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             周恩来(『抗日解放の中国』より借用)


ちょうどこの蜂起が崩壊し恐怖に支配されていたころ、イギリスの特別遠征隊が、アメリカ、フランス、日本の陸戦隊とともに上海に上陸した。

そのころ蒋介石の軍も、上海に集結しつつあった。

彼らの上陸の3日後、――2月19日に、上海の労働者はストライキに入ったが、これを1回目として、後に2回のストライキがおこったが、すべて周恩来が組織したものであった。

揚子江下流域の軍閥、孫伝芳将軍は、おのれの全力をあげて、1回目と2回目のストライキにおそいかかり、それをつぶし、大衆への見せしめとして、何百の労働者の首を斬った。


それにひるまず、労働者は3回目のゼネストをやり、3月下旬、ちょうど蒋の軍が上海に近づきつつあったときに、全市を麻痺状態にした。

ピストルをかざした3百人を先鋒として、彼らは、警察署、守備隊本部、それから兵器廠を襲撃した。
そして武器を手に入れて、軍閥孫の部隊とたたかって、全上海地区を追い散らし、そして蒋の軍を市に歓迎するために、代表を派遣した。


私(スメドレー)は、その代表のひとりを知っていた。
彼は鉄道の運転手であったが、労働者の武装隊に投じて、軍閥孫の下の白系ロシア人連隊と、北停車場と鉄道沿線で戦った。
一日一夜、休みなく戦い、ついにその傭兵を根こそぎ追っぱらった。
蒋介石の軍を歓迎する代表使節のひとりとなったことが、彼にはうれしくてたまらなかった。
しかし国民軍先鋒部隊――広西省からきたものーーの司令部についたとき、彼と同志は、冷淡な扱いを受けて、おどろき、とまどったのであった。


「士官たちは、わたしらの歓迎の言葉はきいたんです。
だが一言もいわないで、わたしらをにらんでいた」と、彼はいった。
「蒋の軍が入ったところでは労働者の運動を弾圧している、という噂はたくさんきいていたんです。
が、わたしらは、そういうことは、ひとりひとりの部隊長がやったことだ、と思っていた。
ところで、わたしらは戦って、何千もの同志が死んだんだが、蒋の士官らは、わたしらを敵みたいに扱った。
わたしらが、帰って労働組合の本部にそのことを報告すると、みなのものが不安になった。
だが、われわれはまだ銃をしかとにぎっているんだから、やつらもわれわれに、ひどいことはするまい、と思ったんです」



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by far-east2040 | 2018-07-31 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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            イギリス海軍の練習艦(Wikiより借用)



2日後の3月24日、蒋介石軍の他の一支隊は、南京に突入して、無数の敵軍を、市中に追いまわした。

敵軍は逃げながら掠奪を始めたのだが、まもなく蒋介石の軍隊もーーその多くは軍閥の軍から寝返ってきたものだから、――いっしょになってしまった。
そこで巻きおこった騒乱の中で、イギリスと日本の領事館その他の外国人の家が掠奪された。
6人の外国人が殺され、12人が傷ついた。


イギリスとアメリカの砲艦は、即座に南京に向かって火ぶたを切り、騒乱を終焉させ、それから陸戦隊をあげて、居留民を護衛して砲艦にむかえた。
この事件で、数百の中国人が死んだ。


この「南京事件」は、ほとんど国際武力干渉を招くところだったが、蒋介石をしてついに反革命の態度をとるようになった多くの原因の一つにもなった。

蒋の方針は、もともと決まっていたのだ。
しかし、いまや彼は、この南京事件の責任をすべて共産党に負わせて、わが軍内にいる政治工作員がこの暴発の元凶である、と声明した。


外国人はこの解釈を喜んだのだが、総じて彼らも蒋も、ほとんど共産党に支配されていた「鉄軍」こそ、全国で最も軍規が正しい軍隊であり、かつて掠奪も外国人への暴行もしたことがないという事実を無視したのだ。


朱徳将軍は、南京事件と上海ゼネストとにつづく悲劇的な余波については、つぎのように語った。


――南京事件のさなかに、蒋介石は船から南京にいったん上陸したが、市に入って秩序を恢復することはしないで、にわかに他の船に乗りうつって上海に向かい、そこで彼は、労働者に、武器を捨て、ゼネストを中止し、工場に帰れ、と命令した。

