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カテゴリ:第5巻「大革命について」改編( 30 )

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             馬上の蒋介石(『抗日解放の中国』より借用)


 1926年の7月中旬のある日、朱徳は上海の共同租界の街路を用心深く歩いていた。ゆき先は、租界に接する閘北という中国人街で、そこでは、全中国の労働組合と共産党と国民党が、地下の本部を維持していた。彼は、すでに一度、共産党の書記長陳独秀と会見していて、そのとき陳は、彼に対して、軍事情報の責任者である国民党員および共産党員と協議をしてくれるように頼んだ。南方の革命軍はすでに広東を出発して北伐を開始していて、朱徳の長年にわたる軍人関係は、何かの役にたつだろう。


 街をゆきながら、この4年間に中国におこった大変化について、身にしみて感じた。かつて国民党員を軽蔑していた外国人は、いまは恐怖と憎悪をいだいている。彼らは、広東の革命政府の軍を「過激派の暴徒」「無政府的な乱賊」などとよんだ。また、北伐軍の司令官蒋介石を、「過激派」でありロシア人軍事顧問団の傀儡(かいらい)であるといった。共同租界とフランス租界で発行される華字新聞は、きびしい検閲を受け、大衆の集会どころか小集会まで禁止され、中国人の家は踏み込まれ、人びとは監獄に引かれていった。



 彼は、街を歩くとき、イギリス人警察官が、電柱の国民党のビラをはがしながらののしっているのをみて、にやりと笑った。さらにゆくと、ほかの警察官が、中国人警官に、刷毛とペンキ入りのバケツを持たせて、壁の国民党のスローガンを白く塗りつぶさせていた。毎日、スローガンは洗いおとすか塗りたくられるが、毎朝、全市の壁には新しい字がおどっていた。いや、スローガンは、路地の地面にも、商館の窓にも、外人の自動車にすらも、チョークで書かれた。

 4年前に、彼が中国を去ったころには、中国人は白人の優越を容認して、貧しいものたちは、外人に舗道から蹴飛ばされながら、ぺこぺこしていた。いま、中国人は肩をはって堂々と歩き、外人の顔を正面から見すえていた。まだ労働組合は非合法だったけれど、工場労働者は組織をもち、賃金はあがっていた。その一銭の賃上げにも、多くの男女や少年の生命の犠牲がはらわれていた。朱徳が国を去ったのちにも、国内の多くの都市で、中国人は外国人の手にかかってのたれ死にしたが、そのしかばねをこえて、新しい中国人がたちあがっていた。そして、今こそ、軍閥と外国人支配の最後の闘争段階に入ったと思われた。





by far-east2040 | 2018-08-22 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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               張作霖(Wikiより借用)


 閘北の目的地につくと、朱徳は一軒の家の表口から入って、裏口に通りぬけ、さらにもう一軒、もう一軒、と同じことをくりかえし、最後に、一団の人々が待つ部屋に入る。やがてそこを辞して、共同租界に帰り、あたえられた任務にかかる。むかしの雲南軍時代の友人のあるものは、いまも上海にいた。彼は、その連中をさがしだして軍閥の軍隊についての情報を集めにかかった。あるものは、彼を南京の軍閥孫伝芳の参謀たちに紹介してくれた。彼は何時間も彼らとはなした。その士官たちは、相手は仲間うちの軍人だと思うと、口が軽くなった。イギリスは、孫将軍をたすけ、弾薬や金をあたえて、食うためにだけ戦う傭兵部隊を組織させた。


