人気ブログランキング |

<   2018年 02月 ( 26 )   > この月の画像一覧

f0364260_14145466.jpg

ある日、一番上の伯父が丁家に行って、家扶の前でうやうやしく頭を下げたときに、もし教えてくださる大先生の給料のいくらかを払うというなら、朱家の二人のせがれは、丁家の塾に入ってもよろしかろうときかされた。
「丁家は大金持ちだった。
だが、いつももっと金をほしがっていた」
朱将軍はにがにがしげに軽蔑しながらいった。
「われわれに、前の塾と同じ授業料を出させているくせに、タイ・リーと私は半日しか来てはいけないというのだ。
だが、われわれはその取り決めを承諾した」


塾は丁家の邸宅の中にあった。
その建物は大きくて、中庭や、応接間や宴会場も多く、その中心に壮美な祠堂があった。
また、家の奴隷たちの住むところがあったし、小作人がはこびこむ穀物をはかり、粉にひき、たくわえる場所もあった。
鬼瓦のある屋根の下にどれだけ多くの人が住んでいるか、小作人たちは知らなかったが、丁家は5世代が住むということを誇っていた。

塀が、館と池と庭園を取りまき、その塀の外には、さらに多くの庭園と果樹園と、竹の子をとる竹やぶがつらなっていた。
丁家のあるものはアヘンを吸い、すべてのものが妾をもち、いかなる仕事にもかかわるものはひとりもいなかった。
のちに、朱徳が成都の最初の近代的学校で学ぶようになったとき、「この家の息子たちは、ひとりもそこにこなかったが、つまり近代の学問を尊重するような家族ではなかった」ということを知った。


タイ・リーと朱徳は、はじめて先生の丁氏の前に叩頭したときは、こわかった。
部屋のうしろの、暗くていままで誰もすわらなかったところに机がおかれた。
その壁にも、学問の徳をたたえたみごとな書がかかっていたが、36人もいる丁の息子たちは塾には出てくるが、学問に用はなかった。
彼らは紳士だ。
「一日中、あそび暮らしていたずらをする少年」だ。
先生は決して彼らを罰しなかった。
しかし朱の息子のどちらかが、ほんのちょっとでも間違いを仕出かすならば、しかりつけた。
みじめな存在だった。
しかし、一生懸命に勉強したので、先生は、まもなくふたりを親切にあつかうようになった。


丁家の子たちは、ふたりの百姓息子をはずかしめるために、「朱」(チュ)という語をもてあそんで、「猪」(チョ=ぶた)のように発音した。
彼らは、百姓のせがれなどに、ほんのすこしでも自尊心をもつことを許さなかったし、何ひとつ所有することもみとめなかった。
朱将軍の幼いころの思い出のうち、もっとも腹立たしいもののひとつに、梨の話がある。
家の近くの木からもいで、塾に持っていって食べようとした。
休みの時間に、丁のひとりが彼のところにやってきて、梨をうばい取って、食ってしまった。


「その子は、これはお前らのものでない、といった。
タイ・リーがそいつにゲンコツをくらわした。
ほかのやつらがかけよってきたから、私はけったり引っかいたりしてやった。
先生は私を少々罰したが、丁の子らには、朱をからかうなといった。
その事件のあと、丁のせがれたちは私の家にやってきて、うちの木の果物を取って食った。
私たちはやつらを棒で追っぱらった。
やつらほどしゃくにさわるものはなかった」



by far-east2040 | 2018-02-28 05:00 | 第1巻「道の始まり」改編

f0364260_14150217.jpg

 もうひとつの思い出の情景も、朱徳が丁家の塾にかよっていたころのものだ。その冬は雨がふらず、ほんの少しばかり雪がちらついたぐらいで、冬の作物は貧弱だった。春になっても雨はこず、朱家のものは、川から畑に水をはこびながら、不安にかられて銅色の空をふりあおいだ。道も小道も粉のようなほこりだらけになった。つづく炎熱の夏には、丁家の穀物の蓄えは十分だったが、もはや飢えはじめる農民もでてきた。村々からは、雨神にいけにえを供える農民たちの太鼓がとどろいた。田舎道を開けっぴろげのかごに雨神をのせた長い行列がゆききした。人びとの難儀を見せて、神の心をうごかそうというのである。しかも、「閻王」は小作人たちを召集して、例年どおり一家を涼しい山荘にはこばせた。


