<   2018年 04月 ( 30 )   > この月の画像一覧

f0364260_13430825.jpg

2年間も家をはなれていたので、朱徳は、自分がいかに新中国的な存在になり、家族がいかに旧時代のままに取り残されているかということに気がつかなかった。

大湾に向けて歩いて帰るとき、彼は、家のものは彼が成都の学校のことで嘘をついたことを了解してくれる、と信じていた。

よく説明さえすれば、新しい職業をみとめてくれるだろう。

――とりわけ、かなりの額の金をもうけるようになって、自分の教育のための借金だけでなく、家の借金もぽつぽつ返してゆくことができるのだから。


前もって手紙を送って、夏は家ですごして田んぼの手伝いをするといっておいたので、みなは待ちかまえていた。

甥のひとりは、遠方から手を振りさけぶ朱徳をみとめると、手を振りかえすことも忘れて、野良を飛び走って家に向かい、それから、大変な騒ぎになり、何もかもきりきり舞いだった。

朱が家に着くまでには、家族全員が二列にならんでいて、彼が近づいてゆくと、彼に向かってうやうやしく頭をさげた。

息子として扱わず、義父が礼をしながら家にみちびき入れ、広間のいちばん上席にすわらせた。

まわりの家族それぞれの目は誇りにかがやき、貧者が高貴で権勢をもっている人の前で話すときのように、かしこまった敬語で彼に話しかけた。


この帰郷について語ったときの朱将軍の声は、あわれみと悲しみのために低くなった。

家中が掃除してあり、彼のために特別のごちそうがつくられ、家のだれもかつて自分ひとりの部屋などもったことがなかったのに、彼だけのために特別の部屋が用意され、そこには家で一番上等の寝台と卓と椅子がそなえられていた。

そのうえ、唯一の上等な寝床用の敷物も彼にあたえ、夜の灯火というぜいたくを味わってもらうために、種油を使用する裸のランプまでがあった。
家族は、彼にだけ御馳走をして、自分たちはまずいものを食べていた。
彼らはだまってはいたが、目はいぶかしげに彼の爪にそそがれていた。
彼の爪は、官吏や郷紳がするように長くのばさないで、家族たちと同じように短く切ってあった。

みなが自分を、大官であるか、これからなる人と思っているのだとわかったときは、ぐわんと打ちのめされたような気持ちになったが、じつは嘘をついていたので、これから体育という今まで聞いたこともないようなあやしい科目の先生になる、とみなに告白するときを、一寸のばしにのばしつづけた。



[PR]
by far-east2040 | 2018-04-30 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

f0364260_13431645.jpg


朱徳が留守にした年間に、家はますます貧しくなっていた。

外面からはそれほどはっきりわからなかったが、よく見れば、隠しようもなかった。

衣服は、彼の帰郷を迎えるために、洗ってかがってあったが、ぼろぼろで色もあせていて、もう何年も着ふるされたものだった。

一家は大きな借金をしていて、片時も忘れることがない憂慮が、みんなの上にのしかかっていた。

それを、彼がぎりぎりのところで救ってくれると期待していた。
一族の両家が苦労に苦労を重ねながら、この瞬間を待ちこがれていたのである。


「みなが、私に嫁をもたせたほうがいいと思っていることがわかった」と朱将軍はいった。


「そして私も、私ならば、家の借金を払うだけの持参金を要求できることはわかっていた。

だがみなは、私をすごく偉くて学問のある人と思いこんでおそれていたので、結婚のことをほのめかす勇気もなかった。

私が口にする一語一語を、まるで私の唇から宝石でもしたたりおちているかのようにありがたがった。

ただ、私が新改革について熱心に語ったときに、養父が、改革は『貴人』にはよかろうが、百姓には何の足しにもならん、といった。

農民は改革のために高い地代、数えきれない税、そのほか政府が考えるありとあらゆる手段で、金を吐き出さされていた。

市場の布類のほとんどは外国製品で、国産の布より安かった。

しかし、それすらも農民は、半分はだかになるまでは買えなかった。

徴税吏は2、3ヵ月ごとにやって来ては、またしてもその年の税金を要求した、――新学校、新軍、地方軍、決して造られることにない新道、感慨水路、地方官吏の俸給のため。

地主は地代を上げることで、あらゆる課税を小作人に肩代わりさせた。
税を払うためには、農民は、高利をむさぼる金貨しのところにゆかねばならなかった。

この、身を切りさいなむ不安と貧困に対して、私の熱心な改革運動論などは、はかなく、むなしいものとひびくだけだった」



[PR]
by far-east2040 | 2018-04-29 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

