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新四軍の悲劇の2ヶ月後、新四軍「残党」の掃討作戦をやっていた蒋介石の二人の将軍が5万の国民党部隊を率いて日本軍に寝返った。

蒋総統は彼らに譴責も官位剥奪もせず、懲罰軍をさし向けることもしなかった。


八路軍と新四軍は、これから後は、彼ら自身と人民と協力で作り出された力に頼るしかなかった。

共産主義者は内戦時代の革命軍事委員会を復活し、解放区全体に司令する延安政府を設置した。

朱将軍は陳毅を新四軍の司令官に任命し、揚子江下流地区で部隊を再集結して、日本と傀儡に対する戦いを続け、国民党軍から攻撃された場合は防衛するように命じた。


両共産軍と華北華中の人民は、彼らの胃袋を自身で賄わなければならないという境遇に陥いりながらも、いわゆる「大業」に着手した。

数年後にその結果を見たものは驚異の目をみはらせた。

何ヶ月かの惨憺たる苦闘の後、新四軍は華北にあるような安定した遊撃基地を作った。

その管下の全地域で、平等普通選挙権と自由選挙をともなう公民権が導入された。

行政機関、小工場、兵器廠、病院、学校、広報施設なども華北と同じ型のものが作られた。


重慶は公然とした内戦政策からは退いた。

第二次世界大戦が終わった1945年まで、武装休戦の状態が続いた。
共産党側代表は以前のとおり重慶に駐在したが、孤立させられていた。
彼らの新聞『新華日報』は最も過酷な検閲の下で、辛うじて発行を認められていた。


共産主義者たちはいつもこういっていた。

可能なかぎり統一戦線を維持するが、攻撃されたら防衛し、そして従来どおり孫逸仙博士の三民主義と基本政策の実現に努める。

そして国民党にも同じことをするように呼びかけたのであった。


後に私(スメドレー)に送った手紙の中で、朱将軍は次のように述べている。


「金と軍需品との供給を絶たれたが、いまやわが軍は、抗日戦をつづけるために統一された指揮の下にまとまった。

われわれは精力的な生産運動を開始し、部隊も党その他の機関も、すべてこれに参加した。

すべてのひとびとが、農耕、牧畜、紡績、その他われわれ自身と華北人民との自給自足に必要なあらゆる種類の仕事ではたらいた。

最初の年はひどかったが、事態はその後しだいに改善された。

最初の年の苦難のもとで、われわれの新しい政治、経済、軍事の政策を強化し、新民主主義を発展させたが、それについては毛同志が同じ名の著書の中で定義を与えている。

われわれと人民とは相互に依存しあっているが、われわれの生産運動が累進的に成長するにつれ、わが軍は完全な自給自足になり、人民によりかからなくてもよくなるだろう」


歴史との「出合い」を続けることは容易なことではない。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-31 16:05 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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重慶政府が日本の演出によるのか、たまたま日本と同じ結論に達したのかわからないが、とにかく1940年12月、新四軍に向かって2年近く作戦した戦闘地区から撤退するように命じた。