 かんばつの1年目のあいだ、朱家の全員は高粱(こうりゃん)や野菜の畑に水をはこび、祖母はみなの食事を一日少量の二食ということに決めた。タイ・リーと朱徳は正午に塾から帰ると、夜になるまでずっと水をかつぎつづけた。


 町の商人たちは米をたくわえた。人びとは農具や家畜や衣服や家具、最後には娘をだして、米と交換した。大きな町から見知らぬものがきて、農家の娘たちを買って、きれいな子は娼家に売ったり妾にだしたりし、器量のよくない子は奴隷にした。冬がきても、朱家はまだ二人の息子の授業料をはらうだけの資力はもっていた。


 勤勉で倹約な朱家ほどめぐまれなかった農民たちは、離村して南部の塩井(えんせい)の労働者になったり、重慶などの都会の苦力になったりした。大都会には、慈善事業の炊出しというものがあって、餓えたものは一日に一椀のかゆはもらえた。しかし村にはそんなものはなかった。


 朱家の男たちは、夜は交替で作物の番をして、秋には高粱や南瓜や蕪(かぶ)をとり入れ、子どもたちは山にはいって野草などをとってきた。丁家は山からもどってきたが、家扶(かふ)は外国風のライフル銃と弾薬を成都から買ってきて、不穏な世間にそなえた。


 老一と老三は、やせ、やつれ、年齢よりもずっと分別くさく老けてきた。家の最後の貯金も授業料として「閻王」にわたした。そろそろ、わずかな持ち物を売りはじめ、虎の子の寝床の畳まで手ばなした。しかし、農具や娘たちは売らなかった。


 2年目の夏には、人びとは雨神などはもう信じなくなってしまい、古くからある哥老会(かろうかい)という秘密結社のやせ衰えた仲間たちが、村々でひそひそと話しあいはじめた。百姓たちは夜中に起きでて、無慈悲な天と青白い月にぶつぶつ愚痴をいった。



by far-east2040 | 2018-02-28 04:00 | 第1巻「道の始まり」改編

f0364260_14151021.jpg


 ある初夏の日に、丁の家族を山に送るために邸宅にこい、と朱家の男たちに呼出しがかかってきたが、そのときだれかが頭をあげて「変だ」とさけんだ。

 

 老三はあやしい物音をきいた。はじめは、家の中でお産をしている母のところからだろうと思った。しかし、馬に乗った男が、猛烈な勢いで道をかけてきて丁家に向かうのが見えた。あやしい音は北の方からきこえてきたが、しだいに大きくなり、その方向の大街道からほこりが雲のように舞いあがっていた。


 そのほこりの雲の中から、骸骨のような人間の大群があらわれてきた。ありとあらゆる武器をもつ男たち、赤ん坊を背負うてん足の女たち、そのあとから腹がふくれ眼が落ちくぼんだ裸の子どもたちが、疲れきってとぼとぼ歩いていた。がやがやという渦巻く声のなかで、銅鑼(どら)と太鼓の音が丁の邸宅からひびいてくるのを老三はきいた。「閻王」は小作人を防御戦に召集しているのだ。


 朱家の男たちは召集をきいたが、動かなかった。餓えた人間の雪崩は大街道をひた押してきて、そのうち何百人かは丁の邸宅に流れこみながら、「このでかい家を食いつぶせ!」などと叫んだ。

 

