カテゴリ:第7巻「上杭の歌」改編( 29 )

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1930年の1月から3月まで、朱徳は紅軍主力の司令官として、旧雲南軍に対して迅速にして激烈をきわめた作戦をみずから指導した。

この雲南軍は、かつて彼が旅団長をしていたことがあるのだが、いまは蒋介石の命令で「紅匪」を撃破し根絶するために江西省へひきかえしてきていたのである。

6月までに、この雲南軍の諸部隊はめちゃくちゃに粉砕され、すっかり不満をいだいて離反してしまったので、蒋介石は彼らを新しい部隊と交代しなければならなくなった。


雲南軍の崩壊のしかたは、朱将軍をとてもよろこばせた。

彼の語りによると、雲南軍の諸部隊は、上官の命令をサボタージュしただけでなく、農民を使いにして朱徳のもとへ定期的に報告を送ってきたのである。

また、非常にたくさんの兵士が、農民に1ドルか2ドルをはらって、一番近くにいる紅軍の部隊へ案内されてやってきた。


作戦を開始した1月のはじめ、雲南軍の「掃匪司令」羅炳輝大佐は、一個連隊の部下をひきいて紅軍に加わり、13年後ついにたおれるまで紅軍の陣営でたたかった。


この特別な作戦のあいだ、やはり諸部隊を指揮していた毛沢東はただちに、あらたに解放された地域の再組織と再建にとりかかった。
朱将軍は、できるだけ多くの若い農民を召集し、組織するまではほんの少しの時間も惜しんでじっとしていなかった。


いつものように、多くの市や町や村々に人民代表会議(ソビエト)をつくりあげたのち、すべての古い税金が廃棄された、と朱将軍は当時を回想しながらいった。

そのかわり、穀物の収穫に対する、単一の累進税をとりいれた。

紅軍が、自分たちの補給を敵からの鹵獲(ろかく)品でまかなうようになってからは、税金収入はすべて再建にあてるようになった。

高利貸しとアヘンは厳禁され、抵当証券と借金証文は返済され、小学校と各種の合作社がつくられ、最初の小さな農民銀行が設立された。



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by far-east2040 | 2018-12-13 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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大衆の武装力である紅軍だけが、中国人民のこの貧窮と従属に、革命的な解決をもたらすことができる、と毛沢東は言明した。

しかし、この目的を達成するためには、紅軍に一定の改革をおこなうことが必要である。
彼が将来の政策について大会に提案した決議は、朱徳そのほかの指導者たちと長時間にわたって協議したうえでつくられたものであった。


まず第一に、軍と党の上級機関が決定をおこない、そのあと兵士たちのあいだで十分な理解と承認が得られるまで、これらの方針を討議させることが必要である。
こうすることによって、多くの軍事的敗北をもたらしたてきたこれまでのやり方を逆転させることができる、と毛沢東はいう。


第二に、紅軍内の「絶対的平等主義」はやめなければならない。

なぜならば、これも不統一をもたらし、しばしば敗北をもたらしてきたからである。
これまで、紅軍は、食糧衣類の分配、荷物の運搬、宿舎の分配とその順位、さらに馬の使用に関してありとあらゆる差別待遇に反対してきた。

彼らは、病人や負傷者にたいする特別な食事にさえ反対し、まただれであろうと、みな年齢や性別あるいは肉体的能力を無視して、同じ分量の荷物をかつぐことを主張し、だれであろうと、馬にのる指揮官は非民主的であると批判した。


食糧と衣服は、兵士と指揮官とのあいだでは平等に分配し、またそうするべきである。
しかし、病人と負傷者には特別な配慮が必要である、と毛沢東はいった。

人は誰でもほかの人とまったく同じ重さの荷物をかつげるとは限らない、そういうことは、能力に応じて決定されなければならない。

軍の中のある組織は、任務を遂行するためには、一般よりも大きな宿舎やより多くの要員を必要としている。

あるいはまた、馬に乗って移動した将校は、夜になって兵士たちが眠りについてからもずっとおそくまで仕事をしているのである。


毛沢東は、紅軍内のインテリたちが彼らの「観念論的」傾向を克服するよう、主張した。
こういう人たちは、社会問題、軍事、政治問題を具体的に研究し、事実にもとづいて結論に達することをしないで、自分たちの頭の中だけで抽象的理論をこねあげている、と彼はいう。