当時上海にいた共産党書記長陳独秀は、労働者にむかって、その命令にしたがうようにと勧告した。

労働者は、すでにかずかずの奇怪な事件の発展によって目覚めていたので、その勧告を拒んだ。

漢口の国民党政権は、布告して、今後は軍事は行政権に従うようにと命令した。

上海には、革命臨時政権がすでに樹立されていて、労働者は、その政権、――すなわち漢口からの命令を受けている政権に、したがうことを誓った。


だが労働者は見たーー蒋介石は、上海に入ると、ただちに、中国の銀行家、工場主、それから青幇と、秘密の交渉に入り、青幇の連中は、フランス租界と共同租界当局の本部とのあいだを、いそがしく、かけまわっていた。
しかも、蒋は、この上海を解放した革命勢力とは、話し合おうともしなかった。
彼らに対しては、蒋は、元の奴隷状態に復帰すべし、と厳命した。
青幇というのは、何万という、暴力団、アヘン売り、泥棒、女衒、ごろつきなどから成り立ち、外国人および中国人の反動派とつながっていて、労働者その他の革命勢力から憎まれていた。



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by far-east2040 | 2018-07-30 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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           アメリカ海軍の駆逐艦(Wikiより借用)


朱徳の説明によると、もはやこの時には、革命をつぶそうとする国際的陰謀は、世界のあらゆる帝国主義国の首府から、上海にむかって毒手をのばしており、外国人たちは、いつのまにか、蒋介石は結局は「過激派」ではなく、じつに善良な人物だといい出した。
「外国人は、片手で蒋介石をなでながら、もうひとつの手で、国際武力干渉で、おどかした」


蒋介石も、なかなかの人物で、本音を隠して計画を立てていた。

だがその本音が、あからさまになったのは、後のことだった。

中国銀行団は、蒋にむかって、もし革命をすてて、独力で軍事独裁政権をうちたてさえすれば、融資と外国の承認を約束する、と申し出た。

その融資の額は、2500万ドルとか3000万ドルとかと噂されていたが、私(スメドレー)は、やっと1949年に、もっとも信頼できる外国の情報によって、それは当時の貨幣で6百万元にすぎなかった、ということを知った。


この融資の代償として蒋に課せられた仕事とは、漢口国民政府と縁を切るだけでなく、上海の労働者の武装解除をして、元の工場に追い返し、共産党をつぶしてしまい、国民党とソ連との同盟を断ち切る、ということだった。

しかしこの陰謀の、あらゆる筋書きがはっきり明るみに出たのは、第二次世界大戦の後になってからのことだった。

朱徳は、この仕事には外国の干渉が関係しているにちがいない、と信じていたが、スメドレーに物語っていた1937年の時点では、その証拠はつかんでいなかった。

しかし、第二次世界大戦後に、ジョン・B・パウエルという、上海の『チャイナ・ウィークリ・レビュー』という新聞の所有者兼編集長で、かつ反共産主義の闘士で、いかなるときも蒋介石の味方であった人が、彼の自叙伝を出版したが、その『中国での二十五年』という本の中では、そうした外国からの干渉のことがいいことであるかのように書かれている。



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by far-east2040 | 2018-07-29 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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            孫炳文(左)と朱徳(右)(ネットより借用)



蒋介石は、上海の労働者を弾圧するには、自分の私軍の兵士たちでは、頼りにならないことはわかっていた。
だからこそ、秘密結社の青幇に頼らなければならなかったのだが、その青幇は、この仕事をするのに十分な兵器弾薬をもっていなかった。

ジョン・B・パウェル氏がいうのだが、青幇の首領たちはフランス租界の行政庁(工部局)といっしょになって、共同租界のアメリカ代表のスターリング・フェセンデン氏から積極的な援助を受けた。
そして青幇は、5千丁のライフル銃と弾薬を与えられ、また反軍閥・反帝の本部がある
閘北中国人街の労働者に攻撃をかけるために、共同租界を通過する権利も得た。


