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村に近づくと、紅軍はまず一人か二人の兵士を先行させた。
そこで農民たちは、外に出てきて、紅軍のために米を集め、負傷者や疲労した人を引きとって、かくまってくれた。

あとに残って農民の世話になるものは、みな、回復してから、農民を組織し、訓練することができるように、銃と数発の弾薬をあたえられた。


「紅軍の兵士を訓練するさいのわれわれの方針は、たとえたった一人だけしか生き残らなかったとしても、その一人が人民を蜂起させ、指導することができるようにすることだった」と朱将軍はかたった。

「あの恐怖にみちた時代には、数かぎりない戦闘をまじえたが、あるときはたった一回の戦闘で2百人もの同志を失ったこともあった。
またあるときには、20人の兵士と1人の黄埔軍官学校出身者が敵の捕虜になったことがあった。
この21人は、そのころ江西省南部のある県を守っていた一個連隊の敵軍に加わった。
2、3ヵ月後、彼らは、連隊全員を指導して、反乱をおこし、この県をゲリラ基地にかえてしまった。
その後、ここは、われわれのもっとも強力なソビエト地区のひとつになった」


さらにほかの戦闘では、朱徳の妻呉玉蘭も、行方不明者のひとりになった。

彼女は、拷問されてから、首を切られた。
その後、彼女の首は、郷里の
長沙の街に送られた。

市の長老たちは、その首を棒の上に突きたてて、大通りのさらしものにし、彼女と同じような考えをもつすべてのものへの見せしめにした。






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by far-east2040 | 2018-08-31 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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中国の旧暦の正月がきた。
戸ごとに、正月を祝う赤い紙がきらめき、料理店や、金持ちの家からは、音楽がひびいていた。

南江西の瑞金という小さな県城では、ちょうど、江西省軍一個連隊が帰ってきて、「朱毛匪」の大部分を皆殺しにして、敗残兵は福建省境の向こうに追っぱらったと、その状況を報告していた。

この大手柄の褒美として、街の要人たちは、連隊のために正月の大宴会をひらいて招いた。

酒杯のひびき、料理の香にまざって、哄笑がわきあがっていた。
建物の中にしつらえられた、長いテーブルの上には、赤いろうそくがいくつもかがやいていた。
連隊中がすっかり安心しきっていたので、歩哨さえ、一人も任務についていなかった。


テーブルの上にご馳走がならべられ、兵士たちが席について、箸をとりあげたその瞬間、なにか、弾丸がとぶようなヒュッという音がした。

たちまち、一座は、しんとして、深い沈黙におちいった。

彼らが、驚きのあまり、口をあんぐりとあけて、呆然と見つめているなかを、森の狼のように、やせた「朱毛匪」が、まるで地中からわいてきたようにあらわれ、銃をかまえて、部屋の中に長い列を作って立ちならんだ。

しゃがれ声の号令がかけられると、彼らは、ひとりの人間のようにいっせいに立ちあがり、両手を頭上高くさしあげて、闇の中に出ていった。

外には、ぼろをきた、別の幽霊が待っていて、大きな石造りの寺院に彼らをとじこめ、見張りに哨兵をたてた。


「われわれは、やつらの正月の御馳走を、すっかりたいらげた」と朱将軍は大笑いした。

「翌朝、われわれは、北東に進み、大柏地の山地へはいっていった。
その後から、約一個師団の敵の部隊が、二つの方向から、われわれにせまっていた。
しかし、われわれは、できるだけ早く歩いて、余裕をつくり、会議をひらいて、追撃者を今回限りで、徹底的に追いはらおうと決議した。

わが部隊は、戦闘計画を討議して、あらゆる点をはっきりさせた。
それから、大衆集会をひらいて、敵を皆殺しにするか、そうでなかればたたかって死のうと、拳をあげて、誓った」



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by far-east2040 | 2018-08-30 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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いつものように、朱将軍は、戦闘の模様を非常に細かいところまで気をつかって、説明した。
ものすごい激戦だったが、朱将軍の言葉でいえば、「実にきわめて単純」であった。

その夜のうちに、林彪は、一個連隊をひきいて、10マイルを行軍し、戦闘がはじまった夜明け前には、敵の一個縦隊の真後ろにまわっていた。

敵は、あらゆる武器弾薬をもっていたが、紅軍は、各自、20発くらいの弾薬しかもっていなかった。
敵は、四方から、あらゆる武器をつかって攻撃してきたので、この弾薬は、すぐ使いつくしてしまった。
行軍の兵士は、銃をつかったり、折った木の枝を、棍棒がわりにつかったりしてたたかった。
太陽が、頭の上にきたころには、紅軍は、敵の師団を完全にうちやぶっていた。


