築地書館から2000年に出版された『孫文 百年先を見た男』に、山口氏に著者が直接取材している箇所があり、ページの中に山口氏の顔写真ものせていた。

奇しくも、山口氏が突然亡くなった年に出版されたことになっている。

孫文の人と功績について書かれた一般向けの本はあまり見当たらないことを思うと、この本は読みやすくて貴重だ。


月日が流れ、限られた時間のなかで好きなことを選んでいったら、いつのまにか自分の言葉の世界に孫逸仙(孫文)を取り込み、自分の言葉で理解するという作業をしていることになる。

それから、孫文の理念を実現させていく朱徳の生き様を知り、ふたりが生きた困難な時代を追体験している。

その際、できるだけ東アジアの国境の垣根は取り払いたいと考えてきた。

『偉大なる道』を読み進めると、あらためて孫逸仙(孫文)の功績を認識する。


いま手元に2011年に再編集して出版された『孫文 百年先を見た男』の文庫本があるが、著者が

「先生にとって、孫文とは結局なんですか」

とたずねると、

「孫文の偉さは、最初はわからなかった。背後にある学識の広さと、人間と社会に対する考え方がわかってくるにつれて、大変な人だと思うようになりました」

と答えている。


つづいて神戸市垂水区の舞子の浜にある孫中山記念館(移情閣)の館長や、大阪のボランティア組織、アジアセンター21の代表を無報酬でつとめていることなどが書かれていて、

「孫文が夢見たように、日本、中国、それに朝鮮半島の人たちも、お互い顔を向きあっての交流を深め、平和を確かなものにできないものですかね」


と語ったことを紹介している。
その文面に何回か目をとおすうちに、今まで読み過ごしていたところがあまりに唐突すぎて妙に気になり始めた。

……点と点がつながった感じ。


孫文と朝鮮半島はほとんど接点がないので、他の研究者なら別にふれないし、ふれなくても別に無視しているような文の流れではない。

ここで、「朝鮮半島の人たち」という言葉を出された山口氏に深い感謝の念を表したいと思った。


f0364260_15452024.jpg


いま自宅に移情閣の絵葉書を額にいれて飾っている。

行き詰まったときや、朗報をききたいときはこの浜から海を眺めてきた。


【参照】山口一郎氏について書いた過去記事





[PR]
by far-east2040 | 2018-10-27 16:55 | 『偉大なる道』

f0364260_13010931.jpg

この第6巻あたりからだんだん戦闘シーンや共産主義イデオロギーが出てきて、決して読みやすいものではない。
革命とはこういうことかと思いながら読みすすめてきた。

はじめて読んだときはもう十数年前で、そのときは内容はほとんど理解できていなかったと思う。

やっと、太平天国の乱⇒辛亥革命⇒護国戦争⇒大革命(北伐)⇒蒋介石の裏切の流れが整理されてきた感じ。

中心的に書かれているのは、朱徳も軸になって展開された1927年8月1日の南昌蜂起で、この日は現在の中国でも特別な記念日として祝日扱いになっているはず。

この南昌蜂起を起点に、農村での土地分配を本格的に実行していったのだが、どこで読んだかは忘れてしまったが、毛沢東が立案したと理解している。


南昌蜂起は、Wikiで検索すると、背広姿の朱徳が掲載されているように、朱徳の存在が効果的に使われた。

というのは、朱徳は南昌の警察関係や軍官学校も配下におく要人で、雲南軍の将校であり、四川省で軍閥のひとりとして華やかな生活をおくってきた経歴をもち、国民党の指導者としてしか知られていなかったからだ。