青幇が、まず虐殺をやって火をつけ、それから、蒋の軍の、気も進まない兵士たちに、労働者が暴動をはじめて虐殺をしているから、攻撃して法と秩序を回復せよ、と告げるのであった。


それで、4月12日の真夜中に、何千もの暴力団は、自由に共同租界を通過して閘北に押し入ることができた。
共同租界と閘北とのあいだには大きな柵がつくられていたが、その門扉は音もなく開き、虐殺は開始された。

最初の攻撃は、上海労働組合の本部にくわえられ、そこに寝ていた主な指導者たちは、みな殺された、それから、虐殺は閘北のあらゆる区域にひろがり、一方で、外国警官と探偵は、外国人租界で人狩りをはじめ、つかまったものをすべて暴力団の手にゆだねた。


夜の闇のうちに、蒋介石の軍に、「労働者の蜂起、暴動、殺人を、力をもって制圧し、法と秩序を回復せよ」との行動命令が下った。
3日間がたってみると、約5千の、労働者、国民党左翼党員、共産党員、無党派の知識人、などが殺されていた。
朱徳の旧友
孫炳文も、殺されたものの中に入っていた。
ゼネストの組織者、
周恩来はとらえられ、広西軍の一部隊に送られたが、その隊は彼が逃げるのを見のがした。



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by far-east2040 | 2018-07-28 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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              閻錫山(Wikiより借用)


虐殺が終わると、蒋介石は、青幇の親分を、新しくつくられた労働組合の書記長に任命した。
この男が、後には蒋介石の軍の政治主任になったのであった。
青幇の暴力団員どもは、何大隊かに組み分けられて、揚子江の下流地方の、村や町や都市に派遣され、そこで彼らの虐殺行為を重ねたのだった。


漢口の国民党中央委員会は、蒋を党から除名し、指揮権をうばったが、彼は平気で、自分を首席とする自家製の国民党と軍事政権を、南京に組織した。
彼は、融資も受けた。
しかし、彼に対して、帝国主義列強が、さらに融資し、承認し、彼の政権の各部門を監督するために顧問を送ってきたのは、2年後だった。

外国は、彼を金で釣って、きりきりはたららかせ、その上で彼が「誠意」をしめすーーつまり反軍閥・反帝の革命を完全にたたきつぶすまでは、彼を中国の主導者としては認めなかった。


いまや、蒋は、新旧の軍閥のあいだで大きな人気をもち、彼らは続々と国民党に加盟したり、その政府に入ったりした。

漢口の国民党左翼の多くのものまで、そっと南京の方に歩み寄っていき、その中のあるものは、しばらく上海にとどまって、最後の決断をする前に、熟慮の時をもったりした。

山西省の中世的な軍閥閻錫山(えんしゃくざん)は「北方革命軍」の総司令官に任じられ、後に蒋介石政権の国防部長になった。

1927年の末までに、蒋介石は閻錫山だけでなく、北京の軍閥張作とも同盟を結んで、「共産党」――それは彼らにとっては、大革命によって解放された民衆の大きな社会的勢力、ということを意味していたが、それを根こそぎにせよ、と公言した。

北京の張作霖は、この新同盟の祝福のために、何百の北京の進歩主義者をとらえて殺し、その中には、女学生も入っていたが、彼女らは、手首までの袖でなく肘までの袖の服を着ていたために、わいせつであるという理由からであった。


朱徳は、上海の殺戮の報告に驚愕して、考える力を失うほどだった。
彼がいうには、
劉湘が四川で殺戮をおこなったときには、おどろきもしなかったが、――上海といえば、反軍閥・反帝の運動の中心地ではないか。
――だが、上海は同時に、中国の買弁資本、つまり、心身ともに外国金融資本にしばられた資本の中心地でもあったというわけだ。

「それからの十年を通じて」と朱将軍はいった。

「中国のブルジョア階級は、帝国主義に圧迫されているくせに、その外国帝国主義および中国の封建的地主階級と、反動的な同盟をむすんだ。
こうして、ブルジョア階級は、蒋介石を旗頭にして、革命を裏切り、そして国民の敵になった」