そして、特定の地点で揚子江を渡り、指定された道順を通って華北に向かうことを命令した。

重慶はすでにその前から新四軍に対する軍事費の供給を中止していたので、軍は食糧もとぼしく、まだ冬服も持たない状態だった。


葉挺将軍は最高司令部と交渉した。

揚子江流域から強制的に新四軍を立ち退かせるのは日本との降伏条件を容易にするためであることを彼は見抜いていた。

そして新四軍が指定された道順に進めば、日本軍と傀儡部隊にせん滅されることも知っていた。

四万に達する彼の部隊は大部分が逃げてきた労働者や知識階級だった。
彼らはよく知っている土地で郷土を守るために善戦したのであった。


彼らの願いは拒絶され、撤退命令が繰り返された。

やむなく新四軍は命令を受け入れたが、延滞している軍費や、弾薬、冬服の支給、そして任意の経路で北進することの承認などを要求した。


重慶は延滞していた軍費20万元と弾薬を支給したが、冬服は渡さなかった。

1941年1月7日までに、9千人をのぞく新四軍全員が彼らの選んだ地点で揚子江を渡り終わった。

残った9千人は、司令部、軍・政訓練学校、患者でいっぱいの後方基地病院2つ、そして司令部衛兵と師団の一部であった。


1月7日、これらの残った部隊が揚子江に向かって行進し始めたとき、他の地区から入り込んできた5万の国民党部隊に包囲された。

血生ぐさい虐殺が始まった。

副司令頂英は行動中に殺され、葉挺将軍は負傷して捕えられた。

病院部隊にいた傷病兵は簡単につき殺された。

看護婦や政治工作員は死者の銃をとって弾薬の尽きるまで戦った。

その後森の木に首をつって自殺した。


1千人だけが突破口を見つけて揚子江を渡り本隊と一緒になった。

約4千人の負傷兵は捕虜として拘置所に入れられ、大部分が病気と虐待のためにそこで死んだ。

婦人の捕虜は国民党将校のあいだで分配され、獣のように扱われた。

米国が参戦した後、戦時情報局(OWI)の職員は中国の東部でこれらの婦人の何人かを見たし、また新四軍拘置所で生き残った何百人かの人々にも会った。

戦時情報局のある職員が会った拘置所から脱走した二人のうち一人は葉挺将軍の兄弟で、片足に拷問による重い障害が残っていた。


蒋介石はこの揚子江虐殺を秘密にしようとしたが、隠しきれないので、ついに、命令にそむいた新四軍に対して「懲罰行動」をとったと声明した。

したがって新四軍は法律上の保護を奪われ解体されたと彼はいう。

国民党の最も封建的な将軍の一人である湯恩伯将軍が「反徒の残党」の掃討を命じられた。


この虐殺事件の直後、売国の南京政府は傀儡部隊に次のような命令を放送した。

「新四軍絶滅工作が開始された。仕上げをするのは、われわれの仕事である」

新四軍はいまや陳毅将軍の指揮下におかれたが、国民党と日本の傀儡政府の軍隊を敵にして、一時はせん滅されると思われた。

しかしそれは成功しなかった。

いかに腐敗しているとはいえ、国民党の兵隊たちは日本軍でなく同胞をやっつけろといわれると、困惑し士気沮喪したからだった。


揚子江悲劇の真相を検閲で隠しきれなくなったとき、重慶最高司令部は、新四軍が南京、上海、杭州の三角地帯を占領し、北は山東までの海岸一帯に勢力をはる陰謀を企てていたと非難した。


この奇怪な声明は、南京、上海、杭州の三角地帯が揚子江流域の日本の本拠であることを見落としている。

新四軍が実際、この地帯の占領を「企てていた」とすると、強力な日本軍と売国南京政府の破壊を企てていたことになる。

また全中国の海岸も日本軍に抑えられていたのである。


毛沢東と朱徳がふたたび乗り出した。

彼らはすぐさま内戦に突入するのを防ぐため、きわめて慎重ではあったが、事実は詳細に暴露して、重慶は葉挺将軍その他新四軍の将兵を釈放し復職させ事態の収拾をはかること、この悲劇の責任者を処罰すること、死亡者遺族に補償すること、このような攻撃が再発せぬよう公式の保証を与えることを要求した。


さらに朱と毛とは、中国政府のファシストの人物に対しては断固たる攻撃を加え、彼らは日本といっしょに八路軍と新四軍を掃討し、和平と交換に華北を日本に引き渡し、中国を枢軸陣営に引き込むことを企てているといった。

そして内戦と対日降伏を阻止するため、重慶政府の基盤をひろげ、各党各派の代表を包含させるよう要求した。


これに対する重慶の答えは八路軍に対する現金、食糧、その他一切の供給を停止し、胡宗南に命じて延安地区の封鎖を固めたことであった。

日本がせん滅工作を続けている一方で、八路軍を餓死させる執拗な努力が行われていたのである。



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by far-east2040 | 2017-05-31 11:56 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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朱将軍は、1940年の年次軍事報告やその他の論文の中で、1940年は大規模な内戦の再開が不可避と思われたくらい危険信号の多い年であったと述べている。

これは日本に有利な情勢の展開に押されて、重慶が分解し始めた時期であった。

有利な情勢というのは、

①雲南省に通ずるテン越鉄道の無期限閉鎖とビルマ公路の一次閉鎖。

つまり重慶は海港からの軍需品供給が絶たれた。

②ヨーロッパ戦争の開始。

③汪精衞を頭領とする日本の傀儡「中央政府」の設立。

設立目的は共産主義の絶滅であると宣言された。


大胆な民主主義的改革を導入すれば、華北の経験がしめすとおり、人民の持つあらゆる潜在的な力や熱情が呼び覚まされるはずであるが、重慶はそれをやらないで、反動と腐敗の底にますます深く沈んでいった。

その上国民党の将軍たちはしばしば重慶最高司令部の直接の命令の下に全部隊を率いて華北に入り、八路軍と戦うために日本軍側に投じ始めた。


国民党は軍の日本軍側への寝返りについて語ることをいっさい厳禁したばかりでなく、それを隠す煙幕として、逆に八路軍や新四軍は日本と戦っていないと攻撃した。

蒋介石直系の陳誠将軍は、すでに1940年1月、共産軍は「農村をうろついて、民衆を煽動し社会秩序をみだす」だけだと公然と非難の声をあげている。


朱徳と八路軍の15人の指揮官たちは陳誠将軍のでたらめを指摘した。
そして、実際の状態を明かにするため、陳誠将軍を河北に派遣するように正式に蒋介石総統に要求した。

行動中の八路軍の状態、負傷兵であふれた野戦病院、人民抗戦部隊の状況などを見せると同時に、他方日本軍と裏で取引するばかりでなく日本軍の対八路軍戦に協力している国民党軍の現状を実地に見せたいと思ったのである。