この蜂起の準備会議で、共産党関係のそうそうたる顔ぶれの指導者たちが集まったとき、朱徳は発言する毛沢東を薄暗い部屋で眺めた。

朱徳はそれまでは党の指示を受けるだけで発言を控えてきたが、この会議で、多分発言を求められたのだと思う、自分の今までの革命にかける熱い思いを語る。

朱徳と毛沢東が実際に会うのはもっと先だが、この会議でお互い「この男は……」と思わせるものを感じとったのではないだろうか。

ずーっと読んでくると、映画を制作する監督なら、ぜったいそういうシーンにしたいところ。


さて、この南昌蜂起は前半は成功するのだが、後半は圧倒的に優勢な敵の前に悲劇が展開される。

しかし、朱徳たちは粘り強く生き延びていく。

ちなみに、この南昌蜂起に参加した唯一の有名女性は、周恩来夫人だったそうだ。


気になるキーワードは以下になる。


瞿秋白―陳独秀のあとをついで共産党の指導者になった当時有名な作家。容貌は見るからにインテリで病弱な感じがする。政治的な人間ではないことを自覚していたらしい。


土地革命―日本の戦後の農地解放がいかに平和な分配だったか。比較するものではないかも知れないが。


秋収暴動―中国だけのものかしら。


広東省東江地方―孫逸仙の保護のもとに最初に農民組合と農民自衛隊ができた地域


汕頭攻略―周恩来など多数の指導者が敗北して逃避


彭湃―この人のような貴い犠牲者が多かったのだろう。


インテリと労働者・農民の確執―


王佐と袁文才―元匪賊で毛沢東と同盟を結ぶ。


士気―ことを進めていくとき、正当な士気の高さは大前提。


広東コミューン―ソビエトもそうだが、実はいまだにこういう歴史用語がよくわかっていない。


蒋介石―結果的に共産党を刺激して発展させていった要人のひとりに見える。


説得力―プレゼンテーションの力量。手段は何も言葉だけではなく、
    広く文学、芸術、生き方など分野は広い。
    特にその人の生き方が大事?


呉玉蘭―朱徳の夫人だった女性で、敵に無慙な殺され方をしてさらし首にされた。
実は妊娠していて、朱徳は毛沢東の前で大粒の涙を流して泣いたとどこかで読んだ。

    毛沢東も同じような経験をしているのだが、どんな言葉をかけたのかな。
このように夫人が敵に殺された指導者は多い。

井岡山―中国革命の聖地?


朱徳と歌の蒐集―朱徳はほんとに歌や音楽が好きだったようだ。


彭徳懐―富農出身だったらしいが、肉親に恵まれなかったことで何かと苦労したようだ。

    朱徳がもし抗日戦で倒れていたら、この人が司令官になっていたと思う。
どこで中国伝統の基礎教育を受け、共産党を受け入れ、ギリギリのところで反乱を起こして朱徳たちと合流したか、波乱万丈の人生に興味がある。
毛沢東嫌いの人は、この人を軸にして中国革命を理解したらいいのでは。

実際毛沢東に不当な扱いを受けた?

    スメドレーは渋い人、エドガー・スノーはリベラルな男と表現していたが、兵士からの人気もあったそうで、個人的にも一押しの軍人だ。

    死後名誉回復を受けているらしいが、もしそうでなかったら、この本の読者としては納得できない。

    朝鮮戦争にも従軍して、なんと金日成から勲章をもらっている。

    日本では、朝鮮戦争は韓国からみた情報がほとんどで、北朝鮮側からの情報は少ないし、信用できるものがなかなか手に入りにくいと思っている。

    彭徳懐は北朝鮮サイドのことを知っている人物のひとりだったということ。


『偉大なる道』(上)はここで終わる。


このブログの管理人は別に共産主義者でもないし、シンパでもない。

政治的な人間とも思っていないし、中国とか中国人という広すぎて実態がつかみにくいものに愛情を感じるというタイプでもない。

ただ朱徳の生き様に魅力を感じ、建国苦労話に同じアジア人として素直に敬意をもち、困難な時代に生きたスメドレーという女性ジャーナリストが仕上げた大作を蘇らせたいだけ。


隣国中国にいい意味でも悪い意味でも興味をもつ人は、建国苦労話を知っていても損ではないと思うが。

私を例にすれば、たとえば紅軍は中国人民解放軍にその後発展していったのだが、紅軍結成の初志を踏み外していないか考えてみる機会を提供してくれた。


続いて第7巻から『偉大なる道』(下)がはじまるが、餓死に追いやられるような過酷な圧迫を国民党軍から受けたり、それを突破していくシーンが多くて、血なまぐさい展開になる。

蒋介石は、共産党員を封鎖して餓死させようとほんとに考えていたようだ。


まだ道は遠いけれど、この作品のクライマックスと私が思っている長征まで理解しながら少しずつ読みすすめたい。



[PR]
by far-east2040 | 2018-10-24 09:00 | 『偉大なる道』

f0364260_10543350.jpg
           宋慶齡(Wikiより借用)