捕虜は約1千人ぐらいしかいなかったが、その中から百人の貧農出身者を選びだした。
朱将軍はこの百人に向かって、紅軍に加わり、紅軍と辛苦をともにし、紅軍がついに勝利をおさめる日まで闘いつづけてくれとうったえた。

残りの捕虜は釈放された。
理由は、「かれらが、むかしながらの傭兵で、アヘンの常飲者であり、そんな人間はわれわれには不要だった」からである。


大柏地の戦闘は、土地革命において、また、敵の士気に与えた影響において、ひとつの転換点であった。

それからあとは、敵軍が紅軍を追撃してくる場合は、遠くはなれて、近よらなかった。
さらに福建の諸部隊は、こんなことは一切、自分たちの仕事ではないといって、福建省内へ引きあげてしまった。



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by far-east2040 | 2018-08-29 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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「農民工作の準備をさせるために」、勇敢な扇動者からなるいくつかの小部隊を先行させたうえで、紅軍は、数日後、江西省中央部の城壁をめぐらした都市、寧都を占領した。

地方守備隊と地主どもは、紅軍が近づくと、たちまち逃げだしてしまったが、商工会は、大昔からの慣習どおり、国民党の旗を引きおろして、赤旗をかかげ、紅軍にむかって、5千ドルの金と市の鍵をさしだした。


朱徳と毛沢東は、5千ドルはうけとったが、商工会の宴会への招待はことわった。

紅軍は、地主から食糧やその他の財産をすべて没収し、必要分以外は市の貧民に分配し、全市民の大衆集会をひらいた。

紅軍は、占領した町や市ではどこでもしたように、ここでも牢獄の扉をひらき、犯罪の内容はとわないで、すべての囚人を釈放した。

その理由について、朱将軍は、「犯罪は、階級の問題である」と言明した。
囚人の多くは政治犯で、手枷足枷をはめられ、ひどい拷問をうけて、一生なおらない不具者にされていた。
そのほかは食べ物や服を盗んだいう、個人財産に対するささいな犯罪で投獄された貧乏人であった。


寧都3日間とどまったのち、紅軍は、負傷者や病人や疲労したものを集め、地主から米や補給物資を没収したうえで、東固山地の基地に向かって西へと行軍を開始した。
そこはすでに、紅軍を歓迎する準備ができていたのである。


この東固への行軍は、まるで凱旋行進であった。

農民たちがとびだしてきて、負傷者や補給物資の運搬を手伝ってくれた。

東固基地にある竜岡の町は、農民運動の強力な中心地で、みなが紅軍を歓迎に出てきて、それぞれの家庭で紅軍を歓待したいと申し出てくれた。

ここで朱徳と毛沢東は、李文林にであった。
李は、黄埔軍官学校の出身で、一個中隊のゲリラをひきいて、紅軍を山に案内するためにやってきたのであった。



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by far-east2040 | 2018-08-28 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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自然の美に対する深い感情をあらわしながら、朱将軍は、東固についても、まえに井岡山についてかたったときと同じようにくわしく描写した。
この山は、江西省を南北にのびる、森におおわれた山脈の一部である。
朱徳の話によると、かなり高い山岳地帯ではあるが、井岡山のような要害ではない。
4つの台地をこえて、せまい山道が通じている。
どちら側にも、えぞ松やもみの森があり、花をつけた竹や潅木の林がある。
春と夏には、あたり一面、おどろくほどたくさんの野花におおわれる。
頂上の近くは、広くて、肥沃な台地になっていて、小さな村々が点在し、その中心あたりに市のたつ東固の町がある。
この台地に流れ込む、肥沃な谷には、さらにほかの小さな村々がある。


東固の約25マイル南に、城壁をめぐらした大きな町、興国がある。
この町は、2、3週間後には紅軍の手中におち、東固といっしょになって、「東固―興国地方ソビエト区」を結成した。


東固にはすでに小さな病院が建てられていたが、紅軍の病人や負傷者、疲労しきった人たちまで収容できないので、農家の家に招かれて世話になった。


この高い台地で紅軍は休養をとり、入浴もした。

みな、ぼろぼろの着物に、つぎはぎをあてたり、煮沸して、みなを悩ませてきたしらみを駆除したりした。
傷ついた足の手当をし、自分の手で丈夫な縄でつくった底と、いろんな色の布の甲でできた、わらじを作ったりした。

