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           中華民国臨時政府の一次内閣閣議(ネットより借用)


 その時期に起こった事態が、彼の心に深い印象をきざみつけ、その後の彼の思想を形成する力になった。それを彼は次のように説明した。


 1911年12月、共和派の各省代表者会議が南京でひらかれ、孫逸仙博士が最初の共和国臨時大総統に選ばれた。委員会がつくられて、民主的な憲法を起草したが、それは中国の歴史上はじめて民衆に民権をみとめるものであった。そのときには孫博士は国外にいて、ワシントン、ロンドン、パリのあいだをかけめぐって、はかない努力をしながら、当時北京政権を完全に握っていた袁世凱に、国際借款団が与えようとしていた幣制借款をくい止めようとしていた。孫博士は、この借款が、中国の主権をこれ以上侵害しない条件で、新共和国の方に与えられることもできるだろう、と希望をもっていた。しかし、外国政府と借款団は彼にむかって、われわれは「承認された政府」のみを相手にするといったが、それはこの場合、北京を意味した。それでもまだ、それら西方の民主主義国の政府は、多くの点で彼らの道を見習おうとしている新共和中国を歓迎するだろうと信じながら、孫博士はいそいで帰途につき、1911年12月の末に帰国し、数日後には中国の最初の臨時大総統に就任する宣誓をした。


 孫博士は、はじめ国外で、のちに中国でも発表した文章で、中国再建の希望をのべた。新中国は立憲共和制をとるが、資本主義はみとめるべきではない、というのは、それは満州朝よりも「百倍恐ろしい専制」を招来するので、「われらがそれから解放されるには、流血の河を見なければならないだろう」さらに彼は、アメリカ、イギリス、フランスでは「富者と貧者のへだたりは、あまりにも大きく」わが中国も「社会改革をしなければ、人民はよろこびと幸福を永遠に奪われれるだろう」といましめていった。



by far-east2040 | 2018-03-31 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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            大総統に就任した袁世凱(ネットより借用)


 孫逸仙の南京の同志たちは、そのような意図に賛同しなかったばかりか、多くは外国帝国主義者たちのまねすらして、彼を「非現実的な夢想家」と呼んだ。このような立場から、彼らは、新たな「善後借款」について、また共和国政権自身についての無惨な妥協すら主張するにいたった。列強と国際借款団は、共和国を承認してもいいようなことを口にしたが、それには、孫博士が辞任して、彼らの好む「強い男」で「自由主義の大政治家、中国を統一安定する力をもつ唯一の人」と彼らが呼ぶ袁世凱にゆずるという条件がついていた。


 当時のアメリカ公使は、何度もワシントンに打電して、善後借款を即刻袁世凱にあたえなければ、帝制は崩壊するだろうと強調した。しかし、もし袁にあたえられるならば、「反徒もやむをえず条理にしたがうであろうが」もしこれを怠る場合には、外国の軍事的干渉が「必要」となるであろう。


 朱将軍は、何度もくりかえして、在中国アメリカ公使こそ、1911年革命に対しての外国の軍事干渉を要求した筆頭のひとりだったといった。中国がその悲劇からまぬがれたのは、列強が中国の独立と保全を尊重したからではなく、ヨーロッパの諸列強がアフリカの植民地について争い、戦争の危険すらあったからだ。アメリカと日本だけが中国に干渉することができたが、イギリスその他の帝国主義者がそれを好まなかった。


 しかし、西洋列強と銀行家は、それに劣らず残酷な手段をとり、新共和国はその罠にかかった。孫博士は、外国の強要によって総統の地位を、袁世凱将軍のために辞した。この政変にそなえて、袁の方では、少年皇帝を廃止する命を出した。その廃止令は、袁世凱は共和政体を組織する権限をあたえられる、といっていた。これは明らかに、中国人民ではなく王朝が主権の源であるということを意味していたが、共和派はその侮辱をのみこんだ。


 孫博士は総統を辞したが、袁を総統にしておいた方が操縦しやすい、と信じたからであり、また平和を好んだからである。彼は、まさか袁も、借款団が命ずるような条件で善後借款を引受けはしないだろう、とも信じていた。



by far-east2040 | 2018-03-30 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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            袁世凱(ネットより借用)


 朱徳と同志たちは、四川省で小さいながら必要な仕事をしていたが、孫博士が袁のためにゆずるといううわさには耳をうたがった。袁とは札付きの帝政派であり、1898年には改革運動を裏切り、1908年には改革派の皇帝を毒殺した悪党ではないか。皇帝への忠誠の誓いすら守ることもしなかった、この男は共和国に対して何をしだすかわからないではないか、――と仲間と語りあった。しかもうわさが事実となり、その事実は共和派の兵たちのあいだに動揺と士気の低下をもたらした。