孫逸仙夫人は、国民党に対する歴史的宣言のなかで、中国人民に深い感銘をあたえた。


「わたしたちは、人民をあざむいてはなりません。
わたしたちは、人民のあいだに、偉大な希望をそだてあげてきました。
人民は、わたしたちに深い信頼をささげてきました。
この信頼にたいして、わたしたちは、最後まで、忠誠をつくす義務があります」


しかし、そのときすでに、国民党は人民を裏切っていた。
内陸のあらゆる主要都市はもとより、無数の街や村の路上は、労働者や農民やインテリの血の洪水と化していた。
反動どもは、「あれは共産主義だ」という野蛮な叫びをあげながら、胸の奥に偉大な希望のともしびを燃やしている貧しい人びとを、かたっぱしから殺していた。
事実、そのとおり、中国共産党こそ、これらの貧しい人びとをふるいたたせ、組織し、指導していたのである。
共産党が貧しい人びとの党だったからである。


いたるところで希望が失われてゆくのを見たとき、いまや、この党は、敵と闘うか、それとも降伏するか、いずれかを選ばなければならなかった。
ずっとむかし、19世紀の半ば、偉大な「太平」の指導者、石達開も、ちょうど同じような窮地にたたされたことがあったが、そのとき彼は、こう叫んだーー


「戦っても死ぬ。戦わなくとも死ぬ。

それならいっそ、戦おうではないか」


歴史は決して、ぴったりそのとおりにくり返すものではない、ということを、共産主義者はよく心得ている。
だから彼らは、断固として戦い、――かつ、生きのびようと決意したのであった。



[PR]
by far-east2040 | 2018-10-23 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

f0364260_10544507.jpg


1927年7月18日、朱徳将軍は、ただちに任地を離れて、江西省北部の、南昌からそれほど遠くない小さな村でひらかれる共産党秘密会議に出席せよ、という招請をうけとった。
その日の夕刻、ある大きな建物へ入ってゆくと、そこには共産党の主な指導者たちが、多勢あつまっていた。


あたりには彼のよく知っている人びともたくさんいたが、名前だけしか聞いたことがない人もたくさんいた。
上海で殺されそうになって、あやうく脱出した
周恩来もきていた。
みんなは、周のことをただ「鉄の人」と呼んでいた。
四川省でかろうじて死地を脱出した
劉泊承もいた。
中国総工会の書記で、漢口政府の労工部長をしていた
蘇兆徴も、農業部長の譚平山といっしょにきていた。
また「鉄軍」の第十一軍と第二十軍の指揮官や参謀たちや政治指導者たちーー
葉挺、賀竜、葉剣英、李立三、劉志丹――もきていたが、彼らこそ、その後の歴史をつくったのである。
劉志丹は、もっとも初期から孫逸仙の運動に参加した一人である。


朱徳将軍が会ったことはあるが、名前は知らなかった人たちもいた。
そのひとりに、背の高い、やせた男がいた。
その名前は
毛沢東といい、農民運動の指導者で、共産党の政治局員であり、かつ国民党の中央委員にもなっていた。


朱将軍は、もっぱら、この会議で採決した諸決定の大すじだけを、私に話してくれた。


「われわれは、国民党に対するこれまでの政策を変更した。
一方で反軍閥、反帝国主義闘争はつづけながら、同時に、農民と労働者に武装させ、土地革命をはじめるという方針を採択した。

私も発言して、この決議に賛成した。
しかし、このような決定的な時期においてさえ、われわれが採決した農民政策は、極度に制限をうけていた。
地主の土地の没収に対しても、あるいは、農民の蜂起を援助するためでさえ、『鉄軍』をつかう計画をたてることができなかった。
この種の活動は、種々の人民組織や、党の幹部にまかされた。
われわれの党は、まだ若く、経験も浅かった。
あまりにも急速に大きくなったので、われわれはまだ、党の統一をかため、党の幹部を理論的に教育することができていなかった。
われわれは、はじめ、たやすく手にいれた勝利に陶酔してしまい、まもなく、いきなり、反革命によって、絶望のふちへたたきこまれたのであった。



[PR]
by far-east2040 | 2018-10-22 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

f0364260_10545974.jpg
           譚平山(Wikiより借用)


