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客家(ハッカ)いう言葉は、アジア図書館に勤めていたころ初めて聞いた。
それ以来何だろうとずっと気にはなっていた。
どうやら中国の歴史において被差別者集団として扱われた時期があったらしいと知ってなおさらだった。


台湾人の女性留学生が「私も客家です」といっていたのが耳に残っていて、こういう風に表現するんだわなんて思ったものだ。

このいい方から、彼女は台湾人だけれども、実は大陸にルーツがあり、客家語が母語かも知れないことがわかる。


四川省で生まれた作家ハン・スーインの一族も客家だった。

彼女は、読書人階級だったおかげで、文字で残されていた一族の膨大な資料を読み込んで、客家とはどういう集団であるかを自伝の中でかなりのページをさいて説明していた。

こういう試みは彼女だけではなくて、アジア図書館には客家について書かれた日本語中国語の本が、一つのコーナーができるぐらい数多く所蔵されていた。


同じ漢民族ではあるが、集団で中国国内を大移動してきた人たちといわれている。

中原呼ばれた古代王朝の中心地である黄河中流周辺地域から、自然災害や戦乱に追われて南方に移ったと伝えられ、主に広東、福建、江西省の境界の山岳地に住んだといわれている。

中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類されていて、最初が秦の時代といわれているので紀元前となる。

ハン・スーインの自伝では、確かイングランドかスコットランドぐらいの土地の面積からの人口移動になるという。

中国らしいスケールの大きさを感じる。

しかも現在客家を自称する人は1億を越えるだろうというから、一つの国と考えてもよさそうだ。


客家の人々はその土地においてよそ者なので、当然周辺に住む他の集団とは異なり、山間部に好んでというか仕方なく居住することが多く、独特の言語・文化を保ってきた。

客家の典型的な住居は、何家族も一緒に住む丸い家で、観光地になっていることがある。

なぜ丸いかといえば、外部から攻撃してくる者の侵入を防ぎやすいからだ。


さらに何世紀も経て、広東、福建、江西省にいったん定着した集団から内陸部の四川省に移動する人たちが出てきた。

ハン・スーインの一族で最初に四川省に来た先祖は、貧しい塩の行商人だったが、世代を重ねていく間に富を蓄え、学問を身につけていき、やがて読書人階級を形成するまでになったという。

四川省出身の政治家トウ小平や朱徳の配下にいた陳毅も、似たような階級形成の歴史を持つ一族と思われる。


朱徳の一族も、広東省に本家がある客家なので、次のように『偉大なる道』には書かれている。


「……彼らは他地方から移住してきたのであり、まだ八代と経ってはおらず、従ってはえぬきの人または郷土創建の家系ーーと見られる権利は獲得していなかった。朱の族の最初の一団は、白蓮教の大叛乱の直後、つまり18世紀の末から19世紀の初めかに、はるか南の広東省からやってきた。その叛乱と満州朝による制圧とが、この地方の人口を稀薄にしたので、広東や広西の貧農たちが流れこんできて……」


朱徳の家族は、80年も四川に住んでいたが、まだ広東語を使い、広東の習俗を保っていて、朱徳の代になって広東と四川の二つの方言を話せるようになったという。
朱徳はここでは広東語といっているが、これは厳密にいえば客家語のことだと思っている。


先祖がかつて移動してきてよそ者として苦労した経験から、外の世界に目を向ける子孫が生まれたと考えるのは自然なことで、華僑の中で客家が占める割合が多いのもうなづける。

世の中の不正義に対して敏感であることや、勤勉であることも客家の特質として語られる。

海外で商いで成功した者が出てくるのも当然だ。


有名な太平天国の乱の洪秀全や石達開など指導者や兵士にも、客家が多かった。

孫逸仙もそうだし、朱徳の参謀長だった葉剣英も広東の豪商出身で客家だった。

その他中国革命に関わった有名無名の客家出身の人材はたくさんいて、毛沢東も客家について論文を書いている。

革命途上で、客家の特異性について考察せざるを得ない情況を見てきたのだと思う。

客家の歴史への興味は尽きない。



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by far-east2040 | 2017-06-30 23:34 | 『偉大なる道』

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この本は朱徳の波乱万丈の半生記だけでなく、封建社会での農民の暮らしが細かい所まで書かれている。

作家ハン・スーインは朱徳と同じ四川省の生まれだが、何代も前から読書人階級として暮らしてきた名門出身なので、自伝では特権階級の暮らしぶりが書かれている所が興味深かった。

それに比べると、朱徳の生まれた家の暮らしのつつましさには驚くことが多かった。


この本は中国だけでなく東アジアの封建社会での民衆の習俗を考える材料も提供してくれた感じがする。


たとえば、男子の名前について考えてみると……。


現在の韓国では、一族の男子の世代ごとに行列字を設定して名前の一字に使い、どの世代に属する人間かわかるようにする慣習を残していることが少なくない。


韓国の前大統領朴槿恵氏の父親の元大統領朴正煕の名前は煕という漢字が行列字だと思っている。
朴正煕の同じ派に属する一族で従兄弟を含めた横広がりの同世代の男子は朴○煕という名前になっていることがほとんどというか多いはずだ。

