カテゴリ:第3巻「災厄と禍害」改編( 41 )

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雅州地方に入ってから、一行は真東に向かって、四川におりていった。

彼は、この雅州においてアヘンとの決別をした。

そのころの朝晩、彼は、アヘン中毒をなおすために数ヵ月前に買った広東の薬草を煎じてのんでいた。
彼はその飲み物の効果を信じてすがるように飲んでいたが、苦しいもがきはつづいた。

アヘンが切れると、夜もねむれなくなり、体は衰え、消耗して、馬にのる力もほとんどなかった。
5月の半ばに、一行が
南渓の彼の夫人の家についたときにも、彼はまだ不眠症に苦しんでいて、真夜中に起きては、歩きまわったり本を読んだりした。
しかし、勝利の道には進んでいっていた。


逃亡者たちは、四川軍閥の手先がいたるところにいて、彼らの到着を知っていたにもかかわらず、手出しをしないのを不思議がった。

彼の夫人や旧友たちは、雲南府で捕らえられた同志たちの悲惨な最後について語ったが、四川軍閥はいまや確乎たる力で根をおろしていて、経験豊かな軍人を味方に入れようと努力している、とも説明した。
一行はすぐに舟にのって沿岸に向かったが、朱将軍だけは数日妻子のもとにとどまった。
彼の息子は6歳になっていて、色が浅黒くて、ぺちゃくちゃとおしゃべりをして、彼の小型のような快活な子どもで、父の膝にのぼって、母に教わった本を読むのが大好きだった。


「苦力」坊やはほこらしげに読む、「それは、苦しい力、ということです。
苦――見て、これはおじいさんの顔のように、ねじ曲がっています。
この人は痛いのです。
この人のくらしは苦しいのです」


朱が沿岸に向かって出発しようとする間際に、四川東部を支配する軍閥楊森から電報がきた。
楊は「老朋友の名において」彼を賓客として重慶に招いたのである。

朱は承知したという意向を返電し、妻子に別れをつげた。
それから彼はふたたび彼らに会うことはなかった。
13年後に、彼らは西方の軍閥によって殺された。



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by far-east2040 | 2018-06-24 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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「彼と私は友人になり、何時間も中国の現状について話しあったりした。
するどい理解力をもった男で、私に数かぎりないほど質問をあびせかけ、また私にむかって、この土地にとどまって相談相手になって指導してほしい、とせがんだ。
私が外国留学の決意をはなすと、がっかりした。
出発のときには、私は自分が持っているものの中でいちばん貴重なものだった、自動拳銃と立派な美しい愛馬をおくった。
そのかわりに、ただ山地産の小馬をもらって旅をすることにした。
私はまた、南渓の私の家内の居所をおしえ、彼がその地方に旅行するとか、逃亡して避難せざるを得ない状況のときには、そこをわが家と思うように、といった。


「出発のときには、彼は何里となく馬で送ってきて、それから、武装の従者に命じて、領分のはずれの会理のすぐ近くまで送らせた。
何ヵ月かのちに、私が上海にいて、家内から受け取った手紙の中には、彼が使いを南渓に出して私の馬をとどけ、私の安否をたずねた、とあった。

1年後、私はドイツにいて、また家内の手紙を受けとった。
レイ・ユン・フィは、自分で南渓にやってきて、私を連れて帰ろうとしたのだ。
私が外国に行ったことを聞くと、すっかり気を落とした。
家内の一家は、賓客として彼をもてなした。

それからまた1年たったころ、私が故国の新聞を見ると、彼は、四川軍閥劉湘の甥とたたかって死に、彼の領土は奪われた。
私は悲しくてしかたがなかった。
レイ・ユン・フィは、彼の敵よりもはるかにいい人間だった」


レイの領土をはなれると、朱徳の一行は名前を変え、職業は商人にして、こういう危険な土地の旅だから、武装のものを連れている、と周囲に説明した。

雪をかぶった山岳地帯を馬で越え、それから大渡河をわたったが、そこは60年前に石達開ひきいる太平軍がせん滅されたところである。

朱将軍がこの地方を旅したという経験は、13年後に彼が中国紅軍をひきいてここを通過するときに、大いに役に立った。



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by far-east2040 | 2018-06-23 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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           水滸伝の英雄を描いた皿(Wikiより借用)