 朱家の祖父母は息子たちを引きとめた。ものすごい騒音の中で、朱徳の母の弱い叫び声が流れた。
また赤ん坊が生まれたのだ。

 

 やがて飢餓行進はすぎ去っていった。朱家のものは、その仲間入りをするほど貧窮してはいなかった。


 あくる日、朱家のものはごろつき兵どもの野獣のような不気味な叫喚をきいた。「フウ、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ!」のおそろしい響きに、みなは家の戸をしめてから、山に逃げた。しかし、兵どもは立ちどまらないで行きすぎた。何日かあとに、朱家は逃げまどう農民を何人かかくまったが、彼らがひそひそ声で話すのを聞くと、はげしい戦いがおこって、餓えた何百人のものが殺され、傷つき、とらえられた。だが彼らも死ぬことを恐れず戦い、たくさんの兵どもを地獄への道連れにした。彼らは兵に追いつかれるまでに、丁やその他の大きな家を包囲して、殺されるものもあったが、押しいって食ったのである。


 朱家があの恐ろしいかんばつの最後の夏に、どのようにして命をささえることができたのか、朱将軍は思い出してみてもわからない。ただ、ときどきだれかが夜のうちに、食べ物を家にはこんできたおぼえがあり、父と叔父のひとりひとりが、ときどき何日も見えなくなったことも思い出す。多くの農民は土匪化して、遠方に行って掠奪した。朱家の男のだれかが仲間入りしたかどうかは、将軍は知らない。


 その年の夏の末から秋にかけて慈雨がふってきて、飢饉がおわった。それまでに、たくさんの自作農がすべてを売りつくして、小作人の境遇におちていた。小作人は、苦力や兵隊や地主の雇われ人になっていた。みんな金貨しにかかわっていた。彼らの息子から孫へと、その借金は受けつがれてゆくだろう。



by far-east2040 | 2018-02-28 03:00 | 第1巻「道の始まり」改編

f0364260_20160414.jpg
            けし畑


 朱家は借金はしなかったが、もはや無一物になっていた。ある日、丁家の家扶がやってきて、お前たちはかんばつのあいだ小作料を払わなかったので、旦那様も「困っておられる」から、今後は小作料を上げるといいわたした。一番上の伯父がひざまづいて、私たちはいつもきれいに払い、よく働き、さからいもせず、また家族のだれも米騒動の仲間にはならなかったとくりかえし説得した。必死で嘆願したので、家扶も折れて、旦那様に話してみようといってくれた。そしてのちに、土地の半分の小作料は今までどおりにするが、残りの半分は高くするといいわたした。

 

 家族は長い相談のあとで、二組に分かれることにきめた。一方は、半分の、今までどおりの小作料の土地にのこり、他方はどこかよそで小作をするというのだ。一番上の伯父といちばん若い四番目の叔父が出てゆき、祖父母と息子二人の家族が残ることになった。

 

 名義上の家長である一番上の伯父が本家を出るという取りきめになったのは、彼の養子のまだ小さい朱徳の教育をつづけるためだった。タイ・リーはもう12歳で大きいので塾をやめ、これから父や叔父や女子どもたちといっしょに野良ではたらくことになった。家族は別れるのだが、収入は今までどおりひとまとめにして、朱徳の教育はみなの負担になる。朱徳ははじめて生みの父母と別れることになった。彼の生涯のこのひとときを語るとき、朱徳の顔は暗くなり、家族の分裂を悲劇であるかのようにはなすのであった。実際、それは彼らみなにとって、ほとんど革命というべきものだった。この家族は緊密に組織された経済単位であったからだ。

 

 野心にみちた一番上の伯父は、大湾の町のはずれに3エーカー(12,000㎡)の土地を借りた。その近くには先祖代々の家があり、家族の会議では、余裕ができたらその家をとりもどそうということになっていた。一番上の伯父は、いわば先祖の家に近づいていくことにしたのだが、その他にもここを選んだ理由として、シ・ピン・アンという老先生が近くに塾をひらいていて、朱徳の弟子入りを許してくれたということもあった。