 年をへて過去を振りかえりながら、朱将軍がはっきりわかったことは、1911年革命は錯誤から錯誤への連続であり、一方で袁と外国人は、革命派をこっぴどく叩きつけるかと思えば、承認と財政援助で誘惑し、まるで猫が鼠をなぶるようなものだった、ということである。雲南革命軍としては、四川省でぐずぐずしていないで、ただちに華北の武漢三鎭に進撃して、袁軍を粉砕すべきだった、と朱徳はいった。しかし、共和派はその最悪の敵と妥協してしまった。


 当時の都市の住民たちは「単なる改良主義ではだめで、新しい政治権力を打ちたてなければならない、というところまで進歩してきていた」と朱将軍はいった。しかし、いま彼らは、封建主義と帝国主義の陰謀の泥沼に引きずり込まれる意気地なさをしめした。封建的要素が軍と官界に居すわるのも、どうすることもできなかった。その後何年ものあいだ、雲南は、政治と軍事で進歩をつづけた稀な省のひとつではあったが、それも長続きはしなかった。


 「われわれは、1911年革命の挫折については、外国の帝国主義を責めることはできる」と朱将軍は断乎たる自信をもっていった。「だが、もしよろこんで自己と祖国を売りわたす中国人がいなかったならば、外国人はまったく何もすることはできなかっただろう。革命運動についていえば、われわれは民主主義をとりいれることに成功しなかったから、失敗した。それから、われわれの仲間のうちにも、物欲と出世欲はすごく強かったから、最初の革命の自己犠牲の情熱が消えたときには、多くのものの人格がかんたんにくずれていった」



by far-east2040 | 2018-03-29 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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             孫逸仙(ネットより借用)


 彼は、外国にも共和中国に同情を寄せ、孫博士を支持した市民がいたことは信じている、といった。だが彼は、亡命中のロシア革命の指導者V・I・レーニンが、まだ孫博士が大総統だったころに、ジュネーブで発表した文章においてとった立場を知るだけだった。


 レーニンは書いた。――孫博士をヨーロッパやアメリカの諸共和国の大統領とくらべることはできない。そのわけは、彼らは、すでに長く「その精錬期の理想を放棄したブルジョアジー」の手中の事業家、代理人、もしくは道具にすぎないからだ。しかし孫博士は、とレーニンは書く。
「偉大な革命的民主主義者であり、気高くかつ勇敢」であり、その国家再建の計画は、戦闘的で誠実な民主主義精神に息づき、率直に中国大衆の問題を提起している。――朱将軍は、帝国主義列強が「自由主義者」と呼び「中国を統一安定することができる唯一の強者」と呼ぶ袁世凱を分析したレーニンの言葉も、正確に暗唱することができた。


 「このような自由主義者は、いつどこで裏切るかわからない。昨日は皇帝をおそれて、その前でぺこぺこし、それから力の転換を見、革命的民主主義の権利を予感すると、皇帝を裏切った。

明日は民主主義を裏切って、どこかの、旧い、または新しい『立憲君主』と取引をするだろう」


 朱将軍は、あの革命期とその余波について、さらに語りつづけた。


 「30年間の革命運動の経験が私に教えてくれたのだが、革命は、科学的理論にもとづいた革命政党をもたなければならない。革命軍ももたなければならないが、戦うだけでなく、力の源泉である大衆とともに、民主的制度が実行されるように見守る軍隊でなければならない。革命的な言葉だけではだめだ。多くのものが、今日、孫逸仙の言葉を口にしながら、実行で裏切るが、もし孫逸仙の本当の弟子ならば、民主主義を恐れたりしないはずだ」



by far-east2040 | 2018-03-28 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

東アジア全般の興味あるキーワードは以下のようになる。

読んでるときにインスピレーションを受けたのだが、時間があればもっとこだわりたいと思っている。


纏足(てんそく)

弁髪ーー朱徳は最後の弁髪世代のひとり

キリスト教―とくにカトリックは帝国主義とセットになっていたように見える。
      良さもふくめてヨーロッパでの普及の歴史についても

帝国主義―冷静に考えたら詐欺行為、泥棒行為?

土着の宗教―八百万の神様は日本だけではない。

観音様―この人は誰?

星まわりー日本ではあまりきかない?

