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建国をになった中国共産党の中心人物に留学経験者が多いことは気づいていた。
ちょっと気になる人物が出てくると、ネットで調べてみたりするが、その中で「いわゆる勤工倹学でフランスへ」なんていう文面を読むことがあり、「勤工倹学」とは何だろと思ってきた。


1922年ぐらいにフランスへ向かった朱徳は、周恩来という青年が中国共産党の支部をつくったといううわさを耳にする。


「……この周恩来と、その同志たる陳毅、聶栄臻(じょうえいしん)、李立三、李富春とその夫人蔡暢らは、後日中国の歴史をつくったのである……」
とスメドレーは書いている。


彼らは、「勤工倹学」で留学していた若者のあくまでも一部である。

この本では鄧小平は出てこないが、やはりこのころにフランスに「勤工倹学」で留学していた。


ちなみに、朱徳は、雲南で高級軍人としていい給料をもらっていたときの蓄えを使って、自分のお金で留学した。
36歳という、当時の中国では中年と呼ばれる年齢での決断だった。


共通しているのは、国費でもないし、かといって一族の豊かな資産を持ち出しての優雅な留学組でもないということ。

国内の学校や大学へ息子をなんとか行かせることはできても、海外へ留学させるだけの余裕はない層の出身になる。
80パーセントの農民層と数%(?)の特権階層のあいだに位置する富農、小地主、商人、知識人などの進歩的な階層と考えたらいいのかなと考えている。

岩波新書の古い『フランス勤工倹学の回想』という本を読んだが、いろいろなことがわかってくる。
「勤工倹学」の定義やいつ始まったかを説明することはむずかしい。

ただ、建国にいたる中国共産党を理解するためのキーワードのひとつであることは確かだ。


清朝末期、政府は日本の日清・日露戦争勝利の影響もあって近代化をいそいだ。


「当時の政府も、かなりの留学生を派遣し、主として日本にやって軍事を学ばせたが、えらばれて派遣される人の大半は、官僚か貴族の子弟であった」


朱徳の雲南時代の師であり親友であった、辛亥革命で重要な働きをした蔡鍔(さいがく)将軍も、日本の士官学校で軍事学を勉強した人だった。

魯迅も、この時期の国費留学生のひとりとして日本で医学を学んだ。


新しい思想に目覚めた青年は、自費で日本留学を実現させ、ピークは3千人ぐらいいただろうという。
この人たちは生活費をきりつめて苦学したらしいので、あくまでもこれは「倹学」。
こういう日本留学組から辛亥革命で活躍する人たちを多く輩出している。


朱徳が1909年ごろ入った雲南軍官学校は、日本の士官学校などを手本にしてつくられ、教官も日本留学組が多く、そのなかに同盟会員がいた。
こういう留学組は国内の清朝打倒が目標だったし、このころは日本軍の大陸での行為もあまり目立たず、日本は進んだ国としてあこがれとともにまあまあ印象もよかったように思う。

それがどこでどうなったのか。


「勤工倹学」に話しを戻すと、中国建国の功労者たちは、軍事畑出身以外はほとんどヨーロッパへの留学を経験しているように見える。
唯一の例外と考えられるのは毛沢東となるから面白い。


「第一次世界大戦が勃発して、フランスの男子はほとんどみな戦場にでていき、工場では労働力の欠乏をきたした。フランス政府は中国の人口がおおいことに目をつけて、中国へいって労働者を募集しよう、と考えた」


これは両政府にとって利害が一致して、各地に労働者募集所ができて、素朴な農村の若者や職人などがフランスに労働者として渡ったらしい。

こういうことを商売にする人も出てきたり、信じる主義や思惑はいろいろあったりしてややこしいが、「勤工倹学という方法によって、志ある貧困青年をあつめてフランスに留学させよう」という「一種独特の思想運動であり、救国運動でもあった」となる。


「これはいいことだ」とこの情報を得た人たちが、北京で留仏勤工倹学運動を起こすのだが、なんと若き毛沢東も、その運動の中心メンバーのひとりで、積極的に動いて青年を送りだしていた。


フランスまでの旅費の用意が大変だった。
東南アジアで一日一食で働いてお金をためようかとかそんなことも考えていたらしい。

なんとかフランスに着くと、とりあえず3通りの方法で勉強したことになる。
昼間勉強して夜労働するか、はじめの半年か3ヵ月は働いてお金をためて、それから学校に入って数ヵ月勉強するか、あるいは少しだけお金はあるので、ひとまず勉強し、そのうえで労働する。