蒋総統はその要求を無視した。

八路軍と新四軍とに対する非難は依然として続いた。


八路軍の指揮官たちの要求が通っていたならば、蒋総統の派遣した代表たちは抗日戦中で最も強力な作戦の一つを目撃することができたはずだった。

1940年8月初旬、朱徳と彭徳懐は長い間計画していた「百団大戦」の命令を下した。

それは5ヶ月後に終わったが、この期間に共産軍のますます増大する力に対する国民党の恐怖が頂点に達して、両軍の統一は事実上終わりになってしまった。


朱将軍が私(スメドレー)にくれた手紙によると、この驚異的な攻勢に参加した八路軍の百団(百個連隊)はすべて志願によって編成されたもので、日本軍の「封鎖せん滅」作戦を打破し、打ち負かそうという熱烈な希望を持つものから選ばれた。

八路軍は全部隊からこれに参加したが、義勇隊では最も強いものだけが百団に加えられた。


全華北は陝西北部の山岳から東の海岸まで、南は黄河から満州まですべて戦場となり、5ヶ月にわたって日夜激しい戦いがくり返された。

百個連隊が経済、交通、封鎖機構など敵の全体制に襲いかかったので、戦いは惨烈をきわめた。

敵が抑えていた炭鉱や発電所、鉄道、橋梁、公路、列車や電信施設などが破壊された。

郷村には電信電話線や電柱が散乱した。

華北の鉄道は広範囲に切断され、枕木は運び去られ、レールは山岳基地の小兵器廠に運ばれた。

敵のトラックや自動車が無数に破壊され、山東沿岸の港では船が爆破された。

また済南や芝フの倉庫や役所が打ち壊された。

解放された鉄道や鉱山の数千人の労働者が八路軍に加わった。


12月末この作戦が終わったときの戦果は、破壊した日本軍の堡塁2,933、日本軍の死傷者は将校18人を含む20,645人、捕虜281人であった。

その他に、中国人傀儡部隊の51,000以上を殺傷し、18,407人を捕虜にした。

その約半数が元国民党軍の兵隊だった。

また莫大な武器弾薬その他を鹵獲して利用した。


こうした情勢と国民党の反応を日本人はどう考えたか。
それは東京の反動新聞『国民新聞』の1940年12月27日付の社説(国共紛争)が端的にしめしていた。。


「重慶が中国共産党の影響力の増大に苦慮していることはたしかだ……揚子江下流における新四軍の跳梁は平和に対する脅威になっている。
……津浦線の輸送は非常な打撃をうけている。

八路軍は華北全体に滲透して、平和維持のガンをなしている。

……蒋一派はいまジレンマに当面している。

……もし重慶が共産主義者の鎮定に失敗すれば、日本も共産党勢力のため重大な影響をこうむる事態になることは、考えられないことではない」(以上概要)



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-30 17:30 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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1939年3月まで、共産主義者は内戦再開のきっかけになりそうなあらゆる事件を穏やかにおさめるのに懸命の努力をはらっていた。

ところが3月末のある深夜、国民党部隊が新四軍の湖南省の輸送連絡所を襲って、全員を生き埋めにして殺した。


毛沢東と朱徳はこれまでの自制を一気に捨てて、重慶に厳重な抗議をたたきつけ、その電文を新聞に発表して、残虐行為の詳細を暴露した。

彼らに責任者の即時処罰、正式の謝罪、そして再発防止の保証を要求した。


何らかの善後策がとられた。

だがこの事件そのものは、ある反共文書のもたらした結果であった。

その写しを私(スメドレー)も見た。

それは国民党特務団が発行したもので、国民党軍に秘密に持ち込まれていたものだった。


8月には、朱将軍は石友三の行動に関する極秘情報を蒋介石に打電した。
石友三は河北―河南―山東の省境にいた国民党第六軍の司令官でありながら、日本軍と協同して八路軍に対する攻撃を行ったのである。

彼は長い親日的な前歴をもつ無思慮の軍閥だが、蒋総統は朱徳の非難を即座に退けた。


朱徳将軍は非難攻撃を繰り返した。

蒋介石は返事を返さなかった。

8月24日、朱徳と彭徳懐は石友三の命令書の一部を引用して詳細な証拠を蒋あてに打電した。

その命令書は次のようなものだった。


「蒋総統の命令により、そうしてわが国土、人民、生存、および発展のため、わが軍は抵抗戦争の障碍である共産匪を絶滅しなければならない。
……われわれは現在の段階においてはまず共産匪を静粛するべきであり、第二段階において対日戦を遂行するべきである。


