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カテゴリ:第8巻「紅色方陣」改編( 23 )

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 その1930年の10月末、いよいよ赤を絶滅するという壮挙がおこなわれることになり、上海そのほかの中国の大都市では、沸きかえるさわぎだった。北方の敵を征服して帰ってきた蒋介石は、時の英雄であった。いまや彼は、自分の10万の精鋭を江西の「紅匪」に向けてきた。


 共産主義は、中国において、帝国主義や封建主義とはどうしても妥協しないという唯一の勢力で、党員は主義のために喜んで死ぬということを実証した唯一の組織だった。こういう人間どもは危険だったが、弱かったので、手遅れにならないうちに攻撃を加えたら、たたきつぶすことができる。今こそ、その時であり、結果は明らかだ。いったい、江西の「アカ」とは何ものかといえば、百姓と労働者、つまり人間のクズの集まりでしかないではないか。全世界で知られているように、中国の百姓とは、誰が天下を支配しようとかまわず、ただ自分の少しばかりの土地を耕せてもらえればいい、という人間ではないか。


 国民党の機関紙と外国の協力紙は、鳴り物入りでさわいだ。機関紙は、誇らかに、紅匪討伐に向かう軍の計画の詳細、さらにその行進路まで発表した。だが、紅軍からは、とくに、国民党軍にやぶられて吉安から敗走したという朱毛軍の方からは、何の気勢もあがらなかった。紅軍はいまや、「敗残の匪賊」でしかなく、まもなく、これを完全に包囲し絶滅することができるだろう。


 ところで、その江西では、朱徳、毛沢東と同志たちは、じつに丹念に国民党新聞を研究し、そして朱将軍は、国民党新聞がいばって書いている戦争記事にいちいちしるしをつけ傍線を引いた。紅軍はラジオをまだもっていなかったが、通信機関と情報網はかなり進歩していて、国民党新聞の軍事報道は紅軍の通信情報とほとんど合っていた。まだ上海からの報道は来ていなかったが、朱徳と毛沢東はすでに使者を上海に送り、共産党中央委員会の李立三理論への反対を表明していた。結果がどうであれ、ふたりはこれが正しいと信じていた。





by far-east2040 | 2019-01-27 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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 10月中旬、朱徳と毛沢東と同志たちは、吉安北方の彭徳懐の司令部で軍事会議をひらいた。
そこで、吉安を撤退することを決定した。というのは、2倍もの数の敵にたいして、その市を死守するための犠牲に耐えられない、と判断したためだった。彼らが、軍の主力4万人をひきいて撤収して、すでに強化されているソビエト地区に入れば、そこですべての人民からゆるぎない支持を得るだろう。その東固山基地と広昌の城市の中間の地域において――朱将軍の言葉を借りると、「自己の好む戦場をえらび、迅速な集中と散開によって、われわれをせん滅するために送られてきた敵師団の中の、まずひとつを、つぎにひとつをと、包囲し攻撃することができるだろう」


 その後4ヵ月にわたってつづいた戦闘のうちで、とくにひとつを朱将軍は抜き出して、紅軍の戦いぶりの例証とした。この戦闘は、毛沢東がのちに『中国革命の戦略問題』という軍事教科書を書いたときに、彼の脳裏にあったものと同じであるにちがいない。


 「戦史では、ひとつの敗戦が、それまでのすべての勝利の収穫を無とする場合や、また、多くの敗戦ののちのひとつの戦闘の勝利が、新しい情勢を打開する場合が多いのだ」


 この一戦闘は――それは、国民党軍の戦争計画すべてを崩壊させてしまったものだったが――1930年の12月末日に張輝サン将軍がひきいる第十八師団とのあいだで戦われたものだった。

張将軍は、ほかに第二十八師団、第五十師団をもち、その3つの師団は国民党軍の中堅になっていた。すべて欠員のない正規師団で、外国製の武器で完全に装備され、給与も最高だった。



by far-east2040 | 2019-01-26 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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 この決戦の話をする前に、朱将軍は、寄り道をして、紅軍内部での反逆行為のことを話したが、それは、もう少しのことで、形勢を一変して敵に利するものになっただろう。何週も続く戦闘の最中に、ある地主の息子のリュウ・チ・ツァオというものが、東固の農民からなる第二十紅軍をひきいて反乱を起こした。10月に吉安で入手した反ボルシェヴィキ(AB)団の書類によれば、少なくとも、東固の一人の地主の家族のものが、国民党の秘密情報機関と連絡している、ということはわかっていたのだが、しかもリュウは、吉安の近くの富田地域の防衛の任をあたえられていた。