 伯父は借金をして、次の収穫までの両家の生計費と、慣習として地主が小作人に要求する保証金と、朱徳の授業料にあてることにした。さらによく考えた末に、大望の人である彼は、弟の二人の息子もたとえしばらくでも学校にやろうと決意した。

 

 朱将軍は、その借金が1万文だったことをおぼえているが、それは成都の新造幣局でつくった新貨幣にすれば120元に相当した。そのころにすれば巨額のお金だったが、家のものは5年間も骨身おしまず働いてこつこつ貯めてゆけば、払うことはできると信じていた。

 

 こういうケタはずれの計画には、悲劇的背景、つまりアヘンの悲劇があったと朱将軍は説明する。
そのころにはすでにこの地方にけし畑があらわれていたが、人びとはアヘンをけがらわしいものと見ていた。朱家のものも、けしを栽培すればうんともうかることはわかっていたが、節度をわきまえていて、けがれた道はとりかねていた。しかし、一族の分裂と大借金が、そんな道徳的な考慮を身のほど知らずのぜいたくにかえた。伯父と彼の弟は新しい土地の一部にけしを植えた。それでしばらくのあいだ生活は楽になった。





by far-east2040 | 2018-02-28 02:00 | 第1巻「道の始まり」改編

f0364260_20161699.jpg



 朱将軍にとって、大湾はいつもよき思い出の土地だった。自然条件が他のどこよりもよかったというのではない。その小さな町が彼の家族が向上の一歩をとることを助けたという。

 

 大湾の内外には8千人ほどが住んでいた。彼はそれまでにこんな大きな町を見たことがなかった。「大きな町や市のあいだには交通の便がひらけていたから、家のものは、今までより多くの人に会い、新しい思想をきき、視野をひろめた」

 

 朱家の子どもたちにとっては、この小さな町は生気にあふれた大都会だった。本通りがあって、週に2回市(いち)が立ち、そこに鍛冶屋、棉すき、棉うち、大工、うすひき、皿つぎ、機織などの職人がむらがった。その本通りには、肉屋、造り酒屋、豆腐屋、精米所、菜種店などがあった。きれいな宿屋は金のある旅人用であったが、小さくて暗い、毒虫だらけの宿もあり、苦力のような連中は、一晩1,2文で寝床と掛布団を借りることができた。夜番が、からの竹を打って夜の時を知らせ、また火事と泥棒の見張りをした。仏寺もあって、やさしい羅漢のむれと慈悲ぶかい仏陀が黄衣の僧たちに守られていた。大湾の郊外には、土地神にささげられた廟(びょう)があった。


 町にはひとつの宗教団体があって、信者たちは平和なときには金を集めて、年ごとの祭のために使ったり、はるか南方の聖山蛾眉への巡礼の費用にあてたりした。

 

 乞食、泥棒、ごろつきなどの多くは、最近の飢餓の産物だったが、市の立つ日などには正直な農民の声でわきかえる本通りをうろつきまわるのだった。市の日には、専門の手紙代筆業の人が道ばたの小机のうしろにすわり、また占師、手品師、旅芸人なども小金を目あてにせり合っていた。旅まわりの床屋は、小さな椅子、火鉢、手ぬぐい、かみそりをもっていて、わずかな金で、弁髪を洗ったり、油をぬったり、結んだり、歯を抜くことまでしてくれる。田舎の子どもの胸をわくわくさせる町だった。


 このころから後のことは、朱将軍は家族のことを語ることが少なくなり、学校や学校を通じて学んだ社会事象について多く語るようになった。一家は、衣食はよくなり、小作料も利息もはらっていった。3年たったときには、借金は全部返すこともできたが、彼らはそうしないで、貯金をまわして、抵当に入っていた先祖の家をとりもどし、丁の借地にいた方の一家が、4年目のはじめにそこに移ってきた。年老いた祖父母は、いまやりっぱな棺を買うこともでき、まだ元気ではあったが、やがておのれの土地の下に眠るであろう。