大会は毛沢東の決議を採決した。
それから、紅軍代表者たちはそれぞれの部隊に帰って、全体会議をひらき、決議が承認されるまで討議をつづけた。


朱将軍は、この改革の結果、軍隊はいちじるしく強化され、江西省の中部と南部全体を解放することができるようになるだけでなく、かつて失った福建西部の多くの城市もふたたび占領することができるようになるだろう、と考えた。


中央ソビエト区として知られているこの地域は、その後、しだいに拡大し、江西福建両省の大部分を包含するようになった。



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by far-east2040 | 2018-12-12 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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古田の紅軍代表者大会で朱将軍は、紅軍成立以来のあらゆる行動を回顧しながら、年次軍事報告をおこなった。

毛沢東は政治問題について報告したが、それは単に紅軍とソビエト地区についてだけではなく、国内情勢からさらに彼が知るかぎりの国際情勢にまでおよんだ。


毛沢東はこう報告した。

――現在は、きわめて不幸な時代である。

なぜならば、資本主義世界では経済の大恐慌がおこっており、外国帝国主義と結びついた国民党の支配体制は、中国をますます深く、植民地的従属状態にひきずりこんでいるからである。

国民党の独裁が成立してから3年足らずのあいだに――と毛は報告したが、この点については、朱徳も彼の報告において、同じ事実をのべたのである――、中国の鉱山や製鋼、製鉄、紡績工業の株式の大半が外国人の手中におちいった。
英国とベルギーの資本家は、有名な江西省大余のタングステン鉱山を買収しようとしている。

このことは、なぜこれらの外国の資本家が蒋介石に、紅軍を絶滅し、「平和と秩序」を回復せよ、と強硬に主張しているかを部分的に説明するものである。


中国はたえざる経済恐慌のなかにおかれている。
しかも、世界恐慌の深化にともなって中国の恐慌もいっそう激化している。
中国の大都市では数多くの工場が閉鎖され、あらたに何千もの労働者が失業者集団のなかになげこまれている。
今なお操業をつづけている工場では、賃金の安い子どもや婦人が青年男子にとってかわりつつあり、しかも、これらの子どもや婦人でさえ、死にものぐるいのストライキに立ちあがっては、こん棒と銃火で弾圧されている。
物価は下落し、蒋介石と馮玉祥将軍との華北における新しい戦争は、さらに数百万の農民を破産に追いこんでいる。
これらの農民たちは、匪賊や浮浪者に転落したり、その日の一碗の米をえるために軍閥軍の兵隊になったりしている。



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by far-east2040 | 2018-12-11 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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その付近には6百人のパルチザンがいた。
そのうち2百人近くは、1年ばかり前、朱徳と毛沢東にしたがって井岡山の封鎖を突破した紅軍の古参兵だった。

彼らは一年前のきびしい冬、この山岳地帯一帯で紅軍が死にものぐるいの戦闘をつづけていた当時、病気にかかったり、負傷したりしたため、回復するまで農民のもとにのこされた人たちだった。

当時、この連中はそれぞれ小銃と数発の弾丸をあたえられ、全快したときには、農民のパルチザン戦争を組織し指導するように、いいわたされていたのである。


生きのこったものは、みな命令通りに行動した。

彼らはたがいに連絡をとりながら、小さな連隊を組織した。

この連隊は、親にあたる紅軍を模範とし、各分隊の政治工作員にいたるまでそっくりそのまま組織されていた。
紅軍に帰隊した彼らは、そこで、朱徳らを安全なパルチザン地帯に案内した。