朱将軍は、レイ・ユン・フィ深く同情しながら語った。
彼がいうには、この男はかつて貧農だった。
すべての貧農がそうであったように、彼もまた文盲であり、彼の教養といえば「百八人の英雄」すなわち『水滸伝』のような圧政への反抗の昔物語などによって形づくられていた。
1911年革命の前々から、革命のあいだにかけて、彼と哥老会の仲間は、共和派の同盟会とかすかにつながっていた。
革命時には、彼はこの地方の農民と手を組んで、地主たちを追い、土地を取りあげて分配した。
レイは、精力的で、まれに見るほどの指導と組織の才能をもち、農民をあつめて軍隊をつくったが、この1922年には5千人になっていて、珍しいことには、ロロ族さえふくんでいた。
地主階級と四川軍閥は、彼を凶悪な土匪のかしらとよんでいた。


「たしかに土匪にはちがいなかった」と朱将軍はみとめる。
「凶作で食糧が不足すると、彼は自分の領分の外に出て、賑やかな町を掠奪して、金持ちから取ったものを貧民に分けた。
軍閥にくらべれば、彼の方が正当で潔白な市民だった。
つまり、匪賊ということも階級的観点によるのだ。
りっぱに成功した匪賊は、領土をもち、子孫は貴族になるではないか。


「1911年革命が流産して以来、レイは多くのふしぎなできごとを見聞した。
多くの人間が逃れてきたが、彼は彼らを保護した。
彼は、むかしの偉大で情深い匪賊のかしらたち、民間の文学の中で活躍して人民に崇拝されている連中に、あやかろうとした。

1922年には、彼の領地を征服しようとする四川軍閥にひどく圧迫されていた。
彼はたびたび敵を追いかえしていた。



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by far-east2040 | 2018-06-22 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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2日後に亡命者たちは、北方からこちらに乗りつけてくる騎馬の一隊を見たが、そのなかに、仲間の顔も見えた。
こちらは馬からおりて待ち受けた。
騎馬隊は近づいてきて、そのなかで短身で屈強な、三十代と思われる男が、きびきびとした威勢のいい動作で馬からおりて歩みよってきた。
朱徳と彼の仲間は、なかば恐れ、なかば希望を感じながら立っていた。
その男は、近づいてきておじぎをして、旧時代的な礼をもって歓迎の意をあらわし、自分は、レイ・ユン・フィであり、みなさんを客人と見なす、といった。

朱徳はこの男はひょっとすると自分と同じように哥老会のものではないかと思ったので、挨拶のときにちょっと変わった言葉をはさみ身振りをした。
血盟の兄弟であるならば、どこの地でもたがいにわかる。
挨拶をかえすときのレイの目は輝き、期待どおりの合図をしたので、この瞬間から、亡命者たちは二重の安全をえた。

この待遇に感謝して、亡命者の一団は、その場でレイにいくつかのライフル銃を贈り物にしようとした。
レイは辞退したが、彼らは、申し出がただの儀礼ではないことを証明するために、三度くりかえした。
それからレイは一団を山村の要塞にみちびき、豚、山羊、羊を殺して宴を張り、何百の客が加わった。
客人のあいだを紹介してまわるレイの立ち居ふるまいには、貴人としても恥ずかしくないものがあった。

亡命者たちがここに10日とどまる間に、みなのために平服がつくられたが、それは彼らがこれからは商人として敵地を旅するためであった。



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by far-east2040 | 2018-06-21 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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長年の同志と別れたあと、朱将軍の一行は、北雲南の深い山岳地帯を強行軍した。
羅将軍は、保護を求めた際に、北方組のとった道を教えた。