 この長年の渇望は、たやすく成しとげられたわけではない。3年にわたって両家が大変な苦労をしてたくわえたお金も、古い家を買いもどすのには足りなかった。2年目の終わりには、朱徳の二人の従弟に塾をやめさせた。貯金では足りないとわかったときには、必要な金額をつくるために、ほかで小さな借金をしなければならなかった。


 ほかにも金がでてゆく出来ごとがあった。朱徳の長姉のチュオ・シャンは15歳になると、ある自作農の家に嫁いでいったが、これまた大変な物入りだった。婚礼は、習慣どおり両方の一族の響宴となり、音楽をともなった。タイ・リーは得意の笛と胡琴で婚礼客をよろこばせ、朱徳の母の実家である役者一家は全員乗りこんできて、お礼は御馳走だけでいいといって歌い、かつ演じた。

 



by far-east2040 | 2018-02-28 01:00 | 第1巻「道の始まり」改編

f0364260_20162429.jpg


 朱将軍はこういうできごとは飛ばしがちになり、むしろシ・ピン・アン先生の塾によって彼の前にひらかれた新世界について多く語ろうとした。塾は彼の家から3マイル(4.8キロ)ほど離れた老先生の家でひらかれていた。彼はこの距離を毎日早朝と夕刻に歩いた。


 彼が二人の従弟とはじめてその塾に入ったときには、以前の2つの塾と同じ理由で、10人の生徒たちが彼らの日々をみじめなものにした。百姓は手で働けばいいと考えられていたので、百姓の息子が学者になろうと出しゃばることはおかしなことであった。そうした痛ましい屈辱感は今も朱将軍の胸をかきむしる。あれから40年たっているが、今もなお中国の貧しい子どもたちの大部分は教育を受けていない。しかし、シ先生の塾を回想するときには、彼の顔はやわらぎ、はじめに彼をいじめた少年たちのことすら温情をこめて語った。


 「ほかの子は、たいてい商家の息子だった」と彼はいった。「彼らは働かないといけないから、地主の息子より頭がよく、勤勉でもあった。彼らはすごく勉強したが、私も負けずにやったから、すぐに友人になった。いちばんの親友はウ・シァオ・ペイといって、私より4,5歳年上だった。破産した学者の子だった。まじめな性格で、徹夜で勉強することもあった。私はときどき彼の家に行った。家には蔵書があって、彼はその本を何度もくりかえし読んだ。夏休みには、本を読むために成都まで旅をすることもあった。こんなに勉学して物知りのシァオ・ペイを私は尊敬した。老先生には私とほぼ同年輩の息子がいたが、彼と私はとくに親しくなるということはなかった」


 シ・ビン・アン氏は朱徳が入学したときには60代の終わり、彼が塾をやめるころには80近くになっていた。科挙に合格はしていなかったが、同年代の人たちから尊敬され、外部の世界について非常に多くの知識をもっている学者とされていた。教えることが好きで、勇気があり、考え方が新しく、それに辛辣なユーモアの感覚をもっていて、古今の英雄にまつわる嘘八百の美談をはぎ取った。


 「80近くになっても、まだ反骨精神があって、『元気』いっぱいの論客だった」と朱将軍は愛情をこめていった。「彼は私に科挙のための準備をしてくれた」



by far-east2040 | 2018-02-27 09:00 | 第1巻「道の始まり」改編

f0364260_20163810.jpg
           日清戦争の風刺画(Wikipediaより引用)



 この老人の指導のもとに、四書五経と綱艦すなわち中国史概要と二十四史を修了した。生徒たちが本の勉強でうんざりすると、老人は彼らをさそって、一家の食料の一部を自給している小さな畑を散歩した。歩きながら彼は皇帝や将軍や官僚たちのことを辛辣に語り、たいていの者は悪党であって、学者をやとって、やれ学識だ、徳だという作り話を書かせたのだ、といった。