これは現在名目上だけになっているかも知れないし、必ずしも保持されている一族が日本語の「名門」と考えるものではないと思っている。


作家ハン・スーインの生まれた家は何代も前から商売に成功し、息子たちは学問を身に付け、一族のものは労働をする必要がなかった。

使用人をたくさん雇い、女たちも日中から集まって麻雀をするなど家事労働を一切しなくても生活はまわっていく家だった。


この作家の自伝を読んでいたときに、韓国の行列字に相当するものが書かれている箇所があり感動した覚えがある。

韓国での行列字に相当するものを中国では輩字と呼ぶらしい。別の呼び方もあるかも知れない。

当然これは中国大陸から朝鮮半島に伝わったものだろう。

ハン・スーインは一族を語るときに、曽祖父の世代から父親の世代の輩字について必要な情報として何のてらいもなく紹介していた。


個人的に韓国の行列字は身近に感じて調べたことがあるので、「あ、一緒だわ」なんて思いながらこのあたりはすーっと入っていけた。

ハン・スーインの家が特権階級なので、輩字や行列字を保持してきた一族は名門であることの条件の一つかなと密かに思ったものだった。


ところが、『偉大なる道』では朱徳も祖父や父や自分の輩字を名前に関する必要な情報としてさりげなく語っていた。

具体的には朱徳の長兄の名前はタイ・リーで、次兄はタイ・フォンそして朱徳はタイ・チェンで、タイが輩字で従兄弟たちも同じようにタイがつくはずだ。

ただ朱徳の家は貧農で、字が読めた人は一族にいなかったので、この輩字の情報は音と意味だけで伝承されてきたと思われる。


何代にもわたって重労働の農作業を繰り返してきて、誰ひとり文字も読めなかった朱徳の一族にも先祖代々輩字が伝わっていることが意外だった。


私の見識では、こういう慣習は日本にはまったくない。
男系の血縁集団を表す姓と家の名前になる苗字との違いも関連してるのかな。他の東アジアのように姓が一般に普及しなかったのが不思議だし、日本の独自性だと思う。


現在の中国では輩字を使用する慣習はまったくないはず。

『偉大なる道』に書かれているように、封建社会を一変させる大嵐のような出来事がすべてをひっくり返したからだ。

朱徳も息子の名前を名付けるときまったく輩字から自由だったように読み取れた。


北朝鮮についてはわからないが、韓国ではまだこの行列字を保持する集団は存在する。少子化、男女同権意識、キリスト教思想の普及などの外因で薄れてきてはいると思うが、社会の根底から払拭しようという動機がなかったからだと思う。


別に行列字があっても不都合はないし、一族にあっては優雅で誇り高い気分をもたらしてくれるものだが、女性は排除されているので、遅かれ早かれ時代の遺物になっていくことは間違いない。

おそらく発祥の地であった中国ではほとんど廃れたものが、韓国社会ではまだ生きているという構造になっている。


それと、建国前の中国では、姓は男系を表しているので神聖なもので不変だが、名前に関してはそうではないようだ。

幼い時の名前とは別に、学校に入学したときとか科挙に合格したときなど、人生の節目に心機一転を期して名前を変えてきたような記述が目に付く。
日本でいう戸籍名のような「本当の名前」という意識はあったのかな? 
実際、朱徳という名前も軍官学校に入学したときに自分でつけた名前だ!

科挙に合格したときは恩師につけてもらっている。


孫文も孫逸仙とか孫中山とかいろいろあって、私から見ればややこしい。


そういう伝統があるから、香港を始め、中国の都市部に住む若者が西洋の名前も持つことが多いし抵抗もないのかな。

日本でいうニックネームやネット上のハンドルネームとは違う独特の格式を持っている感じがする。


見識不足で断定できないが、こういう節目に名前を変えることも封建社会の名残なので、現代の中国にはないと思っている。韓国にもないと思う。

過去を清算したいという動機以外、現代社会で名前を変えることに利点はないと思う。


でも、ひょっとしたら、生涯にわたって本名は一字たりとも不変と捉えていることは世界的には少数かも知れないとも思ったりしている。
混乱してきた。




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by far-east2040 | 2017-06-28 08:10 | 『偉大なる道』

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この本には敵味方いろいろな人物が登場してくるので、読んでいて楽しかった。

朱徳が対峙してきたのは地主などの特権階級からはじまって、清朝の西太后、袁世凱や蒋介石とその周辺の軍人政治家たち、外国の帝国主義者たち。


朱徳が語っているように、国が外国に侵略されるときは必ず自国内に買収された協力者がいて、彼らの存在は中国固有の問題ではない。

ただ、中国は領土も人口も桁違いに大きいので、その分反逆者の数は多いし、殺された民衆や知識人、将兵たちの血も川のように流れてきたという。


一方で、封建的な制度のもとで圧迫されてきた民衆を解放するために、また外国に侵略されようとする国を救うために、同じ志のもとに集まってきた若者たちは、反逆者の数に劣らないほど多く存在したことに感動する。

こういう人物たちの友情が、この本の魅力だ。


朱徳を軸にした展開なので、毛沢東や周恩来をはじめとする著名な指導者たちは脇役になって登場する。

彼らひとりひとりも、一冊の本になるぐらい波乱万丈の半生をおくってきた。

反逆者も多いけれど、その真逆の立場に立った人物も数多く存在することが、中国らしいスケールの大きさと層の厚さを感じる。

現代も傾向は同じだと思う。


印象に残っている人たちを振り返ってみると……。


朱徳の母親

旅芸人の娘として生まれ、農婦として死ぬまで働き続けた女性。
80歳ぐらいまで長生きをしたので、自分の生んだ息子の名前を、人々が敬愛をこめて口にするのを知っていたはず。
朱徳とは長く会えなかったけれど、革命事業の話を聞いていて応援していたらしい。


朱徳の養父

貧農の三男だった朱徳が、教育を受ける機会を得たのは叔父である養父の野心からだった。


機織りじいさん

朱徳の家に毎年定期的に機織りの賃仕事をするために来た職人。
実は、太平天国の乱で有名な首領石達開の配下の生き残りの兵士でもあった。
太平天国の乱や国内外の政治情勢のことなど、外部の世界の情報を朱徳の家に伝えるという役割をになってきたことになる。


シ先生

朱徳が弟子入りした家塾の老先生。
科挙には合格していなかったが、それ相当の尊敬を周囲から受けていた人で、朱徳はこの先生のもとで科挙の準備をした。
朱徳はここで洋学信者になり、国の将来を考えるきっかけになる薫陶を受けてきた。


