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           廖仲愷(Wikiより借用)



学習は、中国からの報道によって、かき乱され、困難を感じさせられた。
孫逸仙の遺骸に安らかに眠る時もあたえないほどのうちに、すぐに国民党内の反動派は徒党をむすんで、広東革命政権の基本理念だった三大政策をくつがえそうとした。

孫博士の一人息子の孫科も、反動的な西山派の一員になったが、彼らは、三大政策に挑戦し、香港や上海のような帝国主義者の牙城に、活動の中心をおいた。

そのため、指導者たちは、1926年1月の第二回国民党全国大会によって追放された。
しかし、それにもくじけないで潜行運動をつづけた。


また1925年の秋には、孫逸仙の高弟であり友人でもあり、労農提携の主唱者だった廖仲愷(リョウチュウガイ)が広東で暗殺された。

下手人は、胡漢民に金をもらって、暗殺を引きうけた、と自白した。


ふたたび、中国革命の上に暗雲がむらがってきた。

朱将軍は帰国の準備をはじめた。
しかし、国民党の第二回全国大会によって、安堵感をもち、ふたたび勉強にもどった。
大会は1926年1月に広東でひらかれ、孫逸仙の三民主義と、三大政策を再確認した。

また、国民への声明を発表して、過去の革命の闘争の失敗は、知識人階級が労働者や農民と同盟できなかったことが原因といましめた。

現今の革命は「農村と工場においてこそ実をむすぶだろう」
そして、もし中国人が、外国の帝国主義の役に立ちたいと思うならば、民族統一戦線をやぶるのがいちばんだ、と声明はいうのであった。


この国民への呼びかけが行われて1ヵ月のあと、新たな不吉な事態が発展して、朱将軍は、ふたたび勉学をさまたげられた。
広東の黄埔軍官学校長の蒋介石がクーデターをおこし、軍事独裁政権を樹立し、すべての国民党左翼と共産党指導者とソビエト人顧問を市から追放した。

蒋はさらに、孫逸仙の三民主義もたたきつぶそうとした。

しかし、このクーデターは短命だった。
というのは、蒋の権力の基礎は、上海にあり、革命の地広東にはなかったからだ、と朱将軍は説明した。



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by far-east2040 | 2018-06-30 09:00 | 第4巻「探求」改編

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             若き日の周恩来(Wikiより借用)


国民党とのあいだの、だらだらとつづく交渉の結果、休戦状態がつくり上げられた。
共産党指導者の一部は、民族統一戦線を維持することにあせり、もし蒋が孫逸仙の三民主義と三大政策を守るならば、自分たちは地位を捨てさっていいといった。

蒋は、時をかせぐために合意した。

彼は声明を発表して、みずからのあやまちをみとめ、孫逸仙の三大政策に忠実になると誓った。
地位を去った共産党員の中には、新革命軍の政治部主任周恩来がいた。

前年ベルリンで朱徳の友であった俊英な革命的知識人鄧演達が周の後任になった。
朱徳の旧友
孫炳文は、鄧の下で、副主任にとどまった。


「蒋介石は、鄧演達まで憎んだ」と朱将軍はいった。
「だが、その当時は、どんな処置もとることができなかった。
数年後彼の手下は、ひそかに
鄧を上海で捕らえて南京に送り、そこで蒋が殺した。

蒋の広東でのクーデターは、一時は失敗したが、彼はしばらく隠忍して、彼の革命軍をひきいて上海に入る時を待った。

彼は、6月または7月を期して北に向かうべく準備している『北伐軍』の総司令官に任命された。

われわれの中国革命は、たくさんの過失をおかしたが、1926年の広東における対蒋介石の処置も、そのひとつだった。
なにぶんにも、われわれの党は、弱くて未熟だった。
われわれは、民族統一戦線内の多くの党や団体のうちのひとつにすぎなかった。
蒋の流産クーデター、その他の反革命的行動と爆発は、全世界にちらばっていた中国革命家たちを刺激した。

多くのものが故国を目指して帰った。

私も、軍閥および外国の帝国主義とたたかう北伐軍が7月に進出するまでには帰国したいと、精力的に学習した。

その3、4ヵ月というものは、昼夜兼行で勉強した」



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by far-east2040 | 2018-06-29 09:00 | 第4巻「探求」改編

