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数年前にハリウッドの女優アンジェリーナ・ジョリーの離婚に関するニュースの中で、彼女が実子以外にアジアの子どもを養子にしている事実を知ってちょっと驚いた。


もう数十年もむかし外国の空港の待合コーナーで、たまたまとなり合わせになったやさしそうな年配のご夫婦と雑談の後、一枚の写真を見せられたことがある。

アメリカの白人夫婦を取り囲むように子どもたちが立っていて、その中に明かに顔つきの違う子どもがひとり混じっていた。

その子を指差して、夫婦が韓国から迎えた養子だと自慢していたことを覚えている。

私の養子への感想を聞いて、ご夫人の方が悲しげな顔をして日本でも韓国でも外国の子どもを養子にすることがほとんどないと語っていたことが印象に残っている。


同じく数十年前に韓国に長く滞在していたカナダ人の宣教師夫妻と知り合いになり、実子以外に韓国から養子を迎えていることを知り、当時は奇異に感じたものだった。


養子であることの家族内の葛藤を描いたアメリカ映画を観たことがあるので、すべてうまくいくとは限らないだろうが、経済的な余裕だけで語れない、キリスト教に根ざした懐の深い文化の違いを強烈に感じてきた。


儒教文化圏だった東アジアでは養子に関する意識は違ってくる。


朱徳も養子であった。

朱徳の家は祖父母と息子たち夫婦とその子どもたちで構成されていた。


「すべての農民家族と同じく、朱家とは、飢餓からまぬがれるためのきびしい重労働を目的として組織された経済的単位であった。」


家長である祖父のしっかり者の妻が家の内外の労働の割り振り、経済的管理すべての采配を奮って一家をまとめていた。

儒教社会での女性の地位の低さがよく語られるが、働き者の息子をたくさん産み育て、いいところへ嫁にやれる娘を育てた女性はやがて家族から敬意を持って扱われることは、一昔前の韓国社会を垣間見て感じてきた。


一方で子を産めなかった女は儒教社会では生きづらかったことは想像できる。
必ずしも女側の原因ではないが、何年も妊娠しなかった場合、一方的に女のせいにして婚姻を破棄されることが多い社会だった。

ただし、子が産めない女の不幸は聖書にも出てくるし、西洋社会でも似たようなものだったと思う。


朱徳の伯父は長男で将来家長になると期待されていたが、子がいなかった。彼はそのことで妻を虐待することも追い払うこともしなかった。

そこで朱徳の両親である弟夫婦から三男である朱徳を固めの式によって養子にした。


「……一族は同じ屋根の下に住んでいるのだから、その新関係はすこしの変化ももたらさなかった。この養子縁組のおかげで、朱家の全息子のうちで彼ばかりが選ばれて、家を税吏その他の役人から守るために、教育を受けることになった。」


当時の社会ではこういう養子縁組は珍しいことではなかったはず。

むかし父方の一族の韓国の族譜(家系図のようなもの)を眺めていたとき、李氏朝鮮時代以前にこういう養子縁組の記載がよくあった。
不妊夫婦は3親等の甥から養子にしたようだ。


儒教社会で男系男子で一族を維持していこうと思えば、最後の切り札としてこういう身内の養子縁組で問題を解決することが必要だったということだ。

この場合も必ず一族からの養子であり、たとえば朱家にどこか別の○家からの男子を養子にすることは当時は考えられないことだったと思う。

姓が男系血縁集団を表現しているからだ。


韓国では再婚した女性の前夫の子が姓を変えることは可能らしいが、今でも子がない夫婦がまったくの他人を養子をすることは極めて珍しいというかほとんどないと思う。

封建社会を否定した現在の中国はどうかわからない。


朝鮮戦争後発生した多くの孤児が海外の養父母に送られたのも、韓国社会に経済的余裕がなかっただけでは説明できない。


日本は中国や韓国とはまた違っている。

家制度を守るために、息子がいない場合は婿養子という制度を利用して世代を繋ぐことがあって、これは日本独特だと思う。

血縁に拘らないから家長の男子は誰でもいいことになる。

ただし例外もある。

江戸時代の徳川家の家系図を見ると、正妻+αの女性のおかげで一応男系男子で繋いできている。天皇家もそうだ。婿養子を認めてきていないところが共通している。


あまり詳しくないし、話が混乱してきたので、朱徳の時代に戻る。

周恩来は革命途上で夫人が流産して以降、実子がなかった。

二人は孤児を何人か養子にして慰みを得てきたようだが、その一人は朱徳の雲南軍時代の親友でいっしょにフランス留学した孫炳文の娘だった。

孫は革命途上で国民党軍に捕まり殺されるまで、周恩来の近くにいた人だった。
周恩来の養女になったこの女性は女優志望というだけあって、目鼻立ちが整った美人でひときわ目立つ人だ。
ところがどんな理由があったのかわからないが、文化大革命時代に悲惨な境遇で若くして亡くなっている。


ハン・スーインも子を産まなかったので、国民党軍の将校と結婚していたときに身寄りのない女の子を養女にした。


男系男子の血縁にこだわる慣習(Y染色体への信仰)は確実に少なくなってきている。



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by far-east2040 | 2017-07-28 14:10 | 『偉大なる道』

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この本は朱徳が、どのような時代背景の中で問題意識をもち、かつ数多くの挫折をくりかえしながら、共産主義者になっていく姿が描かれているところが一番の特徴だと思っている。