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by far-east2040 | 2018-07-27 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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             汪精衛(左)と蒋介石(右)(Wikiより借用)


上海虐殺の直後に、共産党は第5回大会を漢口で開いた。

朱徳は出席しなかった。

主要な国民党員は出席して、会場で発言したが、その中には、最近ヨーロッパから帰ったきた漢口政府首席、汪精衞もいた。

しかし、汪は漢口にあらわれる前に、上海で蒋介石と秘密の談合をし、それから漢口につくと、国民党左翼の中の彼の一派を秘密裏に召集し、彼と蒋介石との協定を承認させた。

共産党書記長陳独秀は、大衆運動に関しては自分の過去の過ちを認めたが、なおも、毛沢東の農村革命の理論や労働者農民の武装の問題を討議することはさまたげ続けた。

しかも共産党は、――朱将軍の説明では、労働者農民の武装を遠慮すれば、決定的分裂がさけられるだろうと考えながら、国民党左翼の指導者のいうことにしたがっていた。


1927年の5月から7月にわたって、反動攻勢のために、全国的に血が流れた。
湖南省で反抗してたちあがった数千の農民、南方広東での数百の労働者は、豚のようにたたき殺された。


当時も朱徳が軍官学校長をしていた、江西省の雲南軍は、労働者農民の指導者を殺し、彼らとともに戦った共産主義者を追放した。


反革命が国中をどんどん押しまくっていたとき、汪精衞が首脳となった漢口国民政府は、圧力をかけてくる蒋の軍と、喧嘩の真似事をして見せていた。
一方「クリスチャン将軍」
馮玉祥は、二つの力の均衡をとりながら、蒋と秘密の打ち合わせをした上で、漢口に向かって、共産党を弾圧し、ロシア人顧問を帰国させよ、と勧告した。
なお、国民党左翼の指導者たちは、その気があるならば、「休養のため」外遊してもよかろう、ともいった。
汪精衛は、内心はこういう勧告に飛びつきたかったが、彼には、おれは蒋介石のような成り上がり者ではなく、孫逸仙の後継者だ、という誇りがあった。


汪とその一党は、蒋を相手にして権力と地位の一幕を打ちはじめた

おのれの私軍と見なしていた「鉄軍」を江にそって江西北部までくだらせた。
湖南の元軍閥、
唐生智の軍の一部は、やはり下流に移動させられたが、残りのものは、武漢にとどまって、労、農、学生の組織の本部を占領した。


このようにはるか以前に起こった悲劇を想起したとき、朱将軍の目は、私の部屋の奥の闇黒の一点を見つめ、声は低くするどくなった。


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by far-east2040 | 2018-07-26 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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             宋慶齡(Wikiより借用)



「国民党左翼政治家と軍人は、上海の虐殺とともに開始された反動攻勢に対して、労働者農民の支持をもとめて戦おうとしなかったどころか、大衆運動を弾圧しはじめた。

いままで漢口政権の骨肉になったものは人民の運動にほかならなかったのに、すでに7月の中ごろには、軍事政権化していた。
大衆の支持をうしなった
汪精衛と左翼の分派は、漢口で、空のひょうたんに入れた豆のように、うるさくさわぎ出した。
一方では、『鉄軍』で蒋をおどかす振りをしながら、その中でもっともうるさい、有力な政治家どもは、そろそろ南京上海の袖を引きはじめていた。
財政部長の
宋子文は漢口を去った。
孔祥煕博士孫科は、すでに上海にいた。
国民党の、左右の両翼の指導者とともに、故孫逸仙の衣によって身をつつんでいたが、真に孫の意思を明らかにしたものは、未亡人
宋慶齡だけであり、彼女は両翼をともに否定していた。
彼女は声明を発して、故孫逸仙は、ロシアがまだ帝政下にあったときに、すでに農村革命を唱道していたということをしめし、いま労働者農民の運動を『新しく奇怪な産物』であるとして非難しつつあるものを弾劾した。
また彼女は、1927年の農民は、孫逸仙が革命を起こしたころよりもさらに悲惨であり、大衆運動の弾圧は、国民への裏切である、といった。
しかし彼女は、すでに革命の影響下にある数多くの民衆は、勝利の日まで闘争をつづけることを確信する、といった。