 老人は、生徒にむかって大いに勉強して遠くに出て、西洋の学問をするようにはげました。というのは、彼は、科学が西方の国々を強くし豊かにしている、ということを聞いていた。彼は、科学がどういうものか知らなかったが、とにかく科学に熱をあげていた。中国は西洋の学問を採用するか、そうでなければ滅びるか、という時機が到来していて、そのことに気づいた多くの改革者たちが国内のあちこちに学校をひらいている、とも教えた。


 当時、中国の海港には2,3の新聞が出ていたが、朱徳も友人たちも見たことはなかった。朝廷は、社会的事件などは役人だけが知っておればいい、と考えていた。この小さな塾ではニュースは旅人からきいたり、手紙から知るだけだった。


 この小さな塾は、1894年の日清戦争のことですら、中国がやぶれてかなり時間がたってからようやく聞いた。朱将軍は、ある夕方家に帰って、家族の者に日本が中国の海軍をうち沈めてしまい、陸軍を朝鮮や南満州から追い出し、中国に巨額の賠償金をはらわせようとしている、と話したことを記憶している。大人たちは目をぱちくりさせてききいっていた。彼らは、日本とか朝鮮とか南満州とか中国海軍ということは全然知らなかった。彼らの敵は彼らの鼻先にいるやつら、つまり地主や役人や税取りだ、としか考えられなかった。だが、とにかく息子のひとりが遠い土地のことや中国の大事をしゃべることができるのは、肩身の広い思いだった。この子はいつかえらい役人になるかも知れない。


 朱将軍はまた、あのシ老先生が立憲君主派の改革者康有為その他、帝国の各地の挙人1千人が署名した建白書の写しを朗読するのをきいたおぼえがある。それは皇帝にむかって下関条約を批准しないよう、そして国を近代化して外夷の桎梏から脱するように訴えたものだった。だが、皇帝はなにもしなかった。


 「わが国の知識人たちは」と朱将軍はいう。「下関条約の項目に戦慄した。突如として小国の日本が登場して、西洋の列強と競争しながら中国を制圧し搾取しようとするのだ。それはすぐ隣の国だ、しかも中国は、いかなる変革にも反対する蒙眛で退廃した王朝に支配されている広大な後進国でしかない」


 「そのときからずっと」と、朱将軍は憎しみをはげしくこめた声でいった。「北京政府は、借款につぐ借款を押しかぶせてくる外国金貨しどものための徴税代理業者でしかなくなった。それから3年とたたないうちに、北京はヨーロッパ、イギリス、アメリカの金貨しに強いられて、11の借款を承認してしまった。外国人たちは借款から利息を引き出すだけでは満足しなかった。貴重な鉄道線路や鉱山の権利を土地つきでもぎ取り、行政と警察の権限まで獲得した」


by far-east2040 | 2018-02-26 09:00 | 第1巻「道の始まり」改編

f0364260_20164953.jpg
           列強による中国の解体の風刺画(Wikiより引用)


 1897年には、朱将軍は11歳になったばかりだったが、列強によって中国の解体と隷属化がおこなわれ、国土がいくつかの「勢力範囲」に分割されてゆくときの恐怖感を、今もまざまざと思いうかべることができる。率先して悪例をつくったのはドイツ人で、まず山東省で謀略によって自国の2人の宣教師を殺させ、その事件を口実に青島をうばって大海軍基地をつくり、周辺の土地もとりこみ、さらに全省を自分たちの「勢力範囲」だと主張して、そこでの産業開発については、他のいかなる国の経済権益よりも優先権をもつことになった。そのうえ、2人の宣教師のために北京から賠償金をとり、それから山東省での鉱山の採掘と2つの鉄道の権利をえた。


