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カテゴリ:第7巻「上杭の歌」改編( 44 )

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 1929年の華南の早春、東固台地に集結していたこの小さな紅軍は、農民たちから「貧乏人の軍隊」とよばれていたが、事実ほとんど軍隊とは思えないような格好をしていた。しかし、この軍隊こそ、20年後に、全中国に広く名を知られ、世界をふるい動かした、偉大な人民解放軍の萌芽であった。


 東固地方のゲリラ部隊を再編成して、軍の隊列に編入してから、紅軍の兵力はほぼ4千人前後になった。このうち3千人は、この山地のかくれ家に着いてわずかな休養をとってからちょうど8日目に、ふたたび作戦に出かけていった。そのほかのものは山地に残って、畑を耕し、東固要塞を守る任務についたのだが、このなかの3百人は、入院治療中のものや、まだ健康を回復していないために戦闘に参加できない朱毛軍の古参兵だった。


 作戦に出た3千人のうち、なんらかの近代的兵器をもっていたものは半分たらずで、そのほかは槍で武装していたにすぎなかった。ごく少数のものは、むかしの軍服のなれの果てというようなものを着ていたが、残りのものは、つぎはぎだらけのだぶだぶのズボンに、短い上衣、わらじに、へんてこな形をした種々様々な帽子という、極貧の中国人のいでたちだった。


 みなやせこけて、飢えていて、多くは15歳くらいから20歳前後の青年で、手は大きくて丈夫で、足の裏は皮があつく、かたくなっていた。彼らにとって人生とは、労苦と窮乏、不安と抑圧の連続以外のなにものでもなかった。たいていのものが文盲だった。すべてのものが、長いソーセージのような形をした、米を入れた袋を、肩からぐるりとかけて、反対側の腰のところで結んでいた。いまはこの袋には、2,3日分の米がたっぷり入っていたが、それからあとは、地主の倉庫から補給するか、敵の補給部隊からうばいとって満たす必要があった。


 彼らの第二の装備品目は、実包をいれる長い布製のベルトで、両肩から前と後ろへ十文字にかけて、腰の周りまでとどいていた。小銃を持っているもののベルトには、それぞれ、数発の弾薬が入っていたが、槍しかもっていないもののベルトは、空だった。出発前の最後の査問をおこなったとき、朱徳は、槍をもっている兵士たちにむかって、こういった……


 「諸君もすぐに、みな小銃をもてるようになるし、諸君の弾薬帯もすぐいっぱいになるだろう」



by far-east2040 | 2018-12-28 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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 朱徳も毛沢東も、あるいはほかのどの指揮者も、兵士たちと同じ格好をしていたので、まったく区別がつかなかった。1929年の夏、朱徳をうつした色あせた古い写真がある。一個中隊の兵隊が、輪になって地面に腰をおろし、膝のあいだに銃をおき、昂然と顔をあげて、朱徳の話を熱心にきいている。朱徳は輪のまん中に立っている。頭は丸坊主で、きれいにそりあげられている。服装といえば、半ズボンと、前にひらいた百姓の上着だけで、その下からはだかの肌がのぞいている。足も裸足で、わらじをはいている。いつもの癖で、両足を大きく開いて立ち、手を腰にあてて、顔にはユーモラスな表情を浮かべている。


 1929年の早春、東固台地でひらかれた、軍隊と農民とのお別れの大集会で朱徳が演説したときも、きっとこういう様子だったにちがいない。彼は、この山地要塞めがけて、北、西、南の三方から包囲してくる11個連隊の敵軍について話をした。その後数年間におそらく千回もかたったように、「われわれは、敵の内部の矛盾を利用し、多数を味方にひきいれ、少数に反対し、こうして敵をひとつひとつ粉砕してゆかなければならない」とかたったことだろう。


 事実、敵の陣営内に衝突と矛盾があることについては、多くの兆候があった。たとえば、だれでも知っているように、東固への東側の入口はまだまったく敵に包囲されていなかった。蒋介石は敵の広西の将軍と争うことで多忙をきわめていたが、福建軍の諸部隊にむかって、ただちに行動をおこして、東固山地の東側面を封鎖するように命令した。しかし、この命令は守られなかった。