 リュウ・チ・ツァオと東固と興国地方の政治指導者李分林――その家はAB団と連絡しあっていることがわかっていた――は、朱徳と毛沢東が戦っていた李立三主義の、もっとも忠実な信奉者だった。いったい、いつ、どこで、李立三主義とAB団とのあいだにつながりができたのか、また、いったい、どうして、いつ、こうした指導者たちが、李立三主義からAB団にすべりこんでいったのか、そういうことは、朱徳と同志たちは、ずっと後になって知った。とにかく、こうした複雑怪奇なことは別にしておいて、朱将軍は、共産党が一掃しなかった東固の地主階級こそが、第二十紅軍の反乱の真の原因だと信じている。


 もちろん、リュウや李文林は、腹の底で考えていることを、農民兵たちに明かす勇気はなかった。だから彼らは、朱徳を「第二の蒋介石」、毛沢東のことを共産党を裏切る「党皇帝」とののしった。彼らの雄弁は目的を達し、反乱はおこり、富田地方で、多くの共産党指導者が殺された。それから彼らは、吉安地方の国民党の勢力地域に逃げてゆき、そこで一派で小さな共産党をつくって、わけのわからない宣言をつぎつぎに出した。そのひとつを見れば、朱徳は急に高潔な人物とほめたてられ、毛沢東は反逆者の烙印をおされていて、もうひとつを見れば、毛がほめられて朱が非難されていた。



by far-east2040 | 2019-01-25 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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 朱将軍がいうには――いかに包みかくそうとも、紅軍は、国民党軍がこの反乱者にたいして何の行動にも出なかった、という明らかな事実を見抜いた。しまいには、東固の農民たちは、事実を知って、逃亡して元の部隊に帰ってきたのだが、そこでは彼らは、迎え入れられ、再編成され、再教育された。


 しかしこの反乱のおかげで、国民党第十九路軍は興国を占領し、張輝サン将軍の第二十八師団は東固を占領した。東固ではパルチザンと人民が敵とたたかったが、村々は破壊され、何百の人民が殺された。最後に、彼らは東に逃げて、紅軍の本隊に合流した。


 これが、朱徳と毛沢東や幕僚が張輝サン将軍の第十八師団に決戦をいどんで、本隊を粉砕しようと決意したときの、周囲の情勢だった。


 朱将軍は、この戦闘がおこなわれた戦場の略図をえがいていくれた。そして、敵の司令部と部隊の配置、味方の司令部、戦闘部隊、予備隊、野戦病院、敵の捕虜収容施設なども示した。

また彼は、人民武装隊が配置された地点も示したが、彼らは、紅軍の補助部隊として、敵の小部隊や輸送隊を攻撃し、また一方では、紅軍のために輸送したり、戦場の負傷者を運搬したりした。


 朱徳と毛沢東の司令部は、張輝サン将軍が司令部を置いた竜岡から、ほんの4マイルほどはなれた山村にあった。張将軍の第二十八師団は、彼らの頭のすぐうえの東の方の東固の山を占め、第五十師団は北西のニントウにあった。彭徳懐の紅軍第三軍団は、敵を牽制するため、竜岡と敵の第二十八師団と第五十師団とのあいだに展開していた。南と西南に向かって一日だけ強行軍をすれば、国民党十九路軍のところに着くだろう。



by far-east2040 | 2019-01-24 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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 紅軍の通信機関はすぐれていて、司令部の伝令は、みな若い農民で、きわめて敏捷だった、と朱将軍はいった。


 朱徳と毛沢東は、12月29日午後8時に、明け方に開始される予定の戦闘に関する詳細な命令を発した。その命令は、あらゆる戦闘本部隊と予備部隊にあたえられたが、その中には、いつものように「政治動員」の集会をもつこと、そして軍指揮官は、兵士たちに、戦闘計画、敵の戦力、位置、装備と志気に関する情報をすべて教えるように指令されていた。また政治指導者は、この戦闘の意義および革命運動全体の意義を、その集会で説くことになっていた。


 朱将軍の命令の中で、強調されていた一点は、すべて紅軍部隊はたがいに密接に連絡をとりあって情報を交換し、また、医療品の収集に特別の注意をはらい「捕獲した無電機は大切にせよ」だった。