蔡鍔(さいがく)将軍

この本を読むまでこの人のことを私は知らなかった。
スメドレーは、この人がいなかったら、歴史は違った展開になっていただろうと語っていた。

雲南軍官学校の教員で、朱徳よりわずか4つ年上。
年少の頃から梁啓超の弟子で、日本の士官学校で学んだ人。

辛亥革命での功労者の一人だったが、30代で結核のために革命途上で亡くなる。

青年時代の朱徳の師であり、親友でもあった。


孫逸仙(孫文)

朱徳はフランス留学の前に上海で会見している。
孫逸仙に実際に会えた人は珍しい。
第一次国共合作は、その会見での朱徳の助言も何らかの影響を与えたような感じがする。


周恩来

ドイツベルリンで会い共産党に入党する。
この本では少ししか登場しないが、ハン・スーインが建国後聞き取りをした周恩来の半生記『長兄』には、逆に朱徳は少ししか登場しない。
中国革命の裾野の広さと奥行を感じる。


陳毅

朱徳の配下にいた指揮官で、長征には参加せず残された部隊をまとめた人。
代々学者を輩出する家柄の出身。
敵側の学生部隊を「奴隷なるよりも今中国で怖いことがあるだろうか」という内容で説得して、味方に引き入れた。

この人の半生も1冊の本になるだろう。


賀竜

貧農出身で文盲だったけれど、農民パルチザンを指導した中国革命の功労者の一人。
この人の名前を聞いただけで、地主は荷物をまとめてさっと逃げたらしいが、仲間うちではおもしろい人物だったようだ。
私もそう思う。
残された写真はみな愛嬌たっぷりの顔をしている。

ページにこの人の名前が出てくると、ワクワクしていた。


彭徳懐

この人は軍人としては朱徳につぐ功労者だったと思う。
敵側に追われて避難した時、部隊を率いて毛沢東と朱徳を探したが、見つからなかったのでもう死んだと思い、自分が紅軍を作るぐらいの気概を持っていた。

詳しい事情はわからないが、建国後の文化大革命中に、牢獄で非情な扱いを受けて亡くなった。
検索すればひどい写真も出てきて、この本で彼の功労を評価する者としてはつらい。
名誉回復を受けているらしいが、中国の激動の政治の怖さを知る。


呉玉蘭

朱徳の3番目の夫人。婦人作家で集会で演説することもあり、彼が一番惚れていたような感じがする。
敵側との戦いの中でつかまり、拷問を受けて、見せしめのために故郷の町でさらし首にされている。
このように身内が敵に殺される体験は、紅軍の指導者や兵士はほとんど持っている。


毛沢東

蔡鍔将軍とのつらい別れのシーンを知っているので、信頼できる同じ農民出身の毛と出会えたときの朱徳の歓びはわかる気がする。

作家ハン・スーインは周恩来同様に毛沢東の伝記も書いているが、後年毛沢東への評価が変わり後悔していたらしい。

私は建国後の大躍進とか文化大革命については詳しく知らないので、歳をとった毛沢東に何かあったぐらいで思考が止まっている。

ただし、建国までの毛沢東の強い指導力と革命の最中に培ってきた知性には感服している。


康克清

朱徳の最後の夫人。
自ら決心して紅軍に参加するまで、文盲で、地主の畑で農業労働をしていた女性なのだが、残された写真を見ると、地味で丈夫な身体の持ち主だったことがわかる。

朱徳との結婚話は、歳の差以前に身分違いという理由で最初は断わったらしい。

長征にも参加した数少ない女性の一人だが、彼女自身は長征中にさほど苦労したという話はしなかった。

もうひとり同年齢の女性がいて、行軍中は彼女とのおしゃべりも楽しかったらしい。
歩けないほど疲労しきった兵士の銃を替わりにかついで、歩いた時もあった。

周恩来夫人は病気のときには、担架で運ばれて長征を乗り切ったことを考えると、朱徳は、若くて、自分と同じような頑丈な身体を持つ行動力のある女性をうまく選んだなと思う。

晩年のこの女性と面識があったハン・スーインは、すばらしい女性と評価していて、西洋であまり紹介されていないことを残念がっていた。

私もこの女性に興味がありネットで調べたが、中国語なのでかろうじて伝記が出版されたぐらいしかわからない。


蒋介石

朱徳とほぼ同年齢で、ずっと憎き敵として互いに意識し合ってきた感じがする。
ねばり強いというかアクが強いというか、どれだけ民衆を圧迫してきたか。
共産主義を潔癖なほど嫌い、完全に排除するまでなんでもした感じがする。

社交家で、英語がネイティヴのように話せて、資産家の娘でもある宋美齡と結婚したのが、見事な戦略だったと思う。

孫逸仙夫人宋慶齡は、妹と結婚したからまだあの程度ですんでいると語るほどの問題ありの人物だった。

太平洋戦争は自分が仕掛けたようなことを発言しているところが衝撃だった。
確かに蒋介石にとって、太平洋戦争は好都合だったように思える。


あと孫炳文、袁世凱、林彪、劉伯承、宋慶齡、彭湃、葉挺などまだまだいる。
中国の建国苦労話に登場する人物たちは、敵も味方も多彩だ。



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by far-east2040 | 2017-06-22 15:09 | 『偉大なる道』

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国家的偉業をなした人物の伝記はたくさん出版されてきている。

『偉大なる道』で描かれている朱徳についても、中国では国家的事業としてたくさんの伝記が出版されてきているはずだ。

ただし、偉大なことは教育を通じて認識しているけれども、もう過去の人物として普段の生活では忘れられた存在だろう。
このあたりの実感はよくわからない。

毛沢東や周恩来など他の革命の指導者の伝記もそうだと思う。


朱徳の最後の夫人だった康克清は、革命に参加するまでは文盲で地主の畑の農作業に従事していた人なので、中国で伝記が出版されていることがネットでわかったときは読んでみたいと思った。

中国語がわからないので無理な話だけど。


朱徳たちが生きた時代から見れば、信じられないぐらい豊かな大国にのし上がってきている中国では、こういう革命世代の伝記なんて「もう古いもの」として、ほとんど読まれていないと想像する。

