カテゴリ:第4巻「探求」改編( 27 )

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朱将軍は、ヨーロッパに向けて出発する前にやろうと決めたことが3つあった。
その3つのことは、揚子江を上海へとくだっていくあいだに、思いついたのであるが、そういうふうに、彼は、生涯を通じて、あらかじめ十分に計画を練って、ことをおこなうという習慣をもっていた。


1つ目は、アヘンをやめて以来、彼を苦しめていた不眠症を治すために、上海のフランス病院に入る。
もうほとんどアヘンをほしがらないようにはなってはいたが、不眠症の辛さのために、麻薬への誘惑を感じることがあった。


2つ目は、沿海地方と華北をできるだけ見学する。
というのは、彼は、中国といっても極西と西南のほかは知らない田舎者だった。
南京、上海、北京などの大都市の名前は、彼の五体の中にきざみつけられていたが、実際はどんなところかいうことは、想像するしかなかった。
上海は帝国主義の極東における稜堡(りょうほう)ということは知ってはいたが、中国西部の人びとは、新しい科学によって生まれ、金のなる木が生えている市だ、といい伝えていた。


3つ目は、北京の新聞発行に従事している孫炳文をとおして、五四運動の指導者たちを紹介してもらい、孫が前年日本でともにはたらいた孫逸仙やその他の民族革命の指導者たちにも会いたいと思った。

そうした民族革命の指導者のなかで、彼が会いたかったのは、国立北京大学の教授であり、新文化運動の指導者であり、生まれたばかりの中国共産党の創建者であり書記長である陳独秀であった。


上海につくとただちに、朱将軍は人力車を急がせてフランス病院にゆき、自分はアヘンを吸う習慣はなおしたが、まだ夜間に眠ることができないことをいい、治療することができるだろうか、とたずねた。


朱将軍の諸計画に、フランスの影響が強かったことについては、15年後に生涯のことを私に語ったときでも、みずから気づいていないようだった。
彼は自分の金はパリの銀行に送り、上海に上陸すればフランス病院を目ざし、やがてフランス汽船会社にいって、9月はじめにマルセイユに向かうフランス船「アルジェ号」の3等切符2枚を予約する。
1枚は彼自身のもの、もう1枚は孫炳文のものであり、その件については、上海につく前から手紙を出していた。
孫からは予約をとってくれ、それから北京に来るようにと返事してきた。



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by far-east2040 | 2018-07-23 09:00 | 第4巻「探求」改編

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朱徳は病院に1週間入院して、退院すると、旧同盟会員で雲南から亡命してきていた友人のところにゆき、そこにさらに1週間いて、そのあいだに、夢みたいな話ばかりきかされていた、この市のあちこちを見物した。


入院中は、友人が本や新聞を持ってきたので、彼は予定計画を立てて読破していった。
国中に新しい風が吹きまきはじめ、彼が読んだ新聞は、新しい労働運動と、それをみちびく共産党のことでいっぱいだった。
それを読んだ朱徳は、新しい共産党に加入することに決めた。

党の理論がどういうものであるかについては、よくわかっていなかったが、ただ1つだけは明白だった。

外国の帝国主義者たちが、あらゆる悪口雑言をもって党を攻撃していた。
もしこの党が、中国の外敵によって脅威と見られているなら、まさにそれこそ朱徳の求める党だった。


共産党は、1921年7月1日、ちょうど彼が上海にくる1年前に創建されていた。
まだ小さくて弱かったが、五四運動の申し子であり、反封建、反軍閥、反帝国主義であった。

1922年の1月、朱徳と同志たちが雲南の山地を逃亡していたころ、英領香港の中国人船員たちは、賃金引き上げと地下海員組合を承認することを要求した。

英国人船員は組合をもっていて、賃金の大幅引き上げに成功していたところだったが、中国人はこの8年間に、生計費は2倍以上になっているにもかかわらず、すこしも賃金が上がっていなかった。