 当時の軍事情勢は、朱徳の説明によれば、およそ次のようなものだった。


 北京政府は、いまや満州軍閥の張作霖権力下にあった。張は、かつて匪賊だったが、日本帝国主義の援助によって、郷土満州の主人になっていた。


 北方の山東省は、「やはり日本の走狗」の張宗昌将軍の支配下にあったが、彼は、その巨体と蛮行と、富と妾と、白系ロシア人部隊をもつことで有名だった。張は、寝床で妾と寝たままで、また膝に妾をのせたままで、外国の外交官と面接した。「反徒殺し」の張は、さまざまな国からあつめた50人の妾を自慢にしていた。じっさい彼は、あるとき、北京の巨大な洋式ホテルの屋上庭園に、一列縦隊になった妾どもをひきつれて入ってきたことがあった。


 西北の山西省は、閻錫山将軍によって、中世の小王国さながらに支配されていたが、彼は、いつでも、北京をおさえる強い軍閥と同盟することにしていた。自分が十分強くなったと思ったら、閻はみずからを首都の主人になろうとするだろう。


 イギリスの権益の勢力範囲である揚子江流域は、ともにイギリスに指示される二人の軍閥が支配していた。下流の、上海と南京をふくみ、江岸から南方にかけての地方は、孫伝芳将軍の支配下にあり、西方の四川にかけての地方は、呉佩孚軍の縄張りであり、呉は、北京政府首脳の地位をうしなったあとも、新支配者たちとの同盟をつづけていたのである。呉の子分の唐生智将軍は、南の湖南省の主になっていたが、国民党と協定を結びつつあった。呉は、すべての軍閥の中の強者だった。彼の本拠は、武漢――漢口武昌漢陽――の三市だった。したがって彼は、漢陽にある中国最大の造兵廠を手におさめていた。



by far-east2040 | 2018-08-21 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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              呉佩孚(Wikiより借用)


 西の四川省は、いまも、劉湘の二人の軍閥がおさえていたが、楊は、彼の同盟者によって重慶から追いはらわれ、1万人ほどの軍をひきいて万県に司令部をおいて、東四川一帯を食い物にしていた。昔の同盟者の手で弱体化されたので、揚子江流域の呉佩孚(ごはいふ)将軍の庇護をもとめていた。


 楊森将軍は、かつて、旧雲南革命軍での朱徳の僚友だったが、その後袂をわけて、軍閥商売をはじめていた。朱徳がヨーロッパに向かうまえ、楊は彼に「帰国すればいつでも参謀の席が待っていると思ってくれ」といった。いま、朱と同志は、朱と楊の旧交をとりあげて、朱のみが、楊が国民革命軍を相手に戦うことを止めさせることができるという結論に達した。


 7月末までに、朱は上海と南京での工作をおえて、四川に向かう船に乗った。途中漢口でおりて、ひとつの仕事をはたし、それからまた旅をつづけるということになった。


 8月の初めに漢口に上陸してみると、市には戒厳令がしかれ呉佩孚の軍隊が昼も夜も街を巡回し、時間ごとに料亭や茶館を捜索して、逃げたりこばんだりするものを片っぱしから射っていた。揚子江上のイギリスの軍艦からは陸戦隊が上陸して租界をまもり、出入りするすべての中国人の身体検査をしていた。恐怖が市をおおい、憎悪は厚く重なり、重い層になっていた。


 朱は法律を超越する富豪をよそおって、傲然たる自信の態度を見せながら、街を闊歩したので、捜索も受けず、中国の銀行に入って、湖北の労働者を指導する地区共産党書記に置き手紙をした。あくる日、彼は、労働運動指導者そのほか武漢で軍事や労働運動の責任をとっていた国共両党の党員たちと会った。彼は、彼らに危険な命令を持ってきていた。それは「南方の革命軍が接近してきたならば、ゼネストを起こし、交通を麻痺させ、漢陽造兵廠の労働者たちは、造兵廠を占拠して革命軍を待て」という内容であった。



by far-east2040 | 2018-08-20 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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              楊森(Wikiより借用)