実際古い話だ。
古い異国の人物にこだわる私は、つくづくはぐれ者だと思う。


国家的事業で書かれた政治家の伝記は読む気がしない。
どうしても実際よりも美化したり、悪い面はトーンダウンしたりしていい面を強調しているように勘ぐってしまうからだ。。

だいたいこの種の伝記は出版はされても、さほど読まれないと思うのだが。

政治家とくに旧共産主義国の功労者としての政治家や宗教団体の教祖の伝記モノとか。


司馬遼太郎は、膨大な資料の読み込みと行動で独特の作品群を産みだした作家で、紀行文は好きで親しんだ時期があった。

坂本龍馬を扱ったフィクションは、残された資料に基づくこの作家の知性による創作人物であり、娯楽として楽しむ以上のものは期待できないと思っている。


『偉大なる道』を司馬遼太郎の作品と比べるのも無理な話だけれど、あの時期に革命途上にある人物から直接または周辺から参考になる話を聞いて、自分のジャーナリストとしての見識を動員して編集したという点で、重ね重ねすごく希少価値があると思うのだが。


アグネス・スメドレーは1892年生まれで、中国人の農民を描いた『大地』の作家パール・バックと奇しくも同年齢でしかも女性ということも共通している。

生い立ちはかなり違うが、中国を愛しているという点でもどちらも引けをとらない。

バックは1931年から1935年に出版された『大地』の三部作が評価され、1938年にノーベル文学賞を受賞している。

ぱっと出て、さっと賞をもらったという感じ。


スメドレーはこの『大地』を読んでいたかどうかわからないけれど、これだけ有名になっていたので、中国の農民の生活をきめ細かく描いた作品ということは知っていただろう。

バックは、両親がキリスト教の宣教師で幼い頃から中国で育ち、英語と中国語のバイリンガルで、中国の名前をもち、自分は中国人と思っていたぐらい中国社会に溶け込んでいた人だった。


私は、中学生ぐらいの頃に彼女の三部作は読んでいて、好きな作品だったので、『偉大なる道』を読んでいるときこの『大地』を想い出すことが何度もあった。

フィクションだけれど、バックが描く中国の貧しい農民、そこからのし上がっていく一族の個々の姿が、『偉大なる道』に出てくる人物たちと重なって、中国人でない作家がここまで創作して描けられることに、感心しながら振り返れたものだった。


スメドレーの『偉大なる道』はフィクションではない。

実在の人物からいい話も答えにくい話も、時には沈黙という形で直接聞きとりしているだけに、迫力やためらいなどが伝わり、ノンフィクションならではの読みごたえがある。


スメドレーが朱徳に聞き取りを申し出た理由のひとつは、中国の農民がかつて外部の世界に向かって口をひらいたことがないという確信だった。

フィクションではなくて、直接の聞き取りを活字にして発信したかったのだと思う。
だから、女性ならではの衣食住にわたる生活の細かいことも聞き取りできている。

このあたりバックの『大地』を少し意識していたように感じる。


エドガー・スノーというジャーナリストが、同時期に延安で毛沢東に直接聞き取りをした『中国の赤い星』という本も一時期有名だったらしい。

もちろん最盛期のアジア図書館で一覧できる中国コーナーには何気なく並んでいた。


残念ながらこの本を手に取る機会がなかった。
スノーが女性だったら、読んでいた可能性は高い。

『偉大なる道』よりもイデオロギーが強く出た作品になっているらしいと、どこかで読んだことがある。

中国共産党を全世界、とくにアメリカに広く好意的に紹介したことで有名な作品らしい。


スメドレーの『偉大なる道』をアメリカで出版できるように骨折ってくれたのもスノーだった。
この本の価値がわかっていたのだ。

彼女は全米でマッカーシズムが吹き荒れる最中に遭遇したので、出版どころか住む家を見つけるのも困難な情況に追い込まれ、結局イギリスに向かった。


彼女が日本で出版されることを知ることなくイギリスで1950年に亡くなり、その骨は中国に埋められていることはよく知られている。
その墓石の文字は、朱徳自らの揮毫によるものだ。


なお、スメドレーが共産主義に共感を持っていたことは行動と主張から事実である。

経済的な援助をふくめて当時のソ連の機関とある程度の接触があったと考えても不思議ではない。


有名なゾルゲ事件の関係者で、戦中に死刑になった日本人ジャーナリスト尾崎秀実とは中国で愛人関係だった、とどこかで読んだことがある。

尾崎秀実は日本に妻子がいる身だった。

元は兄嫁だった妻と娘に獄中から書いた手紙が、『愛情はふる星のごとく』という題で出版され多くの人に読まれたらしい。

情熱的な人だ。

愛人関係か事実上夫婦だったかどうか事実は知らないが、どちらも異国で共感するものをもつジャーナリストであったことを考えると、十分ありえると個人的には思った。

スメドレーもゾルゲ事件の関連からだろうか、当然スパイ扱いされたらしく、そのことでも戦ってきた。
政府からの嫌がらせはひどかったらしい。
ゾルゲ事件については現在定説になっていることも、ほんとうの所はどうだろうかと私は思っている。
すっきりし過ぎている感じがする。


で、スメドレーがあの当時どんな主義を信奉していたなんてあまりこだわりがない。

『偉大なる道』を残した事実と彼女の見識、良心、勇気にただ感服している。



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by far-east2040 | 2017-06-19 17:22 | 『偉大なる道』

朱徳の半生記を読んで

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ブログの過去記事を見ると、昨年10月からアメリカ人女性アグネス・スメドレーが聞き取り編集した朱徳の半生記『偉大なる道』を丁寧に読み始めたことになる。


こんなに本の中の登場人物に愛着をもって読みすすめたことも珍しい。
勢いで読んだ1回目、少し余裕をもって読んだ2回目よりもはるかに多くの知識、発見、再認識をえたし、現代の国内情勢を考える目も少しやしなわれた感じがする。
とくにアメリカの対アジア政策のことは考えさせられた。


