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           熊克武(Wikiより借用)



 1917年に成都の主権をにぎり、雲南護軍と休戦したのち、勝ち誇った軍閥一派は、使節を護軍に送ってきて、近接の貴州省雲南省にそなえて軍事同盟を結ぼうと、申し出た。そして一方では、その成都軍閥は、別の使節を貴州と雲南省に送って、護軍に対して軍事同盟を結ぶことを提案していた。こういう二重の取引や裏切りは、典型的な軍閥のやり方だった、と朱将軍は説明した。主義主張などには一切御用なしだった。護軍の方にきた使節は、劉伯承という若者だったが、彼は30年後には共産軍の「独眼将軍」として知られ、中国が生んだもっとも輝かしいた革命戦術家のひとりとなった。


 「人はそれぞれの道をゆくものだ」と朱将軍は劉伯のことを話題にしていった。「軍閥になって最後まで押しとおすものもあり、軍閥争いの泥沼でのたうったあげくに、やっと新しい革命の道を発見するものもあったかと思えば、はっきりと新しい道を見ながら、過去に完全に毒されていたために、いつまでも軍閥にとどまるものもあった。多くの国民党の軍人が軍閥になった。劉伯承と私のふたりは、新しい革命の道を追うことになった」


 朱将軍が物語った四川軍閥史は、長々としてこみいっていて、また彼や他の人びとにとっての堕落と災難の記録でいっぱいだったので、ここでは1,2の局面を語るだけにとどめよう。雲南護軍は、近接省に対しての軍事同盟の提案を拒絶してまもなく、成都軍閥にむかって攻撃を開始し、勝利をおさめ、省の大部分をおのれの支配下においた。敗れた諸軍は、省の辺鄙な地区で「力をたくわえ」――朱将軍の表現にしたがえば、「彼らを引きまわしてくれる強力な軍閥の出現を待った」


 その軍閥はすぐにあらわれたが、それは熊克武(ゆうこくぶ)将軍、すなわち、護軍が成都督軍の権限をあたえた人物にほかならなかった。朱将軍は、熊克武を、革命家から軍閥への転向者の標本Xとしてえらんだ。熊の幕僚張群劉湘楊森という二人の野心的な軍人も標本に追加したが、すべて後年に朱徳の不倶戴天の敵となった。




by far-east2040 | 2018-05-31 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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            劉湘(Wikiより借用)



 朱将軍の物語は長くて複雑だったが、もともと中国でのこの種のことは単純であるはずがない。それは、かぞえきれないトンネルが入りまじった広大無辺の地下迷宮にも似ていた。


 熊克武(ゆうこくぶ)軍、すなわち標本Xは、幕僚張群とともに、そのときまでは、忠実な国民党員であった。しかし、ひとたび権力をにぎると、標本Xは、まさに先行の軍閥そのままの行動をとりはじめた。土地をかき集め、大領地をきずき、現金は上海のイギリス銀行に送り、やがて2年とたたないうちに、百万元をこえる現金資産をもつまでになったといわれる。こうした軍閥はみな、おのれの地位をあわただしく失う不安をもっていたので、日が照るあいだに乾草をつくった。


 権力と富は、さらに野心をあおりたてるもので、標本Xは、まもなく内々に、彼の前の敗北軍閥の軍隊を吸収して、おのれの手兵を充実しにかかった。一方では、小さかったが最も野心的な地方軍閥劉湘と軍事同盟をむすび、1920年の5月のころには、おのれの富と力は、雲南護軍を省外に追い、省を自分の領土に十分できると感じるようになった。そこで、にわかに北京の軍閥政府への忠誠の宣言をし、かつての同志たちにむかって、四川を撤退せよ、さもなければたたき出す、と通告した。この男の野心が、どの程度のものであったかは不明だが、とにかく全国の軍閥どもが相戦っていたときであった。いちばん上にせりあがった奴は、北京を取り、「共和国大総統」と名乗ることもでき、即座に外国の承認もうけ、それから、もし彼が「いい子」であったならば、外国借款をせしめることもできただろう。



by far-east2040 | 2018-05-30 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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           楊森(Wikiより借用)