 漢口での使命もやりとげたので、朱将軍はふたたび船に乗り、数日後には東四川の万県上陸した。楊森将軍の司令部にいき、国民党代表としての信任状を楊に提出した。


 「楊は、私を、友人で旧友であるかのように迎えた」と朱将軍はにがい表情をしていった。

「私はどんな幻想も抱いていなかった。相手は軍閥の例にもれず、いちばん多くの金を出す側にくっつく気であり、私が金を持ってきたと思っていたのだ。私を見るやいなや、彼は、自分の軍隊を維持する金が足りなくて困っている、とうったえはじめた。だが、彼の軍隊というのは、東四川の各地に駐屯していて、人頭税でしぼったり、彼の縄張りに入ってくるあらゆる貨物にかける関税でしぼったりしているのだ。それは、当時の軍閥なら、だれでもしたことで、だから、楊はたっぷり金をもうけていた。そこで、揚子江を航行するイギリスやその他の外国船は、治外法権があると主張したので、中国の商人は、関税を避けるために、そういう外国船を利用しはじめた。だが、楊の税関吏は、そういう船に対しても、中国人の積荷には取り調べることを遠慮はしなかった」


 楊将軍は、朱徳にむかって、くりかえし何度も「自分は心の底から国民党の義挙に加わりたい」とくどいほど表明したが、「とにかく兵隊に払う給金がほしい」という。「国民党は、いくら出すつもりか? 何しろ……」と楊はあつかましくもいった。「モスクワは、国民党運動に、たっぷり金を注ぎ込んでいるんだろ」と。


 朱が「金は持ってきてないし、モスクワも国民党運動に金を注ぎこんではいない」とはっきりいっても、楊は、朱が値切っているのだろう、と思っていた。


「ぼくが君のためにいえることは、われわれの側が勝つ、ということであって、もし君が、われわれといっしょにならずに、われわれを相手にたたかうとすれば、君の将来の見込みはない」と朱は相手につげた。



by far-east2040 | 2018-08-19 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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              馮玉祥(Wikiより借用)


 楊は、朱の言葉が心にしみてこなかったのか、しばらく、どっちの側が勝つのかと、形勢の観察をつづけた。くる日もくる日も、朱は楊に、国民党の運動の意味についてかたり、同時に、革命軍の勝報もながれこんできた。北伐軍は、何百万人の農民と労働者の蜂起によって打ちひらかれた道を、なだれ進んだ。呉の子分の湖南軍唐生智は、無駄な抵抗を少しやってみたのちに、国民党に寝返った。北方では、2年前に国民党に入っていた馮玉祥将軍が「国民軍」をひきいて、華北の軍閥どもとたたかっていた。馮将軍は、以前からキリスト教徒になっていたので、宣教師たちは彼を誇りとして「クリスチャン将軍」という美名で呼んでいた。しかしが国民党に入ったのを見ると、宣教師その他の外人は、彼をいやしめて「いわゆるクリスチャン将軍」というようになった。


 楊森は、あちこちの地方軍閥が、落胆して、脱落してゆくのを見たが、それよりも彼を不安にしたのは、中国南部の人民大衆の動きだった。南方では、農民組合が野火のようにひろがり、はだしの、大きなよごれた手の農民は、地主たちを大都市に追いこみ、そこで労働者が彼らをたたき、揚子江のあちらこちらへと追いまくった。そういう光景は、大地主でもあった軍閥を、恐怖につきおとすのに十分だった。


 しかも、楊森は同盟者呉佩孚を支援する軍を送ることをしなかった。9月はじめには、武漢でのゼネストの報が入ってきた。労働者は、立ちあがって戦い、たおれたが、革命軍は揚子江をわたって、漢口と漢陽を占領し、大城壁をめぐらした武昌を包囲し、すぐに攻落した。第四国民軍は、「鉄軍」の名で知られていたが、武漢の城壁そのほか、華南のあらゆる都市の城壁にその名をしるし、指揮官の葉挺は、漢口の守備隊長となって、労働者を武装させていた。「鉄軍」の、上下にわたるほかの指揮官たちの名も、労働者の口々でささやかれるようになっていった。彼らの名は、賀竜、林彪、陳毅、聶栄臻(じょうえいしん)などだったが、一方、毛沢東や周恩来という政治指導者の名もあらわれてきつつあった。



by far-east2040 | 2018-08-18 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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             楊森将軍と妻妾たち(ネットより借用)