f0364260_13432841.jpg


2、3日を養父の家ですごしたのちに、朱徳は、祖先伝来の家に実父母と祖父母をたずね、それからまたほかの親戚をたずねた。

どこへ行っても同じようにもてなされたが、たずねたその日がすぎると、自分は厄介者にされていて、みなは自分が出てゆくのを待っている、と彼は感じた。

祖先の家をたずねていたときに、ついに彼は嘘をついていたことを告白し、これから儀隴県で体育の先生をするといった。

そして、たたみ掛けるように、金にはなるのだから家の借金は返してゆける、と説明した。


「私の告白の反響は恐ろしいものだった」と朱将軍はいった。

「はじめに、打ちのめされたというような、ながい沈黙があった。
それから父が、体育とは何か、とたずねた。
私が説明すると、父は叫んだ。

家じゅうのものが、ひとりの息子に、餓死から救ってもらおうと、12年間も苦労して働いたあげく、わたしは子どもらに腕や足をふりまわすことを教えるんだ、と聞かされるのか、苦力(クーリー)でもそんなこたあできる、と叫んで、父は背を向けて、家を飛び出して、私がそこにいるあいだは、帰ってこなかった。
その晩、私は母の泣き声をききつづけた」


「あくる朝、私は、これから儀隴県に行って、友人が新学校をひらくのを手つだう、と宣言した。
みなは、ほっとしたという顔色をかくそうとしたが、私にはわかった。
母の目は、泣いたために赤くなって腫れていた。


「私は養父の家に帰った。
父が先まわりしていて、私が全家族の顔に泥を塗ったということを、すでに話していた。
私が、どうしてあんな嘘をつき、あんなことをやったのかを説明し言い訳しているあいだ、養父は黙りこんでじっとすわっていた。
私は、科挙の制度が変わったことも説明した。
つまり、これからは、受験者はすべて、私がいままで習わなかった新学問――自然科学、国際法、歴史、そのほかの科目を修得しなければならない。
旧式の塾などで習ったことは、ほとんど役に立たないことになった。
それに、とにかく、高級試験に合格したところで、役にありつこうとすれば、大変な額の賄賂を出さないといけない、などというのが私の論拠だった。

家は、そんな大金をそろえることはできない。

万一できたとしても、それを返却するために、私は堕落した役人になって、いままでの役人らと同様に、人民をしぼりあげないといけないだろうが――新しい中国は、潔白でなければならないと思う。

いま中国では大変化が起こっていて、そのなかで体育がどういう役割をもつか、ということも私は話した。



[PR]
by far-east2040 | 2018-04-28 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

f0364260_13433630.jpg


「養父はとても親切な人で、理解できないようなことにも、すすんできき入ろうとした。
そのこと自体が、私を苦しくして、私は、その夜は一睡もせず、ひとりきりの部屋で横になったまま、自分のいままでの生活をふりかえった。

自分は孝行という古来の道徳にそむいた。

だが、家への忠誠ということは、国家と全人民へのより大きな忠誠に、道をゆずるべきではないか。
人が家に尽くすということは、ただそのために奉仕するということではない。
自分は農民の子ではあるが、もはや、片足は野良に片足は塾という農民ではなく、他の階級に属するものになっている。
もうあとには戻れない。
戻る気持ちもない。
自分の道を選んでしまったのだ。


「私は家族を責めなかった。
私は、実父の暴力とむごさをにくんでいたが、それは、農民生活の過酷な現実のせいであることはすでにわかっていた。
また私には、帰郷にあたってみながしめした卑屈さを責めることなんてできない。
それも、おそろしい旧制度の一産物にすぎない。
私が、彼らと私とのあいだのへだたりをなくそうとして、夏の野良ではたらこうとしたときに、彼らが反対したのは、私がふたたび元の農民生活の闇の底に沈むのを防ごうとしたからだった。


「最後の一夜は苦悶そのものだった。
明朝、私は儀隴県に向かった。
いつも私を愛していた義父は、何里も何里もついてきて、なかなか引き返さなかった。
やっと別れようと決心して、いった。