朱徳のファンだからといって個人的に、「共産主義万歳」「人類を救うのは私有財産制度を否定した共産主義以外ない」「資本主義の否定」「だから中国人はすばらしい!」「中国は偉大」などなど、よくわかっていないことを、声高に述べようと考えているわけではない。

しいて言えば、中国革命をもたらした人々の情熱、友情に魅力を感じているということだ。


朱徳たち紅軍や中国共産党が、江西省から出発し1万2500キロを徒歩で行軍し、北部にある延安にたどりつくまでの長征が完了したとき、作家の魯迅は中国共産党が無事に生き延びたことを喜び、「中国の未来はあなた方に託す」という内容を打電したという。


1916年生まれの作家ハン・スーインは革命前の中国で、皮と骨だけのやせて丸くなった苦力(クーリー)の背中、壁際に捨てられた新聞紙に包まれた赤ん坊の死体、工場で目が見えなくなるまで酷使された挙句に戸口に捨てられた少年の姿など、それまでに見てきた悲惨な情況を語り、「あの時代の中国を救えるのは中国共産党しかなかった」と率直にかたっていた。

ちなみに彼女は日本軍による重慶爆撃も現地で体験し、悲惨な情況を本に書き残している。
日本では、映画『慕情』の主人公としてだけあまりにも有名になりすぎた感じがする。


革命のさなか、ハン・スーインの妹やベルギー出身の母親(この女性は結婚時にベルギーで中国国籍に変更している)は海外へのがれたが、義和団の乱後にベルギーで鉄道技術を学び、帰国後は鉄道技師として働いてきた父親は中国にのこった。


朱徳のもとで指揮官として活躍し、建国後は外務大臣までやった陳毅が、四川省にいた父親を訪問し、とどまって技術者として建国に協力してほしいと要請した、という。

そういうわけで、彼女自身は建国後の中国に住むことはなかったが、何度も父親のもとを行き来し、文芸活動を通じて亡くなるまで中国を支援していた。


もし私があの時代を生きる人間として生まれていたら、魯迅やハン・スーインや多くの大衆のように、共産主義の方が人間らしい国家を目指していると判断できるそういう人間でありたいとは思っている。


蒋介石を代表とする国民党支持者たちは、中国の特権階級は古来悲惨な情況の人間の大多数の犠牲のもとで成り立ってきたので、今さら変えようがない、仕方がないと考えていたようだ。

だから、圧倒的多数の自国民の犠牲で成り立つ近代国家を目指した。

朱徳たちは、国民の80パーセントを占める農民や労働者を圧迫してきた封建制を否定し、彼らを納得させる国家理念を提示することなしに、中国は外国勢力を排除した独立国家になりえないととらえて、ねばり強くたたかってきたのだ。

それが当時は西洋から導入された共産主義やマルクス・レーニン主義だったというわけで、それが別のXイデオロギーだったとしてかまわなかったように見える。


『偉大なる道』では、19世紀に起こった太平天国の乱をブルジョア民主主義革命の起点ととらえて、それから64年後になって朱徳や毛沢東が創建した紅軍が、この太平革命を熱心に研究して、法や戦術を多く学び、同じ過失を繰り返さないことを決意したことが一貫して語られている。

そして文字を知らない農民たちを含めて民衆は、負けた英雄たちの物語を心の中にきざんできた。


一方、ハン・スーインも自伝の中で太平天国の乱を勝者の側から詳しく語っている。

彼女の父方の祖母は、太平天国の乱を制圧した清朝側についた有名な曽国藩の幕下で親友だった人の娘だった。

自伝を書くために集めた文字で書かれた祖先の英雄伝は多数あり、太平天国の指揮官や兵士は謀反を起こした犯罪者として描かれていた。

そこで彼女は自分の先祖は間違った選択をしたとしみじみ振りかえる。


私は太平天国の乱は世界史の授業で言葉を知ったぐらいだったので、中国ではすごく大事な歴史的な出来事だったと知り、感慨深いものがあった。

学校でよくわからないまま記憶してきた歴史用語に実態をともなった感じだった。
歴史を学ぶためには時間がかかる。


太平天国の乱が中国の国土を耕し、そこへ孫逸仙が同志とともに種をまき、苗を踏まれてもあきらめずにまき続け、やがて朱徳たち紅軍も種をまきながら、こぼれ種から育った苗を含めて大きく育てていき、ついに独立国家を建設したというふうに考えると私の頭の中はかなりすっきりしてくる。


朱徳は中国共産党は数千年の歴史をもつ中国文化の最良の伝統、つまり勤勉と忍耐と学問に対する尊敬を受け継いだと語っている。

さらに大革命と土地革命と抗日戦争の経験を積み重ね、内容的に成長していくなかで、共産党はマルクス・レーニン主義を中国化し、われわれの歴史的遺産を中国社会の当面の必要に適合させたと述べていた。


中国革命の勝因と強さは、この朱徳の言葉で言い尽くされていると思う。


建国後の中国の政治のことはあまり詳しくないが、国土がヨーロッパ全土ぐらいあり、香港、台湾や少数民族の問題、都市と農村部との格差など、中国を治めていくことのむずかしさを外野からながめて感じている。

政治は綺麗事ではないので、裏側は想像以上にどろどろしているのだろう。

中国は領土も人口も桁違いの国なので、問題がそんなに簡単に解決されるはずがない。


ただ、何世紀も続いた封建主義をとりはらい、外国勢力に侵略されない独立国家を苦難の歴史をへて、いったんは創ったという経験が、今流行りの言葉でいえば「すごい」と思っている。



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by far-east2040 | 2017-07-08 12:17 | 『偉大なる道』