 戦闘は12月30日の夜明けにはじまり、林彪と黄公略は、敵第十八師団を竜岡から狩り出し、敵がばらばらに解体し崩壊するまで、攻めては引き、引いては攻めた。黄公略の部隊をなす農民と鉱山労働者は、江西省西北部のものたちだった。その地方に、さきに張輝サン将軍の三個師団が入って、何百の村々を破壊し、紅軍に息子を送っていたすべての家族を殺戮した。だから黄公略の部隊は、胸中に煮えかえる憎しみをもって戦った。朱将軍にいわせれば、その部隊は、「われわれの司令部の眼の前でたたかい、敵の機銃弾が壁にぱちぱち当たった」


 戦闘が高潮に達したとき、張輝サン将軍は、第十八師団の応援のため、第五十師団に出動の命令を出したが、「わが軍は、その直後に敵の無電局を占領した」やがて第五十師団は進軍をはじめた。どういうわけか、その師団は、そののち何らの通信を受けなかったので、ニントウ郊外で彭徳懐の軍と遭遇したときにも、しりぞいて待機した。東固の第二十八師団もすこしも動かず、また南方の第十九路軍も動かなかった。



by far-east2040 | 2019-01-23 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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 午前中に第十八師団の千名が殺され、9千名が捕虜となり武装解除された。張将軍と彼の参謀以下すべての士官がその捕虜の中にふくまれていた。鹵獲(ろかく)品は、小銃8千、そのほか、軽、重機関銃、追撃砲その他の小野戦砲、第十八師団の精密な無電機――技術者づき――、それから、野戦用電話、医療品、馬、大量の食糧などだった。そのうえ敵三個師団の軍資金も手に入った。


 「われわれはただちに、捕虜兵の大会をひらいた」と朱将軍はいった。「そこで彼らに、われわれはどういう目的で戦うかということを話し、もし戦いたいならばこちらに加わるようにと勧誘した。3千人が加わり、ほかのものには、一人3元ずつあたえて、家庭にかえらせた」


 もちろん、敵の方がすぐれた火力と軍需品を持っていたのだが、「わが軍は、信念と士気と機動力において勝っていた」そのことが、この迅速で決定的な勝利、およびそれにすぐにつづいた全敵軍の崩壊の原因だった、と朱将軍は説明した。不意打ちだった、ということで説明しきれるものではなかった、というのは、戦いは2ヵ月以上もつづいていたので、第十八師団も、何らかの攻撃を受けることは予期していたからだった。


 そのうえ、その「白軍」――朱将軍は、紅軍や人民たちとともに、国民党軍をそう呼んだ――は、ソビエト地区に入っていたので、そこの全人民は、彼らを不具戴天の敵としていたと彼はつけ加えた。勝利のもうひとつの原因は、心理的なものもあって――「敵は、われわれが匪賊だという味方の宣伝を信じ、匪賊ならば、わけなく叩きつぶせる、と思っていた」



by far-east2040 | 2019-01-22 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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 朱将軍と、捕えられたばかりの張輝サン将軍との対談は、そのまま劇になるようなものだった。とらわれの将軍は、階級の記章でかざられた、すばらしいカーキの軍服を着て、ピカピカの黒長靴をはいて、朱徳の司令部に送りこまれてきた。そこで彼は、まるで苦力のような、ぼろ服を着たやせこけた男が何人かいるのを見た。朱将軍は、つめたくきびしい声で、「あいつは、われわれを無知蒙昧な匪賊と見て、こんなものは自分の残りの二師団ですぐに敗ることができ、自分はそれで自由になる、と信じていたにちがいない。「だから、敗北して捕らえられたことで弱っていたが、それでもまだ傲然として、私を手玉に取ろうとした。太った男で、あいつの司令部にはありとあらゆるおいしいものがいっぱいあり、乗馬をもっているのに、旅をするときは、人間の背にかつがせる駕籠椅子をつかった」


 張将軍の最後の傲慢な質問は「わしの身代金はどのくらいほしい」だった。朱徳は威厳をもってこたえた。「わしは商人ではない! お前を、お前の部隊と、それから江西省西北部でお前に家族を殺されたわが軍の一部隊の前に引きずり出して、裁判にかける」捕虜将軍の傲慢は少しくじけたようだった。