「われわれが、この新しい政策を実行に移す最初の行動は、南昌『鉄軍』の武力蜂起をおこない、つづいて、この軍隊を広東へ進軍させ、新たに国民革命政府を樹立することであった。

南昌蜂起は収穫期に合わせて計画した農民蜂起の合図となり、相呼応してたちあがった農民は、民団、すなわち地主どもの私兵部隊から、うばいとった武器で武装することになっていた。

しかし、後になってわかったことだが、軍隊を使って、農民蜂起を援助した指導者は、毛沢東ただひとりだったのである。

毛沢東は、こういう闘争を通じて、もっとも活動的な農民義勇隊をえらんで、その部隊を増強していった。


「この秘密会議で採択された政策は、次のスローガンで要約することができるーー

反軍閥・反帝国主義闘争をつづけろ――

南京とたたかえ、蒋介石とたたかえ――

農村革命を開始せよ――

人民を武装させろーー


「私は、これらの対策のすべてに、賛成の票を投じた。
われわれみんなは、混乱とテロのまっただ中に立っていたのだが、私は、ついに肩の重荷をおろしたように感じた。
そのときまでは、私は、党の政策について、なんらの発言もしてこなかったが、自分に与えられた任務だけは、力のかぎり遂行していた。


「会議がおわると、同志たちは、それぞれ指命された任地へ去っていった。
毛沢東は、漢口に帰って待機し、南昌蜂起と同時に、漢口守備隊内の多数の黄埔軍官学校生とともに、守備隊をひきいて、湖南へ南下することになった。

蘇兆徴は、揚子江流域の労働者組織への工作をすすめ、蜂起の準備をするために出発した。

南昌蜂起の準備と指導をする前線委員会に選出された多くの人たちは、ただちに南昌に向かった。
私も、この委員会の一員にえらばれた。
委員のなかには、第十一軍の
葉挺将軍、第二十軍の賀竜将軍をはじめ、その軍の参謀長や、政治委員たちもふくまれていた。

劉伯承が前線委員会の議長になり、周恩来が副議長であった。
そのほかの委員には次の人びとがいたーー
葉剣英、党指導者として李立張国燾(ちょうこくとう)の二人、譚平山(たんへいざん)劉志丹

          

[PR]
by far-east2040 | 2018-10-21 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

f0364260_10550803.jpg
            黄琪翔(Wikiより借用)



「南昌の事情については、私がいちばんよく知っていたので、敵と味方を問わず、蜂起に関連してくるすべての諸勢力についての情報を、前線委員会へ報告するという仕事をあたえられた。
調査する時間はほんの少ししかなかったが、私はすぐ、あらゆる情勢に通じることができた。
われわれの敵にまわると予想されるものは、まず、南昌の隣接地帯に駐屯していて、国民党第六軍に属する多くの連隊と、南昌市内やその周辺に駐屯する雲南軍――第五路軍――の多くの連隊である。
さらに、南昌へ2日以内で行軍できる距離まで移動してきた雲南軍の1、2師団とも、戦わなければならなくなるだろう。

反革命の嵐がひろがるにつれて、これらの部隊はすべて、南昌を占領し、大衆運動を粉砕しようと準備をすすめていた。


「味方の陣営には、労働組合、農民組合、学生同盟など、南昌のすべての人民組織と、農民運動講習所があった。

この講習所の所長である方志敏も、党の秘密会議に出席していた。


「『鉄軍』に属する部隊の大部分は、たよることができるが、総司令官張発奎とか、第四軍司令官黄琪翔とかは、いずれも汪精衞の追随者であって、信頼することはできなかった。

彼らは、この『鉄軍』を、蒋介石との権力争いでかけ引きの材料に使おうとしていたのだ。
第四軍の大部分の部隊は、
張発軍が彼の司令部を置いていた揚子江岸の九江に駐屯していた。