香港の英国人は、中国人のあらゆる要求をしりぞけて、要求した海員組合の指導者たちを捕らえて、投獄した。

この指導者たちは牢獄で体刑を加えられて、一人は殺された。

逮捕をのがれていた指導者蘇兆徴呼びかけに応じて、船員はひとりのこらずストライキをやり、24時間内に、大都市香港のすべての労働者は、白人や中国人の邸宅の使用人にいたるまでが罷業した。

イギリス勢力の自慢の拠点香港は、50日間、麻痺状態におちいった。

ストライキは、海員組合の承認と、少額の賃金引き上げと、逮捕され体刑を加えられたものへの謝罪ということでおわった。



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by far-east2040 | 2018-07-22 09:00 | 第4巻「探求」改編

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朱将軍が、中国全土を熱狂の火でつつんだ、中国人による外国の帝国主義に対する最初の勝利について語ったとき、声はふるえていた。

広東の孫逸仙政府はストライキ基金として20万ドルを送り、多くの中国人の将軍たちも巨額の金を出し、全国の労働者もわずかばかりの金をささげた。

ソ連の労働者たちは彼らのために金をあつめ、イギリス労働党は、下院においてこの香港罷業問題をとりあげた。


香港労働者の勝利は、中国人民と国家の解放運動における中国労働者階級による最初の烽火(ほうか)だった、と朱将軍は言明した。

あらゆる中国人労働者は、これによって火をつけられた。
このストライキ中には、京漢線の従業員も罷業した。
2日後にこの鉄路ストライキはおわり、1ヵ月につき1元の賃金引き上げと、労働組合運動の芽生えとしての労働者団体をもつ権利をみとめさせた。

鉄路ストライキの指導者と、香港ストライキの主要指導者のなかに共産党員がいた。


「インドそのほかの植民地国家でも同じように」と朱将軍はいった。
「わが中国の労働運動も、決して、単なる経済闘争だけに落ち込むことはしなかった。
もちろん、賃金引き上げ、時間短縮、労働者の人間的扱いなどのために闘いはしたが、同時に、出発点から政治的なものでもあった。
軍国主義と帝国主義に抵抗する道にすすんだ。

それも共産党によって指導されたからできたことだ」


朱徳が上海につく1ヵ月前、つまり1922年5月1日に、中国の労働運動の生みの親である鉄路労働者たちが、第1回の全国労働大会の呼びかけをした。
この大会は、秘密裏に上海でひらかれたのだが、委員会を選出して、ただちに全国の労働者の組織にとりかかるという仕事を託した。
歴史的声明も発表して、職業別組合に反対して産業別組合とすることを提唱し、そして、1日8時間労働、労働者の人権尊重と教育機会の付与、笞刑その他工場における労働者虐待の廃止を要求した。



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by far-east2040 | 2018-07-21 09:00 | 第4巻「探求」改編

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           外国人租界と中国人居住地の2つの上海(『抗日解放の中国』より借用)



外国人であれ中国人であれ、工場主や職場長たちは、手に鞭をもって工場内を歩きまわり、のろのろと働いているものや、機械相手の過労で居眠りしているものを見ると、容赦なくむちうった、という事実を朱将軍は強調した。
1927年ごろまで、労働者が殺された、という話も決してめずらしいことではなかった。
労働時間は、12時間から14時間、いやもっと長いこともあり、賃金といえば、この調子で2、3年もたてばほとんど死ぬだろうというようなものであり、宿舎は、くらく非衛生的な、兎小屋とでもいえるような長屋であり、さまざまな病気の巣だった。
労働者に対する保護法というものは、そのころはもちろん、いま朱将軍が私と語っている1937年にもなかった。


「上海の労働者だけから絞りとられて外国人や中国人のものになった莫大な富のために、どれほどの人間の生命が犠牲になったかを、計算してみたものはない」と朱将軍はいった。

「1937年の今日まで、上海では死体運搬車が毎日動きまわって、路上の死体をひろってゆく。
上海では、年々、3万から5万の、そうした死体がひろいあげられて、難民墓地にうめられる。
ほかに、親類や友人の手で葬られるものも何千かあるだろう。
またほかに、まったく計算されないが、何千の疲労困憊した労働者が、故郷の村に帰って死ね、と毎年工場から解雇される」