官費留学生や裕福な自費留学生ではない彼らは、ひとりひとり違う苦労話があったし、共産党に加入するなどの政治意識の高揚もあったと思う。

フランスで共産党に加入した青年も多かったのではないだろうか。

ロシア革命後まもないころだった。


では、なぜ毛沢東は関わっていたのにフランスに行かなかったのか。

毛沢東の聞き取りを出版したエドガー・スノウがそのへんのことを聞いている。

毛沢東は「自分の国についてまだ十分に知っていないし、中国に暮らすほうがいっそう有益だと感じた」と答えている。

毛沢東は行動もとる人だけれど、何より読書家でもある。
この人らしい理由だと思った。


毛沢東は北京大学の図書館で司書の助手のようなことをしていた人なので、そこで相当読書をしただろうなと個人的に思ってきた。
時間と灯りが保証されたら、いくらでも読書できるという恵まれた環境にいたことになる。

彼の頭の中には読みたい本がリストアップされていたのではないかな。

図書館で働いていたということを知って、個人的にこの大物政治思想家に親しみを感じてきた。

「同じことを考えたんじゃないかな」なんて。


勤工倹学を私なりにまとめると、1920年代前後、暗黒の国内の政治情勢の中で出口をもとめて、中国の中間20%に属する青年が、フランスで慣れない肉体労働をしながら苦学し、その中からのちに中国の歴史の1ページをつくるぐらいの政治意識の高い人材を輩出してきたとなる。


バブル時代のころ、豊かな国費留学生を多く見てきて、うらやましいとは思ったけれど、政府としては無駄な出費とは思わなかった。
日本に好感を持つ人材を各国につくってきたのだから。
でもそろそろ海外の国が、日本からの留学生を受ける大皿を作ってくれてもよさそうな時代になってきていると残念ながら思う。


100年たつと、物事ががらっと変わる。



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by far-east2040 | 2017-09-27 11:19 | 『偉大なる道』

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中国革命に出てくる主要人物がどういう女性と結婚していたのかを知ることは、人間性を理解するうえで参考になる。


『偉大なる道』を読むかぎり、中華人民解放軍の総司令官朱徳は生涯において4人の女性と結婚したことになる。

革命途上で血なまぐさい波乱万丈の人生をおくってきた男性としては、4人という数字はうなづけると密かに思ってきた。


が、ネットで朱徳のことを調べているときに、朱徳は6人の女性と結婚したと羨望や驚嘆の感情が入り混じったような文章を数回見つけたことがある。

これは朱徳の人間性を貶めるための偽情報か、失意の日々にそばにおいていた複数の女のことを含めているのか、朱徳自身が何らかの理由であえて2人の女性をスメドレーの前で伏せたのか、あるいはスメドレーが2人の女性との関係は結婚とはいえないと判断して朱徳の諒解のもとで省略したのか。