しかし、1日も教育を休んだことはなかった。
毎朝、どの中隊も教練をやったり演習したりしているのが見られた。

1日2食の最初の食事がすむと、兵士たちは、それぞれ集合して、軍事指導者や政治指導者の講義をきくか、あるいは討論会に参加した。


読み書きのような、一般教育課程はまだ、その後おこなわれたように系統的には教えられていなかったが、土地革命のあけぼのともいうべきこの時期においてさえ、指揮官たちは、できるだけ時間をつくって、読み書きのできないものを教えようと努力していた。

紙や鉛筆はぜいたくの極みであった。
だが、みなは、輪になって地面に腰をおろし、小さな棒切れで土の上に、漢字や数字を書いたのである。



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by far-east2040 | 2018-08-27 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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しかし、紅軍が発展させたもっとも強力な教育方法であり、紅軍が成立して以来、一貫して実践してきたもののひとつは、これまでの戦闘や作戦を分析する会議をひらくことであった。

こういう会議には、朱将軍や毛沢東をふくめて、指揮官や兵士も全員が参加した。
ここでは一切の階級はなくなり、みなが自由にしゃべる権利をもっていた。

戦闘や作戦の計画が討議されたり、必要な場合には、批判されたりもした。
それだけでなく、指揮官であろうと兵士であろうと、彼らの個人的行動も批判の対象になった。
もちろん、批判されたものは、内容が正しくないと思うならば、それに対して弁明することができた。
しかし、非難が正しいと証明されたときには、批判されたものは、そのあとで、紅軍司令部から懲戒処分をうけたのである。


朱将軍は、このような会議をきわめて重視していた。

会議は、できるかぎりの方法で人びとを進歩させたし、紅軍を民主主義的にもしてくれたと彼はいった。

こういうやり方によって、――と彼はつづけたーー戦闘でその任務の遂行に失敗したものや、紅軍の民主主義的規律をおかしたものは、階級をさげられ、再教育されたし、また一方、すぐれた知恵やひいでた勇気をしめしたものは昇進した。

同時に、はっきりものをいうことができなかった農民兵も、軍事や、政治、あるいは人間的諸問題について自分で考え、自分の意見をのべることを学んだのである。

また農民兵は、古い封建的軍閥軍とは反対に、民主主義的軍隊の性格を学び、慎重さと責任を学び、人間として、また、革命軍の責任ある一員として、自己の価値を尊重することを学んだのである。


こういう会議ではまた、新たな戦闘や作戦の計画が、紅軍の討議の議題として提出された。
朱徳はいつも、こういう会議に参加した下級兵士たちがもちだす質問や思想に、深い感銘を受けた。


「わが軍の将兵は、戦闘のさなかには命令に従わなければならないが、国民党軍の兵士のように、命令の意味を理解せずに、ただ命令を受けとってしたがうということは、われわれののぞむところではない。
われわれは、人民革命軍であり、未来を建設しているものであった」



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by far-east2040 | 2018-08-26 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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彼は、主として毛沢東と彼が演説した、東固での一般的大衆集会を回想した。

「われわれの力はまだ弱くて小さい」と、毛沢東は演説した。
「しかし、火花も炎のように燃えあがることができるから、われわれは、無限の将来をもっている」
毛沢東は、いつものように革命の戦略と戦術を説明した。
革命は、まず農村にせまい地域を確保し、東固や井岡山のような強固な山地の拠点を建設することからはじめ、最後には、これらの地域を統合してゆくことになるであろう。

「一定の時期に、かつ、一定の諸条件のもとで」と毛沢東はつづける、「人民の権力は、その地域をひろげ、大都市までふくむようになるであろう。
わが国のごく小さい地点の解放から出発して、われわれは、しだいしだいに、この地域をひろげてゆくであろう。
そして最後には、全中国を解放するであろう」


これは、誰でも理解することができる、きわめて単純で、実際的な戦略である。
しかし、一大陸に対する戦略として、また、未知で、未来というもやを通して見るときには、きわめて複雑で、無数の疑問点は否定できなかった。


朱将軍は、彼独特の話題をもっていた。
彼の演説は、いつでもかならず、主として2つの思想を強調することに成功した。


第一に、各部隊や、人民にむかって、太平の反乱にはじまる、中国革命の歴史的背景を説明し、それによって、彼らこそ、偉大な革命的伝統の後継者であるという確信をあたえ、彼らを奮いたたせた。