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6月中旬のある夜、朱将軍は書物や文献と別れをつげ、9人の中国人と一団となって、ベルリンスポーツパレスでの中国問題に関する大集会にはせ参じた。

ドイツ政府の特別命令によって、中国人はこのような会合に加わることを禁じられていたが、聴衆としてそこにいって、演説をきくことが悪いわけはなかった。


集会がおわり、場外に出ようとしたとき、朱徳の一団はにわかに警察隊におそわれ、逮捕され、囚人護送車にぶちこまれて、アレクサンダー広場の拘置所にはこばれ、そこに10日間監禁され、そのあいだ当局は、彼らを留めおくべき何か法律はないかと研究した。


「私は、それまでにも二度つかまったが、いつも釈放されていた」と朱将軍は微笑しながらいった。

「こんどの逮捕でも、心配はしなかった。

私は、拘禁の状況はどういうものか知りたかった。

監房内は静かで平和で、私はこの数ヵ月勉強しすぎていたので、ここで睡眠不足を取りもどす時間をもった。

毎朝、守衛が私の小さな独房に入ってきて、机の上に、うすいコーヒーが入ったブリキ缶と黒パンのひとかたまりを置いた。

私はそれをたいらげると、運動をやり、しばらく歌をうたって暇つぶしをし、それからまた寝た。

正午にも晩にも、守衛がまた入ってきて、机の上に、黒豆の皿と黒パンのひとかたまりを置いて、出てゆく。


「そういうふうにして10日がたって、われわれは法廷に出されて、旅券を見せろといわれ、それからいくつかの簡単な訊問をうけた。
裁判官は、われわれを騒擾罪にあたるものとし、24時間以内にドイツ国外に退去するように申しわたした。


「中国大使が申し入れをして、一団中の8人の追放を取り消させたが、私ともう一人はだめだった。

このふたりは、以前にも逮捕されたことがあり、この大集会の準備に一役買っている疑いがある、というのだ。
もちろん、われわれはみな一役買っていた! 
しかし中国大使が、そっと教えてくれた話によると、イギリス政府が、内密に、われわれをドイツから追放することを要求し、ドイツ政府がそれにしたがった、ということだった。


「私は、かねて中国に帰る準備をしていて、ちょうどソ連経由上海までの三等乗車券を買うだけの金はあった。
ともにドイツから追われた友人は、フランス経由で帰国した。
私は、3つのトランクに、本や地図や文献類をつめて、シュテッティンを出帆してレニングラードへ向かった」



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by far-east2040 | 2018-06-28 09:00 | 第4巻「探求」改編

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             エンゲルス(Wikiより借用)


船がバルト海の波をわけてすすむとき、朱将軍は甲板をあるきながら、この4年間の経験にしめくくりをつけようとした。
彼は、1922年に中国を去ったときとは、かなり変化した人間になっていた。
中国における反革命運動の爆発をうれえてはいたが、今では、かつて彼をとらえていた悲観と混乱、絶望からは、完全に卒業していた。
ドイツについてはいうまでもなく、他の西方諸国についても、交友や勉強によって、多くのことを学んだという自信があった。
なによりも、ドイツ在留の中国共産党員との共同の研究によって、過去の中国革命はどうして流産したか、また現在の革命をいかにして救うべきかを知った。
革命的知識人階級の、労農大衆との結びつきこそが、未来の中国の勝利への鍵であった。


彼の新知識の根底は、エンゲルスによって定義された歴史進行の大法則であり、それによれば、あらゆる政治的、宗教的、哲学的、そのほか一切のイデオロギーの闘争は、社会階級の闘争の表現である。
「私が、この歴史進行の法則を知ったことは、そのほかの学習や経験と相まって、中国の過去と現在の歴史を理解する鍵をつかんだことになった」と彼はいった。