『わしらは、アホウなどん百姓で、何もわかってはおらん。
だが、今日はわからんことでも、だんだんはっきりしてくるだろう。
体を大事にして、手紙を書いておくれ』


「養父は、あの時60歳だったろう。
老けて、くたびれてしまっていた。
ぼろぼろの着物を着て、わらじをはいていた。
その後姿に、私は泣いた」


それから、この新中国人は道をひたすら急いで、儀隴県に着くと、彼の言葉によれば「私は、封建主義に対する現実の戦闘の第一歩にはいった」


4人の教師仲間リ、リュウ、ティエン、チャンと彼は、旧式学校を経営する旧式学者から反撃を受けることははじめから予期していた。
しかし、まもなく、夢にも思わなかったような露骨な争闘に巻きこまれることになった。



[PR]
by far-east2040 | 2018-04-27 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

f0364260_12185889.jpg
              Wikiより借用


朱将軍の説明によれば、成都のような大都会では、「封建勢力は退潮しつつあったが、いなかでは、郷紳と彼らの同盟者たちが、まだ王者の威厳をふるっていて、あらゆる思想と行為を上から統制し、法廷と警察と地方軍を支配していた。
旧式学者は、そういう家族の出身であり、彼らといっしょに新学問を非難して、『国粋』をおびやかす野蛮な風習の侵害である、といった」
朱将軍にいわせれば、「本当は、新学問が彼らの生計をおびやかしたからだ」


古い封建勢力のほかに、知識人や商人などの進歩的な人びともいて、彼らは、中国は変革かさもなければ死だということは知っていた。
朱の教師仲間はそういう家族の出身だった。
そういう勢力は少数者だったので、実際、はじめて新校をひらいてみると、たった12人しか入ってこなかった。
この12人は保守派を恐慌におとしいれ、彼らは、「一匹の犬が吠えたら百里内のすべての犬が吠え出す」と警戒した。


新学問へのたたかいは、こうした前哨戦からはじまり、やがて新教師らは「にせ外人」で、爪を切り、にせの弁髪をつけ、野蛮思想を教える、という噂が流れだした。
孝行、正義、それどころか婦人の貞淑の徳もあざ笑っている、ともいわれた。
つまり、この新教師連中で、健全な若者らしく結婚しているものがひとりもいないというのはおかしいではないか、というのであった。


そうした悪評にもかかわらず、旧式学校から新しい方に移ってくるものが何人か出てくるようになったので、保守派はさらに猛攻撃を加えてくることになった。
一撃は次のようなものだった。
新教師のひとりは朱とかいう下賤な階級のもので、それが「体育」とやらいうものを教えるそうだが、それは少年たちをすっ裸にして教師の前でのたうちまわらせるのだ! 
身体を使うのは百姓や苦力(くーりー)の本職であって、紳士の子弟が使うものは精神である!



[PR]
by far-east2040 | 2018-04-26 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

f0364260_12190423.jpg
             弁髪(Wikiより借用)


朱将軍がいうには、この戦線はまもなく「旧式学校から、家庭や町の通り、商店、茶館、寺へと広がっていった。
私たちは、人間の屑で、いうにいわれない理由で結婚もしないやつだ、といわれた。
召使の女のようなものたちまで、道で私たちを見ると逃げ出し、男たちは立ちどまってにらみつけ、子どもたちは石を投げてきた。


「私たちの生徒の家族は、大変な勇気と努力で、私たちを守ってくれた。
そして、父親や祖父たちが、かわるがわる私の体育の授業を見にきた。
世間にむかって、生徒らはすっ裸にはならず、ズボンとシャツをつけているし、生徒はすべて、外敵や病気にかかってたおれないように、身体を鍛えるべきだ、といった。
また彼らは、ここの先生たちが出た学校は州総督が建てたものではないか、と主張した。


「だが、だめだった。
1907年の暮れまでに、学校は一時閉鎖され、教師たちは知県の前に引き出され、私は卑猥なことを教授したと責められた。

教師仲間や保護者たちもすべて私を守るために立った。


「そのときはじめて、私は公衆の前で演説した。
何をいったかはよく憶えてないが、とにかく私の教育法について説明し、成都の学校でおそわったとおり、体育競技の意味について話した。