 雲南護軍は、旧同志からの最後の通告にはしたがわないで、成都に向かって進撃し、標本Xと彼の盟友劉湘を省外に追いはらった。彼らは北方の陝西省にのがれて、新軍を徴発訓練して、北京から金をもらい、やがて四川になだれこんできたので、ここに、清朝派打倒以来もっとも長くて血なまぐさい戦いがおこった。


 1920年の末には、護軍は四川南部に追いもどされていたが、はじめの4万の兵のうち、半分が残っていただけだった。朱徳の旅団も、たかだか1個隊の力があるかないかにおとろえていた。


 しかし、標本X自身も、この闘争では大損害を受けて、きわめて弱くなったので、彼の忠実な盟友劉湘は、あっさりと彼を追い出して、自分が省の支配者としての権力をにぎったが、彼はその地位を、その後の20年間、盛衰はあったが、保持した。


 この闘争の間に、護軍の指揮者のひとりであり朱徳の長年の友であった楊森、軍閥熱にかかってしまった。彼は、東部四川に独立軍閥として名乗りをあげ、重慶を首都とした。劉湘と楊森は省を分け合ったことになるが、大きな配当は劉のものだった。


 朱徳が、この次に標本Xの名を聞くまでには、6,7年の歳月が流れたが、そのときには、この零落した紳士は、華南の地で、孫逸仙博士が新たに樹立した国民党政権をくつがえそうという陰謀をたくらんで、みごと逮捕されてしまった。しかし、彼の地下迷宮にはまだ出口があった。1927年以後、蒋介石が南京で独裁者として立つと、標本Xはあらわれ、将軍のひとりとなったが、彼のかつての幕僚張群も、対日戦争直前の蒋介石政府の外交部長となり、その地位は、朱徳が私に物語った1937年の時までつづいていた。しかし、その後まもなく、悪名高き親日政策のため、世論に追われて辞職した。そして、ほぼそのころに張群と標本Xは、いわゆる「政学」系の仲間に入ったが、それは、袁世凱時代に北京で組織された職業政治家と軍人の党であった。



by far-east2040 | 2018-05-29 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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            張群(Wikiより借用)



 いや、迷路はこれでも尽きない。第二次世界大戦後、アメリカが中国における主導の外国勢力として立ちあらわれたとき、アメリカのスポークスマンたちは「政学」系こそ、中国に民主主義政府を樹立する力をもつ「自由主義者」であり「民主主義者」であると推奨した。1949年になっても、標本Xも張群も、四川にもどっていて、老齢とはいいながらも政治軍事の権力にしがみつき、蒋介石の方にかたむいてみたり、朱徳将軍がひきいる人民解放軍にむかって中立の立場をとってみたりしていた。最近の知らせでは、彼らはまだふたつの勢力間で取引しようとしている。


 朱将軍が、そうした往年の四川について語るとき、しばしば口にしたことは、彼も護軍も、国内で興亡がつづく孫逸仙の弱体共和派政権の一本の腕であったということだった。この頃の朱徳は、政治的にいえば、分裂した人格であった。というのは、外面的には、将軍どもの絶え間ない闘争に巻きこまれていたが、内面的には、自らを、1919年このかた中国をゆり動かした五四運動の道をゆくものと自任していて、その運動の思想は、彼の家の研究会でたえず討議しつづけられていた。


 「議論につづく議論だったが、結論はつかなかった」朱将軍はいった。「労働者の団体――のちの労働組合の種子となるものだが、中国の2,3の地でつくられたということは読んだが、四川にはそのような組織はひとつもなかった。マルクス主義研究会も、1919年ごろには、2,3の地では発生していた。1920年には、そうした仲間から成長して、最初の共産主義グループができたが、私はそれについてはほとんど知らず、マルクス主義の文献といっても、一般向きの雑誌記事のほかは手に入らなかった。文献では最初に中国語に翻訳された『共産党宣言』の一部すらも持っていなかった」