朱徳将軍だけでなく、世界のいたるところから中国人が、故国を軍閥と帝国主義との桎梏から救う決戦に加わるために、心せきながら、飛び立つように帰国しつつあった。

中国の危険状態を思うにつけて、彼は、共産党員であることは仲間以外には秘密になっていて、一般には国民党員としてしか知られていないことをありがたいと思った。

広東の革命政権は、軍閥の中でも比較的害の少ない者を、中立化させるか仲間に入れるようにしていたので、彼としては、昔の軍人仲間たちのために、何か役に立ってやることもできると思われた。

思い出せば、かつては1911年の革命派だった四川の楊森将軍は、1922年に、彼に参謀になってほしい、といったことがあった。

今の自分が、中国を洗う新革命の波のなかで、軍事的にまたは政治的に一仕事できないとは、だれもいえないであろう……。
それにしても、今度こそは、若かった日におかした、かずかずの過失を避けることができるはずだ。
彼はいま四十歳だが、いまこれから革命生活が始まるのだ、と感じた。



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by far-east2040 | 2018-06-27 09:00 | 第4巻「探求」改編

        
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        談笑する朱徳と周恩来(ネットより借用)


蔡鍔(さいがく)がいなかったら、「中国の歴史の流れは、非常にちがったものになっていたであろう」というスメドレーの述懐がやっとわかってきた。

30代の若さで、結核治療のためにむかった日本の九州大学医学部附属病院で亡くなっている。

同じ中国人の仲間がいたこともあると思うが、当時の日本の医学がすすんでいたことも感じる。

蔡鍔の北京脱出を助けたといわれている女性はこの本では登場しないが、男と女ということでいろいろ脚色されて語られているようだ。

忠臣蔵でも大石内蔵助が芸者遊びをしていて「たいそうなことは考えてない」と周囲に思わせていたシーンと似ていると思った。


とにかく、蔡鍔を描いた映画やドラマには朱徳とこの魅力的な女性が出てくることがわかったので、機会があれば観てみたい。

一番新しい映画ではアンディ・ラウという二枚目俳優が蔡鍔を演じている。


朱徳の方は、身辺に大変化が起きた。

貧農から軍人として出世した朱徳が結婚する。

最初の夫人は息子を出産後病死。
その後、理知的な女性と再婚するのだが、殺害されずにずっと生きていたら、いい働きをしていただろうと思う。

この再婚した女性は朱徳の子を産まなかった。

朱徳は、軍閥闘争にまきこまれて、にわかに誕生した軍閥なら当たり前のこととして、この妻がいながら、別の多くの妻や妾をもつ生活をしていたようだ。


気になるキーワードの覚書。

善後借款―鉄路借款、弊制借款につづいてここでも借款だ。

日本の対華21カ条要求

結核―朱徳がいうには知識人階級の病らしい。

土匪―ヨーロッパのバイキング? 

領土が狭い日本ではイメージしにくい。

軍閥の抗争―純粋な国内問題ではない。

四川省―他の省にはないユニークな人材を輩出し、独特の抗争の舞台になっている。客家が多いから?

袁世凱ー光緒帝の暗殺指示は袁世凱がした、と光緒帝自ら死ぬ間際に断定しているらしい。ちょっとびっくり。

    世界史の教科書でしかなじみのない人だったが、要するに傀儡政権? 

帝政―欧米や日本は中国に対して、混乱→帝政もどき→混乱→帝政もどき……を望んでいた? 要するに自分たちの安全が保証されるなら、混乱はのぞましい?

暗殺―国民党をつくった宋教仁が暗殺されていることに衝撃。

蔡鍔―孫逸仙とは日本で面識があったのだろうか。

   痩身ということも結核になりやすかったのか、結核になったから痩身になったのか。

   理論家で理想主義の孫逸仙と緻密な軍事的企画力をもつ蔡鍔の組み合わせが見れなかったのはおしい。

アへン吸飲―アヘン戦争をイギリスの教科書ではどのように記述されているのか興味がある。

少数民族―日本の場合、領土は海に囲まれているが、中国大陸は少数民族の住む地域になる。
島国と大陸との違いを感じる。

水滸伝―朱徳と友情を培った土匪の首領が、口承文学として水滸伝に親しんでいたというくだりに感動。
人はたとえ文字がなくても物語を求めてきたことを思う。

楊森―四川省の軍閥に転向した朱徳の元同志だが、これからも登場してくる。
台湾で運良く長寿をまっとうした人だが、軍閥として、おおいにあばれ、おいしいところを味わってきたように見える。