この体育は、学生の健康を保ち肉体を強めるために、あらゆる新学校で採用されている、と説明した。

外敵はしばしばわが国をうち破ったが、わが国は彼らのように強くなければ、インドと同じ運命をたどるだろう、とも私は説いた。


「裁判に勝って、再開校したが、封建勢力はすぐに、私たちが学校の基金をごまかしている、と法廷に訴えた。
進歩派はこんども私たちの側に立ってたたかい、勝った。
すると、こんどは、私たちが弁髪を切り落として、にせものをつけていると訴えた。
これは朝廷への反逆ということになる。
私たちは、その訴えがまちがっていることを証明した。



[PR]
by far-east2040 | 2018-04-25 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

f0364260_12191425.jpg
           第2代醇親王(Wikiより借用)


「もうそのころには、私たちの評判はすごくよくなり、支持者がうんと増え、学校には70人ばかりの生徒がいた。
旧弊派は、法廷で敗れ、世論も彼らを悪くみていることがわかると、あらゆる卑劣な手段をとりだした。
ごろつきをやとって、糞尿の桶を学校の前でぶちまけさせたが、それでわれわれを抑えることができないとわかると、暴力団をやとって、街頭で襲撃させた。


「私は学生を、自衛のための柔術や拳や棒でたたかうように訓練しはじめた。
われわれは棒を持って街頭で暴力団と激闘した。
何人かの悪党どもを生けどりにして法廷に突き出しもした。
するとやつらは、わが身可愛さに、雇い主の名を吐き出してしまった」


朱将軍がいうには、同じような闘争が中国全土で行われていたのである。
大きな港湾都市をのぞいては、学生は新教育を受ける権利のために戦わなければならず、時間の半分は自衛のために使われた。


儀隴県の新学校は、同時に新政治思想の中心でもあり、この小さな市から近隣の町や村へと浸透していった。
まもなく人びとは、中国の歴史において清朝ほど腐敗し専制的なものはないし、改革の宣言は、朝廷が新生中国を望んだからではなく、中国人民にあらがって自己を保全しようという目的からだ、と断言するようになった。
老西太后は1908年11月に亡くなったが、その前日に、彼女が1898年以来幽閉していた若い皇帝が毒殺された。
死の床で皇帝は、弟の摂政醇親王に復讐をいい残した。

彼は、袁世凱――西太后のとりまきで、1898年の改革の裏切者――をおのれの殺害者だとして責めた。


したがって、摂政の最初の行動は、袁世凱将軍のあらゆる官職をうばい、北京から追放することだった。
これは袁将軍がイギリス人とアメリカ人のお気に入りであることを思えば、大変な勇気がいることだった。
後に1911年に選挙された大総統孫逸仙を押しのけて、この男を中華民国の大総統にする策略をしたのは、その英米であった。




[PR]
by far-east2040 | 2018-04-24 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

f0364260_12192302.jpg


朱将軍は、儀隴県での経験は、封建勢力がいかに動くかという知識と積極的闘争への自信を彼にあたえたことで、生涯のうちでももっとも貴重なもののひとつになった、といった。
彼の知識と視野は広まってゆき、一方で国事がさらに危急存亡の時を迎えたとき、彼は「教師はおれの生きる道でない」とさとった、という。
儀隴県での1年間、彼は、成都時代の学友チン・クンと連絡を取り合っていた。
チン・クンは、成都の軍官学校にゆくという志願を家のものにとめられていた。
また朱がきいた話では、むかしの学友のウ・シァオ・ペイも、やはり高等師範を出て、今は雲南省にある新しい軍官学校に入った、ということだった。
彼も、軍に入ることを家族にとめられていたので、このような行動に出たのだ。


チン・クンは、朱徳にむかって、成都で落ち合って、脱走して雲南の軍官学校に入ろう、としきりにすすめた。
そうすれば、家族のものは息子が軍人になったと人にいえるので、恥をかかなくてすむだろう、というわけだ。
1908年の新学年も始まっていたが、朱徳の友人たちは激励した。
すでに朱は、家の借金の支払いを開始していて、自分の手には、儀隴県でかつかつの生活ができるだけしか残していなかった。
雲南にゆく旅費なんてなかった。
しかし、同僚教師は、自分たちで金を出しあって、この問題を解決してくれた。


儀隴県をはなれるまえに、朱徳と4人の教師仲間は、彼らだけでこっそり集まり、われらのだれひとりも、中国が満州と外夷の制圧から解放されないかぎり、断じて官職を拒否し、結婚もしない、と誓いあった。