「孫夫人は、彼女の亡夫の主義への忠誠をすてなかった、数人の国民党指導者とともに、ヨーロッパに亡命した。

その中には、外交部長陳友仁もいたが、彼は汪精衛の一派に属していた。
数ヵ月後には汪自身も外遊したが、彼と陳、および彼らの取巻きは、しばらくして帰国し、彼ら一党の権力のためにたたかった。
汪は、結局蒋と合作したが、蒋との権力闘争はつづけた。
そのころには、政治的には、両者のあいだに甲乙はなかった。
だが、蒋の方が軍事力を持っていたので、優勢であった。



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by far-east2040 | 2018-07-25 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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              宋美齡と蒋介石(Wikiより借用)


「1927年の7月中旬までには、大革命の幕はとじた。
左派の革命家たちは、ロシア人顧問とともに逃亡し、流血は河をなし、将軍たちは、そむいたり、したがったりのくり返しで、いたるところ混沌たる騒乱だった。
蒋介石は、覇権に近づきつつあり、新旧の軍閥を手中におさめ、彼らをたがいに相争わせながら、自己の優越の地位を保った。
ちょうど1911年革命後に袁世凱が権をにぎったときのように、蒋も、外国帝国主義と中国ブルジョアジーと封建的地主階級の3つの力の合体によって支えられていた。
ちょうど袁世凱のように、蒋は、外国人によって、愛国者、国家の柱石、大政治家、そして中国を統一する能力をもつ唯一の強い男、とよばれていた」


蒋は、少なくとも一つのことを、袁世凱から学んだ。

彼は、袁のように、キリスト教諸国にむかって、自分のために祈ってくれ、というのではなく、すぐに自分でキリスト教会に入った。
またすぐに妻と妾たちをすてて、
宋美齡、つまり孫逸仙夫人と孔祥煕夫人の妹と結婚した。

蒋のこれらの行為は「巧妙な戦術だった」と、朱将軍はいう。
キリスト教徒となることによって、彼は、「背後にキリスト教国の宣伝機関」をもつことができ、宋姉妹のひとりと結婚することによって、自らを中国の大財閥――宋孔二財閥の膝のうえにのせることになった。


この「巧妙な戦術」は、さらに、孫逸仙夫人を義姉にもつことによって、彼を、孫逸仙の衣鉢をつぐ正統者とするだろう。
その戦術を構成するただ一つの環が、その場所にはまることをこばんだーーというのは、孫夫人は、彼女の夫の聖なる名が反革命の飾り物になることを防ぐために、中国を去って外に出た。

蒋は、姻戚関係に乗じて、彼女に、ヨーロッパから帰って「慎重に考慮」されるようにと打電した。

彼女はそれを無視した。



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by far-east2040 | 2018-07-24 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

第4巻「探求」を読んで

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朱徳がドイツに留学していた、1925年3月12日孫逸仙が北京で亡くなった。
ドイツで、朱徳の仲間たちが追悼会をひらいたことが描写されているのだが、外国の帝国主義者だけでなく、多くの中国人が彼の死をよろこんだというくだりは意外だった。

このころの中国国内の政治情勢の複雑さや階級間の確執を思う。


気になるキーワードの覚書。


孫逸仙―上海で朱徳は実際に会見したのだが、そのときの会話の内容や受けた印象が書かれている。

    孫逸仙と直に向き合った人からの聞き取りの記録としては貴重だと思うのだが。

    存命中は、新聞ではめちゃくちゃに言われてきたようだ。


汪精衛―日本では、世界史の教科書で汪兆銘という名前で出ていたが、受験科目として通過しただけで、ほとんど何も記憶がない人だった。

    この本を読んではじめてどういう人だったかがわかってきた。
会見した朱徳は、好ましく思わなかったようだが。


陳独秀―中国共産党の初代総書記で、当時の進歩的な若者への影響力が大きかった人。
朱徳はヨーロッパへ旅立つまえにこの人に会い、共産党入党を拒否される。
いろいろな朱徳のうわさをきいていたので、陳独秀のその場の対応は責められないと思う。


周恩来―パリで滞在場所の情報を得て、ベルリンで周恩来とはじめて会うシーンは印象に残る。周恩来の容貌や誠実さ、首をかしげて相手の話しをきく癖の描写が的確。

    四川省にそのままとどまっていたら、会うこともなかった?
あらためて行動することの大事さを思う。


ストライキー香港の中国人労働者のストライキはイギリス人労働者からの影響を受けていた?