 その理由を、朱将軍はこう説明している、「福建の諸部隊にすれば、郷里にのこって平和にくらし、税金を徴集したり、アヘンを売ったりしてもうけていたいからだ」と。朱将軍はこうもいった。蒋介石は、直系の精英部隊を紅軍との戦闘で消耗したくないので、第二級の地方軍に動員を命じたからでもある。そこで、紅軍は、これらの敵軍をこの山地からひきはなして、ひとつずつこれを撃破するために、いまや前進を開始した。



by far-east2040 | 2018-12-27 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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 疲労こんぱいの限界にたっしていた紅軍の将兵にとっては、この8日間というのは、休養するにしてはまったく問題にならない短い時間であった。けれども、東固についてちょうど8日目の晩、月が高く中空にさしかかった頃、朱徳と毛沢東は、3千の部隊をひきいて東側の斜面をくだり、ふたたび作戦を開始した。数の上ではるかに優秀な敵と戦う場合、紅軍は、そのときどきの情勢に応じて、彼らが独自に考え出した戦術を使っただけでなく、古い昔の中国軍や蒙古軍が使った戦術や、19世紀の太平天国の軍が使った戦術も利用したし、さらにまた、1925年から1927年の大革命で学んだ経験にもとづいて、日本の士官学校で教育された国民党軍の司令官たちを途方にくれさせた戦術などを、きわめて適格にもちいた。


 山のふもとに到着すると、迅速に行動できる、いくつかの小部隊を編成して、主力と反対側の方向にゆかせた。大きな町を攻撃するようなふりをして、敵軍を、自分の方にひきつけておいたうえで、とつぜん、村々のあいだに姿を消し、また突如として、ほかの町の前面に姿をあらわした。そのあいだに、朱徳と毛沢東は、村々から地主の民団を遠くに追っぱらい、人民を蜂起させ、これを武装させ、幹部を後にのこして、やりかけた仕事をつづけさせた。


 まもなく、敵軍は、神出鬼没の紅軍を追いかけて、江西南部じゅうをさわぎたてながら、かけまわっていた。紅軍は、農民に案内されて、夜間、敵に奇襲をかけ、あっという間に、敵の補給部隊に猛攻をくわえて、補給物資をうばいとり、たちまち姿を消し、そのすぐあとで、数マイルはなれたさきにふたたび姿をあらわす、というありさまだった。


 そこへ、革命の発展のうえで、ひとつの転換点となった、汀州の幸運がおとずれた。紅軍は、汀州をとる計画ではなかった。紅軍は、彼らをめがけてむらがってくる、数のうえで優勢な敵からのがれて、24日間行軍したのち、江西―福建の省境を南北に走る山脈のうえで露営した。そこは、福建省南部の汀州という城壁をめぐらした町から、ほんのすこし北であった。



by far-east2040 | 2018-12-26 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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 汀州は、もと匪賊の頭目、クオ・ファン・ミンに統治されていた。彼は、匪賊として成功し、大地主になり、国民党の将軍になった男である。クオの部隊は、国民党軍に編入されてはいるが、その大半が職業的匪賊であり、アヘン吸引者であった。彼らを、汀州の城壁から外へおびきだすことができるならば、かならずうち取ることができるだろう。だが、それは、彼らの敵が少数で、貧弱な武器しか持っていないことを、彼らが確信したときでないと、不可能なことはいうまでもない。


 クオ・ファン・ミンの部隊がくるとすれば、道は一本しかない。それは、汀州から北にむかう細道で、深い急流をいだいた、せまい渓谷に沿っている。紅軍は、この谷を見おろす、山なみの上に露営していた。紅軍は、数人の農民の案内人を、汀州の町に送り、「紅匪」が、町から石をなげればとどくくらい近いところに露営しており、武器はほんのわずかしかなく、弾薬はからになっていて、銃をまくらにねむって、夜が明けるのを待っている、という情報を広げさせた。