中国で出版された伝記ではどのように記載されているのか調べようがない。

気になってじっくり調べると、写真つきで結婚した6人の女性を詳しく紹介する中国語で書かれたサイトを見つけた。

漢字の意味を頼りにおおよその内容をつかんだところでは、やはり6人の女性と「結婚」したことになるようだ。


東アジアは古い社会制度のもとで早婚だった。正式な結婚適齢は男女とも二十歳前ではないかな。

今でもときどきインドで早婚の弊害を問題にする記事を見かけることがあるけれど、そのような結婚が中国や朝鮮半島でも一昔前には存在していた。

中国映画『黄色い大地』ではこの早婚の風習を描いていていい映画だった。


戦前戦中を朝鮮半島で暮らした女性史研究家森崎和江さんも、同級生で結婚している人が何人もいたと早婚の風習を語っていた。


そういう意味では一昔前の日本でも現代から見れば、信じられないぐらい若い年齢で結婚していたようだが、中国や朝鮮半島よりもやや年齢は高いように感じている。


中国に話を戻すと、毛沢東は14歳ぐらいで家どおしが決めた結婚をしている。

びっくりする話だけれど、当時の農村では普通の結婚だったと思う。
愛情とかいう感情は別問題。

その後2回結婚して、最後は有名な江青と結婚することになる。


孫中山(孫文)も19歳ぐらいで親が決めた相手と結婚している。

その後日本で亡命中に日本人女性としばらく夫婦のように暮らして、子もいたようだ。

やがて親が決めた相手とは離婚して、宋慶齢と革命事業を共にしていくことになる。


1881年生まれの作家魯迅も17歳ほど年下の女性と恋愛結婚したが、形の上では親が決めた妻がいたようだから重婚になる。

この作家も旧社会の結婚制度から自由ではなかった。


周恩来はちょっと違う。
毛沢東より5歳、朱徳よりも12歳若くて、農村出身ではなかった。
夫人ともども親が官吏のような職業で都会に近いところで学生生活をおくる知識人だった。

周恩来夫人は志を同じくする仲間であり、周恩来にとっては妹のような存在として出会ったらしい。

あの激動の時代に相思相愛でそのまま結婚し革命事業を担い、共に晩年をすごすという極めて珍しい夫婦像を作りあげている。

どこまでも周恩来と夫人は「清い」。

若い頃写した二人が寄り添う写真を見ると、信頼し合っていたことが伝わってくる。

作家ハン・スーインが周恩来の伝記を書くために晩年の夫人にインタビューしたとき、夫人は恥ずかしそうに出会った頃の思い出を語っていたらしい。


朱徳も旧社会の結婚制度から自由になりきれなかったようだ。

二十歳ぐらいのときに成都で纏足をしていない自然な足の女学生を初めて見て、金がない朱徳は遠目であこがれていて、将来結婚するときはそういう女性としたいと思っていた。


しかし、朱徳一人のための学費を捻出するために貧苦に耐え、多額の借金の返済に追われていた家族は別のことを考えていた。

学問を身につけた朱徳はやがて科挙に合格し、えらい役人になることは約束されている。


「みなが、私に嫁を持たせねばならぬと思っていることがわかった」


「私ならば、家の借金を返済できるだけの持参金を要求できると考えていた」


この本では朱徳が結婚を勧めてくる家族ともめたらしいことだけは書かれていた。

朱徳はそういう話を振り切って家を出たと思っていたが、どうやらこの時期形式的には結婚したらしい。

実際のところはわからないが、多分かなりの持参金つきで纏足をした女性を嫁にして、生涯養父母に仕えさせたのではないだろうか。

中国語の文章を読むと、朱徳の「最初の妻」は寂しい人生をおくったようなことが書かれている。


『偉大なる道』では軍人になったとき、友人の妹と初めての結婚をしたと書かれている。
しかしこの女性は息子を生んだ後病死した。

母を失った息子のことを考えて同じように別の友人の妹と結婚し、ここで幸せな結婚生活をおくった。

本の中では理知的な女性として描かれている。


その後朱徳はフランスとドイツ留学を果たす。

ドイツ留学中大いに活躍して勉強して充実した日々をおくっていたが、女性の存在なんてまったく書かれていない。

ところが写真つきの中国語のサイトによれば、その時いっしょにいた数少ない女性の留学生が朱徳と結婚していたとなるらしい。

中国語なので詳細はわからないけれど、ありえる話だと納得できた。

実際はどうなのかわからないけれど、正式な結婚ならば重婚になるし、同志としていっしょにすごした女性とするなら「不倫」になるし、いずれにせよ扱いがデリケートになる。

『偉大なる道』ではこの女性についてはまったく触れられていない。

当時としては恵まれた境遇の女性だから、どんな人生をおくったのかしら。


その後帰国して革命途上で呉玉蘭という作家であり活動家でもある女性と結婚したが、これは平和な時代であればはっきり重婚になる。

しかしこれについては朱徳は、遠く離れていて普段会えない妻も自分の活動をしていて、革命事業に忙しい夫といっしょに住むことはないと悟っていたとスメドレーに説明していた。

後にこの妻は朱徳のもとに逃避行中に、国民党の軍隊に殺されてしまった。


最後は康克清と結婚し、建国後豊かな晩年をすごした。


スメドレーはこの本の中で何度か朱徳のことを男性的だったと語っていたが、結婚生活の語りを読み返すと、男性として誠実でノーマルな人物像が浮かび上がってくる。



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by far-east2040 | 2017-09-11 17:30 | 『偉大なる道』