次の第4巻「探求」ではアヘン中毒を克服して、友人とフランス経由でドイツ留学を実現させる。
蓄えがあったからできたこととはいえ、よく実現させたと思う。

そこで周恩来と出会い、一度は阻まれた共産党に入党することができ、一回り若い周恩来との友情を建国以降も保っていったことになる。

波乱万丈の物語の読者としてはまぶしいものがある。






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by far-east2040 | 2018-06-26 11:35 | 『偉大なる道』

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困憊(こんぱい)し混乱したひとつの軍が、1912年3月、四川を去って、雲南の本拠地に帰るために南に向かっていた。

その道を、4ヵ月前は途方もなく大きな望みをいだいて歩いてきたのであった。


雲南軍の四川人部隊中の二個大隊は、四川にとどまることになった。
雲南は中国でももっとも貧しい省のひとつだったので、もし蔡鍔(さいがく)たち共和派指導者が計画する近代化を完遂しようとするならば、まず口を減らさないといけなかった。


朱徳と同志たちは、むっつりとして、古い交易路に重い足を引きずった。
10月のころには、山を動かし河の流れを変えることができると信じていたけれど、いまは退却しているのだと認めないわけにはゆかなかった。
常に楽天的な朱は、自らの気力をふるい起こそうとして、帝政派といえども今となっては共和国にそむきはしないだろうし、雲南は、指導者の計画どおり、模範省となるだろう、などと論じた。


雲南に帰り、5月になると、軍の式典があったおりに、少佐に昇進したが、さらに彼が心から感動したことは、蔡鍔将軍が彼をえらび出して、「四川擁護」と「光復」の2つの勲章を受けるものの仲間に入れたことだった。

「光復」は満州朝を廃して漢族が復興したことを意味する。

ふたりのあいだに以前から結ばれていた暗黙の友情は、いまも絶えることなくつづいており、蔡将軍はときどき、わざわざ朱に声をかけて、彼自身のことだけではなく、家族のこともたずねたりした。

朱は、ふたたび故郷の家族からたよりをもらい、俸給の大部分を仕送りしていた。


「顔色がお悪いです」と朱は蔡にいった。

「みなが、閣下の健康を心配しております」

蔡はそれにこたえて、ちらりとふしぎな微笑をしたが、そのとき、何かはるかなものに思いをはせているようであった。


蔡は、軍隊にむかって演説をして、雲南省の実態について報告し、各人は満州朝を倒したときよりも、はるかに大きな犠牲をはらう必要がある、といった。

軍の俸給は2ヵ月もおくれていて、財政の大緊縮をおこなう必要にせまられていた。

負傷兵や戦死者の遺族には、終身の恩給を出さなければならない。

老兵は引退しつつあり、若い兵といえども、離隊したいものは許可しなければならない。

今後は、いかなる士官も官吏も、自己と家族を養うための給与以上を受けることはできない。



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by far-east2040 | 2018-06-26 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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省の行政は改革され簡素化され、新しい政治学校の若い卒業生たちが、まもなく、まだ残っていた老朽腐敗した官吏たちの地位にとってかわるだろう。