 「鉄軍」が武漢を奪取したのちにも、
楊森は狐疑逡巡していたが、まもなく朱は、その理由がわかった。湖南や武漢三市から逃れてきた地主や産業家が、彼の司令部に来ては、北伐軍の内部は大きく二つに割れているといううわさを伝えた。彼らは楊に、北伐軍の士官の多くは、地主や、地主の子弟か産業家の一族のものである、といった。北伐軍の士官になったのは、靴もはかず読み書きもできない愚純な百姓が、自分たちの土地やその他の財産を没収するのを助けるためではなかった。ところが、各地に農民組合が生まれて、村々を占拠し、あるものは土地を没収して分配すらしていた。国民党政府は、そのようなやり方に反対だったが、農民はすこしも耳をかさなかった。北伐軍の総司令官蒋介石は、農民組合から共産党員と国民党急進分子を追い出し、また軍内の政治部を弾圧しようとしていた。軍内の「政治工作者」は、ロシアから模倣してとり入れたものであり、蒋たちの頭痛の種であった。彼らは、兵士たちにいろいろなことを吹きこみ、その狂熱をあおり、村々に入り込んでは農民組合の組織を助けていた。彼らの声は、いたるところに響きわたって、人民をたちあがらせ、社会の秩序をひっくりかえした。そのあげくには、兵士や農民や労働者は、目上の人たちと平等であって、あらゆる種類の「権利」をもつと思いあがるにいたった。


 いや、さらにけしからんことは、多くの「政治工作者」は既婚未婚の女であって、髪を短く切り、男のような制服をきていた。良家の出の女学生が、身分卑しき兵士といっしょに行進して過激思想を鼓吹するという奇怪な光景が、かつて中国史上にあっただろうか。


 だが、こういうことは一切、まもなく終焉するだろう。国民軍は内紛のためにばらばらになってはいるが、蒋介石自身は、これらすべての崩壊の責任はソ連人顧問にあるとして、ソ連との同盟を断とうとしていた。孫逸仙はかつて、三大政策を採用して、共産党との協力、ソ連との同盟、労働者農民運動を唱道した。しかし――地主らの楊への報告によれば、国民党のもっとも「健全」な指導者たちは、そういう政策に反対だから、それらが廃棄されるのは、時間の問題であった。そして、あらゆる革命運動もしゅんと消えて、法と秩序は回復するだろう。



by far-east2040 | 2018-08-17 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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            イギリス砲艦(Wikiより借用)


 「ちょうどこの危機の時に」と朱将軍はつづけて、「一隻のイギリス商船が揚子江をさかのぼってきて、万県の前面に碇泊したので、慣例によって、楊森将軍の税官吏は、しらべるために向かった。その税関の小艇が近づくと、銃火があられのようにふりそそいできた。小艇は沈没して、全員が死んだ」


 楊森は怒って、軍隊に、その商船を捕獲することを命じ、かなりの戦いで双方に相当な戦死者を出したのちに、命令は遂行された。この事件がおこってからのちは、朱徳と楊森は腕を組んで立つことになり、朱は楊に勧告し、楊はそれをききいれた。


 事件解決のための交渉がはじまり、進行していたときに、二隻のイギリス砲艦が揚子江をさかのぼってきて、力によって船を奪回しようした。抵抗にあうと、二隻は砲を万県に向けて、2時間のあいだ休止なく打ちこんだ。揚森の江岸砲台も発砲したが、2時間後、5千人の中国人が死に、万県は猛火に包まれていた。イギリス軍はその船を奪い返し、中国軍を江に追い落としてから、引き上げた。