途方もない夢みたいな富と特権の話をきかされ読まされた、この市の見物に朱将軍は出かける。
東西南北、隅から隅まで、ある時は、大建築と舗装された道路、電気水道の設備がある、すばらしい外国商社や住宅の地域を、またある時は、男、女、子どもが一杯の椀のために苦労する「暗黒地獄」的な労働者居住地域を歩きまわるのだった。
彼はまた、何千という小工場をのぞいてみたが、そこでは、飢饉や戦禍の地方から買ってこられた少年たちが、原始的な機械の前に倒れ死ぬまで奴隷のようにはたらかされていた。
貧困と病苦と悲惨は棺おおいのように、上海のすべての労働者階級のうえをおおっていた。
彼の言葉によれば、その市は「少数者には無限の贅沢と堕落、多数者には無限の労働と苦悩の地獄だった」

夜になると、家のない労働者らが、彼らの手で建てた近代的な大建築物のかげの、かたい舗道で寝るのを見るが、「その身体は、その上にローラーをかけたように、やせて平たくなっていた」



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by far-east2040 | 2018-07-20 09:00 | 第4巻「探求」改編

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            明の始祖朱元璋(Wikiより借用)



資本主義に奉仕する近代科学は、中国には何の利益ももたらさなかった、と彼は絶望的なひとりごとをいうのだった。
だが、遠い奥地で耳にした話では、南洋のイギリス領、オランダ領では、状況はかなりちがうということで、そこでの中国人移民は夢のような富をつかんでいる、という噂がどこでもきかれた。

まして西洋の国々ということになれば、近代科学による楽園にちがいない、と彼は考えた。


「ただ一つだけ、たしかなことがあった」と朱将軍はいった。

「地球上でいちばん悲惨な国は、中国だ」


上海の街を、のちには南京、北京の街を歩きまわったとき、絶望のかたまりが幻怪な白昼夢となってわき立った。
舗道に眠る半死の人間を見るとき、工場から吐き出される男や女や子どもの暗黒の大河を見るとき、外国人が中国人を舗道から押しとばすのを見るとき、彼の背後には幻の軍勢が立ち上がって、彼にしたがって戦いにつき進んだ。
それは大浪のようになだれかかってきて、幻の外国人を打ち殺し、何千となく海にも投げこんだ。


このような幻想の思い出は、彼をゆううつにした。
多くの人びとのように、その白昼夢を語ることをためらうということは、彼にはいささかもなかった

彼は次のようにそれを説明した。


「私はながいあいだ軍人だったものだから、軍人としてしか、ものごとを考えることができなくなっていたのだろう」


上海から、彼の遍歴は南京に向かい、そこでは明朝の創設者で朱徳と同じ朱姓の農民で紅巾軍と呼ばれる軍隊を育て、外敵蒙人を打倒した人の陸墓をおとづれた。

それから北京に行くと、旧友孫炳文は、仕事をやめて、まず市内を案内し、それから綏遠(すいえん)省まで旅をした。
それから北京に、そして上海にもどった。


北京政府は、彼は侮蔑をこめていうのだが、「封建のふんぷんたる臭気につつまれた亡霊的政府でしかなく……腐った汚水のたまりでしかなく、そこで旧弊の役人と軍閥が、政治ごっこをやり、宴会をし、女を買い、アヘンを吸い、彼らは、高値をつけるものに中国を売っていた」


孫は、彼をいくつかのグループの学生に紹介したが、彼らは、夏休みに都市にのこっていて労働者の夏季学校で教えている連中であり、そのほかにも、農民に教えるために田舎へ行っているグループもあった。
彼は共産党の指導者に会いたかったのだが、みな北京を留守にしていて、書記長陳独秀は上海に行っていた。



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by far-east2040 | 2018-07-19 09:00 | 第4巻「探求」改編

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             孫逸仙と宋慶齢(Wikiより借用)