ブログに載せていくために中国独特の漢字を調べることがしょっちゅうあって、漢和辞典はよくお世話になった。

Wikipediaは中身は問題があると思っているが、歴史上の人物の名前、生年没年や土地名を調べたりするにはとても便利だった。


9ヵ月間、想起しては消えていった数々のことを全て書くことは多すぎて不可能だ。


印象に残っているシーンは、延安ではじめてスメドレーが伝説の人物朱徳と会ったときに始まってたくさんあり、その都度の感動の余韻がこんな作業を続けさせたのだと思っている。


貧農の三男だった朱徳が、一族の期待を背負って弁髪姿で家塾に通いはじめたところ。


青年に達して、祖国を救うために軍人を目指した朱徳が四川省を脱出して危険な河をくだり雲南省へ入ったところ。


蔡鍔将軍との出会いと別れ、そして、まるで忠臣蔵を思わせるような辛亥革命でのクライマックスシーン。


敬愛する人たちの死や挫折などによってアヘンを吸い始め、気が向けば女をそばにおくという生活から決意して、フランス留学を実現させていくところ。


上海での孫逸仙との会談。


ベルリンで周恩来と出会い、共産党入党を果たしたところ。


南昌蜂起の準備のための秘密会議に参加。

それまで名前と顔が一致していなかった毛沢東を薄暗い部屋で眺めたこと。


南昌蜂起の後、敗北主義をのりこえて毛沢東の軍隊と合流し紅軍を結成したこと。


長征中、少数民族との同盟を結んだり、太平天国の乱の兵士が全滅した揚子江の同じ場所で渡ることに成功したところ。


紅軍を結成したのちは、司令官として扇の要となって指導力を発揮していったところ。


気は優しくて力持ちで、場合に応じて喧嘩もする。
楽天家で勉強家、読書家。
真面目にコツコツ物事を進めていくタイプ。
何より行動の人。
農民出身なので、農民の中に自然に溶け込んでいき農民の言葉を話せて、農民からの絶対的な信頼を得ていた。

スメドレーは何度も、足のつま先から頭のてっぺんまで男性的だったと表現していた。


西洋のアレキサンダー大王やカエサルやシーザーとかもっと現代に近いナポレオンなど英雄伝説は多いが、彼らの半生と同様にこの日本で知る価値のあるアジア圏の人物だと思う。

中国人で、共産主義者で、抗日戦争の司令官だったという三重の障壁で、もったいないほど親しむ機会を失ってきている感じがする。
朱徳は封建主義や帝国主義を否定し戦ってきたのであって、その国の人民とではない。


好き嫌いは別にして、戦前の日本もかなり絡んでいる隣国の建国苦労話で、アメリカがどうしても出版させたくなかったこの本は貴重な本だと思っている。

かつてアジア図書館設立運動に関わったものとして、一般市民が東アジアの近代現代の政治的構造を知る1冊としてこの本を強く勧める。


ブログの文章はあくまでもラフスケッチのつもりで、2024年の1月に著作権が切れたら、堂々とネットにもう少しまともな文章に仕上げて残していきたい。

自分が感動した本は必ずしも他人にとってはそうとは限らないことは知っている。

でも、ひょっとしたら私のような時代のはぐれ者が出てきて、この本の魅力に気づいてくれる人が出てくるかも知れない。


なんとかその時まで健康で生きていたいと願っている。



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by far-east2040 | 2017-06-12 09:00 | 『偉大なる道』


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四川省の貧農の子だった朱徳将軍はいま六十歳になった。

11月30日、戦闘の真っ最中に、華北の人民と部隊は彼を祝福して愛情と激励の言葉を贈った。

はるかな満州の戦地から林彪の幕僚が打電してきた。


「貴下の六十歳の誕生日を祝うため、われわれは一つの新しい勝利を贈る。ただいま国民党の一個連隊、わが方に投降せり」


上海で出ている雑誌『群衆』の編集局が誕生日に間に合うように手紙を送ってきた。


「敬愛する先輩。

貴下は中国人民を敵の鉄蹄から救い出されました。

貴下は中国人民を指導して、千年の奴隷状態から自らを解放させ、衣食の道を得ることを助けました。

貴下は侵入者を中国人民の田園から追っ払う。

貴下は中国民族の偉大なる子であり、中国人民の再生の親であります……今日、貴下の六十回誕辰にあたり、われわれの胸のうちに、感謝の情は香華のごとくに燃え立ちます」


延安の朱将軍の司令部には、11月30日の朝から晩までたえまない人の流れが寄せてきた。

ひとりの女を混じえた4人の農民の一団は、彼に誕生祝いの果実入りの菓子、二本の酒、一かごの誕生祝いの麺を贈るため、20マイルも歩いてきた。

延安守備隊の兵隊たちは彼のためにサンダルと靴を作って贈り、そして司令部の前で革命家を歌いヤンコを踊った。


だが、おそらく朱徳がもっとも貴重と感じた贈り物は、共産党中央委員会からの彼の勲功を数え記した巻物ではないだろうか。

清朝の全滅、袁世凱の打倒、大革命における役割、毛沢東との協力による中国紅軍の創設、長征中の軍の指揮、そして抗日戦争における偉大な業績。この文書はこう結んであった。


「貴下は過去六十年における中国人民の偉大な解放闘争を象徴している。

貴下は抑圧された中国人民のよき子、よき兄弟である……


「国民党反動がアメリカ帝国主義とともに対日戦勝利の果実を中国人民から奪い去ろうと企てている今日、貴下と同志毛沢東はわが国とわが人民の利益をまもる闘争の先頭に立つ」