 「万県事件」の報せは全中国に燃えうつった。国民党政府は、イギリスの新たな暴行に対して激烈な弾劾声明を発表し、あらゆる種類の民間組織もそれにならい、共産党はイギリスの犯罪行為をならべ立てた宣言を出した。


 朱将軍は、長年にわたって彼が収集保存していた歴史的文献のとじ込みのなかから、共産党の宣言を印刷した、しわだらけの一枚の紙を取り出したが、それには次のような言葉があった。


 「英国は、以前から多くの挑発行為をあえてしてきた。上海、漢口および広東の殺戮のみではなく、北伐の当初において、英軍隊は広西省梧州に上陸し、対英不買運動中の中国人を逮捕し……北伐軍が武漢に到達するや、その砲艦はわが軍を砲撃することによって、あからさまに呉佩孚を援助し……9月4日、その砲艦は広東前面に入りきって、ピケの中国人を捕らえ、私有船舶を接収し、暴力をもってその商貨を市中に送りこみ……万県事件は、英国の中国干渉の4回目の行為である……



by far-east2040 | 2018-08-16 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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             孫伝芳(Wikiより借用)


 英帝国主義は、北伐軍の後方をかく乱するためにあらゆる術策を弄したのみならず、敗北する呉佩孚の援助のためには手段をえらばなかった。また彼らは、孫伝芳を支援して、現金1千万ドルを与え、また北方軍閥の力を維持し国内の秩序をみだすため、2千万個の弾薬を送った。このように孫将軍を支援する一方、彼らは、中国に対する国際武力干渉を提議しつつある。英国地中海艦隊は、すでに広東に到着した」


 宣言は、中国人への「中国におけるすべての英国経済体制を徹底的に破砕せよ」そして、北伐に対して協力一致してゆるぎなき支持をあたえよ、という呼びかけでおわっていた。


 万県事件の、唯一の「積極的効果」は、楊将軍を革命陣営に追いこんだとことだ、と朱将軍はいった。火災が収まり死者が葬られたのち、楊は国民党への協力を誓う使節として、朱を漢口におくった。


 漢口についた朱が見たものは、揚子江上の英艦の巨大な姿であり、砲列は威嚇するかのように武漢三市に向けて照準をさだめていた。一方で、英租界のバリケードの中からは、水兵が、苦々しげに、中国人のピケや「万県の報復をしろ! 英貨不買! 強奪されし租界の奪回! 英帝国主義打倒!」などと叫びながら行進する学生や労働者の隊列をにらんでいた。漢口は激情が煮えかえる大釜だった。希望と憤怒と決意が、憎悪によって点火され、人は恐れることを知らなかった。千の労働者が武装して秩序維持の任にあたり、何千の非武装のものは英貨不買の強行運動をした。たえず示威がおこなわれ、労働者や学生の長い列が旗を高くふりかざし、スローガンを叫んで行進した。


 朱将軍が、彼らを見つめ、その鬱積した空気を見たとき、思いうかべたのは、かつての1911年の革命の時――世界はいま若々しく生まれたと感じられ、中国の青年は山を動かし河の流れを変えることもできると信じた時のことであった。だが、この革命はあのときとちがう、と彼は反省した。というのは、労働者と農民が基盤となって支えていた。しかも、彼が武漢三鎮のあいだを往復し、流言飛語を耳にし、さまざまな報道をきき、新聞記事を見るとき、内面では、かつての裏切者たちの亡霊の影が浮かびあがってきて、彼を悩ました。むかしの軍閥が危険物だったことはまちがいないが、今は、革命の戦列そのものの中から、新しい危険が生まれつつあるのではないか。



by far-east2040 | 2018-08-15 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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             若き毛沢東(『抗日解放の中国』より借用)


 自分が農民出身だったので、彼が注目したのは農民運動だったが、それは中国南部に大洪水のようにひろがって、幼い労働運動とともに、国民軍の高級士官――彼らは、地主だったり、地主や商人の買弁の家族出身だった――を、恐怖におとしいれたのであった。