 マルクス主義には無知だったが、彼と仲間は、ロシアの赤軍が、帝政派の軍閥と14の資本主義国家の侵入者を撃破したという報道には深い感銘をうけた、と彼はつけくわえた。どうしてロシアの革命家たちは、あのような強力な軍隊――それも西洋世界のものまでを打破して、中国人の挫折をしり目に、みずからの政権を樹立することができたのか? 友人の孫炳文と彼は、何度もこの問題を論じて、ついに、中国には何か根本的にまちがったものがある、という結論に達した。結局、中国人がおのれを売ることを拒否したならば、外部の諸強国は中国人を腐敗堕落させることはできなかったのだ、と彼らは論じた。また彼らは護軍自体についても論じたが、士官のあるものは、北京流の軍閥と異なるところはなかった。孫炳文は、たびたび、すべてを投げ出して北京に行って五四運動の指導者とつながりたい、という意志をしめした。朱徳はといえば、彼はいつかは外遊して、諸外国がいかにして独立を維持しているのかを、納得できるまで研究したい、と言明した。



by far-east2040 | 2018-05-28 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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 時ははやく流れたが、彼らは議論するだけで、何もしなかった。何年かたって1920年という血なまぐさい内乱の年がきたが、彼らは議論ばかりしていた。朱将軍は、いまや家族を、おのれの逡巡の口実としていた。彼は1919年の秋に、一族のもの20数人を濾州によびよせて、朱徳たち夫婦といっしょに住まわせていた。彼は、孝行息子であることを証明し、実際、大家族を扶養する能力があることをしめして体面を保つことによって、封建主義に逆もどりしつつあった。


 彼の養父母は、祖父母が眠る大湾の地にとどまったが、実父母は、朱徳の兄タイ・リーと彼の家族といっしょに濾州にやってきて、さらに朱の二人の弟と彼らの妻子、それから未婚の弟一人も濾州にきた。


 准将としての月給は、千元よりも少ないことはなく、それに慣習として、半額以上の加俸がついていた。倹約してくらして貯金をしながら、家まで買って家族を養うことが楽にできた。


 最後に家族と別れてから10年がすぎていたので、70才に近づいていた両親が老いてほのかに白髪になっているのを見てひどく驚いた。もうこれで、安楽な余生を幸せにおくれます、と彼は約束した。彼は全家族のために案をたてた。学齢の子どもたちは、未婚の末弟もふくめてみな、新式の学校にゆくことになり、タイ・リーは、長兄として家にいて家事の采配をふるうことになった。結婚していた二人の弟は、旅団の軍人訓練学校に入って、士官の訓練を受け、その後、それぞれ栄達の道をひらきすすむことになるだろう。



by far-east2040 | 2018-05-27 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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 彼は一方では、護軍のことを、孫逸仙の、合憲的ながら無力の共和制になおも忠実なる軍隊と語りながら、その旅団に自分の肉親を送りこんだのだから、いささか軍閥めいたことをやっていたといえるだろう。


 家族のものは、朱徳の権勢と地位にすっかり恐れをなしてしまって、彼のいい出すことに対しては一言もいい返す勇気がなかった。老いた両親は、彼がふたりの弟を軍事訓練学校に入れたときも、むっつりとして何もいわなかった。両親は、彼がいつも士官や役人にとりかこまれているのを見て、彼らの息子が、研究会で、むずかしいことをよどみなく談論するのをききながら、おずおずとして、あっけにとられ、黙然とすわりこんでいた。


 彼は、万事がみごとに運んだと思っていた。しかし、何週間かすぎると、両親は、かなしげな亡霊のように家のまわりをうろつきはじめた。彼らは、生涯はたらきつづけてきたので、怠惰な生活をおくるすべを知らなかった。彼らは、教育を受けた嫁の前ではびくびくして小さくなっていた。また、50万の人口をもつ巨大な雑踏と喧騒の市街は、彼らの心の平静をかき乱した。作物とか、界隈の嫁取りや人の死や醜聞とかでしゃべり合うとなり近所の人びともいなかった。朱は、ゆっくりと暮らしを楽しんでくれることを切望したのだが、彼らは、いま食べている御馳走は、ずっと食べてきたまずいものほど身体のためによくはない、というのであった。


 1919年の暮れには、朱徳の旅団は、東四川の地方軍閥とのあいだで、短期間ではあったが激しい戦闘を交えなければならなかった。彼は、ただちにふたりの弟を旅団の下級士官に任命し、自分の指揮のもとに最初の戦争を経験させようと進発を命じた。両親の顔は、三人の息子を見送るとき、恐怖と悲哀で暗澹(あんたん)とした色をおびたが、彼は笑って両親を安心させようとした。私なんか長年軍隊にいるけれど、負傷したことさえないのです!



