f0364260_13423288.jpg

外の世界との通信連絡網が確立されたので、朱徳たちはもう自分たちは暗闇の中で行動しているのではないと感じるようになった。

薄いライスペーパーに顕微鏡で見ないとわからないような小さな文字で書かれた上海からの報告書には、帝国主義諸国のあいだにも、南京の蒋介石独裁政権のあいだにも衝突と矛盾があることを伝えていた。


インドから転任してきたイギリスの高官は外交部の顧問になり、多くのアメリカ人が財政や交通関係の要職を占めていた。

またイギリス、アメリカ、ベルギー、フランスの金融業者たちは、中国の工業や鉱山を買収するか合弁会社にすることを計画していた。

中国にいる外国人たちは武器弾薬を蒋介石に売る一方で、蒋介石の味方や敵の両方の新旧軍閥にも売りつけてうまくやっていた。

さらに中国の新旧軍閥のあいだにも衝突があることを伝えていた。


中国が掠奪され、別々の外国の後援者に支持された蒋介石と広西の将軍とが中国の支配権を争っているあいだに、多くの地方で革命闘争が燃え上がり始めていた。

山東省のような遠い北方でも抵抗運動の拠点ができていた。

江西省の北東部では教育を受けた農民の方志敏が農民軍を作り上げていた。

南の広東省東江地方では彭湃が今もパルチザンを指導していた。

湖南省西部の山岳地帯では、メキシコの民族独立運動の闘士パンチョ・ヴィリャに例えられる賀竜が農民軍を編成していた。


広西省の西部と南部ではさらに大きな革命的暴動が起こっていた。

広西守備隊は反乱を起こし、広大なパルチザン区域を作ったが、一年後には蒋介石軍に敗れた広西の将軍が郷里に逃げ帰ってきたのである。

インドシナのフランス領から補給を受けていた広西軍閥の諸部隊はパルチザン区域を掃蕩した。

六千の広西革命軍は戦いながら血路を開き、山々を越えて江西南部へやってきた。

朱徳はこれらの部隊で紅軍第六軍団を編成した。


上海からの報告書には、共産党あるいは特に朱徳と毛沢東が「民主主義革命を達成するために、工業都市にかえって、プロレタリアートと都市の小ブルジョア階級との闘争を指導するかわりに、内陸の孤立した山のなかに退却して、軍事的冒険と匪賊行為をやっている」と非難攻撃する党員の存在にもふれていたことを朱徳は回想した。


「民主主義と人権に関する、これらの空虚な美辞麗句の背後には、革命に対する、裏切りがひそんでいたのだ」と、鼻息あらく、朱将軍はいった。
「中国のような半封建的、半植民地国家においては、人民にとって、もっとも単純な民主主義の権利でさえ、手に銃をとってたたかいとらねばならなかったのだ。
上海や漢口、広東、その他の都市では、演説、新聞、集会の自由、組織の権利を、要求したというだけの理由で、また、逮捕されたとき、法廷で自分を弁護する権利を要求したといういうだけの理由で、労働者やインテリが、路上で、首をきられていたのだ。
『帝国主義』ということばを使ったものは、だれであろうと、ただそれだけで、共産党員だという烙印をおされ、つかまれば、殺されたのだ。

八時間労働制や、賃金のひきあげ、児童労働の禁止などを要求してさえ、いっさい、共匪ときめつけられたし、労働組合の自由という思想も、もちろん同じ結果をまねいたのだ。


「毛沢東と、われわれ多くのものは、はじめから、中国の人民が、民主主義の諸権利をかちとることができるのは、外国帝国主義の下僕である反革命勢力を、武力によって打倒したときだけである、と考えていた。

多くのものは、このことを理解もしなかったし、理解しようともしなかった。
しかし、地主の支配のもとに暮らしている、もっとも単純な農民、あるいは、国内と外国との反動どものむちのもとで働いている、もっとも単純な労働者は、このことを、よく知っていた。
毛沢東と私自身、さらにわれわれが指揮していた部隊はどうかといえば、――われわれはみな銃をすてて、国民党の首切り人のまえに、われわれの首をさしのべるなどという考えは、毛頭もっていなかった」


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


[PR]
by far-east2040 | 2017-03-31 13:49 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

f0364260_13292628.jpg

汀州という町の占領は、中国革命史上の転換点であったことは明らかだった。

上海にあった共産党中央委員会からの使者が、国内や国際情勢に関する報告書と重要書類を持ってやってきたのは、占領から2、3日してからだった。

その文書の中には、中国国内のテロのため1928年の夏にモスクワで開かれた共産党第六回大会の報告と決議もあった。

第六回大会の少し後に開かれたコミンテルンの会議も同じ結論に到達していて、その報告もあった。


朱徳と毛沢東とに指導された軍隊が、彼らの党の中央委員会と接触したのは、この二年間に、これがはじめてであった。
朱徳と毛沢東らは、彼ら独自の道をすすみ、必要と確信にもとづいて、行動したのである。