新しい学校がひらかれ、新しい工場が建てられ、近代的な道路や建築物があらわれた。

新しい師範学校では男女の学生を教育していた。

革命以来閉じていた軍官学校は、秋には再開されるだろう。


朱徳は、1912年の春と夏は、軍隊を訓練しながらすごした。

秋には軍官学校にうつり、候補生で組織された五個中隊のうちのひとつを指揮することになった。

そのころまでに、彼の個人的生活にも、また国家にも、大きな変化がおこっていた。


「その秋に、私は結婚した」と朱徳は、どちらかといえば、さり気ない調子でいった。

「妻の名はシャオ・チュ・フェンといった。

師範学校の生徒で、18になっていた。

改革運動や革命で積極的に活動した知識人階級の家の娘だった。

誠実で、かなり進歩的で、てん足はしていなかった。

彼女の兄が、軍隊内での私の友人だったので、結婚話がすすんだ。
私も26になっていた。

普通の男なら結婚すべき歳で、私は普通だったので、妻がほしくなっていた」


朱将軍が、彼女を愛したかどうか、それについては彼は何もいわなかったが、彼としては、私のために、愛していなかったと打ちあける必要もなかった。

ふたりの関係については、たがいに友人となり、顔をあわせればいくらでも話すことはあった、というぐらいの説明で終わった。

この結婚はブルジョア的なものではないこと、またふたりは結婚を決意するまえに、チュ・フェンの家の人びとの前で会い、話しをしたことを彼は誇りにしていた。

これは当時とすればひとつの革命であった。

というのは、良家の子女は、1911年革命後でも、結婚前に夫となる人と言葉を交わすことはしなかったからだ。


そのうえ、チュ・フェンは師範学校での勉学をつづけながら寄宿舎に住み、朱徳は軍官学校に住んだのである。

彼らは、彼にとって週に一度の自由な日曜日にだけ会った。


「私たちは、どちらも、大事な任務をもっている革命家だった」と朱将軍はつけ加え、それから、彼にとっては結婚よりも重大と思われる話題に切りかえた。



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by far-east2040 | 2018-06-25 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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            フランス革命を描いた絵(Wikiより借用)


軍官学校が再開されると、彼は、諸省からの多数の候補生と親しく交わることになったが、彼らの多くは、前年の革命に参加するために学校を去って出身省に帰っていた青年たちだった。

あるものは遠く上海や広東まで行っていた。

課業を修了するために帰校してきたのだが、彼らは、朱徳と彼の仲間たちよりもはるかに経験に富み、大人びてもいた。

何人かの教官同様に、他省からの候補生は、すでに袁世凱が共和派に対してテロを開始していたので、亡命者であった。

雲南は、共和派が実権を握っている数少ない省のひとつだったので、亡命者でいっぱいになっていた。


「その連中が、教師や役人や士官になり、あらたにわれわれが雲南府で出した新聞でもはたらいたりして、雲南の生活を充実させた」と朱将軍はいった。

「私は、ひまなときには、たいてい、その亡命者の候補生や教官たちの話、たとえば、袁世凱にやとわれた手先どもが、共和派を逮捕し、投獄し虐殺する話に、耳をかたむけた」


国事として重要な問題は、国際借款団が袁世凱と交渉しつつあった善後借款のことだった。

その条件は中国にとっておそるべき危険がはらんでいたので、すべての国民がこれを非難した。

孫逸仙博士は、外国の銀行家に警告して、もし彼らが押しつける条件で取り決められるならば、中国の国民はその善後借款を無視するだろう、といった。

袁の、反対派への答えは、逮捕、投獄、虐殺であり、またあらゆる役職から共和派を追放することであった。

そして、ただ彼に忠実なものだけを役人とした。


雲南軍官学校の教官になった亡命者のなかに、フランスに留学したことのあるものが数人いた。

朱は中国では革命が失敗したと見えることもあって、フランス人はどうして大革命を成しとげたのか学びたかったので、その連中に、何時間もつづけてフランスの議会制度について質問したりした。



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by far-east2040 | 2018-06-24 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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             宋教仁(Wikiより借用)



1912年の秋、有名な革命指導者宋教仁は、共和制を防衛する目的で、あらゆる革命団体をひとつにまとめて、新しい統合政党として、国民党を組織した。

雲南で旧同盟会からその新組織に率先してうつっていった人びとのなかに、朱徳はいた。

国民党員は前年とかわらずに秘密行動をとった。

というのは、袁のスパイや暗殺団は、満州朝時代とすこしも変わることなく、国中をうろついていたのだ。

これに引きつづく事態についての朱将軍の物語は、悪夢のような感じをあたえ、主要人物たちは盲目暗愚という劫罰をうけた亡霊のように、永遠に、なんどもくりかえし、歴史的過失をおかすのであった。