 まるで申し合わせたかのように、他の列強もぞくぞくと中国の他の地方をそれぞれの特殊勢力範囲として要求してきた。帝制ロシアは満州をもとめ、イギリスは北では威海衛を海軍基地とし、さらに揚子江の河谷と香港対岸の九竜を勢力下においた。フランスはインドシナ国境に近い広州湾をとり、インドシナに境を接する三省は特別な権益地だと主張し、ハイフォンから雲南府への鉄道のための測量をはじめた。フランスとイギリスはともに雲南、四川両省を勢力範囲だといい、イギリスは砲艦に命じて揚子江上流を遊弋(ゆうよく)させ、四川省に鉄道をしく準備をした。


 日本はすでに併合していた台湾の対岸の福建省を要求し、イタリアも上海の南の方に海軍基地をほしがった。「北京はイタリアの要求は拒絶した。つまり、イタリアの陸海軍ではおどしがきかなかったのだ」と朱将軍は手きびしいことをいった。


 全中国がこの「追いはぎ」どもに分配されていたとき、アメリカも帝国主義の競技場にのりこんできて、自国内の強力な反帝国主義運動の抗議を無視して、フィリピンをうばいとった。そして、他国の「勢力範囲」があるために、ほとんど経済権益の進出の余地がなくなっていた中国に目をそそぎはじめた。


 イギリスは獅子の分け前を取っていたのだが、彼らには彼らの悩みがあった。第二次アヘン戦争以来、イギリスはあらゆる輸出入の出入り口である海関を支配し、事業権益で中国市場をおさえていた。しかし、諸「勢力範囲」はイギリスの貿易支配をおびやかし、競争する他の強国のあいだの戦争となる恐れすらあった。そればかりではなく、中国の解体と隷属化によって激化する不安は国内に革命的気運をかもしだし、列強は何かしら第二の太平天国の乱のようなものを恐れていた、と朱将軍はいった。


by far-east2040 | 2018-02-25 09:00 | 第1巻「道の始まり」改編

f0364260_20165874.jpg
        門戸開放政策を推進したアメリカの国務長官ジョン・ヘイ(Wikiより引用)



 朱将軍は当時のイギリス帝国主義には二派あった、とつけ加えた。一つは中国を完全に分割してしまえと主張し、他は清朝を看板に出しておいて、その陰から全中国の貿易を支配しようというのだった。この「平和」的帝国主義の一派は頭をひねって、菓子を食べても減らないという妙案を思いついた。というのは、最強のイギリスが提案することはすべて疑惑の目で見られたので、彼らはアメリカに目をつけて、第一次世界大戦の終わりまでイギリスという凧の尾にしたのである。


 そこで、「平和」的帝国主義の一派は、アルフレッド・ヒピスリィという中国海関の役人をワシントンに送って、門戸開放政策をつくりあげさせることにした。その案はアメリカの経済権益にも好都合だったので、アメリカ政府はそれを自国の政策として採用し、他のあらゆる列強の支持も得て、1899年に「中華帝国の保全」を確実にする政策として声明した。


 「勢力範囲はまだ残っていた」と朱将軍は注意した。「しかし、あらゆる列強の商人や投資家は、国のいかなる地域でも活動できるという原則をもつことになった。中国側に立ってみれば、状況はすこしも変わらなかった。門戸開放政策は中国の利益のために考案されたものではなく、まず第一にイギリスの利益、次におくれてやってきたアメリカのためのものだった。おこぼれが何か中国に落ちてくるとすれば、それはまったく偶然のものであった。中国資源の集団的強奪がはじまった。隷属化への国民の恐怖は増すばかりだった」


清朝は完全に弱体で無知無能で、一方、人民には暴圧をもってのぞんだ。
そのころ、帝国はわずか2,3の「近代的」軍隊を北方にもっているにすぎなかった。
その他の中国軍といえば、ごく少数の新式ライフル銃のほかは古めかしくて時代遅れのラッパ型銃か、何人かが肩にかけて残りの一人が発射するという10フィート(約3m)もある口づめ砲というありさまだった。