この上海からの使者の数時間後に、一人の農民が朱徳の司令部に入ってきた。

着ている服のはしの裏地から、数行の文を書いた布切れを出したのだが、そこに彭徳懐の名が署名してあった。

朱徳と毛沢東が1929年1月に井岡山の山岳要塞を取りまいた敵の封鎖部隊を突破して出ていったときに、井岡山に残して指令をまかせた若い指令が彭徳懐であった。

井岡山でのその後のことは朱徳も毛沢東も知らなかった。

彭の手紙には、現在彼は瑞金にいるのだが、朱徳と毛沢東がこちらに来るか、彼が汀州に行けばいいのか知らせてほしいと書いてあった。

瑞金は江西南部の小さな県城で、汀州から西へ2、3日の行程であった。


多数の軍事および政治代表と、護衛隊一個大隊と上海からの使者も同行させて、朱徳と毛沢東はただちに瑞金へ出発した。

瑞金で、彭徳懐は彼らに井岡山でのその後の話をした。


朱徳と毛沢東が井岡山を出発後、敵はこの要塞の封鎖を圧縮してきただけでなく、ついに奇襲をかけてきた。

一人の選ばれた敵兵が腰のまわりに綱を結んで、絶壁を正面からよじ登ってきた。

彼は頂上に達し、次々とほかの兵士を引っ張り上げた。

彼らは人目につかない紅軍の歩哨を殺した後、数千の敵軍がどっとこの山道を登ってきて、包囲されていた革命軍に襲いかかってきた。

その結果、約六千人の革命軍は病院や兵舎で徐々に餓死していった。


彭徳懐は、敵軍を押し返してできるだけ多くの病人や負傷兵を森の中にかくす時をかせごうとした。

はって逃げたものも少しはいたが、やがて狩り出されて殺されてしまった。

そのほかのものは寝床に横たわったまま殺された。

やがて兵舎と病院は焼かれて灰燼に帰し、井岡山の家や建物すべて焼き尽くされ、防衛施設は爆破された。


この、身の毛のよだつような大虐殺のあいだじゅう、雪がふりつづけ、寒風が、悲しみの歌を泣きさけびつづけていた。

彭徳懐は、わずか七百人ばかりになった生きのこりをあつめ、これをひきいて、かつて朱徳と毛沢東とが通った同じ道を、岩山をわたり、石ころ原をこえて、進んでいった。
その部隊は、この年のはじめに井岡山を出た朱徳・毛沢東軍よりも、はるかに悪い条件におかれていたが、しかも封鎖をやぶって、脱出したときには、もう敵に大打撃をあてはじめたのであった。


紅軍はゆき先々で朱徳と毛沢東の行方を探したが、あちらこちらで朱毛軍が通り過ぎたという農民の噂を聞いたぐらいで、見つけることはできなかった。

ついに彭徳懐は朱徳や毛沢東は殺されたかも知れないと思うようになり、単独で紅軍を建設し、大衆革命運動を組織する活動に取りかかった。

多くの農民が彼のもとに集まり、瑞金にいたその時までには千五百人の勢力になっていた。


やがて汀州が紅軍に占領されたという噂を聞いた彭徳懐は、ただちに方向をかえ東に向かって進撃を始め、瑞金守備隊を撃滅したのち占領してしまった。

朱徳と毛沢東が瑞金に着いて、三日三晩続けられた瑞金会議で彭徳懐の話を聴いたあと、上海の使者が持ってきた報告と諸決定を討議した。


「われわれは、この諸決定を承認し、ただちに、それを実行にうつしはじめた」


と朱徳はこの会議の模様を簡潔な言葉で語り終えた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


[PR]
by far-east2040 | 2017-03-30 13:35 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

f0364260_20594070.jpg

朱徳と毛沢東が三千人を率いて江西南部の人民に蜂起させていた頃、福建省南部の汀州という町で革命の発展上一つの転換点になった幸運を得た。

紅軍はこの町を占領する計画はなかったが、優勢な敵から逃れて24日間行軍したあと、江西省と福建省の省境を南北に走る山脈の上で露営した。

汀州からほんの少し北に位置した。


汀州はもと匪賊の頭目クオ・ファン・ミンに統治されていた。

彼は匪賊として成功し、大地主になり、国民党の将軍になった男だった。

クオの部隊は国民党軍に編入されてはいたが、大半は職業的匪賊であり、阿片吸引者だった。

彼らを汀州の城壁から外で誘き出せば、必ず占領できるだろう。

そのためには、彼らの敵が少数で貧弱な武器しか持っていないと確信させないと不可能だった。


クオ将軍の部隊が外に出てくるとしたら、道は1本しかない。

その細い道は汀州から北に向い、深い急流を抱いた狭い渓谷に沿っていた。

紅軍はこの谷を見おろす山並みの上に露営していたのだ。

紅軍は数人の農民の案内人を汀州の町に送り、紅軍がすぐ近くで露営していて、武器はほんのわずかしか持たず、弾薬は空で、銃をまくらに眠って夜が明けるのを待っているという噂を広げさせた。