1912年の冬に施行された第1回国会選挙は、善後借款の是否をめぐってたたかわれた。

国民党の指導者たちは、死をも恐れないで、国内外で借款反対運動をおこし、中国がこの借款を受けいれることは、のどが渇いた人が毒をのむようなものだ、と叫んだ。


国民党は絶対多数の議席をえて、第1回議会は1913年4月に北京で召集されることになった。

その年の3月に、しばし、あたりに一筋の光明が流れた。

アメリカの新大統領ウッドロー・ウイルソンが、政府はアメリカ銀行家がその借款に参加することは認めないと声明したことが、革命派の人びとに勇気づけた。

その借款は中国の主権を脅かすものだ、と彼はいったのである。

それでアメリカ銀行団は手を引いたが、のちにはふたたび、国際銀行団としてではなく、個々の資格で立ちもどってきた。


アメリカ大統領の声明と、ほとんど時を同じくして、国民党の組織者であり借款反対の国民運動の指導者であった宋教仁が、袁世凱の子分のひとりによって暗殺された。
それは、彼が議会に出席するために北京に向かう途上でおこった。

この暴動にも知らぬ顔をして、アメリカをのぞく5カ国の借款団は、イギリス系の香港上海銀行の北京支店で、袁世凱と会見して、そこでひそかに、外国人のいうがままの条件で善後借款を締結した。

議会の副議長は、その部屋に飛びこんで、借款は憲法違反だと弾劾したが、だれかが手を振り、護衛のものが彼を放り出してしまった。



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by far-east2040 | 2018-06-23 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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           フランク・グッドナウ(ネットより借用)



孫逸仙博士は、借款契約の実行を阻止するための必死のこころみとして、ロンドンの借款団総裁に訴え、もし銀行家たちが強行するならば、流血を見るだろう、と警告した。

孫博士は、彼らからあたかも存在しないかのように無視されたが、たしかに、このむごい劇の主役たちにとっては、彼は存在しないも同然だったのだ。


1913年6月までに、華南の6省がにくむべき善後借款を秘密裏に締結した袁世凱に抗議し蜂起した。

しかし袁は、その借款を使って軍隊を装備し、養成し、財政をまかない、それによって彼の独裁権を確立したので、反乱軍は、ほとんど戦場に行きつかないうちに、たたきつぶされた。

ふたたび孫逸仙や他の共和派指導者たちは首に償金をつけられながら、海外に亡命した。

孫博士は、袁の手先の追求をのがれつつ、東京の友人の家にかくれた。
1913年11月には、袁は国民党を非合法として、党員は見つけしだい射殺せよと命じた。
12月には、儒教を国教とすると宣言し、古来ただ帝王のみの仕事である天帝の祭を復活した。


次に彼は議会を解散してしまい、彼のまわりに、旧軍人や帝政派からなる顧問会議を召集して、国家統治を手伝わせた。

それからまもなく、新しい人物が舞台に登場する――というのは、アメリカ合衆国の市民フランク・グッドナウ博士が、袁の「憲政」顧問として、北京に送られてきた。

1914年の夏までに、グッドナウ博士は、「国体論」と称する奇怪な書類を提出し、それを、袁は、国法とすると宣言し、それをのちに朱将軍は「世界最初のファシスト憲法」であると説明したのである。

この「論」は、袁世凱を全中国の最高執政官とし、国家のあらゆる文官と武官の任免、官制官規の決定、宣戦講和、条約締結、それから爵位授与の権利をあたえた。


2、3週間後には、グッドナウ博士は、もうひとつの書類を仕上げて、袁に、後継者を指名する権利をあたえた。

2、3ヵ月すると、またもや彼は、かの悪名高い「覚書」を提出したが、それには、中国には共和制よりも帝制の方が向くということが論じられ、ただし、あまりはげしい世論の反対を浴びないように事をはこぶべきだ、ということだった。

袁は、彼の全国的な帝政運動の宣伝のために、この覚書を使った。

世論の支持があるように見せかけるため、部下の役人どもに、国中の各地から、彼を皇帝とする帝政復帰の嘆願を打電するように命じた。

「官民の要望もだしがたく」袁は、1916年1月元旦を、彼の即位式の日と定めると宣布した。



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by far-east2040 | 2018-06-22 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編