親族の呼称のこだわり方の違い

科挙―受験にまつわる苦労話、官僚の堕落への誘惑など
笞(むち)刑

旅芸人に対する民衆意識

3代同居の一族意識

商人の開明性、進歩性

農民の借金

口承文学

旅職人

持参金つきの早婚

太平天国

差別―日本の部落差別に相当する差別感情はない?

コーリャンのおかゆーこれだけで生きていけることに驚愕

中国人のKorea観―朱徳は日本に併合されたKoreaを中国の勢力範囲内の国と考えていたようだ。


次回からは第2巻の多感な青年期の回想「革命への道」になる。


by far-east2040 | 2018-03-28 07:54 | 『偉大なる道』

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 小さな卓をはさんで私たちがかけたとき、ろうそくの光は朱将軍のしわ深い顔にたわむれ、目はかがやき、この女が自分の生涯のどんなことをたずねようとするのかと好奇心に燃えている様子だった。

 

 「最初からはじめましょう」と私はいった。

 

 彼は話しはじめた。――新暦にすれば1886年12月12日に、四川省儀隴(ぎろう)県で生まれた。太平天国の乱が、清朝と同盟者である外国の力で弾圧されてから、ちょうど22年後である。彼は誕生日を陰暦でいったが、のちに中国共産党の新聞はそれを11月30日とし、さらに、彼の伝記に着手したある中国人作家は、何を考えたのか12月18日とした。あるいは、朱徳将軍は自分の正確な誕生日を知らなかったかもしれないが、とにかく彼が生まれたということに変わりはない。


 幼い時にも本当の名はあったはずだが、生まれると同時に「子犬」というあだ名をもらったそうだ。というのは、男の赤ん坊の場合には、それを取ろうと待ちかまえる悪鬼どもをだますために、動物の名がつけられるということだ。女の子は値打ちなどないから、鬼だって相手にはしない。


 「生まれてはじめての記憶は何ですか」と私はたずねた。

 「つまらんことです」と朱将軍は答えた。

 「そのつまらないことを話してください」と私はうながした。


 彼は頭を垂れて、しばらく黙りこんで、握り合わせた自分の手を見つめていた。それから、ぽつりぽつりとつぶやいた――光と色と音、高い山々と森、「ひらいた私の掌(てのひら)」ほどの大きさでいいにおいがする野の花、「何マイルも四方ににおいをはなつ」ような花、太陽の光、川の流れ、それからかわいい子守唄。


 彼の母はその子守唄を歌うだけでなく、眉をうごかして芝居をして見せてくれたので、彼は大よろこびだった。

 

   お月さんは眉みたい

   お月さんの弓の両はしがぶら下がる

   お月さんは眉みたい

   お月さんは鎌みたい

   この眉は、しかめっ面なんかしないよ


 この子守唄は彼に喜びだけでなく苦痛もあたえた。――母が彼にうたってくれるのはうれしかったが、のちに弟に歌うようになったのが悲しかった。それは自分だけのものと思っていたからだった。


 彼の記憶によると、幼少年期には、ほとんど愛情というものを知らなかった。それで彼は「乱暴者」になってゆき、衣食住以外のことでは、ほとんど自分の力だけで生きなければならなかった。もちろん、母はかわいがってくれていて、きつい言葉で叱られた記憶はまったくない。だが、彼女は想像を絶するほど忙しくて、その時々に自分の乳を吸っている赤ん坊以外の子をかわいがる暇がなかった。そして、いつも赤ん坊がいた。


 「私は母親を愛したが、父親を恐れにくんだ」と朱将軍は、自然なゆったりした口調でいった。「父親がどうしてあんなにむごかったのか、どう考えてもわからん」


by far-east2040 | 2018-03-27 21:26 | 第1巻「道の始まり」改編

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 さじを握ることができるようになると、自分の手で食べた。それからむずかしい箸を使えるようになった。怪我をしたときには、だれもなぐさめてくれなかったので、ひとりで泣くか、泣かずに我慢するかだった。気候が暖かなときには、ほとんど裸でかけまわったが、冬になると、小さな綿入れの上衣とズボンを着せられた。ズボンはお尻のところがひらいていて、用を足すときにはしゃがめるようになっていた。病気したことがあったか。いや、今まで一度も病気をしてしない。


 そのころの遊びぶりを思い出すと、あきれてしまう。「くたくたになるまで遊んで、そこらへんにころがって寝いった。それから起きて、また遊び出して、それからまたころがって寝いった」