翌日の昼少し前に、二個連隊の敵軍が谷底を通る細い道を、一列縦隊になって進撃してきた。

敵の司令官は、4人の人夫にかつがせた椅子かごに載っていた。

これを知った朱徳はクオ将軍が手柄をたてようと思って、みずから出かけてきたのにちがいないと喜んだ。

朱徳と毛沢東が待ち構えていた地点に敵軍がさしかかったとき、紅軍の前哨はあてずっぽうに数発の玉をうって、あたかも恐慌状態に陥ったかのように大さわぎしながら、山の斜面を逃げ登った。


「わが軍の前哨は、発砲しておいて、山のなかへ、敵軍をさそいこもうとしているのだな」と朱将軍は推測した。


敵軍は追跡を始めて、汗をかいてあえぎながら、高いところまでよじ登ってきた。

まったく抵抗も受けないので、しだいに大胆になってきたそのとき、紅軍はついに隠れていた場所から一気に襲いかかり、山の斜面を追い落としながら追跡した。

谷底の小道で若干戦闘を交えたが、敵軍の残りは川にぶつかり身動きできなくなり、全員武装解除された。

最期に一人の哨兵が立派な軍服を着て贅沢品を身につけた太った大男が逃げる途中で殺されたことを報告した。

大きな金時計と金ぐさりを身に付け、たくさんの指輪をはめていたクオ将軍であることが明かになった。


夜に入って紅軍は汀州を占領し、敵軍を武装解除し、朝までにこの町と周辺の地域の支配権を確立した。

毛沢東は休む暇なく活動し、人民の諸組織を復活させ、人民代表会議(ソビエト)を組織し始めた。

この町の何人かの地主たちは捕まえられたが、残りは南の大きな城市である上杭に逃げていった。

土地は人民に分配された。


朱徳は3、4時間睡眠をとるだけで、ぶっとおしで活動することができた。

彼は捕虜になった敵兵から不適格者を除いて、若い農民義勇兵千人を得ることができた。

その他二千人の農民を組織して農民パルチザンを編成したり、青年を集めて赤衛隊を作った。


朱徳の汀州での記憶で、特に印象に残っているのは次の3つであった。

一つ目は、クオ将軍の死体であった。

農民たちは彼らの敵がほんとうに死んだことを確かめるために大勢が見物に集まり、朱徳の演説をじっと聴いた。


「そこにころがっとるのは、世界最大の悪党だ!」


二つ目はクオ将軍の弾薬の大部分を補給していた小さな日本製の二つの兵器工場だった。。

紅軍が奪い取った兵器のうち、二千挺の小銃と数十挺の機関銃はすべて新品で日本製であった。


三つ目は近代的な日本製のミシンを備えた工場だった。

その工場もクオ将軍が所有していて、彼の部隊の軍服を製造していた。

それまで工場の労働者は一日20時間も働いていたが、今や一日二交替の8時間労働制を確立し、紅軍の軍服を製造し始めた。


朱将軍が、これらのミシンについてはなすときは、本当に声まで、やさしくうるんだ。
ミシンは、「われわれにとっては、大へんなもの」であった、といった。
「というのは、それまで、われわれが着ていた、きものはぜんぶ、手で仕立てなければならなかったからだ」

「しかし、われわれは、いまや、はじめて紅軍の制服をもつようになった」と彼は、古い記憶をたどりながら、ちょっともの悲しげに微笑して、いった。


色は灰色がかった青で、ズボンにはすね当てがついていて、帽子には赤い星章がついていた。

外国の軍服に比べたら貧弱なものであったが、朱徳たちには実に立派なものに見えた。

紅軍の中で小さなグループができて、工場に行って仕立て職人がミシンを使う様子をじっと観察したりした。


ずっと後になって、紅軍が汀州を撤退することになったとき、職人たちは自分たちでミシンを運搬し、紅軍の行く先々で働き続けた。

1934年から1935年の長征のときにも、いっしょに持っていき、野外で仕事をするときもあった。

そして1937年1月に延安で建設された制服工場には、日本製の当時のミシンが並んでいて、中年になった仕立て職人が没頭して働いていた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


