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次に朱徳が生涯の話を語りにとき、私(スメドレー)は1931年の典型的な一日を選んで朝から晩まで何をしたかを話してくれるように提案した。

朱徳はしばらく考えてから、過去の一日をすべて思い出すことは無理だが、やってみようと答えた。


「私は生涯、非常に早起きする習慣をもってきた。
寝るのは仕事がおわってのち、――といえが非常におそく、ほとんどいつも夜中すぎになる。私の生活は、仕事と学習とによる鍛錬、ということを中心にして築かれてきたのではあるが、その仕事と学習とは、決して規則的なものではなかったのだ。

というのは、このわれわれが行なってきたような戦争では、司令部が直接に手を出して監督しなければならぬようなことが、じつに多かったからだ。


たいていは、――といっても規則正しくではないが、部隊のものに軍事についての講義をし、ひんぱんに近くの部隊を視察して、その統制と行動とをしらべた。

また私は、定期の参謀会議に出席したが、そのほかにも、週に一、二回は党の集会、それから司令部細胞の会合もあった。

たびたび、軍の各部面の統率者との会議があり、さらに臨時に問題がおこったさいの会議もあった。

一つの戦闘の前には、戦闘部隊の動員会議が一、二度ひらかれ、そこでは、軍の指揮官が、わが軍の作戦と敵状とについて報告し、政治指導員は、その戦闘または作戦の意義、それから、戦いつつ敵の士気を沮喪させ、あるいは帰投させる、政治技術について説明した。


「戦闘ののちには、時間があればだったが、――作戦ののちには必ず、二度の会議をひらいた。

一度は指揮官だけのもの、もう一度は指揮官と兵詩とともどものもので、そこではその戦闘または作戦の分析をおこなった。

それは、わが軍に取っては、戦術的にも教育的にも、大きな価値のあるものだったから、私はそういう会議にはつとめて出席した。

そうした合同の会議では、その兵士もどの指揮官も、完全な言葉の自由をもっていた。

たがいに批判してもよろしく、根本計画の各部分や、その実施された方法について批判してもよろしい。

こういうふうにして、われわれは過失をただし、弱体の指揮者を排し、能力あるものを昇進させることができた。

そして、われわれは、すべての封建的な悪習を根絶やしにし、軍隊を民主化し、兵士のあいだに自発的な軍規が生れることを、ねらった。

臆病だったり判断をあやまったりした兵士、戦闘の最中に命令にそむいた兵士は、その行動を公に語って、その過誤をただすことを学ばなければならなかった。

兵士をののしったり殴ったり、その他軍規をおかした指揮官は、大衆裁判の前に立って答えなければならず、もし有罪ときまれば、司令部によって処置されるであろう。

こうした会議の結果は、パンフレットに発表されて全軍の研究の資料として用いられた」


まだ仕事はあったと続けた。

将兵は軍務がないときは農民の農作業を手伝った。
朱将軍もできるだけ農作業を手伝ったが、健康を保つ最上の手段だったと振り返った。

紅軍の慰安や文化活動はその頃は比較的少なかったが、いくつかの演劇隊がソビエト地区を巡回して兵士や農民に観せていた。

もし司令部から行ける所であれば、朱将軍は地べたにすわるか前列のベンチに腰掛けて鑑賞した。

そのころは延安時代ほど軍で歌うことは発達していなかった。


まだほかにも、日々の情報や報道を読んでそれぞれ処理しなければならなかった。


「私は、見つけ次第に新聞や本を読んだが、そのころは、本や雑誌を手にいれることは容易でなかった。

ときどき、上海から本の小包がきたが、みながすごく読みたがっていたから、私がありつかぬうちに、ほかのものが取る、ということも多かった。

当時私は、マルクス・レーニン主義の知識を向上させようと努めていたので、その主題の本は、手に入り次第に、くりかえし読んだ。

最初の敵全滅作戦のとき、戦略戦術の本やパンフレットを多く接収したので、私はそれを読んだが、わが軍のために役立った」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-28 20:30 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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朱将軍と捕えられたばかりの張輝サン将軍との対談はそのまま劇になりそうだった。