 彼はちょっと思い出し笑いをした――木かげに日の光が筋になって射していたので、汚れた小さな手でつかもうとしたら、するっと抜けてしまった。家から離れたところになにか果樹があったが、それに花が咲いたとき、彼が枝をゆすると、雨みたいに花びらが降りかかってきた。そこらへん一面に野の花が咲き、家の裏では竹やぶが風に鳴り、かげをつくる木の高い枝からは長いブランコが垂れ、材木のうえにはシーソーがのせてある。真向いに立つ山裾を洗いながら、流れの早い小川があたりを走っている。岸には赤い小石がころがり、橋があり、小舟と竹のいかだがあり、魚がきらめいて泳ぐ。


 家の西の方には「伏犬丘」という低い山が長くのびているが、そのすぐむこう側には、荷車が通れるほどの公路が、南の方からきて北の山々の中に消えてゆく――見知らぬ遠い国への冒険の夢をのせる道だ。


 朱将軍がかたるにつれて、目の前に、頭を剃って、夏は腹巻か前垂かを胴につけただけの、丸々とした小僧の姿が、浮かび上がってきた――嵐の前に乗り出した頑強な小舟に似た、陽気で手ごわいわんぱく小僧だ。



by far-east2040 | 2018-03-27 01:01 | 第1巻「道の始まり」改編

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 幼いころの記憶のひとつに、不正への怒りというものがある。彼と兄弟たちは川や池で釣りをするのが好きだったが、彼らの地主の番頭につかまるのを恐れて、こっそりとやらなければならなかった。というのは、川や、うちの小さな畑の中の池のどんな魚も、地主ののもので、手下がやってきては網でさらってもってゆくからだ。「子犬」と兄弟たちはわめいて抗議したが、年とったものたちはむっつりと黙りこみ、父は相手が消えてしまってからののしった。同じ奴らが、秋には果樹の実をもぎにやってきたが、朱の家の人びとを「お前らぬすんだな」といって泥棒呼ばわりすることもあった。あらゆる池と川のすべての魚、小作人の土地のあらゆる果実、山々のあらゆる森は地主家のものとされた。中国は、――基盤的には民主性をもつ人びともいるかも知れないが、封建主義の国であった。


 朱徳は、アメリカの子どもがジャックと呼ぶものに似ている球遊びをしたことを思い出したが、ちがっていたところは、彼と兄弟たちは石ころと固く巻きしめた紙玉を使ったことである。秋には、彼と兄弟たちは凧をつくって、山腹からあげながら、災難よけのための菊の古歌をうたった。


   菊の花は黄色い、おれたちは強い

   菊の花はかおる、おれたちは元気だ

   重陽のお節句だ、菊の酒飲もう

   重陽のお節句に、人と菊が酔った


 この歌は、彼の生涯を交響曲のライト・モティーフのように流れつづけてきた。古い伝説によると、巫術師(ふじゅつし)が弟子たちに洪水を告げ、山に逃れるなら彼らも家族も難を避けることができると教え、彼らはその言葉にしたがった。その後ずっと中国の人たちは、その日に凧をあげて菊の歌をうたう。

 

 朱家の長兄タイ・リーは四つ年上だったが、笛と二弦の琴である胡琴をもっていた。「子犬」はそのそばにすわって、ほれぼれしなら聞いた。彼自身の手が大きくなると、自分で演奏できるようになり、大人になってからはいろいろな楽器を買って習った。


 次兄タイ・フォンは二つ年上だったが、朱徳を悲しませた。というのは、鳥をわなでとり、大きくなると家の鳥銃で打ち殺した。「子犬」は瀕死の鳥のところにかけつけ、手に持ちあげて泣いてやった。母がタイ・フォンに鳥を殺すことを禁じたが、それでもすきを見ては殺した。



by far-east2040 | 2018-03-26 09:23 | 第1巻「道の始まり」改編

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 母のことを話すときには、朱徳将軍の顔には愛と悲しみの表情がただよう。母は二十歳そこそこで彼を産んだ。彼女は、たいていの女たちよりも背が高くてがっしりしていた。着ているズボンと上衣はつぎだらけのぼろぼろで、手には太い血管が浮きでて、仕事のためにほとんど真黒になっていて、もじゃもじゃの髪がえり首のところで巻かれ、大きな褐色の眼はやさしく、うるわしげだった。


 「私は母親似だ」と彼はいう。「母親は全部で13人生んだが、男6人と女2人だけが生きれた。末の方の5人は生まれるとすぐに水に入れて殺した。家が貧しく、そんなにたくさんの口は養えなかった」

 

 いちばん上の子は女で、チュオ・シヤンといったが、てん足をされるときには、何ヵ月も泣きつづけた。十五の年に嫁にいった。その次が長兄タイ・リーで幼いころ「小馬」と呼ばれ、その次がタイ・フォンで「小牛」だった。朱徳は4番目の子どもで、男子としては3番目で、名はタイ・チェンだった。男子はみなタイという世代名をもち、同じ慣わしで彼らの父やおじたちはシーという世代名をもっていた。