上海にもどったふたりは、当時夫人とともにフランス租界に住んでいた孫逸仙博士の家で、ある午前をすごした。
朱徳が雲南省から脱走したときの仲間のひとりの、
金漢鼎軍もいっしょだった。


朱将軍は、深い感動とともに、この偉大な民族指導者との、最初にして最後の会見について回想する。

そのとき56歳だった孫逸仙は、生涯の37年間を革命運動のなかですごしてきていたのである。
しかし、今もなお、動作は機敏で躍動感があふれ、敗北につぐ敗北のあとでも、未来に対しては楽観をもちつづけていた。


「謙遜して、とても誠実な人だった」と朱将軍はいった。

「自分の輩下のひとりの将軍に裏切られて、広東から追われていたのだが、その広東を奪回して、ふたたび共和派政権を樹立しようと、計画中だった。
それには、いま広西省にいる雲南軍にこそ頼るべきだと考え、われわれに援助をもとめた。
われわれが雲南軍にもどって、再組織することを希望した。
彼は、手付金のようにして10万ドルは渡せるといった。
金将軍はその場で申し出を了承したが、孫と朱徳はことわった。


「孫博士は、われわれの拒絶の理由を、注意ぶかくきいた。
孫と私は、孫博士や国民党員たちがあちこちの軍閥と同盟をむすぶというような戦術を、もう信用しなくなっていた。
このような戦術は、いつも、革命派の敗北と軍閥どもの強化という結果に終わっていた。
われわれ自身が、11年の貴重な年月を、そういう動物の檻の中で生きてきた。
中国の革命は失敗したのに、ロシア革命は成功した。
どうしてロシア人は成功したかといえば、彼らは、われわれの知らない理論と方法論を身につけた共産主義者だったからだ。


「われわれは、孫博士にむかって、外国へ留学することを決めていて、ふたたび中国の国事にとりくむ前に、共産主義者に会い、共産主義を研究するつもりだ、といった。

香港の大ストライキの勝利、また全国の労働運動の勃興を見れば、共産主義者たちが、われわれが必要とする何かをもっていることは明白だった。

「孫逸仙は、共産党に対してはまったく偏見をもっていなかった。

ただわれわれにむかって、外国で勉強したいのなら、どうしてアメリカにゆかないのか、あそこには封建の遺風などはなく、多くの進歩的な制度があるのだが、といった。
われわれはそれに答えて、ふたりともアメリカに長く住んで勉強するだけの金はもっていないし、社会主義者がもっとも強いといわれているヨーロッパをえらんだ、といった。
アメリカという国は、アメリカ人にとっては結構なものであるかも知れないが、あなたの共和主義への闘争については、すこしも助けてくれなかった、とわれわれは彼の注意をもとめた。
アメリカは彼の敵を助け、承認しただけだった。
しかし、彼は、彼の革命運動の長い年月のあいだ、終始アメリカの方をむいて援助をもとめた。
もちろん、ヨーロッパ諸国にしても同じことだったが、しかし今日ではヨーロッパには新しい社会的勢力があるから、われわれにとって、より頼もしいかも知れない。


「孫博士は同意した。

国民党の新政策を制定したいといった。

しかし、それが果たしてどういうものであるかは、そのときはきくことができなかった。

それが明かになるまでには、2年かかった。

そのときに彼は、広東革命政府とソビエト連邦との同盟を結んだ」



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by far-east2040 | 2018-07-18 09:00 | 第4巻「探求」改編

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             汪精衛夫妻(Wikiより借用)



孫逸仙とのこうした会談のあとで、3人は、国民党右派の指導者胡漢民を訪れたが、ほんの短時間いただけだった。

朱将軍は、胡をきっぱりと片付けた。
「反動そのものだった。香港の買弁階級の典型的な代表人物だった」


次に訪問したのは汪精衛だったが、彼は国民党左派に属し、知識人の指導者とされ、もっとも孫逸仙に近い指導者ともいわれて、高い名声をえていた。
知識階級に対しては、親代々からの崇拝の念をいだいていた朱徳は、深い尊敬の情をもって、その人に近づいていったにちがいなかったが、いま、会見以降の汪が見せた無節操と裏切りの15年を振り返ってみたとき、彼は侮蔑の感情をもって振り返るだけだった。
汪が何を語ったか、思い出すこともできず、また思い出したくもなかった。