そして、彼らは、中国の若者リ、リュウ、ティエン、チャンは朱を見守ることによって、忠誠という言葉の意味を知る、とおごそかに断言した。



[PR]
by far-east2040 | 2018-04-23 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

f0364260_12193740.jpg


家は、これから彼の送金を頼りにすることができなくなるので、朱徳は、成都に向かう前に帰郷して事実をつげようと決心した。
家族たちは、恥をおそれて、息子が軍隊に入ることは隠しとおすだろう、ということはわかっていた。
彼は、雲南軍官学校を出て俸給をとるようになり次第、ふたたび家の借金払いを助けるつもりだ、と約束することにした。


1908年の12月のはじめ、家に向かった。
「たった一晩家に泊まっただけだ。
だが、その一晩が精いっぱいだった」と朱将軍はいう。
「これから新軍隊に入りにゆくといったとき、みなは私が正気をうしなったと思った」
体育などという野蛮な科目の教師になったというだけでもただごとではなかったが、世の屑の仲間入りをするなんて、彼らに我慢できることではなかった。
彼らはそれでもはじめは優しくしようと努力して、しばらく家にいて頭を休めたらどうか、とねんごろにすすめた。
というのは、みなは、彼はあまりにも本を読みすぎて気が変になっているんだ、と信じたからだった。
しかし、彼が、まったく正気ではなしているし、中国を満州人と外夷の制圧から解放するために生命をささげるつもりだ、ときっぱりいったとき「反応は、恐ろしかった。ほんとに恐ろしかった!」
義父にとってすら、最後のとどめになった。
朱が成都に向けて出発したとき、別れのあいさつに出てくるものはいなかった。
彼は、あらゆる扉と家族から締め出された追放者として家を出た。


「こわかった。ほんとにこわかった」と朱将軍はいう。

「しかし、私は自分の道を選んだのだから、あとに引くことはできなかった」



[PR]
by far-east2040 | 2018-04-22 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

f0364260_16015390.jpg


1908年の12月半ばに成都に踏みいった若者は、2年前のぶざまではにかみ屋の百姓のせがれではなかった。
もはや22歳であり、経験もつみ、自信もあった。

といっても、世なれた男というところまではいっていない。

心につらい痛手も受けた。

そのころから数年間の彼の態度と行動は、やはり農村青年の無邪気さと素朴さを物語るものだった。


いや、そういう点から見れば、彼は、生涯のいかなる時期にも、彼の世代の多くのものの特徴である、物事の裏側を複雑に見ぬく習慣を身につけることは決してなかった。
50歳を越えても、彼は、何よりもまず本能的に、人間本来の善、とくに青年の善に信頼をおいた。
第二次世界大戦の最中の1944年に、ニューヨーク育ちの複雑な感情をもつ若い特派員が、延安をおとずれた。
彼は、朱将軍と同志らはものの裏を見ぬく力を全然もっていないが、そのような力なくしては、中共がやっているような政治運動は成功するわけはない……と書いた。


成都に着いた朱徳が、チン・クンに会ってみると、すでに彼は、ひそかにジャンクをやとっていたので、それで岷江をくだって揚子江に達し、そこから大山脈を歩いて越えて、「雲の南にある国」にゆくという計画をたてていた。
もうひとり、雲南府のフランス人の家の料理人として就職したいという男も、舟代を分担することになった。


あくる朝、まだ暗いうちに、ふたりの青年がチン・クンの家を抜け出して、河岸に行ってみると、すでに料理人と船頭が待ちうけていた。

ジャンクは底の浅い舟で、船首船尾は雨ざらしだが、中央部にむしろ敷きの部屋があって、雨露をふせぎ、夜はそこで寝て、宿泊代を節約することもできる。
南に、そして南東に、大揚子江に向かって奔流する危険にみちた急湍で舟をあやつるには、7人の船頭を必要とした。


岷江が、雄大な峨眉山系をつらぬいて走りくだるとき、船頭たちは、舟のために必死にたたかった。
両岸は、垂直にそそり立つ断崖であり、松やひのきや色うつくしい竹や密生した潅木や蔓の原生林であり、そのかなたには、昔から数々の伝説が作られてきた聖山の、奇異な形をした峰々がそびえていた。



[PR]
by far-east2040 | 2018-04-21 09:00 | 第2巻「革命への道」改編