一、第六軍が日本軍と戦闘に入った場合は即座に後退し、代表者を日本におくって事情を説明すること。

日本機が飛来した際は、屋上に白布をひろげ、射撃しないよう部隊に命令すること」


これに続いて日本軍との通信方法を説明する命令が規定してあった。

つまり昼間は手旗信号、夜間は発火信号。

また行進中は第六軍と日本軍とは少なくとも十里の距離をおくように規定されている。

さらに日本軍との諒解によって、第六軍は夜8時以後は行動しないことになっていた。

最後に命令書は次のように指示していた。


「第六軍が共産匪に挑発されて営外行動をとる場合は、日本軍に通告しなければならない。

必要な場合は兵を出して、日本軍の共産匪討伐を援助する」


蒋総統はこの電文は作り事であると否定したが、石友三の反逆行為が目に余るようになったので、数ヵ月後にはついに彼を逮捕、審判して射殺せざるを得なかった。

この処刑の後、ある国民党政治家が私(スメドレー)の面前でこういったものだ。

「石友三は悪いやつじゃなかった。彼は、反逆者だったものだけが愛国主義の美しさをほんとうに理解することができるといってた」


1939年12月ごろには、内戦の危機がますます高まってきたので、朱徳将軍は前線を離れて延安に帰り、毛沢東や中央委員会と常に接触を保つことが必要になった。

3年後に私にくれた手紙の中で、「八路軍に対する蒋介石の公然たる軍事行動の最初のものは、1939年の12月事件であった」と書いている。


この「事件」は、その他の二つの事件とほとんど同じ時に発生した。

一つは、山西省南部にいた朱懐冰の指揮する国民党軍が日本軍の八路軍掃討作戦に公然と参加したことである。

それとほとんど同時に、綏遠の国民党軍と日本軍は延安辺区の北境から八路軍に対する同時攻撃を開始した。

胡宗南将軍はこれに呼応して延安辺区の西南から攻撃に出た。

胡将軍は飛行機と砲兵を繰り出して作戦した結果、数百の部落を破壊し、数千の人民を殺傷して、辺区の多数の県を占領した。


この国民党の攻撃の露骨さは外国の通信社さえ報道したくらいであった。


たとえば1940年1月6日の『ニューヨーク・タイムズ』は、朱将軍が「中央政府軍の攻撃の停止を要求する強硬なメッセージを蒋介石総統におくった」と報じ、「共産党は日本に対して戦っているところを背後から攻撃された」という朱将軍の非難を引用していた。

                         紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-05-30 07:06 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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戦争の1年間に政府は政治犯を釈放し、その管下の人民にある程度の政治的自由をゆるしたが、ふたたび反動が勢力をもり返す不吉なきざしがあらわれてきた。

汪精衞行政院長は多くの追随者に支持されて、「共産主義の匪賊行為」に対する警鐘を打ち鳴らし、日本の講和条件を受け入れるよう主張していた。

また国民党内の反動的な「C・C団」も人民の組織と武装に反対し妨害した。

汪精衞は戦争が続けば中国は共産主義者に乗っ取られるだろうと警告した。


蒋介石は、日本に降伏すれば自分の立場がなくなることを知っていたので、敵のあらゆる和平提案を拒否した。

しかし赤い同盟者を恐れる点では汪と同じ立場だった。

たとえば1938年の夏には、蒋介石は八路軍の解放した地区を接収するため、特別の部隊を華北に派遣した。

それと同時に黄河沿岸の国民党部隊は解放区に侵入し始めた。

一方、延安地区の北境に接する綏遠省西部の国民党軍は、八路軍を共同攻撃するため、日本軍と停戦や同盟を結びだした。


1938年10月中旬、日本軍が漢口をめざして進撃していたとき、朱徳将軍は国防参議会で協議するため首都に飛び、前述のような活動に対して警告を発するとともに、民主的改革を全国的に採用するよう要請した。

そうした改革によって初めて人民の生活を改善することができ、彼らに命がけで戦い守るべきものを与えることができると述べた。

彼はその論拠として、華北を敵の収奪に対する防壁に変えた八路軍の業績について報告した。

選挙される町村の委員会は完全に民主的であって、共産主義者の参加は3分の1に制限されていることを力説した。


朱将軍の提案は十分な成果をおさめなかったけれども、八路軍と弟分の新四軍は統一戦線を守り、国民党軍との緊密な友好関係を努力する気であることを政府に確信させた。


日本軍が10月25日漢口を占領してから2ヶ月後、汪精衞と追随者たちは飛行機で重慶を去って、インドシナに行くという奇怪な行動をとった。

そこから上海に入り、そして日本人の手に飛び込んだのである。

1939年3月、汪は日本の傀儡政府を南京に作ったが、その目的は「共産主義の絶滅」であると宣言したのであった。


朱将軍は、1939年7月18日延安の新聞で発表した論文の中で、国民党反動勢力の増大と、内戦と対日降伏という二重の危険ついて述べている。


「1938年秋、漢口が日本軍の手に落ちて以後、われわれは国民党内の有力な一派が、民族統一戦線を破り内戦を再開することによって、降伏の道を準備していることを知った。