ホァ・フェン・クォは、騎兵大隊に追跡させ、また多額の賞金をかけて捕らえようとした。


おそるべき人狩りがはじまった。
夜は野宿し、未明から深夜まで強行軍をしながら、逃亡者たちは、とうとう金沙江に達することはできたが、どうしても渡し舟が見つからなかったので、追跡をふりはらって西康省ににげこむことができなかった。

一団は、二つにわかれて渡し舟をさがすことになり、高くけわしい山道を、はるか眼下に暗黒の深淵に氷のような激流がくだけるのを見おろしながら、伝っていった。


朱徳の一行が、先に渡し舟をみつけ、護衛兵を残りの連中に道を教えるために引き返させてから、江をわたった。

その連中もやがてたどりついてきて、わたりはじめた。
6人の指導者と少数の護衛兵だけをのこして、他のものみなが渡りおえたとき、敵の大隊が追いついてきた。
短時間の死闘があり、彼らはみな、殺されるか捕らえられた。


先に渡ったものは、西康省に入っていたのだが、敵もまた江をわたり追跡してきた。
しかし、この地方はレイ・ユン・フィという土匪の首領が支配しており、その小王国は江岸から北に騎馬行程で5、6日の会理にまでのびていた。
亡命者たちは、まもなくレイの境界守備隊と出会ったので、自分たちは亡命者であるが、首領にお目にかかりたい、と申し込んだ。

領域を守ることに忠実な守備隊は、亡命者にむかって、誰かが先に急いで行って首領と交渉し、他のものは後からゆっくり行け、と命じ、われわれが侵入する敵を追い払う、といった。



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by far-east2040 | 2018-06-20 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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この逃亡者の一団が、強行軍してある村に達したとき、楚雄の守備隊長ホァ・フェン・クォが旧主である「小王」への忠誠を宣言したところだと聞かされた。


羅偑金将軍は、その知らせを一笑に付した。
ホァ・フェン・クォは、かつて自分の下で働いた旧友だといった。
ホァは昔の友情を重んじて、逃亡者たちがビルマに向かって通過するのを見のがすだろう。


いや! と他のものは叫んだ。
旧い封建時代的な友情というような徳は、銀貨のひびきによって、とっくにかき消されており、ホァは芯まで腐りきった男だから、われわれをひとり残らず小王に売って、見返りに地位と権勢をもとめるだろう。
この悪党に身をまかせるようなことはやめて、一団はただちに北折して旧交易路をとって金沙江(揚子江上流は、そのあたりで黄金の沙の河とよばれていた)にゆき、それから西康省と四川省西部を通過して海岸の方にのがれるべきだ。
上海にゆきさえすれば、広東の孫逸仙に合流することができる。


羅将軍は、北方の道は死を意味するだけだと反対した。
おそろしい山岳には異民族や匪賊が住み、四川は、かつて雲南軍がたたかった軍閥
劉湘や楊森が支配している。


議論は一致せず、一団は別れた。
羅将軍はわずかな護衛を連れて楚雄に向かい、残りのものは北方の深山に入っていった。

北方隊が4ヵ月後に四川に達したとき、彼らは旧くからの革命の同志の運命について聞いた。

楚雄のファ・フェン・クォは、むかしの友情を重んじて羅偑金将軍を保護することはしないで、彼をとらえて小王に売りわたし、小王は雲南府の路上で何百の捕虜といっしょに公衆にさらして責め殺した。

小王は革命派を捕らえたものには多額の償金を出していたので、彼らは狩り立てられ引きわたされていた。
何週間も雲南府は、恐怖と虐殺のちまたであった。
じつに徹底的な殺戮だったので、省の文化活動はその後数十年間は根絶やしにされてしまった。



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by far-east2040 | 2018-06-19 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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1921年5月には、孫逸仙博士は、またもや朱に逡巡の口実をあたえた。
というのは、孫博士の召集によって、共和国非常国会が広東でひらかれ、新しく南方国民政府を創設し、孫博士を大総統に推した。

孫博士は、強烈な声明を発表して、新政府は軍閥を根こそぎにし、武力をもって国家を統一し、中国の主権をほとんど一世紀にわたってしばりつけていた不平等条約の鎖を断ち切るであろう、と叫んだ。
噂によれば、孫博士はソビエト連邦と同盟をむすぶだろうということだった。