 翌日の昼少し前に、2個連隊の敵軍が、谷底を通る細い道を一列縦隊になって、進軍してきた。敵の司令官は、4人の人夫にかつがせた椅子かごに載っている、と伝令が報告してきたとき、朱将軍は、会心の笑みをもらして、「それは、おそらく、クオ将軍が、手柄をたてようと思って、みずから、出かけてきたにちがいない」といった。朱徳と毛沢東が、待ち構えていた地点に敵軍がさしかかったとき、紅軍の前哨は、あてずっぽうに数発のたまをうっておいて、あたかも、恐慌状態におちいったかのように大さわぎしながら、山の斜面を逃げのぼった。


 「わが軍の前哨は、発砲しておいて、山のなかへ、敵軍をさそいこもうとしているのだな」と朱将軍は推測した。敵軍は、ただちに追跡をはじめ、あえぎ、汗をかきながら、高く高くとよじのぼってきた。そして、まったく抵抗にも直面しないので、しだいに大胆になってきた。

紅軍は、ついに、隠れていた場所からいっきょにどっとおそいかかり、敵軍を恐慌状態におとしいれ、山の斜面をめちゃくちゃに追いおとしながら、追跡した。谷底の小道で、若干、戦闘をまじえたが、敵軍の残りは、すでに川にぶつかって、身動きができなくなり、全員武装解除された。



by far-east2040 | 2018-12-25 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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 この最後の戦闘のまっただ中に、ひとりの哨兵が、朱将軍の司令部にかけこんできて、大声で報告した――


 「立派な軍服を着て、贅沢品を身につけた太った大男が、小舟で川をわたって、逃げようとしましたが、殺されました!」


 太った大男とは、まさしくクオ・ファン・ミン将軍であった。「ぜいたく品」というのは、大きな金時計と金ぐさりに、太った指にはめていた、たくさんの指輪のことであった。


 夜に入ってから、紅軍は汀州を占領し、その城壁のなかにいた敵軍を武装解除した。翌朝の夜明けまでには、この城壁にかこまれた町全体と、その周辺50マイル(80キロ)以内の地域に、支配権を確立した。そして、いつものように、毛沢東は、休むひまなく活動し、土地革命がはじまって以来、ずっとやってきたとおりに、人民の諸組織を復活させ、人民代表会議(ソビエト)を組織し始めた。汀州は、こと地方全体の中心地であった。いく人かの地主はつかまえられたが、ほかの地主は、南の方の大きな城市、上杭に逃げていった。村や町の委員会は、すでに土地を分配した。


 朱徳は――3,4時間たらずの睡眠をとるだけで、ぶっとおしで、活動することができたのだが――彼のなすべき仕事をした。捕虜になった敵兵――大多数は、アヘンの吸引者や、昔からの職業的匪賊であった――をしらべて、よりわけ、不適格者をのぞいた結果、朱徳は、若い農民義勇兵千人を得ることができた。さらにまもなく、朱徳と彼の幕僚は、そのほか2千人の農民を組織して、農民パルチザンを編成し、青年をあつめて、赤衛隊もつくった。解放区のいたるところで、これら若い農民の分隊が、教練をし、リズムにあわせて行進するむつかしい技術をならっている光景を見ることができた。


 朱将軍の記憶のなかには、汀州でのさまざまな光景が、きざみこまれていたが、そのうち、彼が話してくれたのは、とくに次の3つだった。1つ目は、クオ将軍の死体だった。そのまわりには、農民たちは彼らの敵がほんとうに死んだことを、自分自身に納得させるために、大勢が見物にあつまっていた。そして、農民たちは、朱徳が演説するのをじっとみつめながら、きいていた。――「そこにころがっとるのは、世界で一番の大悪党だ!」



by far-east2040 | 2018-12-24 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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 2つ目として、朱徳は小さい日本製の兵器工場のことも思い出した。この工場は、クオ将軍の弾薬の大部分を補給していた。この作戦で鹵獲(ろかく)した兵器のうち、2千丁の小銃と「数十丁の機関銃」は、すべて新品で、これまた日本製であった。