張将軍は階級の記章で飾られた素晴らしいカーキの軍服とピカピカの黒長靴を身につけて、朱徳の司令部に送りこまれてきた。

まるで苦力のようなぼろ服を着た痩せこけた男が何人かいるのを彼は見た。


朱将軍は、つめたくきびしい声でいうのだったが、「彼は、われわれを無知蒙昧な匪賊と見、こんなものは自分の残りの二師団ですぐに敗ることができ、自分はそれで自由になるのだ、と信じたにちがいない。

「だから、敗北して捕らえられたことでは弱っていたが、それでもまだ傲然として、私を手玉に取ろうとした。
でぶの男で、その司令部にはありとあらゆる美味がいっぱいあり、乗馬は持ちながら、旅をするのには、人間の背にかつがせる駕籠椅子をもちいた」


張将軍の最後の傲慢な質問は「わしの身代金はどのくらいほしい」だった。

朱徳は威厳をもって答えた。


「わしは商人ではない! 
お前を、お前の部隊と、それから江西省西北部でお前に家族を殺されたわが軍の一部隊との前に引きずり出して、裁判にかける」


捕虜になった将軍の傲慢は少しくじけたようだった。


「私は彼にたずねて」と朱将軍はいった。
「われわれが設立する計画の新軍官学校で教える意思はあるか、とためしてみた。
その気はある、と彼は答えたが、じつは、――他の師団がきて救出することを予期しながら、時をかせごうとしているにすぎない、ということは私にわかっていた。
それから私は、われわれは次にどの白軍を攻撃すべきか、君の意見をきかせてくれ、といった。私がこの男の意見など聞く必要はなかった、というのは、わが軍は、すでに彼の第五十師に向って進撃していた。
だが私は、こいつはどんな男か、ということを試してみたかったのだ。
彼は、それは十九路軍を攻撃すべきだといい、その軍に関する軍事的情報をすらしゃべったが、それはわれわれの方の情報網の報告と合致していた。
彼は、味方を裏切りながら、われわれを手玉に取っていると思っていたのだ」


朱将軍は張将軍に彼の他の師団もどんなふうに撃破できるのかを見せてやろうと思い、彼と部下の士官どもを連れ出して、紅軍が24時間以内で第五十師団を破るところを見せた。

紅軍はさらに旋回して東固の第二十八師団に向かったが、その師団は逃げた。

すでに十九路軍は興国から撤収を始めていて、はるか南の故郷広東省に帰っていった。


第十八師団に対する勝利から三週間で、敵の諸軍は紅軍の迅速な攻撃によって崩れてしまい、第一回の紅軍せん滅作戦はぶざまな失敗に終わった。

張将軍と彼の幕僚は、旧部下の三千の兵と、東固の人民たち、彼に家族を殺された黄公略軍の兵たちの前で裁判にかけられた。

朱徳がいうには、その頃には張将軍の傲慢は恐慌に変わっていた。

彼は幕僚とともに死刑の宣告を受け、彼のために家族を殺された兵たちによって斬首された。


何週間か過ぎた頃、上海の共産党中央委員会から一人の使者が朱将軍の司令部に来た。

持参した手紙によると、蒋介石が張将軍の釈放を請い、その代償として多数の政治犯を釈放し、二十万ドルを払うというのであった。


「処刑したことを、われわれは後悔した」と朱将軍はいった。
「しかし、それは金のためではなかった。蒋介石は、復讐として、獄中のわれわれの同志の多くのものを殺したのだ」


紅軍の勝利は国民党とそれを支持する外国人たちや財政援助者を愕然とさせ、そのために新しいテロの波が国民党支配下の中国に広がっていった。

蒋介石元帥自らが南京政府の教育部長になり宣言を発表して、学生たちが共産主義に関係する集会を開いたり、ビラを撒いたり、大学の学長に反抗することがあれば、学生といえども容赦なく射殺すると声明し実行し始めた。