 「私は彼にたずねて」と朱将軍はいった。「われわれが設立する計画の新軍官学校で教える意思はあるか、とためしてみた。その気はある、とあいつは答えたが、じつは、――他の師団がきて救出してくれることを期待しながら、時をかせごうとしているにすぎない、ということは私はわかっていた。それから私は、われわれは次にどの白軍を攻撃すべきか、君の意見をきかせてくれ、といった。私がこの男の意見など聞く必要はなかった、というのは、わが軍は、すでに彼の第五十師にむかって進撃していた。だが私は、こいつはどんな男か、ということを試してみたかったのだ。彼は、それは十九路軍を攻撃すべきだといい、その軍に関する軍事的情報すらしゃべったが、それはわれわれの情報網の報告と合致していた。あいつは、味方を裏切りながら、われわれを手玉に取っていると思っていたのだ」


 朱将軍は、「張将軍に彼の他の師団もどんなふうに撃破できるか、ちょっと見せてやろう」と思って、彼と部下の士官どもを連れ出して、紅軍が次の24時間以内に第五十師団を破るところを見せた。紅軍はそれから旋回して東固の第二十八師団に向かった。その師団は逃げた。そのときすでに、十九路軍は、興国から撤収をはじめ、はるか南の故郷広東省に帰着するまでは、とどまらなかった。


 第十八師団に対する勝利ののち、3週間とたたないうちに、敵の諸軍は、紅軍の迅速な攻撃によってくずれてしまい、第1回の紅軍せん滅作戦はぶざまな失敗におわった。張将軍は、彼の幕僚とともに、3千の旧部下の兵、東固の人民たち、彼に家族をほろぼされた黄公略軍の兵たちの前で、裁判にかけられた。朱徳がいうには、もはやそのころには、張将軍の傲慢は、恐慌に変わっていた。彼は、幕僚とともに死刑の宣告をうけ、彼のために家族をほろぼされた兵たちによって、斬首された。



by far-east2040 | 2019-01-21 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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 何週間かすぎたころ、上海の共産党中央委員会から一人の使者が、朱将軍の司令部に来た。

持参した手紙によると、蒋介石が張将軍の釈放を請い、その代償として多数の政治犯を釈放し、20万ドルを払うといっていた。


 「処刑したことを、われわれは後悔した」と朱将軍はいった。「金のためではなかった。蒋介石は、復讐として、獄中のわれわれの同志の多くのものを殺したからだ」


 紅軍の勝利は、たしかに、国民党と、それを支持する外国筋と、財政援助者をがくぜんとさせ、そのため新しいテロの波が国民党支配下の中国に広がっていった。蒋介石元帥は、みずから南京政府の教育部長になり、宣言を発表して、彼の「心をいためる」ものは、学生たちが、「共産主義の食いものにされて」集会をしたり、ビラをまいたり、はなはだしきにいたっては、「政府への反抗に等しい行為――すなわち彼らの大学の学長に反抗する」のを見ることだ、といった。そして元帥は、「学生といえども、容赦なく射殺する」と声明し、かつその実証を見せはじめた。


 5つの大学が閉じられ、多数の学生が、秘密裏に上海で捕らえられ、その後の消息はまったくわからなかった。上海の新聞は、あっさりと、北京国立大学の60名、天津で10余名、そのほか広東、長沙、漢口で多数がとらえられたと報道した。1931年2月7日には、上海のイギリス警察は、若い作家、美術家、俳優など24名をとらえて、国民党の守備隊長に引きわたし、そこで彼らはその夜射殺され、自分たちが掘らされた大きな穴の中に捨てられた。


 南昌の国民党が発行する『反共月刊』の1931年2月号は、ひとりの国民党高官の談話をのせている。


 「もし政府が、紅匪問題の解決に、今日用いつつある方法以上のものを見出せないなら、われわれは、すべての紅匪地区をまず隔離し、毒ガスをつかって一人のこらず殺すほかないだろう。これらの地区の、10歳以上60歳までのあらゆる男と女は、紅軍のためにはたらくスパイであるか、紅軍兵そのものであるからだ」



by far-east2040 | 2019-01-20 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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 そのつぎに朱将軍が、生涯の話を語りにきたときに、私は提案して、1931年の典型的な一日をえらんで、その日の朝から晩まで何をしたか、話してくださいといった。