秋がきたとき、とうとう朱は外遊を断行することにした。
彼は、アヘンの中毒をなおすといわれる広東産の薬草をもとめ、ポケットに入れて持ちまわり、いざというときいつでもこれを用いるのだ、と自分にいいきかせた。
つぎに、いままでの貯蓄総額一万元を、パリの銀行にうつして、彼の妻子が、妻の財産以上の金を必要とする場合にそなえた。


やがて1922年が明ける。
雲南軍は、孫逸仙博士の命令に応じて、軍閥や帝国主義とたたかうために、東に向かって進発した。
雲南府には弱体な守備隊だけが残った。

2、3週間がすぎ、雲南軍の主力が遠くに去ったあとに、たちまち恐慌が雲南府をおそった。
「小王
」唐継堯が、地方民兵や匪賊をともない市に向かってきており、昔の配下の将軍や役人どもは、目の前でジャラジャラする銀に手をさしのばしながら、彼のもとにはせ参じつつあった。

知識人たちは省外に逃げたり身をかくし、朱は、妻子を四川に逃げる準備をしていた友人に託した。


雲南府争奪戦は、はじまったかと思うとおわった。

新政府首脳は地方守備隊をもって戦ったが、捕らえられ斬首された。

朱徳は、いそいでヨーロッパ行きの旅費の金を取りまとめ、武装し、名馬にのり、19名の国民党指導者たちと合流して、みな騎兵隊をしたがえて、まず西門を突破して、西方の楚雄に急走しようと計画した。
そこからは、道は南にビルマにむかってつづいている。
この20名の指導者の一団の中には、蔡鍔の旧友の老練の革命家、羅偑金将軍もいた。



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by far-east2040 | 2018-06-18 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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ここにあるすばらしい建物、広い街路、新しい学校は、若くして亡くなったあの指導者の力によって建設されたものであり、あのあたりには、自分の若い妻の学校があり、日曜には、ふたりで散歩しながら、新しい、平和な、進歩的な未来の中国について語りあったものである。

あの妻も蔡鍔も亡くなり、いま自分は35歳の男であり、アヘンを吸う官僚であり、よくできた妻がいながら、気がむけば一人以上の女をかたわらにおくのである。
いま自分は、ありし日のわが夢と祖国に寄せた希望が破れ去った跡にたたずんでいるのである。


どうしてここに止まっているのか、と彼はみずからに問い、孫逸仙の国民への最近の呼びかけに口実を見出すのであった。

孫博士は、1911年の革命はただ民族主義をいく分実現しただけであり、ほかの2つの主義、すなわち民権と民生はすこしも成しとげていない、といった。
また博士は、華南の新生広東省こそ、民族、民権、民生の三原則が根をおろす苗床となり、そこから揚子江や黄河の流域にもひろがってゆくであろう、ともいった。


むかし朱にむかって、中国の救済について問いかけたのは、だれであったか、それは老師シ先生であり、その問いとは、1900年つまり義和団時代の中国は、数十年前の、ただ海外の一国か、たかだか二国に抵抗して敗れたときよりも、強くなっているか、というのであった。
その1900年は、半世紀前よりも弱かったのだが、21年後のいまは、あらゆる帝国主義の国々が北京政府に干渉し、それぞれが自国の手先となる軍閥をもっている。


雲南は、1915年―16年に試みたように、共和国を救うことができるだろうか。
長い間「雲南小王」の長靴に接吻していた将軍どもが、共和国に忠実である、と信じることができるか。
否、と朱将軍はみずからにいいきかせた。



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by far-east2040 | 2018-06-17 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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1921年が明けるとすぐに、護軍は雲南に向かって殺到し、ほんの数発を交えたぐらいで首府雲南府を占領し、全省を掌握した。

多くの市を支配するたくさんの官吏や将軍たちは、時をかせぐために、転身して新政権に忠誠を誓ったが、「小王」唐継堯は、つかめるかぎりの財物をもって、省から逃げ出した。