われわれは、山西省東南部、河北省南部、そして山東省西部の国民党軍が、八路軍を敵として彼らのいわゆる『連省共同防衛』協定を結んだ証拠文書をもっている。

そのうちの鹿鐘麟将軍のひきいる部隊は、われわれが敵から解放した地区を接収するために蒋介石が派遣した部隊だった。

この軍はわれわれの解放区に入ってきて、あらゆる地方行政機関を解体し、1937年日本軍がきたとき逃亡した、もとの封建的な役人たちをそのあとに据えた。

また地方の人民部隊を包囲し、武装解除し解体して、『保安隊』をおいたが、その仕事は、人民の抗日と民主主義活動とを抑圧することだった。われわれが導入した小作料引下げや、高利の禁止などの改革は、非合法とされ、新旧の重税が課された。

村民はふたたびギャングたちのため強制徴兵され、鹿将軍に三千元献納するものだけが徴兵をまぬがれる状態だった」


こうした動きは、重慶政府支配下のあらゆる地域でしだいにひどくなった人民活動の弾圧と並行していた。

国民党が直接管理するもの以外あらゆる出版や組織は弾圧され、政治犯の集中拘置所が設けられた。

新しい産業合作社さえ、そこで働く人々の共同所有であるという理由で破壊的なものと見なされた。

ある国民党政治家は、華北で共産主義者が合作社の網をはりめぐらしているから、合作社は共産主義制度にちがいないと私(スメドレー)にいった。

そして、こういう制度は戦争中は役に立つかも知れないが、勤労者が独立心を持って以前の仕事場に戻らないようになるから危険だと述べた。

                            紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-05-29 14:57 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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朱将軍の報告によると、抗日戦1年目に八路軍の被った損傷は2万5千で、約3分の1が戦死者だった。

損傷のうち7千人が共産党員であった。

この当時、八路軍部隊は陝西の山々から黄海まで、南は黄河から北は内蒙の熱河省にいたる華北全域にわたって作戦を展開していた。

内蒙の熱河省にも山岳基地を作り、満州義勇軍と協同して作戦していた。
彼らは山東省の省都済南さえ襲撃したし、北京近郊の炭鉱や発電所も攻撃した。

北京郊外6マイルにあるアメリカのミッション経営の燕京大学の学生や若干の教授は八路遊撃隊といっしょに活動していた。

多数の燕京卒業生は大学から直接八路軍に参加した。

戦争が終わるまでに、実に7百人の燕京大卒業者が八路軍に参加した。


朱将軍は、報告書の中で、日本軍が黄河を渡って南進し国民党軍を撃つことができないのは、華北における八路軍と民間遊撃隊との活動があるためであると述べた。

日本軍は通信線と輸送線の警備、襲撃に対する防禦、道路、橋梁の修理などに兵力を分散するために、南進を停止させられていたのだ。

彼らも、国民党の内戦十年間と同じように、堡塁を建設し始めたし、また大量虐殺によって住民を文字通り「鎮定」し出した。


朱将軍は、戦争が始まったときの南京の会議でも提案したが、ここでふたたび全国家的戦略の必要性と、「中国の長所と敵の短所」を基本とする戦術の採用を主張した。


彼は断言する。

中国は「陣地に腰をすえて敵にたたきつぶされるのを待つ」やり方では、守ることができない。

そうしないで、中国軍はすべて好適な場所と時とを選んで戦うべきであり、装備の著しく優秀な敵と同等の条件で戦うことは避けなければならない。


八路軍も大きな損害を被ったが、敵の損害は3万4千であった。

大部分が傀儡中国人だった敵の捕虜は2094人で、その他に徴兵されていた満州兵1366人が日本の兵器をもったまま八路軍に入ってきた。


八路軍が開戦当時持っていた貧弱な装備を考えると、捕獲した戦利品は目を見張るものだった。

具体的には、小銃6387丁、軽機関銃171丁、重機関銃84丁、野砲72門、臼砲25門、乗用車190台、トラック847台、ラジオセット4個、拡声器6個、電話セット19台、観測鏡9個であった。

なおその他に5箱の毒ガスがあった。

つまり日本軍は八路軍をせん滅するためなら、どんな手段でも許されると考えていたのだ。


紅軍はさらに山西北部の飛行場で敵機24機を破壊した。

これに対して蒋介石は2万米ドルの褒賞金を出した。

その他戦車5台、装甲車5台、乗用車とトラック901台を破壊した。
なお1937年末、私(スメドレー)が朱将軍の司令部にいた当時すでに数千人の八路軍部隊が捕獲した日本軍の外套を着ていた。