 しばらく考えてから、彼は答えた――ある一日にしたことすべてを思い出すことなんて無理だが、できるだけやってみよう。以下が、彼が語ったことである。


 「私は生涯、かなり早起きする習慣をつづけてきた。寝るのは仕事がおわってからなので、かなりおそく、ほとんどいつも夜中すぎになる。私の生活は、仕事と学習による鍛錬、ということを中心にして築かれてきたのだが、仕事と学習は、決して規則的なものではなかった。というのは、われわれが行なってきたような戦争では、司令部が直接手を出して監督しなければならないことが、じつに多かったからだ。


 「たいていは、――といっても規則正しいものではないが、部隊のものに軍事についての講義をし、ひんぱんに近くの部隊を視察して、統制と行動をしらべた。また私は、定期の参謀会議に出席したが、そのほかにも、週に1,2回は党の集会、それから司令部細胞の会合もあった。たびたび、軍の各部面の統率者との会議があり、さらに臨時に問題がおこったさいの会議もあった。一つの戦闘の前には、戦闘部隊の動員会議が1,2回ひらかれ、そこでは、軍の指揮官が、わが軍の作戦と敵側の情勢について報告し、政治指導員は、戦闘または作戦の意義、それから、戦いつつ敵の士気を沮喪させ、あるいは帰投させる、政治技術について説明した。


 「戦闘ののちには、時間があればだったが、――作戦ののちには必ず、会議を2回ひらいた。1回は指揮官だけのもの、もう1回は指揮官と兵士と合同のもので、そこでは戦闘または作戦の分析をおこなった。それは、わが軍にとっては、戦術的にも教育的にも、大きな価値のあるものだったので、私はそういう会議にはつとめて出席した。そうした合同の会議では、兵士も指揮官も、完全な言葉の自由をもっていた。たがいに批判することが認められ、根本計画の各部分や、実施された方法について批判してもかまわない。このような方法で、われわれは過失をただし、弱腰の指揮者を排除し、能力があるものを昇進させることができた。そして、われわれは、すべての封建的な悪習を根絶やしにし、軍隊を民主化し、兵士のあいだに自発的な軍規が生まれることを、ねらった。臆病だったり判断をあやまったりした兵士、戦闘の最中に命令にそむいた兵士は、その行動を公に語って、その過失をただすことを学ばなければならなかった。兵士をののしったり殴ったり、その他軍規をおかした指揮官は、大衆裁判の前に立って答えなければならず、もし有罪と決まれば、司令部によって処置されるだろう。こうした会議の結果は、パンフレットで発表されて全軍の研究の資料として用いられた」



by far-east2040 | 2019-01-19 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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 まだほかにも仕事はあった、と、言葉をつづけ、将兵に軍務がないときには、農民を手伝って、春には土地をすき、種をまき、秋には収穫をしたと語った。朱将軍も、できるかぎり農作業を手伝ったが、それは「私の健康を保つには最上の手段だった」紅軍の慰安や文化活動は、そのころは比較的手薄だったけれども、いくつかの演劇隊が、ソビエト地区を巡回して、兵士や農民にみせていたが、もしそれが司令部からゆける所であれば、朱将軍は地べたにすわるか、前列のベンチにかけるかしていた。軍にはいくつかの歌があったが、歌うことは、いま彼が語っている延安時代ほど発展していなかった、ということだ。


 「まだほかにも、日々の情報や報道を読んでそれぞれ処理しなければならなかった」と彼は加えた。「私は、新聞や本を見つけ次第読んだが、そのころは、本や雑誌を手にいれることはかんたんではなかった。ときどき、上海から本の小包がきたが、みながすごく読みたがっていたので、私の手元にまわってくるまえに、ほかのものが取る、ということも多かった。当時私は、マルクス・レーニン主義の知識を向上させようと努めていたので、その主題の本は、手に入り次第、くりかえし読んだ。最初の敵全滅作戦のとき、戦略戦術の本やパンフレットをたくさん接収したので、私はそれを読んだが、わが軍のために役立った」


 長沙と吉安の占領の時には、どちらでも、軍は国民党の印刷機を接収して、それを村落地区にうつした。そして月2回の軍報道を出すことになったが、それには、他の紅軍や、パルチザン地区や、全国の情勢などについての報告がのせられた。そのころ、上海、北京、その他の国民党支配下の都市の、教師や教授のあいだに、紅軍や、ソビエト地区の小学校のための教科書の元をつくろうという運動がおこった。そうした原稿は、敵の戦線をこえて密輸されてきて、印刷されたり、石版にされたりしたが、朱将軍は、その兵士のための本を読んだこともあった。



by far-east2040 | 2019-01-18 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編