 しかし、なによりも、近代的なミシン――日本製――をそなえた工場があった。この工場は、2つの兵器工場と同じく、クオ将軍が所有していて、彼の部隊の軍服を製造していた。これらの工場の労働者は、これまで、1日に20時間も働いていた。しかし、いまや、彼らは、自分たちの労働組合を組織し、1日2交替の8時間労働制を確立し、紅軍の軍服を製造しはじめた。


 朱将軍が、これらのミシンについて話すときは、本当に声までやさしくうるんだ。ミシンは、「われわれにとっては、大へんなもの」であった、といった。「というのは、それまで、われわれが着ていた、衣類はぜんぶ、手で仕立てていたからだ」


 「しかし、われわれは、いまや、はじめて紅軍の制服をもつようになった」と彼は、古い記憶をたどりながら、ちょっともの悲しげに微笑していった。「色は灰色がかった青で、ズボンには、すね当てがついていて、帽子には、赤い星章がついていた。外国の軍服に比べれば、もちろん、貧弱なものだが、われわれにとっては、実に立派なものに見えた。わが軍のなかには、小さなグループをつくって、工場を見に行ったものがいる。彼らは、仕立て職人がミシンを使う様子を、つっ立ったまま、だまってじっとみつめたものだ。ずっと後になって、われわれは、汀州を撤退しなければならなくなったが、兵器工場と制服工場の労働者たちは、われわれについてきた。彼らは、自分たちで機械を運搬し、われわれがゆく先々で、働きつづけた。

ミシンは、1934年から1935年の長征のときにも、いっしょに持っていった。この行軍のあいだも、職人たちは、たびたび野外で仕事をしたものだ。彼らは、今もわが軍といっしょにおり、当時の機械をそのままもっている」


 朱将軍にいわれて、私は、1937年1月に延安で建設された、この制服工場を見にいった。日本製のマークをつけたミシンが、まだ、そこにならんでいた。そして、今では中年になった、仕立て職人たちは、やせて、色の黒い、まじめな人びとで、ちょっと訪問者の方をながめただけで、すぐに仕事に没頭した。



by far-east2040 | 2018-12-23 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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 汀州は、あきらかに、中国革命史上の転換点であった。上海にあった共産党中央委員会からの使者が、国内や国際情勢に関する報告書と別の種類の重要書類を持ってやってきたのは、まさに、この汀州の町であり、占領から2,3日あとのことだった。これらの文書のなかには、共産党第6回大会の報告と決議があった。この第6回大会は、中国国内のテロのため、1928年の夏、モスクワで開かれていた。またこれらの文書のなかには、コミンテルンの諸決定もはいっていた。コミンテルンの会議は、第6回大会のすこしあとに開かれ、同じ結論に到達していた。朱徳と毛沢東に指導された軍隊が、彼らの党の中央委員会と接触したのは、この2年間にこれがはじめてだった。朱徳と毛沢東たちは、彼ら独自の道をすすみ、必要性と確信にもとづいて、行動していた。


 この上海からの使者がついて、わずか数時間後に、一人の農民が朱徳の司令部に入ってきた。彼は上着をひらいて、裏地のはしのあいだから、数行の文句を書いた布切れをとり出した。その書きものには、彭徳懐の名が署名してあった。彭は、朱徳と毛沢東が、1929年1月、井岡山の山岳要塞をとりまいた敵の封鎖部隊をうち破って出たとき、井岡山に残して指揮をまかせた、若い司令だ。それからあと、どういうことがおこったのか、朱徳も毛沢東も知らなかったが、彭の手紙には、現在彼が瑞金にいて、朱徳と毛沢東がこちらに来るか、それとも彼が汀州にいった方がよいか、知らせてほしいと書いてあった。瑞金は、江西南部の小さな県城で、汀州から西へほぼ2,3日の行程であった。