[PR]
by far-east2040 | 2017-03-29 21:10 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

f0364260_07302384.jpg

東固地方のゲリラ部隊を再編成して、軍の隊列に編入してからは紅軍の兵力は四千人前後になった。

このうち三千人は休養をとってから八日目にふたたび作戦に出かけていくことになった。

その他のものは山地に残って畑を耕し東固要塞を守る任務についたが、このうちの三百人は入院中や、健康を回復していないため戦闘に参加できない朱毛軍の古参兵だった。


作戦に出た三千人の半分は近代的兵器を持っていたが、ほかは槍で武装していたにすぎない。

ごくわずかのものは、むかしの軍服のなれの果てと呼べそうなものを一応着ていたが、残りはつぐはぎだらけのだぶだぶのズボンに短い上衣、わらじにへんてこな形の様々な帽子という極貧の中国人の格好をしていた。


みな痩せて飢えていて、多くは15歳くらいから20歳前後の青年で、その手は大きく丈夫で、足の裏は皮が厚く固くなっていた。

彼らにとって人生は労苦と窮乏、不安と抑圧の連続であり、ほとんどは文盲だった。


長いソーセージのような形の米を入れた袋を肩からぐるりとかけて、反対側の腰のところで結んでいた。

いまはこの袋に2、3日分の米がたっぷり入っていたが、無くなると地主の倉庫から補給するか、敵の補給部隊から奪いとるしかなかった。


もう一つの装備品は実弾を入れる長い布製のベルトで、両肩から前と後ろへ十文字にかけて、腰の周りまで届いていた。

小銃を持っていたもののベルトには数発の弾薬が入っていた。

出発前の最期の査問を行ったときに、槍しか持っていない兵士に朱徳はいった。


「諸君もすぐに、みな小銃をもつことになるし、諸君の弾薬帯もすぐ一杯になるだろう」


朱徳も毛沢東もほかの指揮者もみな兵士たちと同じ格好をしていたので、まったく区別がつかなかった。

1929年の夏に写した写真の兵士の輪の中に立つ朱徳の格好は、頭は坊主できれいに剃り上げられ、半ズボンと前に開いた百姓の上着だけで、はだしにわらじだった。

いつもの癖で、両足を大きく開いて立ち、手を腰にあてて、顔にはユーモラスな表情を浮かべている。


1929年の早春、朱徳は軍隊と農民とのお別れの集会で演説したときも同じような格好だったかも知れない。

彼はこの山地の要塞めがけて三方から包囲してくる十一個連隊の敵軍のことを説明し、その後数年間集会で千回は語った戦略を述べた。


「われわれは、敵の内部の矛盾を利用し、多数を味方にひきいれ、少数に反対し、こうして敵を一つ一つ粉砕してゆかねばならぬ」


実際、敵の陣営内には多くの衝突と矛盾の兆候があった。

東固への東側の入口はまだまったく敵に包囲されていなかった。

蒋介石は仇敵の広西の将軍と争うことで多忙だったので、福建軍の諸部隊に東側の入口を封鎖するように命令していた。

しかし福建軍はこの命令を守らなかったからであった。


その理由を朱徳は福建軍が自分たちの領地で金もうけを続けたかったからであり、さらに蒋介石は直系の精英部隊を紅軍との戦闘で消耗したくなかったので、地方軍に動員を命じたからだと説明した。


紅軍の将兵たちは8日間ではまったく疲れがとれていなかったが、月が高く中空にさしかかった頃、朱徳と毛沢東は三千の部隊を率いて東側の斜面を下りふたたび作戦を開始した。

はるかに数が多い敵と戦う場合、紅軍はそのときどきの情勢に応じて独自に考え出した戦術を使ったが、それだけではなかった。


古い昔の中国軍や蒙古軍が使った戦術、19世紀の太平天国の軍が使った戦術、1925年から1927年の大革命で学んだ経験に基づいて、日本の士官学校で教育された国民党軍の司令官たちを途方にくれさせた戦術などをきわめて的確に用いた。


山のふもとに到着すると、いくつかの小部隊を編成して、主力と反対側の方向に行かせた。

大きな町を攻撃するようなふりをして敵軍をひきつけさせて、突然村々のあいだで姿を消したり、また別の町の前面に姿を現したりして敵を攪乱させた。


その間に朱徳と毛沢東は村々から地主の民団を追っ払い、人民を蜂起、武装させ、幹部に後をまかせてやりかけた仕事を続けていった。

敵軍は神出鬼没の紅軍を追いかけて、江西南部を騒ぎながら駆けまわっていた。


紅軍は農民に案内されて夜間に敵に奇襲をかけ、あっという間に敵の補給部隊から物資を奪い取り、たちまち姿を消したかと思うと、数マイル離れた別の地でふたたび姿をあらわすのであった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


[PR]
by far-east2040 | 2017-03-28 07:43 | 朱徳の半生(改編後削除予定)