少年労働―上海の工場での使い捨てのような過酷な少年労働の実態の描写は、ハン・スーインの本ですでに読んでいた。
朱徳やハン・スーインをはじめとする多くの知識人が、この実態を救えるのは中国共産党しかないと当時は考えた。

    きまぐれに書物やカマや鋤を捨てて、一時のはやりの理論に「かぶれた」のではなくて、内面の深いところに動機があることがこの本を読むとわかってくる。


北伐―軍閥や外国の帝国主義者とたたかうために南部の国民党、共産党の枠組みをこえてまとまろうとした。

    有名な蒋介石が頭角をあらわしてくるのだが、複雑な政治情勢が展開される。

    次の第5巻では「大革命」ということばで表現されて、混乱してくる。  

    さっと読んだだけでは、大革命ということばが出てくるたびにたちどまることが多くあり、大革命=北伐と最近やっととらえることができた。


孫科―孫逸仙の息子として少し登場。

   世襲で継げるものは父親と息子の関係だけ?


帝国主義―招かれたドイツ人家庭の調度品に対する観察のするどさ。

     帝国主義とは泥棒行為?


つづいて第5巻「大革命について」では蒋介石をはじめとする反革命のグループによって共産党や大衆運動が弾圧される。


建国にいたる道は険しすぎる。



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by far-east2040 | 2018-07-23 12:31 | 『偉大なる道』

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朱将軍は、ヨーロッパに向けて出発する前にやろうと決めたことが3つあった。
その3つのことは、揚子江を上海へとくだっていくあいだに、思いついたのであるが、そういうふうに、彼は、生涯を通じて、あらかじめ十分に計画を練って、ことをおこなうという習慣をもっていた。


1つ目は、アヘンをやめて以来、彼を苦しめていた不眠症を治すために、上海のフランス病院に入る。
もうほとんどアヘンをほしがらないようにはなってはいたが、不眠症の辛さのために、麻薬への誘惑を感じることがあった。


2つ目は、沿海地方と華北をできるだけ見学する。
というのは、彼は、中国といっても極西と西南のほかは知らない田舎者だった。
南京、上海、北京などの大都市の名前は、彼の五体の中にきざみつけられていたが、実際はどんなところかいうことは、想像するしかなかった。
上海は帝国主義の極東における稜堡(りょうほう)ということは知ってはいたが、中国西部の人びとは、新しい科学によって生まれ、金のなる木が生えている市だ、といい伝えていた。


3つ目は、北京の新聞発行に従事している孫炳文をとおして、五四運動の指導者たちを紹介してもらい、孫が前年日本でともにはたらいた孫逸仙やその他の民族革命の指導者たちにも会いたいと思った。

そうした民族革命の指導者のなかで、彼が会いたかったのは、国立北京大学の教授であり、新文化運動の指導者であり、生まれたばかりの中国共産党の創建者であり書記長である陳独秀であった。


上海につくとただちに、朱将軍は人力車を急がせてフランス病院にゆき、自分はアヘンを吸う習慣はなおしたが、まだ夜間に眠ることができないことをいい、治療することができるだろうか、とたずねた。


朱将軍の諸計画に、フランスの影響が強かったことについては、15年後に生涯のことを私に語ったときでも、みずから気づいていないようだった。
彼は自分の金はパリの銀行に送り、上海に上陸すればフランス病院を目ざし、やがてフランス汽船会社にいって、9月はじめにマルセイユに向かうフランス船「アルジェ号」の3等切符2枚を予約する。
1枚は彼自身のもの、もう1枚は孫炳文のものであり、その件については、上海につく前から手紙を出していた。
孫からは予約をとってくれ、それから北京に来るようにと返事してきた。



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by far-east2040 | 2018-07-23 09:00 | 第4巻「探求」改編