 多数の軍事および政治代表と、護衛隊一個大隊をひきつれ、さらに上海からの使者も同行させ、そのもってきた文書もたずえさえて、朱徳と毛沢東はただちに瑞金へ向かって出発した。瑞金で、この不屈の厳格な男、彭徳懐は彼らにその後の物語をした――





by far-east2040 | 2018-12-22 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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 1月のはじめに、朱徳と毛沢東が井岡山を出発してから、敵は、この要塞への封鎖を圧縮してきただけでなく、最後には奇襲をかけてきた。一人の敵兵がえらばれて、腰のまわりに綱を結んで、絶壁を正面からよじのぼってきた。彼は頂上に達し、つぎつぎとほかの兵士を引っぱりあげた。彼らは、人目につかない、狭い山道に立っていた紅軍の歩哨を殺した。数千の敵軍が、どっとこの山道を登ってきて、包囲されていた革命軍におそいかかった。その結果、約6千人の革命軍は、病院や兵舎で徐々に餓死していった。


 彭徳懐は敵軍を押し返して、できるだけ多くの病人や負傷兵を森の中にかくす時をかせごうとつとめた。はって逃げたものも少しはあったが、やがて狩り出されて、殺されてしまった。そのほかのものは、寝床に横たわったまま切り殺された。兵舎と病院は焼かれて灰燼に帰した。井岡山のすべての家や建物はすべて焼きつくされ、防衛施設は爆破された。


 身の毛のよだつようなこの大虐殺のあいだじゅう、雪がふりつづけ、寒風が悲しみの歌を泣きさけびつづけていた。彭徳懐は、わずか7百人ばかりになった生きのこりをあつめ、これをひきいて、かつて朱徳と毛沢東が通った同じ道を、岩山をわたり、石ころだらけの原野をこえて、進んでいった。部隊は、この年のはじめに井岡山を出た朱徳・毛沢東軍よりも、はるかに悪い条件におかれていたにもかかわらず、封鎖をやぶって、脱出したときには、もう敵に大打撃をあてはじめていた。紅軍は、ゆくさきざきで朱徳と毛沢東の行方をさがしたが、見つけることができなかった。あちらこちらで、朱毛軍が通り過ぎたという農民の噂はきいたが、それからさきの行方はふたたび見うしなわれた。ついに彭徳懐は、朱徳や毛沢東は殺されたのではないかと考えるようになり、単独で紅軍を建設し、大衆革命運動を組織する活動にとりかかった。多くの農民が、彼のもとに集まり、この瑞金にきた現在までに、ほぼ千5百人の勢力に達するにいたった。


 汀州が紅軍の手におちたといううわさをきいたときには、彭徳懐は江西省の西部にいた。彼はただちに方向をかえ、道を東にとって進撃をつづけ、瑞金守備隊を撃滅したのち、ここを占領し、農民の組織と武装をはじめた。


 朱徳と毛沢東が同志たちのもとに着いてから、三日三晩続けられた瑞金会議で、彭徳懐がはなした物語は、以上のようなものだった。上海の使者がもってきた報告と諸決定も研究し、討議された。しかし、朱徳は、この会議の模様を、つぎのような簡潔で厳格な言葉でかたづけてしまった。――「われわれは、この諸決定を承認し、ただちに、それを実行にうつしはじめた」



by far-east2040 | 2018-12-21 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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 外界との通信連絡が確立されたので、朱徳と同志たちは、もはや自分たちは暗闇の中で行動しているのではないと感じるようになった。薄いライスペーパーに、顕微鏡で見ないとわからないような細字で書かれた、上海からの報告書は、海外においても、帝国主義諸国のあいだに衝突と矛盾があるし、中国においても、南京の蒋介石独裁政権――そのすべての要所要所には、現在、外国人が顧問としてすわっている――の支配をめぐって、帝国主義諸国とのあいだに、衝突と矛盾があることを伝えていた。インドから転任してきたイギリスの高官が、外交部の「顧問」になっていたし、多くのアメリカ人が財政や交通関係の要職をしめていた。また、イギリス、アメリカ、ベルギー、フランスの金融業者たちは、中国の工業や、たとえば、江西省南部の大余にある有名なタングステン鉱山を買収するか、合弁会社にすることを計画していた。中国にいる外国人たちも、武器弾薬を蒋介石に売ったり、また蒋介石とつながっているか、あるいは争っている新旧の軍閥に売りつけたりして、もうけがつづくという運にめぐまれていた。報告書は、中国の新旧軍閥のあいだの衝突についても、詳細に分析していた。