朱将軍は六十歳の誕生日に一文を発表した。

それは流浪する旅芸人の娘で名前さえないほど目立たない女だった彼の母が、八十歳で亡くなるまで農婦として働きとおした物語である。


この六十歳の誕生日の2週間後には、朱将軍はふたたび中国の山野の道を歩いていた。

胡宗南が率いる蒋介石の封鎖部隊が延安に殺到しつつあった。

敵が進出してきたときにはこの小さな街は空になっていて、敵が寸土を取るごとに血を流すことを強いられる部隊だけがあとに残っていた。


悲しげな顔で別れをいいにきた農民たちに向かって朱将軍はつげた。

「ほかへ行っているのもそう長いあいだじゃないよ」


朱将軍はそばを歩いてゆく53歳の毛沢東に話しかけた。


「私は六十年生きてきた。これからの一年一年はそれだけ儲けものだ」


こうして彼は、人類解放の偉大な道を進んでいく。

今度は、3年後に蒋介石を突きくずし世界の反動をふるえあがらせる勝利に向かって、祖国と人民を導くために。
  
                       紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋

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                                               (完)


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by far-east2040 | 2017-06-10 15:04 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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マーシャル将軍がアメリカへ帰って報告書を出したのは、国民党が攻撃を開始した7月22日から6ヶ月の後だったが、彼は内戦について国共双方を非難しながらも、誠実に次のようにのべていた。


「国民党反動グループは、彼らの封建的な中国支配の保持に熱心であり、……彼らが何をしてもアメリカは支持してくれると計算している」


朱将軍は後になって、マーシャルの失敗の原因はマーシャル自身というよりもアメリカ政府の政策にあったと語っていた。


アメリカの記者団が延安に飛んだ10月ごろには、蒋介石は兵力の80パーセント、253個師団のうち193個師団を内戦に動員していた。
朱将軍が記者たちに語った話しによると、1月の停戦協定がやぶれた根本の理由は、「独裁を続けようとする国民党の決意と、アメリカの蒋に対する激励と援助」であった。

国民党はヒトラー、フランコ、ヒロヒトのような専制政治を樹立しようと望んでいて、共産主義者と人民はそれをやっつけようと決意しているのだ。


国民党がふりまいている米ソ戦という風説のことにふれて、朱将軍はいった。


「そうした戦争を製造しているアメリカの反動の一団があるし、中国の反動どもは、それがすぐ起るのを望んでいる」


「だが、彼らの野心が実現されるとは思わない」と彼はつけ加えた。

「もしそうした戦争がはじまった場合には、われわれの態度は、中国人民に対する両方の側の態度いかんにかかっている……


「アメリカがとりうる、ふたつの異った政策がある。

ひとつは、中国をソヴェト同盟との友好のかけ橋にする政策であり、もうひとつは、中国を対ソ攻撃の戦場にする政策である。

前の政策はヘンリー・ウォーレス氏が主張するものであり、後の政策はアメリカの反動たちが主張するものだ。

われわれはそうした戦争の発生を阻止するであろう! 

そうしたおそるべき大惨害を心にえがくにつけて、われわれは何としても平和のために努力せざるを得ないのだ」


ところで、あの強大な国民党軍に対して人民解放軍はどれだけ持ちこたえることができるか。

この質問に朱将軍は冷ややかに微笑した。


「それは全くアメリカ反動勢力にかかっている、というのは、彼らは中国の反動を通じて、われわれに武器や弾薬を供給してくれるからだ……」


「わが国の人民や兵隊は、これが中国とアメリカの反動勢力とのはじめた戦争だということを、また、もしわれわれが負ければ、これまでに得たもののいっさいを失うことや、何百万人のものが絶滅されることを、知っている。

だから対日戦のときと同じく、全人民がわれわれを支持している……蒋に従属するものの多くも、内戦を欲していない。

だが、彼らはその命令にしたがうか、それでなければ彼と関係を断つしかない。

しかし、現在のような服従の時期はそう長くはつづかないだろう。

われわれは過去2ヶ月半のあいだに国民党の25個師団を全滅させたが、国民党は、わが軍の1個連隊さえ、全滅させることができなかった」


もし提供されたとすれば、ソビエト同盟の援助を受けるかという質問に対しては、朱将軍はこう答えた。


「今日われわれがもっとも求めている援助は、アメリカ人民からのものだ。

われわれは、アメリカの人民がその政府の不名誉な政策をやめさせることを、望んでいる。

私は衷心からいうが、われわれは、中国の独立と平和と民主主義とに同情するすべての人民、すべての国家に深く感謝するものであり、わが国の国内問題に干渉し内部闘争をかき立てるあらゆる反動勢力に反対するものである……」


その2週間後に、ひとりのアメリカ人記者が延安に飛んで、朱将軍にぶしつけな会見を申し込んだが、朱将軍もまたぶしつけな返答をした。


「わが国をアメリカに売ることによって設けている国民党の官吏や将軍や寄生虫だけが、この内戦を欲している!」


「アメリカ帝国主義は、日本帝国主義と同様に憎むべきものだ!」

彼はにがにがしげに断言した。

「アメリカ政府は、反動政府だ。

その反動勢力が、これまでに蒋介石につぎこんだ援助は30億米ドルをこえる。

これだけの金が、役人や軍閥がくすねた一部をのぞいて、すべて中国人を殺すために使われているのだ。

一年前にはトルーマン大統領の声明やマーシャル将軍の派遣に歓喜した中国人で、アメリカの兵器の犠牲にされたものが何万人といるのだ。マーシャルが和平をかたっていたあいだに、国民党とアメリカ政府とは、戦争準備をしていた」


1946年が終わりに近づくころには、華北と満州は中国人民の鮮血で彩られたが、もしひとりが前線で倒れれば、多くのものが彼に代わるというありさまだった。

人民解放軍は敵の勢力をけずり消耗させるため、大都市をすてて農村部に退いた。

国民党の士気はますます低下してゆき、いくつもの師団がそれぞれ師団ごと共産側に移りはじめるまでになった。


何千回の闘争できたえた鉄の規律をもち、死のみが絶つことのできる不屈の確信の装甲を身につけた人民解放軍は、いまや急速に最良のアメリカ兵器で武装しつつあり、彼らが遊撃戦と移動戦から正規の戦争へとすすむ時期は近づいてきている。