八路軍の力が大きくなり、その影響力が華北全体に拡がるにつれて、国民党反動たちの中の恐怖心も増大した。

八路軍が敵の手から解放した地域で改革を実施したというニュースが漢口に伝わると、以前からあった「共産主義の脅威」という叫びが聞かれ出した。

北部と北西部の各解放区では18歳以上のすべての男女に完全な選挙権が与えられた。

彼らは元の国民党の役人に代わる町村の行政機関を選挙した。

国民党の役人たちは日本軍が来ると、逃亡するかあるいはこれに加担して傀儡地方政府を動かしていたものだ。

こうした反逆者の多くが大地主だったから、解放区では農民が彼らの土地を没収して分配した。

地主の中には逃亡したが反逆者にならなかったものもいた。

こういう地主の土地は没収はされなかったが、小作する農民は敵から逃げ出したものも地代を払う気持ちになれなかった。


そうした情勢を考慮しながら、朱将軍は語っている。


「中央政府は、人民の生活状態を改善するため、あらゆる努力をはらい、それによって人民の具体的支持をえて、人力を動員するようにしなければならない。

政府はまた、愛国的組織や活動を後援し、大衆を直接間接戦争に参加するよう組織しなければならない」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-29 10:17 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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日本軍は1938年はじめの野蛮な攻勢作戦によって山西省の主な都会を占領し、国民党軍を黄河の向かい側や省境のポケット地域に追った。

五台山の八路軍基地には、6つの別々の道から敵の6つの縦隊が押し寄せた。

彼らはそこで停滞したが、それから徐々に山西省西北部に進出した。

そこには賀竜の第120師団が山西―綏遠省境の山間に別の遊撃基地を設けていた。


この同じ敵の攻勢作戦で、林彪の第115師団は地方パルチザン部隊と延安からの正規兵の支援を受けて、山西省西部で激戦を繰り返して、日本軍が黄河に達して延安地区に渡るのを阻止した。

林彪自身もこの会戦で重傷を受けた。


朱徳将軍が同志たちの反対を押し切り、自ら二個連隊と新兵の一隊を指揮して太行山脈中の敵にあたり、何回かの激戦で危うく死にそうになったのもこの当時であった。


朝から晩まで空をおおう爆撃機や戦闘機を先導して、日本軍はついに山西南部のすべての都市を占領し、全省内の主な公路や鉄道の巡回警備を開始した。

八路軍と農民パルチザンは郷村を拠点にして、鉄道爆破、橋梁破壊、輸送トラックの襲撃などに懸命の努力をはらった。


この攻勢作戦の間に敵の手に落ちた山西省東南部の11区は、1938年半ばまでには朱将軍の部隊によって奪回された。

新たな山岳基地が山西―河南省境の太行山脈中に設けられた。

ここの行政主任は北京の国立大学の教授であった。


朱将軍の司令部に行ってきたオーストラリアの看護婦が恐ろしい話を持って、揚子江岸の臨時首都だった漢口に帰ってきた。

朱将軍の司令部は山西省東部の広い谷の中のある町にあったと彼女は語った。

そこに着くまでに、彼女は日本軍に爆撃されたり焼かれたりした数百の部落を通り過ぎた。

何千という薄く土をかけただけの墓や、無数の埋葬されていない死骸を見た。

部落の中の生き残った人たちは、その家の廃墟をうろうろしていたり、瀕死の親戚や隣人を看取ったりしていた。


八路軍はわずかな食糧を民衆と分けあっていたが、とぼしいものだった。
朱将軍の司令部の近くの野戦病院は軍と一般人の傷病者であふれていた。


朱徳将軍は彼女の働く場所を自由に選ばせた。

そして病院で分けうるかぎりの薬を与えた。

彼女は部落をまわって仕事をしたが、ついに自身も脚気で膨れ上がった。
彼女は自分の生命が危うくなったので、漢口に帰ってきたのだった。


この恐ろしい時期に、朱徳将軍は手帳にいくつかの短詩を書きとめたが、後にそれを私(スメドレー)に送ってきてくれた。


1938年夏の半ば頃、朱将軍は、日本軍の警戒線を西に横切って、両岸の断崖が雲に包まれている渦巻く黄河を渡って延安に赴いて、八路軍の抗日戦争1年目の報告を行った。

この報告書はその年の秋の共産党中央委員会第六回総会に提出された。



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by far-east2040 | 2017-05-28 20:52 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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当時山西省汾陽の医療宣教師で、後に有力なアメリカの国会議員になったウォルター・ジャッド博士は1938年1月14日漢口の医療宣教師の友人あてに手紙を書いたが、その人がその手紙を私(スメドレー)に転送してくれた。