いや、汪精衛、政治的立場からだけでなく、人間的にも、朱徳にとって不快だった。
頭のてっぺんから足の先まで男性的だった朱は、男でも女でも何ものでもないような連中を尊敬することはできなかった。


「汪を見ていると娼婦を思い出した」と嫌悪感をかくすことなく叫んだ。


「口をきゅっとつめたり、色気たっぷりに手をふって話したりしたので、私は言葉をきくことを忘れて、ただ相手を見つめていることしかできなかった。
汪は退廃した封建的文化人がよくやるように、ありとあらゆる優美な手振り身振りをしてみせた、まるで京劇の女形みたいだった。
夫人もそこにいた。
男じみた女で、大金持ちだった。
汪は無一文だった。
夫人が金をにぎっていて、金の力で汪を操縦した。
いついっしょに寝床にはいるか、いつ起きるかまで、夫人が命令するという噂まであった」



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by far-east2040 | 2018-07-17 09:00 | 第4巻「探求」改編

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            陳独秀(Wikiより借用)


つぎは、朱徳がかねて待望していた、共産党書記長陳独秀との会見があった。
とうとう彼は、文化復興の主要な指導者で、高名な大学教授、輝かしい論客、編集者、そして共産党を組織した中心人物のひとりと会うことになった。
陳は当時40歳ぐらいで、精力的で決断力に富み、慎重で、軽はずみな行動はとらなかった。

陳は浅黒く、疱瘡(ほうそう)のあとがあった。
共同租界に接して、中国人が密集して住む閘北区域の小さな部屋で簡素な生活を営んでいた。
この部屋から、地下労働組合を組織しながら、共産主義運動を指導していた。


この会見を追想するとき、朱徳の胸のうちには、あきらかに大きな葛藤が生まれるのであったが、彼はそれについて語ることを好まなかった。
その後に過ぎさった歳月のあいだに、陳をとりまいて荒れさわいだ大政治闘争のことが、彼が語るのを好まない原因の一部分となっていたかも知れない。

その会見におもむくにあたっては、朱は、共産党員になりたいと申し出さえすれば、すぐに承認されるものと信じていた。
国民党の場合がそうであって、だれでも希望するものは入ることができた。
朱は共産党も同じ手続きだろうと思い、入ればそこで新しい革命への道に踏み出せると確信していた。


冷静に注意深く、陳は訪問客を観察したが、とくに、あまりかんばしくない評判のある朱将軍に対しては、そうであった。
中国において独特の意味をもつ、軍国主義の長い歴史が、彼の心のなかに、そのときくりひろげられたにちがいない。
軍閥横行する極西地域の将軍が、どんな理由で、中国の貧者の党に入りたがるのだろうか? 
朱徳の口からはうまく言葉も出ず、一度は消えていたかと思われた絶望の暗雲が、ふたたび立ちもどって彼をつつんでしまった。


陳独秀は彼に告げたーー労働者の道をおのれのものとし、そのためには生命を捧げる人間のみが、共産党に加入することができる。
朱徳のような人にとっては、長い研究と誠実な努力がいるだろう。


朱は、失望のために、ただ黙って聴いた。
未来への扉をたたいたとき、それは彼のために開くことを拒んだのである。


「みじめな時期だった」朱将軍は、なさけなそうに語った。

「私は希望をうしなって混乱した。
私の片足は旧秩序の中に残り、もう一方の足は新秩序にふみこむことができなかった。
そのころの上海には、雲南省からの亡命者がいっぱいきていたが、彼らは仕事もなく、生活の道をうしなっていた。
毎日、私に金をねだり、私は大儲けをやった男ではない、といっても信じてくれなかった。
説明しても本当にしなかった。
毎日、私をとりまいた。
私は罪人にでもなったような気がした」