第二に、彼は、「中国のような、半封建的半植民地国家においては、武装闘争なくしては、農民も労働者も生きることができないし、また共産党も、土地改革、あるいはその他いかなる改革も、存立の余地がないし、革命の勝利もあり得ない」ということをくりかえしくりかえし説明した。

彼は、こう言明した。

「農村における農民のこのような闘争は、都市における工業労働者や、プチ・ブル――インテリをふくむ――の援助をえて、はじめて成功することができる」



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by far-east2040 | 2018-08-25 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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1929年の早春のことであった。
朱将軍は、部隊と人民にむかって、彼が知っているかぎりの国内、国際情勢を率直に分析してみせた。


彼がいうには、蒋介石は国民党軍11個連隊に対して東固山地の要塞を封鎖するように命じた。

蒋介石はまた、国家の支配権をあらそって、広西省の将軍と戦争をはじめた。
だから蒋介石は、井岡山の封鎖の場合にやったように、自分の最良の軍隊を消耗させることができないのである。

事実――と朱はつけくわえる――誰でも知っているように、元来国民党軍に編入された職業的匪賊にすぎない福建省の諸部隊は、東固の封鎖に加わるように命じられているのだが、ついに顔をだすことはなかった。
こういう軍隊は、「自分たちが支配している領地に平穏にとどまって、税金を集めたり、アヘンを売ったりする」ことだけを望んでいるのである、と彼は説明した。


泥棒や追いはぎ同士が仲たがいをし、たがいに戦っているあいだに、人民は、この好機をとらえてみずからを組織し、武器をかため、人民の権力をうち立てなければならない。


朱将軍はさらに説明をつづける。――東北(満州)においては、中国の支配階級と帝国主義者の双方を巻き込んだ衝突と矛盾が起こっている。

東北を支配している「青年元帥」張学良は、国民党の旗をかかげて日本帝国主義に挑戦したが、同時に自分を守るために、東北におけるすべての国際問題の処理を、南京の蒋介石政権の手にひきわたした。

さらに蒋介石が自分の領土でやったように、青年元帥も、東北における国民党政府の全員に対する独占的任命権を要求した。

こういうことから考えても、国民党は、官僚と軍閥の組織以外のなにものでもないのである。

しかし日本人は、青年元帥と関係を断絶することも、東北をあきらめることもしなかった。
この点では、この広大な地域をねらっていたほかのすべての帝国主義諸国も同様であった。



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by far-east2040 | 2018-08-24 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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遠くすぎ去った時代を回想しながら、朱徳将軍は、反革命勢力と帝国主義諸勢力とのあいだに、衝突や矛盾があったと同時に、革命勢力のあいだにも、かんたんに解決できない問題がひそんでいたことをみとめた。

たとえば、――と、彼はかたった――朱徳と彼の同志たちが、東固についてみると、それまでこの拠点を指導してきた共産党指導者たちのあいだに、非常に奇妙な現象を見いだした。
これらの指導者たちは、地主の息子か地主そのものでさえあった。
しかし、彼らの大部分は、若くて教育を受けている連中で、大革命で重要な役割を演じ、そのころに共産党員になった。

数人は黄埔軍官学校の卒業生で、この有名な学校の教師をしたことのあるものもひとりいた。

全員が、南昌蜂起に参加し、その後、彼らの郷里である東固地方に帰り、土地革命をはじめたのであった。


これらの「インテリ」――朱将軍は彼らをこう呼んだ――は、革命のためにはあらゆることをしたが、ただひとつ、彼ら自身の土地を小作人に分配することだけはしなかった。


ここに、すなわち、共産党の内部にも、すでにはじまっている土地革命のなかにも、思想と行動の両面において、封建主義の残滓がのこっていることが明かになった。

毛沢東や朱徳や、彼らの幕僚たちにとっては、問題はいっそう複雑だった。
なぜならば、ちょうど、強力な敵の諸部隊が紅軍めがけて四方から集中してきているときだったので、彼らは、東固出身の党指導者たちが、生命をかけて誓った共産主義の綱領と政策をもっと忠実に実践するように、あえて強く要求しなかったのである。
もし、このようなときにこの点を強く押したならば、かならず、重大な内部闘争にひきずりこまれたにちがいない。
したがって、紅軍としては、東固の大衆のあいだに革命闘争が湧きあがるのを待つのみ、というわけだった。