五つの大学が閉校され、多数の学生が秘密裡に上海で捕らえられ消息不明になった。

上海の新聞は北京国立大学の六十名、天津で十余名、そのほか広東、長沙、漢口で多数が捕えられたと簡単に報道した。

1931年2月7日には、上海のイギリス警察は若い作家、美術家、俳優など24名を捕えて、国民党の守備隊長に引き渡し、その夜射殺されて自分たちが掘らされた大きな穴の中に捨てられた。


南昌の国民党が発行する『反共月刊』の1931年2月号に、国民党高官の談話が載っている。


「もし政府が、紅匪問題の解決に、今日用いつつある方法以上のものを見出し得ないとするならば、われわれは、すべての紅匪地区をまず隔離し、毒ガスをもって一人のこらず殺すほかないであろう。
これらの地区の、十歳以上六十歳までのあらゆる男と女とは、紅軍のためにはたらくスパイであるか、紅軍兵そのものであるかだからである」

                                   紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-26 22:50 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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朱将軍は張将軍との戦闘が行われた戦場の略図を描き、敵の司令部と部隊の配置、味方の司令部、戦闘部隊、予備隊、野戦病院、敵の捕虜収容施設なども示した。

さらに紅軍の補助部隊である人民武装隊の配置地点も示した。

彼らは敵の小部隊や輸送隊を攻撃し、紅軍のために輸送したり、戦場の負傷者を運搬したりした。


朱徳と毛沢東の司令部は、張輝サン将軍が司令部を置いた竜岡からほんの四マイルほど離れた山村にあった。

張将軍の第二十八師団は彼らのすぐ近くの東の東固の山を占め、第五十師団は北西のニントウにあった。

彭徳懐の紅軍第三軍団は敵を牽制するために、竜岡と敵の第二十八師団と第五十師団との間に展開していた。

南と西南に向かって一日強行軍をすれば、国民党十九路軍のところに着くだろう。


紅軍の通信機関はすぐれていて、司令部の伝令は、みな若い農民で、きわめて敏捷だった、と朱将軍はいった。


朱徳と毛沢東は12月29日午後8時、明け方に開始される予定の戦闘に関する詳細な命令をすべての戦闘本部隊と予備部隊に向けて出した。

いつものように「政治動員」の集会を持つこと、軍指揮官は兵士たちに戦闘計画、敵の戦力、位置、装備と志気に関する情報をすべて教えること、政治指導者はこの戦闘の意義と革命運動全体の意義を集会で説明するように指示していた。


朱将軍の命令中で、強調されていた一点は、すべて紅軍部隊はたがいに密接に連絡をもち情報を交換し、また、医療品の収集に特別の注意をはらい「捕獲した無電機はこれを大切にせよ」というのであった。


戦闘は12月30日の夜明けに始まった。

林彪と黄公略は敵第十八師団を竜岡から狩り出し、敵がばらばらに解体し崩壊するまで攻めては引き、引いては攻めた。

黄公略の部隊は江西省西北部の農民と鉱山労働者で編成されていた。

さきに敵の張輝サン将軍の三個師団はこの地方に入って何百の村々を破壊すし、紅軍に息子を送っていたすべての家族を殺戮していたので、黄公略の部隊は胸中に煮え返る憎しみを持って戦った。