ある部隊はただ太刀と槍をもつだけ、なかには弓矢すらもつものがあった。
こんな軍隊は外敵に対して非力なことはもちろんだが、武装していない人民に対しては強力だった。
朱徳の省には2万の軍隊がおり、そのうち5千は満州人で、朱徳将軍の言葉によれば「のらくらで、ろくでなし野郎だが、軍隊のなかでそいつらだけが定まった給料をもらい、おまけに、毎年米をもらった。
つまり、政府は全国の満州人に米を配給したのだ」


by far-east2040 | 2018-02-24 09:00 | 第1巻「道の始まり」改編

f0364260_11011161.jpg
              張之洞(ネットから借用)



外国に征服されるという恐れと清朝への憎しみは大きくなるばかりで、あらゆる種類の風説は村から村へ見るまにひろがっていった。朱徳は西洋人を見たことがなかったが、旅の人たちが断言するには、ほとんどのものが毛むくじゃらの赤ら顔で、脚にはひざ関節がなく、猫みたいな目が顔のふかく落ちくぼんだところにあり、その目で地面をにらむと、底にうもれた金や銀が見える。ヤソ教に改宗した中国人は、みな「洋夷のドレイ」とののしられたが、とりわけ、フランスのカトリックに入信したものが憎まれた。「どろぼう、人殺し、匪賊までが、中国の法律の手のとどかぬところに逃げるためにヤソ教に入った」と朱将軍はいったが、それは歴史によって証明されていることだ。



朱徳の老先生は、西洋人に関する極悪非道な伝説を信じようとはしないで、この中国に来ている者はどうか知らないが、海の向こうの本国あたりには、善良な人もいくらかいるにちがいないと考えていた。このシ先生は、日清戦争後の中国を風靡した大改革運動の信奉者であるとみずから名乗っており、つねに塾生たちに勉強して外遊し、科学を習得するようにとはげました。改革運動とはいったいどういうものなのか、だれも正確には知らなかったが、とにかく、康有為の立憲君主制から、広東の医師孫逸仙の共和制までをふくむものだった。


朱徳が、孫逸仙とはじっさいどういう人なのか、また世に恐れられているその思想は何を意味しているかということを知るまでには、まだ何年かかかるが、世紀の終わりのころには「共和制」という言葉を聞き知るくらいにはなっていた。しかも、彼にそれを教えたのは、有力な反対論者であった。つまり、「改革派総督」といわれ、産業資本家でもあった張であった。康有為と、学才と文才にめぐまれた梁啓超は彼の弟子である。


 何とかして、シ先生は有名な「勧学篇」という論文を手に入れたが、それは張之洞総督が中国の青少年に洋学を研究することをすすめる一方、「共和制」と称する危険思想に警戒するようにと教えたものであった。総督はいう。


 「ああ、反逆の傾向を多分にもつこの言葉にふれることこそ恐れるべきである。共和制という言葉! そこからは一片の善も生まれてはこないのである。それどころか、このような制度には数多くの害悪がひそんでいる。もしこの共和制をみちびき入れるならば、ただ無知蒙昧の徒がこれをよろこぶだろう、なぜなら、内乱と無政府状態はわれらの上を暗夜のごとくおおうであろうから」


 共和制! シ先生はその言葉について長く考えたが、何のことかさっぱり見当がつかなかった。共和主義者とは土匪どもの秘密結社であって、掠奪殺人をおこなうか、もくろむものだということである。だが、老人はなかなか恐れなかった。というのは、新しい変革を唱えるものは、すべてこれに似た非難をあびるものなのだ。太平も土匪、人殺しと呼ばれなかったか。また、この名高い総督も、西洋人に中国を蹂躙する力を与えた科学という新学問の唱導者ではないか。


by far-east2040 | 2018-02-23 10:00 | 第1巻「道の始まり」改編