1922年の9月はじめに、朱徳と友人はフランス客船アルジェ号に乗船し、いよいよ祖国解放の秘義を探求するために、異国に向かってすすむことになった。



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by far-east2040 | 2018-07-16 09:00 | 第4巻「探求」改編

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            留学したころの朱徳(ネットより借用)



南アジアを経たマルセイユへの航海と、後のフランスとドイツでの旅行について語る朱将軍の談話には、観光客じみたところはまったくなかった。
私と差し向かいにかけ、頭を垂れ、私たちのあいだにある小卓の端を両手でつかみながら、しばしば彼は、現在の環境をなかば忘れてしまうかのようであった。
果てしなく広がる大洋がうねり逆まき「無限を走って大地にかみつく」情景を想起したとき、声は畏怖と、かぎりない孤独感をひびかせていた。


まず南洋の各地の港があり、各地域があったが、そこには、何百万の中国人が移民していて、一儲けを目指したり、鉱山や大農園ではたらいたり、そのほか、白人はおろか原住民すらいやがるような厳しい労働を、蒸せかえる炎熱のもとでおこなっていた。
それが、かつて彼が楽園のようなものと夢見ていた、イギリスやオランダの植民地だった。
友と二人で、張りきって上陸はするが、何時間かあとにもどってくるときには、やりきれないような絶望感につつまれていた。

これらの地域は、なかば中国化した土地だったが、彼の同胞と原住民たちは、彼らがきずいた大建築物、宮殿のような邸宅、橋などのかげで、どん底の貧困の悪臭にまみれて生きていた。


やがて中国人は見えなくなり、寂しさが胸にせまってきた。
インドは、暗く、腫れあがり、やせ衰え、大きな眼が苦痛で光り、丘上の宮殿と、しめっぽい路地の汚い貧民窟があった。
それからアフリカの黒人が、はだかで、あえぎあえぎ、白人の御主人のために重荷をかついでいた。
エジプトは、冷酷傲慢な豪奢の下で、膿だらけの眼をした骸骨のようであった。



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by far-east2040 | 2018-07-15 09:00 | 第4巻「探求」改編

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            聶栄臻(Wikiより借用)



朱徳の声は低く、はるかな想いをひびかせた。


「どこへ行っても、目に入るものは、苦しみの暗黒世界だった。
中国は、地上のもっとも悲惨な国ではなく、多くの中のひとつだった。
貧しく隷属化された人民の問題は、どこでも同じだった。
また、フランスに上陸してみると、ヨーロッパも、想像していたような近代科学の楽園ではないことがわかった。
フランスの労働者は、中国より衣食はともによかったが、みじめな存在であることは変わらなかったし、フランスの政府は、やはり高官どもが売買する市場だった。

私たちは、フランスの街を朝から夜中まで歩きまわり、ヨーロッパ大戦の戦場をたずねていった。

フランスは勝者ではあったが、人はみな戦争の悲惨についてかたり、身体に障害をおった廃兵や寡婦や孤児が、偉大な過去の残光のなかを、ぼろぼろの影のようにうごめいていた。


「世界再分割のためのヨーロッパ大戦が、3つの王朝をたたきつぶし、勝者にも致命的な痛手をあたえたのを見ても、まだ私は、資本主義は中国をよくするだろうと信じていた」


ふたりが宿をかりた中国人の商人の家で、最近中国人学生の一団が中国共産党の支部をつくったという話を耳にした。

朱は熱心に主人にたずねた。
一団の中心となった組織者は周恩来という名前の学生らしかった。

この周恩来と彼の同志であった陳毅、聶栄臻(ジョウエイシン)、李立三、李富春とその夫人蔡暢(サイチョウ)たちは、後日中国の歴史をつくったのである。



この一団にどうしたら近づけるのか、ということは、主人にはわからなかった。
ただ、だれかが、周恩来はすでにドイツに行き、そこで同じよな組織をつくりつつある、といって、ベルリンの居場所を教えてくれた。



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by far-east2040 | 2018-07-14 09:00 | 第4巻「探求」改編