by far-east2040 | 2018-05-26 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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           アヘン吸飲の一例(Wikiより借用)


 「その短期間の戦闘にやぶれて、旅団は多大な損害をうけた」と朱将軍はゆううつに語った。

「一週間とたたないうちに、弟は二人とも戦死した! 私は弟たちの棺を守りながら、部隊を濾州まで引きあげた。おそろしい帰還だった。両親は、あまりの打撃に泣くことすらできなかった。そして故郷に引きこもろうとしたのだが、この私がひどく弱っていたので、私のために、しばらく濾州にいることにした」


 朱将軍は、彼の生涯のこの時期について語ることが、いかにも辛そうだった。屈辱感と罪悪感であふれそうで、その結果がアヘン吸飲となってしまった。


 アへン吸飲は、士官や役人たちにとっては、まったく有りふれたことだったが、彼はいままでそれを避けてきていた。しかし今は、アヘン用のキセルとランプをたずさえて横たわり、吸いながら友人や秘書の孫炳文たちと話をした。孫は彼を麻薬から遠ざけようとしたが、力がおよばなかった。彼は孫にこたえる。「うん、こいつをやめて外遊して、おれの新生活と、中国の新生活の道を見つけ出すんだ」彼はかたっては吸い、かたっては吸い、家族を避け、軍務をおこたった。

 

 それから熊克武将軍、すなわち標本Xとのあいだに、最後の死闘が起こり、朱の旅団中ただ一個連隊ほどを残すだけになった。


 この惨害を経験したあと、家族はもはや彼のもとにとどまる気はなくなり、ひたすら故郷に帰りたがった。彼も反対できなかった。金をあたえて、舟で重慶まで送ったが、そこから彼らは舟をかえて北四川に向かうことになる。10日後に、一行から手紙がきたが、それは彼の老父が重慶で死んだことを知らせ、棺の供をして帰って、父祖の地大湾の近くに葬ることにした、といっていた。


 彼のまわりの世界は、すべて荒廃であり、ただアヘンのみが彼の精神的混乱と苦悩をすこしばかり和らげた。孫炳文や妻は忠告したけれど、彼は現実に向き合う勇気がなかった。



by far-east2040 | 2018-05-25 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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            呉佩孚(Wikiより借用)



 現実とは何かといえば、彼によれば、雲南護軍は、いまや四川を脱出しなければ、全滅の危機にのぞんでいる、ということだった。全中国は軍閥地獄であり、人民は途端の苦しみの中にあった。新軍閥の呉偑孚(ごはいふ)が北京の権力をとり、一時的に孫逸仙の南方政権と休戦していたが、それは相手を打倒するための準備工作にほかならなかった。ソビエト連邦からの第一回調査団が中国に向かっていた――それは、後に孫逸仙博士の政府との間に結ばれる同盟の、手さぐりを意味していたのだが、こういうことを朱将軍はほとんど知ることもなく、また彼の注意を引くということもなかった。彼が軍人生活をえらんだのは、祖国解放の道としてであったが、10余年の闘争のあとに、その夢は瓦のごとく砕け散り、みずからは二人の弟の死の直接原因、そして父の死への責任も感じざるを得ない身となっていた。アヘンの煙も、この惨苦をかき消すことはできなかった。


 護軍の何回もの長い会議に彼も加わったが、結局、戦いつつ雲南に引きあげ、唐継堯政権を倒そうということになった。唐継堯、1916年の蔡鍔の死後、省を彼の小王国とし、「雲南小王」というあだ名で憎まれていた。


 こうした会議のとき、朱将軍は、暗黒の絶望の淵からはい出してきて、友人孫を相手に、中国の情勢や彼ら自身の将来について、長く真剣な議論をかわした。いくつかの特殊題目に分けて討議をして、それぞれを、結論に達するまで数日にわたって分析しさえもした。軍人生活は、もはや彼らにとっての道ではないと悟ったが、別の道を選ぶまえに、まず外国の政治思想と制度について研究しなければならない。孫は、妻子を四川に残して、ただちに北京に向かった。朱は、妻子を里の南渓の家に残し、自分は「雲南小王」を打倒すれば、ただちに軍隊を去って孫と行動をともにする、と決めた。




by far-east2040 | 2018-05-24 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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 1921年が明けるとすぐに、護軍は雲南に向かって殺到し、ほんの数発を交えたぐらいで首府雲南府を占領し、全省を掌握した。多くの市を支配するたくさんの官吏や将軍たちは、時をかせぐために、転身して新政権に忠誠を誓ったが、「小王」唐継堯は、つかめるかぎりの財物をもって、省から逃げ出した。