朱将軍は、ここで休養することができ、福建にいる毛沢東へ使者を送った。


使者は、つぎのような報告をもって帰ってきた。

――朱徳がいなくなってから、上杭はじめ全城市が強力な敵軍に占領された。

しかし、農村は依然として人民の手中にある。

毛沢東は、福建省の山地の安全なソビエト区、古田に撤退した。

そして、この古田で、長いあいだ計画されてきた第九回紅軍代表者大会をきたる1930年1月1日にひらくことになった。

それはわずか2週間後にせまっていた。

朱徳の指揮下の各中隊は、大会への代表を選出することになった。


古田への道を戦いつづけながら、朱徳は上杭をもう一度占領しようとこころみた。

これは失敗したが、汀州では敵軍を数日間追っぱらうことができた。
しかし、すぐに敵の増援部隊が到着したので、結局放棄せざるをえなくなった。

朱徳は元旦の朝早く古田に到着した。

村人たちは、朱徳と彼の部隊がまるで大勝利をおさめて凱旋してきたように歓迎した。


「その年は豊作だった」と朱徳は話題をかえて話しだした。
「地主を追いだして、その土地を分配してから、人民は自分たちも十分に食べ、そのあまりを紅軍に提供できるようになった。
彼らは数千人の群になって、古田地区へあつまってきた。
みな、それぞれ自分の布団と一週間分の食糧をもち、どの集団もわれわれへのおくりものをもってきた。
大量の米をもち、鶏やあひるをかかえ、豚や牛までおいながらやってきたので、われわれは正月用の肉を十分に食べることができた。


「わが軍と人民はいっしょに料理し、いっしょに食べた。

夜になると、通りは、太鼓やドラや破裂する爆竹の音や歌声でわきかえるようだった。彩色した数千のちょうちんの光りに照らされて、紙でつくった竜がおどりまわった。
私は新しい歌をつくったが、パルチザンたちがそれをうたいながら行進した。

その歌はこうだーー


 「お前も貧乏、おれも貧乏、

 十人ならば、九人は貧乏。

 この九人が腕をくんだら、

 虎地主なぞ、ふっとんでしまうぞ」



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by far-east2040 | 2018-12-10 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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上杭にはいってからわずか数日後、朱徳はふたたび行軍を開始し、福建南部一帯の敵軍を掃討した。

10月の末になって、朱徳と彼の部隊はついに福建南部に隣接する広東省東江地方へ突入した。

この地方は、かつて2年前、有名な「鉄軍」が撃破されたところであった。

今回も、朱徳はふたたび第十九路軍に敗北を喫した。

第十九路軍は、十分に装備した三個師団全部でおそいかかってきたのである。
朱徳は数百人の部下をうしなった。
しかし、彼にとっての最大の損失のひとつは、もっともかがやかしい、高い教育をうけた、紅軍司令官のひとりである連隊司令リュウ・アン・クンの戦死であった。

朱将軍の胸は、革命のあらゆる戦闘と、彼の指揮下に戦死したすべてのひとびとの名前をきざみこんだ目録のようなものである。


東江地方のゲリラ部隊を増援するために、二個中隊の義勇兵を残したうえで、11月の末、朱徳はふたたび北方へ撤退し、省境の山岳地帯をこえて、江西省へはいった。

この行軍のあいだじゅう、朱将軍は悲嘆にくれていた。


「国民党ならば、何千人の兵士をうしなおうが、そんなことはなんでもない」と彼は悲しそうにかたった。
「しかし、紅軍の兵士は、軍閥の野心にみちた勝負につかわれる将棋の駒ではない。
われわれは、たとえ戦闘にまけた場合でも、生きのこったひとりひとりの兵士が新しい軍隊をきずきあげ、革命をつづけることができるように、ひとりひとりの紅軍の兵士を教育してきた。
ひとりひとりが、革命の貴重な財産だったのだ」


朱徳はもちろん、中国にいだく彼の希望が実現されるまでには、数多くの敗北や、部分的な敗北を喫することもあるだろうし、何千人という人間が死んでゆくだろうということも十分承知していた。

しかし、朱徳は、彼の指揮下におこった、ひとつひとつの敗北、ひとりひとりの死にたいして、はげしい悲嘆を感じた。

彼は、部隊があらたに鹵獲(ろかく)した、数百の武器や弾薬その他の補給物資をもっているという事実で、みずからなぐさめようとつとめたが、それはできないことだった。

朱徳の憂うつがいくらか晴れたのは、広東―江西省境にそった山地で、一隊の農民パルチザンに出あったときだけだった。





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by far-east2040 | 2018-12-09 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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狙撃兵が城壁上の電燈を射ち落として、西側にいる臼砲隊に合図を与えた。