朱将軍にいわせれば、その部隊は、「われわれの司令部の眼の前でたたかい、敵の機関銃が壁にぱちぱち当った」


戦闘が高潮に達したとき、張将軍は第十八師団の応援のために第五十師団の出動を命じ、その直後に紅軍は無電局を占領した。

第五十師団は進撃を始めたが、その後まったく通信を受けなかったので、ニントウ郊外で彭徳懐の部隊と遭遇しても退却して待機した。

東固の第二十八師団も少しも動かず、南方の第十九路軍も動かなかった。


ついに午前中に第十八師団の千名が殺され、九千名が捕虜となり武装解除された。

張将軍と彼の参謀以下すべての士官も捕虜になった。

鹵獲品は小銃八千、軽重機関銃、追撃砲その他の小野戦砲、第十八師団の精密な無電機と技術者、野戦用電話、医療品、馬、大量の食糧、敵三個師団の軍資金だった。


「われわれはただちに、捕虜兵の大会をひらいた」と朱将軍はいった。
「そこで彼らに、われわれは何ゆえに戦うかということを話し、もし戦いたいならばこちらに加わるようにと勧誘した。
三千人が加わり、ほかのものには、一人三元ずつあたえて、家庭にかえらせた」


敵はすぐれた火力と軍需品を持っていたが、紅軍の方が信念と士気と機動力においてすぐれていたことが迅速で決定的な勝利に導き、続いて全敵軍の崩壊の原因になったと朱将軍は分析した。

戦いは二ヶ月以上も続き、第十八師団も何らかの攻撃を受けることは予想していたので、不意打ちだったということで説明できなかった。

さらに国民党軍はソビエト地区に入っていたのだが、そのこの全人民は彼らを不具戴天の敵としていた。

勝利のもう一つの原因は心理的なものもあったと朱将軍は付け加えた。

「敵は、われわれが匪賊だという味方の宣伝を信じ、わけなく叩きつぶせる、と思っていたのだ」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-26 15:30 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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朱将軍は張将軍との決戦の話をする前に、紅軍内部での反逆行為のことを語り始めた。

あやうく形勢を一変して敵に利するものになり得たかも知れなかったのである。

何週も続く戦闘の最中に、リュウ・チ・ツァオというある地主の息子が東固の農民からなる第二十紅軍を率いて反乱を起こした。

10月に吉安で入手した反ボルシェヴィキ(AB)団に関する書類によれば、少なくとも東固の一人の地主の家族のものが、国民党の秘密情報機関と連絡していることはわかっていたが、しかもリュウは吉安の近くの富田地域の防衛の任を与えられていた。


リュウ・チ・ツァオと東固と興国地方の政治指導者でAB団と連絡をとっていることがわかっていた地主の家の息子である李文林は、朱徳と毛沢東が反対していた李立三主義の最も忠実な信奉者だった。

李立三主義とAB団との繋がりがいつどこで出来て、こうした指導者たちがいつどのようにして李立三主義からAB団に関わっていったのかは、朱徳と同志たちは当時はわからず、ずっと後になって知ったのであった。


とにかく、こうした複雑怪奇なことはどうでもあれ、朱将軍は、共産党が一掃しなかったところの東固の地主階級こそが、第二十紅軍の叛乱の真の原因だと信ずるのだ。


リュウや李文林は腹の底で考えていることを農民兵たちに明かす勇気はなかったので、朱徳を「第二の蒋介石」、毛沢東のことを共産党を裏切る「党皇帝」とののしった。

彼らの雄弁は目的通り富田地方で反乱を起こし、多くの共産党指導者が殺された。

それから彼らは吉安地方の国民党の勢力地域に逃げていき、そこで共産党の小さな一派を作り、わけのわからぬ宣言を次々に出した。

たとえば、朱徳は急に高潔なる人物と褒めたてられ、毛沢東は反逆者の烙印を押されたり、逆に毛が褒められて、朱徳が非難されたりした。


朱将軍はいうのだがーーいかに包みかくそうとも、紅軍は事実を見抜いたのであり、その明らかな事実とは、国民党軍は、この叛逆者に対して何らの行動にも出なかった、ということである。しまいには、東固の農民たちは、事実を知って、逃亡して元の部隊に帰ってきたのだが、そこでは彼らは、迎え入れられ、再編成され、再教育された。