 護軍の革命的名声はまだ生きていたので、中国のいたるところから、進歩的な知識人がはせ参じてきて、この省を共和派の基地としてたてなおすために協力しようとした。しかし、事態は以前と変わっていたので、朱徳は状況を懐疑的な目でながめた。全中国のほとんどすべての省を、軍閥の部隊は縦横に行進し、収穫は足元でふみつぶされ、ちりがおさまってみれば、すべて砂漠であり、土地をうしなった農民は何百万もうろつき、一椀の飯のためにはどんな軍隊にでも入った。無政府状態、混沌と絶望が、数年うちつづき、北京は、軍閥と外国の銀行家が病み横たわる国土を取引する市場にほかならなかった。孫逸仙博士は、悪がより少ない方をえらぼうとして、いろいろな軍閥と同盟を結んでいたが、そのたびごとに煮え湯をのまされる結果でおわった。


 いかなる道も見い出すことができず、朱は護軍に辞表を出して、外国への留学の道にすすむことを発表した。同僚の士官たちは、新政権が確立するまでとどまり、それまでは警察長官をつとめてくれと切望した。彼は、ながながと押し問答をしたあげく承知して、妻子を呼びよせた。妻子はすぐにきた。


 彼はとどまることを承諾した。しかし、雲南府は過ぎし日を悪夢のようによみがえらせた。広く清潔な街路をあちこち歩くと、青年の日の幻が浮かんできて彼を悩ました。この道を何年も前に行進しながら、ほこらかに満州朝打倒を叫んだ。あそこの城壁のかなたには軍官学校があり、熱狂的に、国の悲惨を救うことを学び、またここでは、総督の官庁のとりでに突撃した。蔡鍔はここの広場で勝利について語り、あそこの建物の中で袁世凱の帝制を倒す計画を練った。蔡鍔がかたったのは何だったのか……その恐ろしい言葉には、いまのわが身につまされるものがある。


 「どっちみち、自分の時はいくばくもない」



by far-east2040 | 2018-05-23 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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 ここにあるすばらしい建物、広い街路、新しい学校は、若くして亡くなったあの指導者の力によって建設されたものであり、あのあたりには、自分の若い妻の学校があり、日曜には、ふたりで散歩しながら、新しい、平和な、進歩的な未来の中国について語りあったものである。あの妻も蔡鍔も亡くなり、いま自分は35歳の男であり、アヘンを吸う官僚であり、よくできた妻がいながら、気がむけば複数の女をかたわらにおいている。いま自分は、ありし日のわが夢と祖国に寄せた希望が破れ去った跡にたたずんでいる。


 どうしてここに止まっているのか、と彼はみずからに問い、孫逸仙の国民への最近の呼びかけに口実を見出すのであった。孫博士は、1911年の革命はただ民族主義をいく分実現しただけであり、ほかの2つの主義、すなわち民権と民生はすこしも成しとげていない、といった。また博士は、華南の新生広東省こそ、民族、民権、民生の三原則が根をおろす苗床となり、そこから揚子江や黄河の流域にもひろがってゆくだろう、ともいった。


 むかし朱にむかって、中国の救済について問いかけたのは、だれであったか、それは老師シ先生であり、その問いとは、1900年つまり義和団時代の中国は、数十年前の、ただ海外の一国か、たかだか二国に抵抗して敗れたときよりも、強くなっているか、だった。その1900年は、半世紀前よりも弱かったのだが、21年後のいまは、あらゆる帝国主義の国々が北京政府に干渉し、それぞれが自国の手先となる軍閥をもっている。


 雲南は、1915年-16年に試みたように、共和国を救うことができるだろうか。長い間「雲南小王」の長靴に接吻していた将軍どもが、共和国に忠実である、と信じることができるか。否、と朱将軍はみずからにいいきかせた。



by far-east2040 | 2018-05-22 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編