南昌にある『鉄軍』の支隊司令部は、第十一軍司令官、葉挺将軍の指揮下にあった。

第十一軍と第二十軍の全軍は、南昌市内とその周辺にいて、九江―南昌鉄道の沿線には、蜂起に参加する準備をしていた第四軍の一個連隊があった。



[PR]
by far-east2040 | 2018-10-20 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

f0364260_10551681.jpg


「われわれはまた、南昌の全警察力をあてにすることができた。
警察は、軍官学校とともに、私の指揮下にあったからである。

しかし、私は、秘密会議に出かける前すでに、雲南軍から、軍官学校の1千3百名の全生徒を、各部隊に配置させるので、ただちに卒業させて、司令部に引き渡せという命令を、うけとっていた。
この生徒たちは、まだ訓練の課程を終了してはいなかったのだが、雲南軍の司令官は、蒋介石側へ寝返って、南昌を占領する用意をしていたわけだ。
だから、司令官としては、いざそのときがきたとき、南昌市内には、若い生徒が一人もいないようにしたかったのだ。
各部隊に分散させてしまえば、これらの生徒たちは、どうすることもできなくなるだろう。


「私は、強制的にこの命令に服従させられてしまった。
3百人だけをのぞいて、生徒全員が卒業させられ、分配配属された。
残った3百人の生徒は、蜂起に加わる用意をしていた。
私は、このほかの、できるだけ多くの生徒を残そうと努力したのだが、時間がないために失敗してしまった」


蜂起の夜、朱徳は、前線委員会の命令にしたがって、南昌市内にいた第五路軍と第六軍の全将校を集めて、大宴会をひらいた。
彼は、連隊長級以上の将校だけを招待した。
彼らはまだ、朱徳が雲南軍の将校で、国民党の指導者のひとりだと思っていたので、みんなやってきた。


夜の9時ごろ、食事が終わって、客人たちが、ちょうどマージャンのテーブルについたところであった。
じつは、朱将軍は、蜂起がはじまる予定の真夜中まで、マージャンで、彼らを釘付けにしておこうと、計画していたのである。
ちょうどその瞬間、扉がおしあけられ、賀竜将軍の第二十軍の、ある大隊長が、かなり興奮した様子ではいってきた。

この若い隊長は雲南省の生まれだったが、料亭にあつまっていた連中の大部分も、彼と同郷人であった。


この若い隊長が、自分はたったいま、自分の市中警備区域内の雲南軍部隊を武装解除せよ、という命令をうけとったと、もつれる舌で報告したときには、朱徳はがっかりしてしまった。
雲南人のひとりとして、この隊長は、はたして自分と同じ同郷人を武装解除していいものかどうかわからなかったので、一体どうしたらといいのか? とたずねたのだ。



[PR]
by far-east2040 | 2018-10-19 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

f0364260_10552827.jpg
           朱徳(Wikiより借用)



一瞬、部屋の中が、死の沈黙におちいった。

大きく笑いながら、客の方をふりかえった朱徳は、こういう乱れた時世には、いろんな噂が流れるものだ、そんな話はまったく信用できない、とうちけした。


「さあ、マージャンをつづけよう。
流言飛語にいちいち耳をかさないことにしよう」


椅子をうしろへはねのけて、ある将軍がたち上がって、いったーー


「たんなる噂にすぎないかもしれないが、今夜、なにか事件が起こりそうだということは、自分もきいてる。
みな部署に帰ろうじゃないか」


そこで、みないっせいにたち上がって、帰る仕度をはじめた。
あんまりしつこく引き止めると、かえって疑いを招くことになるので、朱将軍は、もっぱら冗談と笑いでわたりあった。
客がみな帰ってしまった瞬間、朱徳は一目散に、前線委員会にかけつけた。

そこで委員会は、ただちに蜂起せよ、という命令を下したのであった。


この新しい命令が「鉄軍」全体にゆきわたるには若干の時間がかかった。
しかし、まもなく、まず命令をうけとった1部隊から銃声がきこえはじめ、つぎつぎと全市にわたって、大浪がうねるように、銃火の音がとどろきつづけた。
朱徳と同志たちは、夜を徹して活動した。

明け方までには、南昌の市は「鉄軍」の手中にはいった。
それから数時間後には、遠く離れた村々まで、占領した。
さらに2日のちには、南昌の東南およそ40マイルにある戦略的要所、
撫州の町を、敵の1連隊の手からうばいとった。



[PR]
by far-east2040 | 2018-10-18 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

f0364260_10553976.jpg
           瞿秋白(Wikiより借用)


南昌の町は、いまや、革命旗の海と化した。
数万におよぶ人民と兵士が、どっと大集会に群れあつまり、演説する人のための演壇が10いくつもつくられた。
蜂起の翌朝、共産党の緊急会議が召集された。
陳独秀が、党書記長の地位を追われ、瞿秋白(くはくしゅう)が選出された。
この新しい書記は、有名な作家で、文芸復興運動の主要な指導者のひとりであった。