ジャッドは手紙の中でこのように書いている。

「多くの人々は閻錫山は日本と裏で取引していると考えている。

事実、閻錫山軍の副司令は、6日前に私が彼の性病の治療をしていたとき、ここではもう戦闘はないだろうといっていた。

中国の力は非常に小さくて打ちのめされているから、『政治的解決』しかないだろうというのだ。

確かに山西軍の幹部たちはそう考えている。

……将校たちは政治的平和を信じている。

だが兵隊たちはそうではない。

……そして八路軍が日本と裏で取引するような連中でないことははっきりしている。

彼らは郷村、とくに山間の郷村を組織し、衣料その他の供給さえ準備している。

つまり敵が疲れ切るまで、何年でも自給自足でやっていこうというのだ。


われわれのミッション・スクールでは、学生の半数が八路軍に加わったし、何人かの伝道師や教師も参加した。

彼らは30元から70元の月給の仕事を捨てて、10元の仕事に移っており、しかも献身的な熱情に満ちあふれて働いている。

私たちの教会の仕事がなぜあんな風に中国人の心情を掴むことができないのか不思議でならない。

あのような信念と献身こそ宣教師の使命ではないかと私は考える。

だが、私が受けたような感銘を私の同僚たちのあいだに喚起することはできなかった。

私たちの失敗の大きな原因は、私たちが教会の信者たちに十分な犠牲を求めなかった点にあるのではないかと思う。

彼らはあまりにも生ぬるい安易な地位にいる。

つまり私たちは、八路軍でなされているように、彼らのすべてを打ち込むことを求めなかったのだ……


「閻錫山が、八路軍を山西省によび入れたのは、そうすることで日本軍の進入をずっと抑えていけると思っていたからであり、また八路軍も彼と同様かそれ以上に、南京に対してあいまいな立場を続けるだろうし、日本が潰滅した後の善後策としては、閻が分けてやるだけのもので満足するだろうと考えたからであった。

ところが今では、閻は日本をご主人に持つ立場になっており、彼としてはできるだけその立場を利用しなければならないのだ。

八路軍は彼にとって決定的に厄介なものになってきた。

当地の多くの人々は、いずれわかるだろうが彼の今回の漢口旅行は日本のための調停だと考えている。

日本は、中央政府が八路軍との関係を断ち、華北で占領した権益の大部分や上海海関などを日本に譲ることを認めれば、中央政府に対して寛大な取扱いをすると約束しているのだ。

……これに関連して面白いことは、日本軍が太谷を占領したとき、町中の家が掠奪されたのに孔祥煕の生家だけは『経済提携』一味が封印して、日本軍部隊にも手を触れさせなかったことだ……」


ジャッド博士の手紙には一ヶ所まちがいがある。

彼の信者たちは「月給十元」の仕事のために、彼を捨てたのではなかった。

彼らが移ったのは月に50セント足らず、時にはそれさえないような仕事だった。

この当時の朱徳の月給は3元だが、それさえもらっていなかった。

というのは、中央政府から出る三個師団分の金を八路軍の七個師団全部に分けるからだった。

八路軍将校の給料は国民党将校と同じ計算だったし、兵隊も同様だった。
しかしその金を全部まとめて、全員の食糧や衣料を賄っていた。

ポケットに10セント持っているものは金持ちといえる状態だった。


当時アメリカ海兵隊の大尉だったエヴァンス・F・カールソンはこうした状況を見てただ感嘆し、そして朱徳将軍に対する畏敬の念に打たれた。

何年も前から「匪賊」朱徳のことを聞いていた彼は、直接本人に会い、八路軍の行動や教育制度を研究した現在、感激して私にいった。


「これまでは、組合協会牧師だった私の父が、私の知る限り唯一人の実践的クリスチャンでした。

だが朱徳は、第二の実践的クリスチャンです」


「朱徳はクリスチャンではありません」と私が反論した。

「私は、賛美歌を歌ったり、恩寵を讃えたりする意味でクリスチャンといってるのではない」カールソンは答えた。

「私は、貧しい者や圧迫された者を解放し保護するために、一身を捧げる人、自分に取り込むことをしないで真に兄弟愛を実践する人という意味でクリスチャンといってるのです」


カールソンの発言に続いていろいろな議論が出たが、結局結論に達しないまま終わった。

というのは、1937年が暮れて、山西省の全面的占領と八路軍の掃蕩をめざす日本軍の新たな攻勢作戦が始まったからだった。

カールソンは八路軍といっしょに五台山に去り、私は八路軍や西北の遊撃隊の医療品、衣料、資金などを集めるため漢口に行った。

朱将軍は、国民党軍を援助して日本軍の進撃を阻止するため、二個連隊と新兵の一隊とを率いて東の太行山脈中に出動したのであった。

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by far-east2040 | 2017-05-28 12:10 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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どろどろの雪解けの中を行軍し、民衆大会や共産党分会などで演説したりしながら、朱将軍はついに部隊を山西省南部の洪洞地方に誘導した。

ここで一部は休息と学習に努め、残りは日本が占拠した太原府の西方地区に進出した。

まもなく朱将軍の司令部のまわりの麦畑は、背の高い頑丈な農民義勇隊の訓練で朝から晩までにぎやかになった。


ある晩、朱徳将軍の司令部にすわりこんでアメリカのコーヒーをすすりながら、よもやま話にふけったことがあった。

私(スメドレー)が臨潼の衛立煌将軍の所までの小旅行から帰ってきたところだったが、ニュージーランドのジャーナリストのジェイムス・バートラムとアメリカ海兵隊の情報将校エヴァンス・F・カールソンが司令部に到着していることがわかった。