敵の哨兵はまた赤衛隊がいやがらせ行為をしたぐらいに考えて、ただえんぺい物のかげにかくれただけだった。

ところが、つづいて臼砲が西門を砲撃しはじめたので、城内にいた敵の旅団の全兵力が西門地帯におしかけた。

農民たちはたちまち城壁に殺到して、はしごをかけた。

まず紅軍の部隊と赤衛隊が、つづいて朱徳と農民たちが途切れることなくよじのぼり、城内の路上に流れこんでいった。


戦闘は、朱徳が予想していたほど、なまやさしいものではなかった。

完全に退路をたたれた敵の旅団と武装した地主どもは、あくる日の昼まで戦いつづけた。
昼になってようやく敵軍全部が武装解除され、地主どもは、囚人が釈放されたばかりの中世のような不潔な監獄に収容された。

紅軍の兵士たちは、あまりに残虐なとりあつかいをうけたために、歩くこともできなくなった政治犯たちをはこびだしたのだが、おそらく中世の専制君主でもこの光景を見れば、恐ろしさにふるえおののいたであろう。

なかには、口をきく力もなくなっていたものさえいた。


まだマラリヤをわずらっていた毛沢東は、担架にのって城内へ運ばれてきた。

彼は、病床からあらゆる政治工作、人民の諸組織の復活や上杭ソビエトの組織などを指図した。

遠近の村々から農民たちがどっと城内にくりこんできて、この勝利を祝い、土地の分配に加わり、憎悪してきた地主どもの裁判に参加した。

朱将軍は口もとをゆがめながら、これらの裁判を回想した。

年老いた両親、寡婦、父や兄弟たちが地主の前に歩みよって、こう叫んだのである――

「おれの息子はどこだ、おれの兄弟はどこだ、おれの親父はどこだ」

ひとことの答えもないので、農民たちは平手で地主どもを殴りだした。

秩序を維持するためにひかえていた赤衛隊も、捕虜を保護せよという指揮官の命令に服従することを拒否したほどであった。



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by far-east2040 | 2018-12-08 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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宵闇が立ち込めてくると、上杭はまるでおとぎ話の国のようになった。

上杭には発電所があり、市の支配者と守備隊は城壁のてっぺんにぐるりと電燈をぶら下げていた。

彼らはおろかにも、これで、夜間城壁の上を巡察する哨兵が、城壁の下に近づく、あらゆる攻撃者を発見することができると信じていたのである。

しかし本当は、電燈は城壁の上の哨兵だけを照らし出しているにすぎなかった。

だから、赤衛隊が闇にまぎれて川をわたり、馬蹄型の地帯にはい上がって、城壁の上の電燈をひとつずつ射ちくだくことができたのである。

電燈は、「射撃演習の的にするために」そして敵を混乱させるためにあったようなものだ、と朱将軍は微笑しながらいった。

ところが、市を守っていた敵軍は、もはやこの種のいやがらせ襲撃にはほとんど注意をはらわないようになっていたので、これも、その夜の襲撃を有利に展開することができた事情のひとつであった。


月があがってから、作戦計画が実行にうつされた。

農民たちは小舟を集めてきて、市をとりまく馬蹄型地帯へ南側から川を渡ることができた。

同時に、朱徳はほかの部隊と赤衛隊をひきいて、北側の渡船場へいそいだ。

そこにはすでに農民たちが川の中に一隻ずつ舟を横に並べ、河床に長い棒を打ちこんで、これに繋いで流されないようにして、その上に板を並べてにわか作りの橋をこしらえていたので、部隊はただちに渡河することができた。


彼らが渡河するとすぐ、数人のものが臼砲をもって、西門の真ん前の低い丘に向かった。
そこから臼砲をうちこんで「大騒ぎをひきおこし、敵軍をこの方面にひきよせよう」というのである。

真夜中に、朱徳は、馬蹄型地帯の内側にある、北門前の低い丘に司令部をおいた。

部隊と赤衛隊は、はしごをかついだ農民たちとともに、城壁の北側と東側をぐるりととりかこんだ。

何かの行きちがいから攻撃が始まっても、林彪はまだ南門に来ていなかった。



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by far-east2040 | 2018-12-07 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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まさしく、民謡が語っているとおり、仲秋の日に朱徳は正規軍2個連隊と数個部隊の赤衛隊をひきいて、福建南部の上杭に向かって進撃した。