しかしこの反乱のおかげで、国民党第十九路軍は興国を占領し、張輝サン将軍の第二十八師団は東固を占領することができた。

東固ではパルチザンと人民が敵と戦ったが、村々は破壊され、何百の人民が殺され、最後に東に逃げて紅軍の本隊に合流した。


以上が、朱徳と毛沢東や幕僚が張輝サン将軍の第十八師団に決戦を挑んで、本隊を粉砕しようと決意したときの周囲の状態であった。

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-04-25 20:53 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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1930年の10月末、いよいよ「アカ」を絶滅するという仕事が行われることになり、上海や他の大都市では沸きかえるさわぎだった。

北方の敵を征服して帰ってきた時の英雄蒋介石は、十万の精鋭部隊を江西の「紅匪」にむけるのであった。


中国では共産主義は帝国主義や封建主義とはどうしても妥協しない唯一の勢力で、党員は主義のために喜んで死ぬということを実証した唯一の組織だった。

こういう人間は危険ではあるが弱いので、手遅れにならないうちに攻撃を加えたら叩き潰すことができる。

今こそその時であり、結果は明らかだ。

いったい江西の「アカ」とは何者かといえば、百姓と労働者、つまり人間のクズの集まりでしかない。

全世界で知られているように、中国の百姓は誰が天下を支配しようとかまわず、少しばかりの土地を耕せてもらえればいいという人間ではないか。


国民党の機関紙と外国の協力紙はこのように鳴り物入りで騒いだ。

機関紙は堂々と紅匪討伐に向かう軍の計画の詳細、行進路まで発表した。

だが、国民党軍に破れて吉安から敗走したという朱毛軍の方からは何らの気勢もあがらなかった。

紅軍はいまや「敗残の匪賊」でしかなく、まもなくこれを完全に包囲し絶滅することができるだろう。


その江西では朱徳、毛沢東と同志たちは丹念に国民党新聞を研究し、朱徳は強気で書いてある戦争記事すべてに印をつけて傍線を引いた。

紅軍はラジオはまだ持っていなかったが、通信機関と情報網はかなり進歩していて、国民党新聞の軍事報道と紅軍の通信情報はよく合っていた。

まだ上海からの報道は来ていなかったが、朱徳と毛沢東は使者を上海に送り、共産党中央委員会の李立三理論への反対を表明していた。

結果がどうであれ、二人はこれが正しいのだと信じていた。


10月中旬、朱徳と毛沢東と同志たちは吉安北方の彭徳懐の司令部で軍事会議を開き、吉安を撤退することを決定した。

数の上では倍の敵軍に対して死守するための犠牲に耐えられないと判断したためであった。

彼らが軍の主力四万人を率いて撤収して、すでに強化されている東固山基地と広昌の城市との中間の地域にあるソビエト地区に入るならば、そこで人民の完全な支持を得るだろう。

朱将軍の言葉を借りると、


「自己の好む戦場をえらび、迅速な集中と散開とによって、われわれをせん滅すべく送られてきた敵師団の中の、まず一つを、つぎに一つをと、包囲し攻撃することができるだろう」


その後四ヶ月間にわたって続いた戦闘のうちで、特に一つを朱将軍は抜き出して紅軍の戦いぶりの例証とした。

毛沢東が後に『中国革命の戦略問題』という軍事教科書を書いた時にも、この戦闘は彼の脳裏にあったに違いない。


「戦史では、一つの敗戦が、それまでのすべての勝利の収穫を無とする場合や、また、多くの敗戦ののちの一つの戦闘の勝利が、新しい情勢を打倒する場合が、多いのだ」


この戦闘は1930年の12月末日の張輝サン将軍が率いる第十八師団との戦いで、国民党軍の全戦争計画を崩壊させてしまったものだった。

張将軍は他に第二十八師団、第五十師団を持ち、その3つの師団は国民党軍の中堅になっていた。

すべて欠員のない正規師団で、外国製の武器で完全武装され給与も最高だった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-25 17:36 | 朱徳の半生(改編後削除予定)