この会議は、革命委員会も選出したが、委員は、共産党員と当時まだ革命に忠実だった国民党指導員で構成された。

これらの国民党員の中には、孫逸仙夫人や、漢口政府の外交部長、陳友仁も加わっていた。
「鉄軍」は、そのとき南昌にいた革命委員会の委員たちとともに、広東省へ向かって南進を開始し、新たな革命政府を樹立することになった。

この遠征の資金をまかなうために、「鉄軍」と共産党から選ばれた委員会が、市中をまわって、銀行家やそのほか金持ちの家から、金を没収して歩いた。


ちょうどそのころ、朱徳は、新しい師団、第九師を編成して、みずからその指揮をとるように命じられた。

彼がにぎっていた軍官学校生3百人、南昌警察隊の全員4百人、それに数10人の労働者と学生が、この新師団に編入された。

しかし、蜂起で捕獲した小銃のほとんど全部は、すでに労働者や農民の手にわたってしまっていた。

農民運動講習所の男女6百人は、小銃と弾薬を小舟に積み、その上にわらをかぶせてかくし、流れをくだって、江西省のそれぞれの郷里へ帰り、農民を組織し、武装させる仕事にとりかかったのである。

方志敏は、多数の農民とともに、江西省東北にある彼の郷里、弋陽(よくよう)へ向かった。
その後数年足らずで、彼らはこの地方に、紅軍第十軍団をきずきあげた。


こうした事情から、朱徳は、彼の新師団の編成にあたって、わずか1千人の武装兵力しか動員することができなかった。


いよいよ土地革命が始まったのである。



[PR]
by far-east2040 | 2018-10-17 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

f0364260_14414137.jpg
              蔡挺階(『抗日解放の中国』より借用)



8月5日の夜明け、「鉄軍」の2つの縦隊は、たがいに10から20マイルの間隔をたもって並行しながら、南方、広東に向かって進軍を開始した。

先鋒隊と呼ばれた朱徳の部隊は、東側の縦隊から二日行程ほど前方を進み、人民に対する工作をおこない、後続部隊のための食糧を購入したり、宿舎の用意をしたりした。
ある夜、2つの縦隊は
宜黄でおちあって、会議をひらき、さらに行軍をつづけたが、その後数週間の行軍のあいだ、両縦隊は定期的に集合しつづけたのである。


宜黄をすぎて、しばらくいったあたりのことであった。
鉄軍第十師司令官、
蔡挺階将軍は、急におじけづいて、真東へ方向を変え、部隊をひきいて福建省内へ逃げこんでしまった。

その後数ヵ月のうちに、ふたたび彼は「鉄軍」の前司令官、張発奎指揮下に加わったのである。

この間、張発奎の方は、九江にもっていた軍のうち二個連隊を引き連れ、別の道をとって南へ向かった。

彼は、広東へいって、この華南の都市を、彼の指導者、汪精衞のための拠点として確保したいと考えて、地方軍閥を集めまとめていた。


第十師が脱走したというニュースが「鉄軍」の兵士にひろがるとともに、兵士たちはしきりに脱走し始めた。

国中が混乱状態におちいっていたので、兵士たちは自分たちの故郷へ帰ろうと考えたのである。
彼らは、たくさんの小さい流れのようになって、本隊をはなれ、横道へそれていった。
彼らは銃をかついで、秋の収穫期に合わせて計画した蜂起(秋収暴動)にさいして、自分たちの家族を助けるために帰っていった。
多くのものは、彼らの戦友たちにむかって、広東みたいに郷里から遠くはなれたすぎたところにはゆきたくない、とか、あるいは、郷里へ帰って、彼らの家族をテロから守ってやる必要がある、とか、いいわけをしていた。
こういう人びともけっして革命からはなれてしまったのではない、と朱将軍はかたった。

彼らは秋収蜂起でたたかったし、その多くは、その後、もう一度革命軍に加わっている。
このようなできごとはアメリカ革命のさいにも、アメリカの内乱のさいにも、いずれにもあった典型的な現象だ、と朱将軍はつけ加えた。



[PR]
by far-east2040 | 2018-10-16 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編