行進してゆくと、沿道の農民たちは、それぞれ鋸(のこぎり)や斧や槍をとっていっしょに行軍しはじめた。

ある日の午後おそく、朱将軍と彼の幕僚たちは、沈みゆく太陽をながめながら、木々におおわれた山腹に立って、足元に広がる谷のなかの古い城市、地主の要塞を見おろしていた。

地上を歩いてこの町に入る道は1本しかなかった。

それは南門に通じる道だけである。

この門は厳重に要塞化されていて、しかも毎日数時間しか開かれなかった。

ほかの3つの門はいずれも閉鎖され、その内側には砂袋が積み上げられていた。


朱将軍と幕僚は熟達した専門家の目で情況を観察した。

もとより朱徳には、敵が待ちかまえている西側から攻撃する気は毛頭なかった。

そばにいた連隊司令林彪をふりかえって、西門の前にならんでいる丘を指さして、こういったーー


「あの丘の上に、臼砲を2、3門配置すれば、敵軍全部を西門の周辺にひきつけるくらいの大さわぎをおこさせることができる。
そのあいだに、背後から城壁によじのぼって占領しよう」


この地方の情況はすでにすっかりわかっていた。

赤衛隊が詳細な報告をし、地面に大ざっぱな地図さえかいて教えてくれていた。

市の真北からトークー河がうねり流れていて、城壁の北側、東側、南側のまわりを完全な馬蹄型状にかこんでいる。

川と古い城壁とのあいだに、かなり幅広い土地が帯のように横たわっていて、その夜の攻撃に大いに役立った。

北門の真ん前に木におおわれた丘があり、朱将軍はここに第一次の司令部を置いた。


朱将軍は、演劇について鋭いセンスをもっているが、いま、彼の脚下にひろがっている光景全体は、演劇、とくに喜劇のにおいがしていた。

山の上の森の中から数千人の紅軍が敵を見おろしているのに、敵の兵士たちは山のふもとを流れる川でしごくのんびりと水浴びをしたり、服を洗濯したり、川岸に寝そべったりしていた。

彼らは、農民や紅軍の兵士たちが山中で大きな竹を切りだして、はしごを作り、その夜城壁によじのぼって、彼らを襲撃する用意をしていたことなど、想像さえしていなかった。



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by far-east2040 | 2018-12-06 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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朱将軍が次に生涯の話をしにきたときには、おもに歌と戦いについて語った。

というのは、朱徳という人にとっては、歌うことが生活の一部になっていて、彼の生活と思想は、戦いによって形成されたものだからである。


「われわれがくるまでは」と彼ははじめた、「人民が歌をうたうなどということは、ほとんどなかった。

もちろん、主として男たちが、ひとりひとりでうたう、昔からの山の歌がすこしはあることはあった。
だが、まさに革命こそが人民のエネルギーを解き放ち、ありとあらゆる歌を生みだせた。

その中には、農奴や奴隷の身分から解放された人々が喜びうたう、とても素朴で、原始的でさえある歌もあったが、もっと進歩した歌もあった。

恋や酒や月光や、あるいは、妾の眉の美しさをたたえた詩や歌を愛好する金持ちどもは、こういう歌を嘲笑することだろう。

これらの歌は、農民の希望や、彼らがそれを通じてはじめて自由の世界へ進むことができると知った新しいことがらを、表現したものであった。
人民に合唱することを教えたのは、紅軍であった。

福建や江西の山岳地帯の農民も、古いメロディーに新しい歌詞をつけたり、時には、みずからまったく新しい民謡をつくりあげたりした」


「上杭の歌」はこのような新しい民謡のひとつで、ほとんど、農民たちが紅軍から教わったものの引き写しであった。

それは、貧しい人たちに対する同情と、福建南部の上杭という城壁市にーーちょうどヨーロッパ中世の貴族たちがその城に住んでいたようにして暮らしていた地主への憎悪の情をつづったものだった。


 さあ、みんなそばへきて、わしの歌をきいてくれ。

 労働者や農民はひどい貧乏だ、

 地主は肉をくらい、わしらは苦労をくらう、

 地主が遊んで、わしらはこき使われる、

 ああ、辛くてたまらんわい!