 朱将軍は、毛沢東が書いた、いくつかの農民運動についての論文を読んだことを記憶している。毛沢東は、まもなく、彼の「第二の自己」になり、それからの彼の生活は、毛の生活と、じつに密接に結び合うことになったので、人びとは、長い年月のあいだ、しばしばふたりを、「朱毛」という名のひとりの人物だと思いちがいしたことすらあった。


 この毛沢東という人物は、教育を受けた農民であり、1911年の革命には一兵卒としてたたかい、「五四運動」のときには、郷里の湖南省で、指導的なはたらきをし、その省で、はじめてのマルクス主義研究団体をつくり、やがて省の共産党のグループをつくった。そして、1921年7月1日に、中国共産党の創建大会には、代議員として出席した。この毛沢東という人は、ふしぎなほど学識があり、深い思索力をもっており、新聞雑誌の編集者、評論家、詩人であり、1925年には、彼の省で、最初の農民運動の地下組織の基礎をつくった。孫逸仙が広東政府を樹立したときには、それに協力して、最初の、農民運動講習所を開設し、国民党の執行委員会の一員にもえらばれた。


 孫逸仙が広東省に植えつけた農民運動は、となりの湖南省にあふれ出してゆき、そこでは、広東の同志からの刺激によって、農民組合および、農民自衛隊の形をとるまでになったが、地主階級と地方軍閥は、北伐の前後で、封建主義特有の蛮行で農民運動に戦いをいどんだ。しばしば激烈な戦闘をまじえて、無数の農民がたおれ、農民の組織者や指導者は、闇のうちに連れ去られたり、首をはねられたりして、地主たちは、いつも山地から匪賊をまねいて、闇夜に乗じて村を焼かせ、農民を殺させた。



by far-east2040 | 2018-08-14 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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 北伐軍が広東を出発して、湖南の平原に入ったとき、その勢いに応じて農民はたちあがって、地主の傭兵「民団」の武装を解除し、村々を占領して、地主どもを追っぱらった。国民党の、土地改革――小作料の軽減や高利の禁止など――の約束などは当てにしないで、多くの農民組合は、土地を没収して分配したが、それは、中国歴史上のすべての革命蜂起のときに、農民がしたことであった。朱将軍が武漢にきたころには、湖南省だけで2百万の農民が団結していた。家族を合わせたら、少なくとも1千万の農民、つまり省人口の半分ともいえた。


 この強大な蜂起についての毛沢東の諸論文を読んだとき、朱将軍は未来に危害がやってくる可能性があるとはっきり感じとった。この農民運動にも労働運動の場合と同じように、おそろしい反撃が、旧社会体制の勢力からだけでなく、革命軍の内部の、総司令官蒋介石をふくむ多くの高級士官からも加えられ、すでに多くの土地で、国民党右翼の指導者たちは、農民指導者たちを捕らえて、獄に投じていた。


 「鉄軍(第四国民軍)が武漢をとり、労働者がさらに前進の道を切りひらこうとたちあがったとき、ことは最後の岩頭にまできた。この時までには、およそ30万の産業労働者――つまり3市の労働者のほぼ半数が、すでに共産党によって労働組合に組織されていた。国民党は、いちかばちかのところに乗り上げていた。革命の勝利を可能にしたものは、労働者と農民の運動にほかならなかったが、それは同時に、国民党の指導権をあやうくするものであった。


 国民党の政府は、広東から漢口へと移りつつあった。政府をうごかしてゆく国民党中央委員会はすでに到着していて、主要人物たちは蒋介石と秘密裏に交渉していたが、蒋の主張は、大衆運動は、即刻に解消させないまでも、力を制限する必要はある、ということだった。



by far-east2040 | 2018-08-13 09:00 | 第5巻「大革命について」改編