 

 朱徳は、4番目の子で三男だった自己を、「大きな家族のまっただ中に押しこまれたのだから、私は圧迫された人民の子だけでなく、家のなかでも圧迫されて、兄の用を手伝ってかけまわらされたり、下の子のお守りをさせられたりした」といった。「私が生まれるまぎわまで、母親は米をたいていたそうだ。たけないうちに私は飛び出してきた。母親は、生むとすぐおきて、たき続けた。私には誕生日の祝の記憶はない。つまりそんなことはしなかったからだ。ひどい貧乏だったものだが、私たちは気にしなかった、というのは、地主をのければ、他のものもみな貧乏だったからだ」

 

 彼がいうには、母親は、「自分の名前がないほどみじめなものだった」娘のころには名前もあったのだが、嫁にきてからは、子どもとのつながりでは「母」、夫のつながりでは「次男の嫁」というように、家のなかの地位によってよばれた。いつもおなかには子がいて、煮たきし、洗濯し、つくろい、掃除し、水を運び、それから、男と同じように野良仕事にも出ていった。百姓女を嫁に選ぶには、しっかり働けるかどうかで決めた。愛情などは関係ない。嫁にゆくまえには、女は父親に支配され、嫁にゆけば、夫とその両親に、そして夫が死ねば、自分の長男にしたがうことになる。再婚は許されない。そのように、孔子がたてた古い封建の教えがおさえつけていた。

by far-east2040 | 2018-03-25 18:31 | 第1巻「道の始まり」改編

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 女の義務とは、働くこと、それから、家系をつづかせ家の労働力を増やすために子を生むことであった。その古来の義務がはたせなかったら、夫は彼女を去らせることができた。妻の方からはどんな理由があっても、離婚することはできないが、夫はさまざまな理由から、たとえば自分と両親とのいうことをきかないとか、両親をうやまわないとか、しゃべりすぎるとかで、妻を「追っぱらう」ことができる。好きなだけしゃべられるというのは男の特権だった。


 役人や金持ちの家はみな妾をもっていたが、農民はそういうぜいたくはできなかった。蓄妾は男性の権威を高めるというのが古来の封建の教えであった。朱家の女は娘も、すべての農家の女たちと同様にてん足し、おさえつけられていて、娘に教育を受けさせるなどということは、他人の庭に水をまくことのように馬鹿げたこととされていた。

 

 朱徳の伯父朱・シー・ニェンは風変わりな男だった。妻を虐待したことがなく、子がなかったのに追っぱらうこともしなかった。この夫婦は子がいなかったので、「子犬」は幼いときに、彼らにゆずり渡され、固めの式によって養子となった。どうして自分が選ばれたかはわからなかったが、一族は同じ屋根の下に住んでいるので、その新しい関係はなんら変化をもたらさなかった。

しかし、のちになると、この養子縁組のおかげで、朱家のすべての息子たちのうちで彼ばかりが選ばれて、家を税吏その他の役人から守るために教育を受けることになった。

 

 朱将軍の母はチュン家の出だったが、その家の人たちは旅芸人で、結婚、葬式、誕生祝などに、楽人や役者としてやとわれたり、田舎の祭りや市の日に、簡単な舞台をしつらえて、どたばたの道化芝居をやったり、古い伝統劇をやったりした。こういう芸人は世間から疎外されていて、目もあてられないほど貧しく、そのうえ政治的にうさん臭いものと見なされることもあった。


 「だが、とても陽気で面白い連中でね。百姓らはそういう気のおけない芸人を好いたものだ」と朱徳は思い出しながら、愛情にみちた微笑をみせた。


 朱家の子たちは民謡をうたったり、手に入るものならどんな楽器でも鳴らしたりして成長していったが、そういうことは、おそらくチュン家の血を引いていたからだろう。ある民謡の節はもの悲しく、あるものは陽気で騒々しく滑稽であり、また数すくないが恋の抒情もあり、そうかと思うと、ひそかに政治を風刺したものもあった。当時の清朝、つまり満州朝を批判したものがひとつあった。


   昔の四川はどうかというと

   それこそまことの天国で

   代々の帝王さまの都だった。

   どえらい国で、力が強くて、

   八方から呉をおどかした。

   大臣さまの御殿の前の杉

   がっしりと立つ頼もしさ。

   じゃが、今はどうだろ!



by far-east2040 | 2018-03-24 10:54 | 第1巻「道の始まり」改編