このような闘争は、約1年後に、土地革命が江西全省に野火のようにもえ広がったときに、おこった。

紅軍第二十軍団は東固出身者からなっていて、指揮官も政治指導者も、東固の指導者か、そうでなければ、彼らの追随者であった。
この第二十軍団は、ついに紅軍に対して反乱をおこした。
第二十軍団の指揮官たちは、彼ら自身の農民部隊をおそれて、共産党と紅軍そのものをあえて非難する勇気は持っていなかった。

そのかわり、毛沢東と朱徳をにせの共産党員だと攻撃して、彼らだけの小さな共産党を結成した。


このような地方指導者の中で、忠誠をまもって、紅軍にとどまったのはたった一人だった。

この男は、その後、第十五軍団の参謀長になった。
朱徳が筆者に話しをしてくれた1937年にも、まだ紅軍にいて、抗大、すなわち延安の抗日軍政大学の指導者になっていた。

しかし、その他のものたちは、当時もはや個々人の仕事ではなくなっていた土地革命の流れをくいとめることに、いうまでもなく失敗したのであった。



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by far-east2040 | 2018-08-23 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編

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この巻では、1926年から1927年7月中旬ぐらいまでの期間の軍閥と外国人支配に対する闘争が描かれている。

国民党右派、左派、共産党などの政治的確執は水面下。

蒋介石が北伐軍総司令官として台頭し、歴史に名を残していくプロセスがわかりやすい。

現在の中国が外国からの干渉を警戒し、さけようとする国情も歴史的にみれば理解しやすいと思う。


映画や本になってよく知られている3人の宋姉妹も登場してくる。

映画では長女はお金を愛し、次女は国を愛し、三女は権力を愛したと語られているが、言い得ている。

長女はほとんど政治的に目立つことはなかったけれど、裏で実質的に宋慶齡以外の宋一族を動かしていたのはこの女性といわれている。

気になるキーワードは、


張作霖――満州軍閥で日本陸軍との関係は濃厚。

 

畜妾――孔子の教えでは推奨されていたと読んだことがあるが、確認したことがない。

    軍閥の妾の数の多さにびっくり。


イギリス軍――中国への干渉の仕方が露骨だ。


軍閥の堕落――


万県事件――イギリス軍による中国への4回目の干渉。
  イギリス人は自国の近代史をどう教えられているのか。

      第二次世界大戦が終わったときは同盟国のような関係だったので、それまでのことは帳消しされた感じがする。

      数と露骨さでは、日本軍の方がはるかに上回っていたのはたしかだが……。


葉挺――鉄軍の指導者として活躍


賀竜――鉄軍の指導者のひとりだが、ユニークなキャラと経歴の持ち主。

    現在中国に「賀竜スタジアム」という施設があるのだが、その賀竜のこと。どういうふうに「賀竜」になっていったのか興味が尽きない。


政治指導員――軍指導者だけでなく、政治指導員としての毛沢東、周恩来の名がこのころ浮上してくる。毛沢東は論文を仲間内に発表している。今ならネットで自分の主張をある程度まとめて発信することか。

   

毛沢東と陳独秀の確執


彭湃――農民組織者のひとり。純粋な人だ。


劉伯承――朱徳のように軍閥から共産党に転向した軍指導者。


上海ゼネストーー2回とも周恩来が企画したと。そのとき周恩来も捕まるが、脱走に成功。敵の将校が積極的に追わなかったから。ここで死んでいても不思議ではない人だ。


土地の分配――農民みずからがこのころから始めた。ただし、土地の分配は中国の歴史上民衆蜂
起があれば、必ずしたこと。それを太平天国もある程度やり、中国共産党が徹底的におしすすめることになる。

      

南京事件(1927年)――蒋介石が反革命の態度をとるようになるきっかけになった。      外国が手助けしている?

            

上海虐殺――宋慶齡が怒りを表現する。

      故孫逸仙夫人として初志を貫けた理由のひとつに、周恩来夫妻との水面下の友情があったと読んだことがある。


蒋介石と宋美齡の結婚――宋姉妹の長女宋アイ齢のシナリオですすんだ結婚。大富豪孔祥煕夫人としての地位を利用して、かなり大胆で無節操なふるまいで資産をさらに増やしていった女性。

          

つづいて第6巻は、大虐殺をくぐり抜けた革命側の新たな戦術が展開される。

         


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by far-east2040 | 2018-08-22 20:01 | 『偉大なる道』