 ますいちばん、いっしょになって、赤旗をあげろ、

 第二は、袖に赤いしるしを縫いつけろ、

 第三は、村じゅうの反動どもをやっつけろ、

 第四は、地主どもから、鉄砲をふんだくれ、

 みんな、武装しろ!


 わしら大衆は、はっきりしようぜ!

 軍閥、ルー・ハン・ミンをぶったたけ、

 だが、捕虜になった兵士らは別だ、

 あいつらは、わしらと同じ貧乏人だ、

 ああ、ひどい貧乏なんだ!


 上杭に攻めこめ、商人の邪魔はするな、

 いつも、貧乏人を助けろ。

 地主と狼郷紳をつかまえろ、

 やつらとは、折合ってはならんぞ!

 どいつもこいつも匪賊だ!


 忘れてはならんぞ、百頭地主を、

 軍閥を、金貸しを、長官を、

 税取り、警察署長を、民団の頭を、

 商会を、国民党の親分どもを、

 どいつもこいつも犬だ!


 赤衛隊と農民らよ、はっきりしようぜ!

 上杭を攻める日が決まった。

 仲秋節に進軍するぞ!

 人食い地主どもは死ぬんだ!

 人民は生きるんだ!



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by far-east2040 | 2018-12-05 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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その年の9月1日には、朱徳は福建西部のソビエト区に帰ってきていた。

この地区から福建省軍はすでに退散していて、広東から北上した敵の諸部隊は毛沢東の絶え間ない攻撃に、疲労困憊(こんぱい)して撤退していた。

しかし、こんどは毛沢東がマラリヤにかかって重態におちいった。
そのときはちょうどマラリヤが猛威をふるい、戦争よりも大きい犠牲者を出した年であった。

奥地の商人がべら棒に高い値段で売っていたキニーネの錠剤は、大部分が重炭酸ソーダで、キニーネはほんの苦味をつけるだけで、ほんの少ししか入っていなかった。


紅軍の医療隊は最良のものでも、まだきわめて原始的な組織にすぎなかったが、その隊員の一人に命じて、敵の戦線を突破しキニーネを買いに上海へ行かせた。

彼は無事に使命をはたして帰ってきたので、もう一度行かされた。

しかし、今度はとうとう帰ってこなかった。

途中でつかまって、首を切られたのである。

それで、もはやこれ以上、人命をおろそかにしないことになった。


しかし、毛沢東はともかく辛うじて命びろいをした。

そして、ネルソン・フー博士は毛沢東がまだ生と死のあいだをさまよっている山の上の村へ、定期的に診察にのぼってきた。

フー博士は汀州の英国バプティスト伝道団出身のクリスチャンで、紅軍に加わり、医療隊の隊長になっていたのである。


朱徳は依然として紅軍を指揮して奮戦し、敵の諸部隊を汀州の城壁のなかに閉じこめておき、そのあいだに、それまでの数週間に失った多くのほかの町を攻撃してそこを占領した。

マラリヤでさえ彼には一度もとりつく機会がなかったようだが、どうしてなのかは、もちろん彼にもわからなかった。

彼は43回の夏をすごしてきて、数えきれないほど死の門に入ったり出たりしてきたのであるが、彼は病苦とはどんなものか知らなかった。


「マラリヤの蚊でさえ、朱将軍には歯がたたなかったというのは、いったいどういうわけですか?」と、私はかつてネルソン・フー博士にきいてみたことがある。

博士はあっけにとられて、首をふりながらこう答えた。


「だれもわかりませんよ。 
あの人は生まれつき、まったく頑強にできているんですよ。
おぼえてますが、彼は本綿の布を1枚もっていて、夜寝るときは、それをかぶるだけです。蚊帳なんかぜんぜんもっていません。
私はときどき彼に会ったのですが、ちょっと話をするひまがあると、私がどうしてクリスチャンになったのか、基督教とはどういうものなのか、ということをさかんに知りたがっていた。
あの人は何でも興味をもっています。
私の好みからいうと、彼はすこし荒削りですが、彼のユーモアのセンスは農民や兵士たちに大うけですよ。
そして、いつでも、楽観的でした。
もちろん、このことが彼がマラリヤにかからなかった理由の説明にはなりませんがね!」



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by far-east2040 | 2018-12-04 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編