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-06-10 13:44 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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1946年4月になって重慶協定が破綻したことがはっきりしたので、これに参加した共産党側の指導者11人が飛行機で延安に向けて重慶を去った。

この飛行機は途中で墜落して、乗っていた全員が死亡した。

操縦者と乗務員はアメリカ人だったが、そんな小さなことは国民党秘密警察のサボタージュ行為の妨げにはならなかった。

死亡者の中には新四軍の前司令官葉挺将軍がいたが、彼は5年間の監獄生活から釈放された人で、いま妻と二人の子どもといっしょに遭難したところであった。


中国の民主勢力は戦った。

トルーマン大統領、アメリカ議員、マーシャル将軍にあてて、保守的な実業家まで含むあらゆる層の中国人団体から抗議文が殺到した。


7月には長い間崇拝されてきた名である孫逸仙未亡人の宋慶齡が、アメリカ議会とアメリカ人民に向かって、国民党に対する彼らの援助を打ち切ることによって、混乱と飢餓と数百万の新たな死をもたらす新内乱を阻止することを求めた。

このような戦いに国民党は勝つことができないとも彼女は警告した。


孫夫人の訴えはその他何千の抗議の場合と同じく、何の応答もなかった。


7月はすでに書いた陰謀計画で全面的な内戦を予定していた月だったが、この時になっても中国に民主主義の根拠地がひとつ残っていた。

それは西南の昆明にあった。

そこには民主同盟の最後の機関紙である李公樸の編集する『民主週刊』があった。

有名な詩人で、10年前から清華大学の文学の教授であった聞一多もその編集陣の一人だった。


7月11日に、秘密警察が昆明の街頭で李公樸を射殺した。

翌日、聞一多教授は友人の遺骸の前で悲痛な追悼の辞をのべた。

「私は今日家を後にするとき、二度とかえらないことを知った」と彼は数千の会葬者を前にしていった。

そして聴衆の中の秘密警察員に向かってはっきり「出てこい」と叫びかけた。


「なんという恥知らずな行為だ! 

恥知らずな! 

君らは生けるものを亡ぼし、死せるものを汚す!」


数時間後には、聞教授も18歳になる息子の学生といっしょに昆明の街頭で射たれて死んだ。


昆明の16人の民主的教授たちは家族とともにアメリカ領事館に避難し、香港、ついで上海に飛行機で運ばれた。

ほかの都市の13人の有力な学者たちは生命の危険を賭けて、昆明殺害事件のことを国連の人権委員会に打電し、使われたピストルは消音装置のついたアメリカ製のものであることを訴えた。


外国の新聞が昆明暗殺事件を詳細に暴露したし、各国の有力な知識人たちが蒋介石に抗議したりので、公然とした暗殺は止まったが、秘密の誘拐や殺害は相変わらず続いた。


昆明殺害事件と同じ週に、南京の共産党側の主任連絡将校である周恩来将軍は、蒋介石の命令書の写しをマーシャル将軍に手渡したが、その内容は蒋が部下に下した全面的内戦の開始を告げる最終命令だった。

命令は人民解放軍に対する攻撃開始を7月22日と指定していた。

そして実際に、1946年7月22日には、アメリカによって訓練され装備された国民党軍がアメリカ製の爆撃機や大砲を先頭に解放区に押しよせてきたのであった。



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by far-east2040 | 2017-06-10 10:47 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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マーシャル将軍は1946年3月初旬ワシントンに行き、5億ドルの借款を請求した。
これは12月15日のトルーマン大統領の声明によれば、新しい民主政府だけに与えられるはずだった。

  

ところが国民党反革命の武器庫には、マーシャルが想像もしないような謀略が隠されていた。

マーシャルの不在の間に、国民党中央執行委員会は秘密会議を開き、重慶協定の決定を廃棄した。

国民党は行政部門が国会に対して責任を負うという原則、つまりこれは蒋介石の独占を奪うものであったが、この原則を否認したうえ、新しい連合政府におくる自党の代表者だけでなく、他党の代表者までの任命権を要求した。


国民党がどんな政府を考えていたかということは、共産主義者に農林部長の地位を割り当てたことではっきりした。

この地位はこれまでずっと現役を退いた軍閥の収容所だったからだ。

民主同盟の一人は教育部長の地位が提供されたが、彼は「私はこんな地位より命の方が大事だ」と回答した。


共産党と民主同盟は国民党のあらゆる申し入れを拒絶して、一月協定の完全履行を要求した。

しかし国民党は単に協定の取り決めを廃棄したばかりでなく、共産主義者の掃蕩を目標とする秘密計画の具体化に着手した。


その計画は3つの段階に分かれていた。

第一の準備段階では、民主同盟に指導される国民党地域の民主運動を買収によって沈黙させるか、テロによって破壊する。

そしてアメリカの目に、中国問題が中国人民の民主主義のための闘争ではなく、国共のぎりぎりの権力闘争として映るようにする。

そうすれば、全能のアメリカがどちら側につくかは明らかだったからだ。


共産軍に対する掃討戦になる第二の段階は7月半ばに開始されることになった。


この第二段階はそのまま次の第三段階である米ソ戦に移っていく予定で、この戦争でアメリカが勝って、中国と世界の有産階級に対する共産主義の脅威がついに永久的に取り除かれるというのが国民党の確信だった。