コーヒーを持ってきたのはカールソンだった。

カールソンはエナメルコップのコーヒーをすすりながら、私たちの話を聞いていた。

私は臨潼で国民党の将軍と会談中に空襲にあったときのことを話した。


「私たちが練兵場を走って洞窟に達したとき、敵機は二回目にもどってきました」私がいうと、朱将軍の参謀の一人が慇懃に訊ねた。

「誰が一番に洞窟につきましたか? そして誰が最後にそこを出ましたか? それは多分衛将軍だったでしょう?」


「とにかく衛将軍の参謀達はあなたがたより大分スタイルがいい」私はいった。

「あの人達は、立派な毛織のカーキ色の制服、鏡のように磨きあげた深い皮の長靴、しゃれた将校用の剣帯、ぴかぴかする階級章をつけています。
毛皮の帽子と毛皮の襟をつけた冬外套も着ています」


「連中はたしかにわれわれより大分スタイルがいい。

だがわれわれの方がはるかに重要なのだ」朱徳は笑いながらいった。

「日本軍はわれわれの方にいっそう注目している。

彼らは最近も、紅軍に関する情報や、紅軍の出した文書類を提供するものに、褒美をやるという公告を、太原府その他の城壁に貼りまわしたばかりだ。

彼らは、われわれをせん滅するために中国に乗り込んだと公言している」


「ところであなたは洪洞の外人宣教師から贈られた新約聖書を読むおつもりですか」と私は不躾に訊ねてみた。

実際、ある年配の外人宣教師が彼に中国語訳の新約聖書を贈り、朱将軍はお返しに『ファシズムとは何か』を一部贈呈していた。


「私は何でも読む」朱将軍は考え込むようにしていった。

「私が宣教師と贈り物をやりとりしたなんて、誰も想像しないだろうな。
私が聞いた話では、彼の聖書学校は紅軍をクリスチャンに改宗させるために信者を派遣しているらしい」

「そうです」と私が答えた。

「彼らは私さえ改宗させようとしたんです。私は絶対に改宗しないというと怒りました」


「誰が、誰を改宗させるか、みていようじゃないか」朱将軍はきっぱりといった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-27 21:00 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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朱将軍は彭徳懐との連名で発令したばかりの八路軍全軍に対する命令書の写しを私(スメドレー)にくれた。

それは次のとおりだった。


「日本兵士はに日本の勤労大衆の子弟である。
彼らは日本の軍閥と財閥の欺瞞と強制のもとに、われわれと戦うことを強いられているのである。
したがって、


(1)日本人捕虜に対し、いかなる種類の加害ないし侮辱も厳重にこれを禁止する。かれらの個人的所有物を没収し、あるいは毀損することは許されない。わが軍の指揮官や各級戦闘員で、この命令に背くものは処罰される。



(2)すべての傷病日本人捕虜に対しては、特別の保護と適当な医療処置をあたえなければならない。


(3)本国または原隊に帰ることを望む日本人捕虜に対しては、あらゆる可能な便宜をあたえなければならない。


(4)中国にとどまり、あるいは中国軍のために働くことを望む日本人捕虜には、適当な仕事をあたえ、勉学することを望むものには、適当な学校への入学を斡旋してやる。


(5)家族または友人との通信を望むものには便宜をあたえる。


(6)戦死した日本兵は埋葬し、適当な石または木の墓標を設けるものとする」


朱将軍はこの命令の(3)について次のように説明した。


「われわれが日本人捕虜を原隊に帰らせると、紅軍は捕虜をなぶり殺すといった種類の将校たちの宣伝のうそが、暴露することになる。
われわれはこの命令書を日本人捕虜ふたりに見せた。
彼らは、日本の軍事法規では捕虜になったものは、本国に帰ることを許されないし、原隊に帰るものは射殺される、といっていた」


「そうなっているかも知れないが、われわれは、原隊に帰ることを望む日本人捕虜を帰すつもりだ。
もし将校がそれを殺せば、兵隊のあいだの不安をかきたてるだけのことになる。
やがては日本の兵隊が、戦わずにわれわれに降伏するとか、あるいは脱走して参加するような時がくるにちがいない」


数日後、私は朱将軍が村で買ったビスケットを日本人大尉に与えて話しかけているところに出くわした。

大尉は礼をいって、考え深げにビスケットを食べた。

そして話し出した。


「現在の紛争処理のやり方を変更する国際的な運動があってもいいはずだと思う。ここでは中国人と日本人と一人のアメリカ人がいて、みなじつに仲良くやっている!」


「君はいま、そういう運動とともに行進しているのだーーだからこそ君も生命が続いているわけだ」朱将軍が答えた。

「君の軍の中にも、その運動の一部である人々がいるよ。われわれは戦場で、彼らのポケットから反戦パンフレットをとってきてる」

「私はそんなパンフレットのことは聞いたことがない」大尉は叫んだ。

「君が将校だったからだ。日本の兵隊がわれわれを手伝って日本軍閥をやっつける日が必ず来るだろう」

「日本軍を負かすのはそんな簡単なことではない!」大尉がふっつりといった。

「だが、必ずそうなる」

朱将軍は反論を返した。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-27 17:52 | 朱徳の半生(改編後削除予定)