 こうして中国が掠奪され、別々の外国の後援者に支持された、蒋介石と広西の将軍が中国の支配権をあらそってたたかっているあいだに、国の多くの地方で、革命闘争が燃え上がりはじめていた。山東省のような遠い北の方でも、抵抗の島々が建設された。江西省の北東部では、学校教育を受けた農民、方志敏が農民軍をつくりあげていたし、南の方の広東省の東江地方では、彭湃が今なおパルチザンを指導していた。また湖南省西部の山岳地帯では、「中国のパンチョ・ヴィリャ」賀竜が、農民軍を編成していた。(”Pancho”とはメキシコの民族独立運動の闘士Francisco Villa のニックネームだ。彼は1877年貧農の子として生まれ、ディアスの先制政権に反対し、またアメリカの武力干渉に対してたたかったが、1923年同志3人と共に暗殺された。)


 南の方の広西省の西部と南部では、さらに大きな革命的暴動が起こっていた。広西守備隊は反乱を起こし、広大なパルチザン区域をつくった。この地方では、人民がみすから村や町の委員会をつくって、支配権をにぎった。しかし1年後には、蒋介石軍のために大敗北をこうむった広西の将軍が、郷里にかえってきた。インドシナのフランス領から補給を受けていた広西軍閥の諸部隊は、銃火と剣でパルチザン区域を掃討した。これら6千の広西革命軍は、戦いながら血路をひらき、山々を越えて、江西南部へやってきた。朱徳はこれらの部隊で紅軍第六軍団を編成した。



by far-east2040 | 2018-12-20 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編

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 このようなありし日の思い出を回想していた朱将軍は、「トロッキストと、右翼日和見守護者の一味」の活動に関する上海報告書のひとつを思い出した。これらの、かつての共産党員たちは、――と彼はいった――、共産党、あるいは特に朱徳と毛沢東が、「民主主義革命を達成するために、工業都市にかえって、プロレタリアートと都市の小ブルジョア階級との闘争を指導するかわりに、内陸の孤立した山のなかに退却して、軍事的冒険と匪賊行為をやっている」と非難攻撃していた。


 「民主主義と人権に関する、これらの空虚な美辞麗句の背後には、革命に対する裏切りがひそんでいたのだ!」と、鼻息あらく朱将軍はいった。「中国のような半封建的、半植民地国家においては、人民にとって、もっとも単純な民主主義の権利でさえ、手に銃をとってたたかいとらねばならなかった。上海や漢口、広東、その他の都市では、演説、新聞、集会の自由、組織の権利を要求したというだけの理由で、また、逮捕されたとき、法廷で自分を弁護する権利を要求したというだけの理由で、労働者やインテリが路上で首をきられていた。
『帝国主義』ということばを使ったものは、だれであろうと、ただそれだけで共産党員だという烙印をおされ、つかまれば殺された。8時間労働制や、賃金のひきあげ、児童労働の禁止などを要求したぐらいでも、頭から共匪ときめつけられたし、労働組合の自由という思想も、もちろん同じ結果をまねいた。


 「毛沢東とわれわれ多くのものは、はじめから、中国の人民が民主主義の諸権利をかちとることができるのは、外国帝国主義の下僕である反革命勢力を、武力によって打倒したときだけだと考えていた。多くのものはこのことを理解しなかったし、理解しようともしなかった。しかし、地主の支配のもとに暮らしている、もっとも素朴な農民、あるいは、国内と外国の反動どものむちのもとで働いている、もっとも素朴な労働者は、このことをよく知っていた。毛沢東と私自身、さらにわれわれが指揮していた部隊はどうかといえば、――われわれがみな銃をすてて、国民党の首切り人のまえに、われわれの首をさしのべるなどという考えは、毛頭もっていなかった」



by far-east2040 | 2018-12-19 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編