蒋介石はこの当時「3ヶ月準備して、あと3ヶ月で共産主義者を絶滅する」と豪語したと伝えられる。


朱徳将軍がこの陰謀の詳細を知っていたことは、五四運動記念日の民衆大会での彼の演説で明らかであった。

彼は重慶協定はこの陰謀のためぶちこわされたとのべた。


「まだ闘争に勝ってはいないが、しかし全中国人民がこの陰謀をやっつけることを確信して疑わない」


1946年3月から7月にかけて、秘密計画の第一段階が実行された。
満州と華北一帯にわたって戦闘が続いているとき、国民党地域では秘密警察のテロ時代が出現した。

反対派、とくに民主同盟の新聞雑誌社は平服の秘密警察の暴徒に襲われて破壊された。

印刷工や編集部員が殴打され、多くの記者が誘拐されたり殺されたりした。

西安では、秘密警察が民主的日刊紙の印刷工場を破壊し、幹部を殴り、主筆を射殺した。
事件を告訴した弁護士ワン・エンはとらえられて処刑されたが、国民党はあとで彼は阿片吸引者だったと発表した。


上海の北の南通市では、国民党軍と新四軍とのあいだの戦闘を調べに休戦班が来ることになっていたが、秘密警察が住民に家の中にいて証言しないように強要した。

ところが町の人々は休戦班を歓迎に出て、20人の教師や著述家や新聞人が証言した。

この20人は翌日姿が見えなくなった。

16人の死体はついに見つからなかったが、4人の縛られた死体が数日後に近くの川で発見され、その身体は切りさいなまれ、眼はえぐり取られていた。


広東では、秘密警察がすべての書店と文化団体を襲って閉鎖し、アンラ物資にからむ官庁の腐敗を暴露した2つの自由主義日刊紙を破壊した。
これらの新聞は、一隻分の救済米がそっくり国民党第五十四軍にわたっている事実をつきとめたのだった。

数百袋の米がなくなっていることを記者が指摘すると、アンラの中国人役員はすまして答えた。


「強い風が吹いてきて、米袋が海に飛ばされた」

                         紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-06-10 08:06 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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1946年1月に、朱将軍は外国人記者ジョン・ロデリックと会談したが、彼は朱将軍のことを「熱心な聴き手」で、「旧世界的な作法」をもった人であり、すすめられる煙草をとる前などには両手を胸のあたりで握り合わせて、軽く頭をさげると書いた。

ロデリックの話によると、朱将軍はそのころはもう兵隊とバスケット・ボールをすることはなく、長い散歩をとり、ときどき馬に乗って猟に出かけた。

戦争中に日本の爆弾で破壊されていた延安から5マイル離れた酷寒の洞窟にすわっている朱徳の姿は、「無給のみすぼらしい身なりの革命家だが、階級はアメリカの5つ星の将軍に匹敵するのだ」


「この天下のおたずねものはほとんど護衛なしに、しかも決して武装せずに延安を歩きまわる。

彼の兵隊たちは、中国の軍隊では稀有なことだが、彼を偶像視している。
重慶の統一交渉が進行中で、重要な党の決定や配下130万の部下の指揮などで多忙なこのごろは、毎日朝から晩まで予定表に従って動いている。

6時に起きて朝食をすますと、すぐ前線からの電報の山にとびつく。

軽い昼食をとって、午後もずっと仕事を続け、他の指導者たちと会議をしたり、時には彼らに会うため5マイル歩いて町に出る。

朝食前と夕食後には本や新聞をむさぼるように読み、外国のニュース放送や新聞の翻訳を通じて、国際情報におくれないようにする……

「生涯を統一と自由と民主主義のための戦いで過ごしてきたので、それが成就しさえすれば、自分はいつでも即座に武器をすててもかまわないと彼はいう。
『1946年にはそれが実現するといいのだが』とつけ加える」


朱将軍は非常に熱心に重慶会談のことを話した。

「日本がやぶれ、ロシアは問題ではなく、内戦の危機も明白に去った」とすれば、次に必要なことは軍隊を国でまかなえる程度まで縮小し再編成することだと彼は考えた。

国民党軍90師団、共産軍20師団という協定はもっと縮小すべきだと考えた。

中国はできるかぎり自分の足で立つべきであり、蒋介石が頼んで来てもらい、ウェデマイヤー将軍がいまそこで働いているアメリカ軍事顧問団のようなものは不必要だと見た。


なおまた、軍事目的の外国借款は返すことがむずかしいが、産業建設につかう借款は新しい工場の生産から支払うことができ、同時に生活水準を引き上げることができる。


極東の平和を維持するには、十分訓練された大きな軍隊が必要ではないかという質問が出たとき、朱将軍は新しい中国の民主政府の存在こそ国内平和の最大の保証だと思うと答えた。


「われわれが軍隊を国軍に統一することを主張しているのはそのためだ。

中国では、大きな軍隊を維持する誘引になる権力や利潤を取り除くことが、先決問題だ」


熱心に語りながら、これはこう結論した。


「私はこの華北で、人間が逮捕やテロにおびやかされずに生活でき、自由に民主的な自治を行なうことのできる地域をつくりだす仕事を、手伝ってきた。

私は幸いに生きのこって、現にわれわれの打ちたてた民主主義が、現在混乱と圧迫との中に住む地域の中国人から要求されているのを、自分の眼で見ることができた。
この点で私は有りがたいと思っている。
私の生涯は、無駄ではなかった」


重慶の統一会議の妥結を祝う2月4日の延安の民衆大会で、朱将軍は、もし中国が30年の平和を手に入れることができるならば、世界のどこにも負けない近代的国家になるだろうという確信をのべた。

総統が民主政府に同意したことに敬意を表すといった上で、蒋介石に延安辺区の軍事封鎖をやめて、その誠意を示してほしいと呼びかけた。

しかし蒋はこのよびかけを無視した。


3月4日、マーシャル将軍が延安をたずねた。

朱将軍はその歓迎民衆大会で、マーシャル将軍が三ヶ月足らずのあいだに中国の内戦をとめ、軍の再編成計画をたて、民主主義と平和とへの第一歩を成就した功績をたたえた。

そして人民解放軍は停戦条項とマーシャルの設置した軍事執行部の指令を忠実に実行するとのべた。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-06-09 21:34 | 朱徳の半生(改編後削除予定)