護軍の革命的名声はまだ生きていたので、中国のいたるところから、進歩的な知識人がはせ参じてきて、この省を共和派の基地としてたてなおすために協力しようとした。

しかし、事態は以前と変わっていたので、朱徳は状況を懐疑的な目でながめた。

全中国のほとんどすべての省を、軍閥の部隊は縦横に行進し、収穫は足元でふみつぶされ、ちりがおさまってみれば、すべて砂漠であり、土地をうしなった農民は何百万もうろつき、一椀の飯のためにはどんな軍隊にでも入った。
無政府状態、混沌と絶望が、数年うちつづき、北京は、軍閥と外国の銀行家が病み横たわる国土を取引する市場にほかならなかった。

孫逸仙博士は、悪がより少ない方をえらぼうとして、いろいろな軍閥と同盟を結んでいたが、そのたびごとに煮え湯をのまされる結果でおわった。


いかなる道も見い出すことができず、朱は護軍に辞表を出して、外国留学の道にすすむことを発表した。
同僚の士官たちは、新政権が確立するまでとどまり、それまでは警察長官をつとめてくれと切望した。

彼は、ながながと押し問答をしたあげく承知して、妻子を呼びよせた。

妻子はすぐにきた。


彼はとどまることを承諾した。
しかし、雲南府は過ぎし日を悪夢のようによみがえらせた。
広く清潔な街路をあちこち歩くと、青年の日の幻が浮かんできて彼を悩ました。
この道を何年も前に行進しながら、ほこらかに満州朝打倒を叫んだ。
あそこの城壁のかなたには軍官学校があり、熱狂的に、国の悲惨を救うことを学び、またここでは、総督の官庁のとりでに突撃した。
蔡鍔はここの広場で勝利について語り、あそこの建物の中で袁世凱の帝制を倒す計画を練った。
蔡鍔がかたったのは何だったのか……その恐ろしい言葉には、いまのわが身につまされるものがある。


「どっちみち、自分の時はいくばくもない」



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by far-east2040 | 2018-06-16 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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            呉佩孚(Wikiより借用)



現実とは何かといえば、彼によれば、雲南護軍は、いまや四川を脱出しなければ、全滅の危機にのぞんでいる、ということだった。

全中国は軍閥地獄であり、人民は途端の苦しみの中にあった。

新軍閥の呉偑孚(ごはいふ)が北京の権力をとり、一時的に孫逸仙の南方政権と休戦していたが、それは相手を打倒するための準備工作にほかならなかった。
ソビエト連邦からの第一回調査団が中国に向かっていたーーそれは、後に孫逸仙博士の政府との間に結ばれる同盟の、手さぐりを意味していたのだが、こういうことを朱将軍はほとんど知ることもなく、また彼の注意を引くということもなかった。

彼が軍人生活をえらんだのは、祖国解放の道としてであったが、10余年の闘争のあとに、その夢は瓦のごとく砕け散り、みずからは二人の弟の死の直接原因、そして父の死への責任も感じざるを得ない身となっていた。
アヘンの煙も、この惨苦をかき消すことはできなかった。


護軍の何回もの長い会議に彼も加わったが、結局、戦いつつ雲南に引きあげ、唐継堯政権を倒そうということになった。

唐継堯、1916年の蔡鍔の死後、省を彼の小王国とし、「雲南小王」というあだ名で憎まれていたのである。


こうした会議のとき、朱将軍は、暗黒の絶望の淵からはい出してきて、友人孫を相手に、中国の情勢について、また彼ら自身の将来について、長く真剣な議論をかわした。
いくつかの特殊題目に分けて討議をして、それぞれを、結論に達するまで数日にわたって分析しさえもした。
軍人生活は、もはや彼らにとっての道ではないと悟ったが、他の道を選ぶまえに、まず外国の政治思想と制度について研究しなければならない。
孫は、妻子を四川に残して、ただちに北京に向かった。

朱は、妻子を里の南渓の家に残し、自分は「雲南小王」を打倒すれば、ただちに軍隊を去って孫と行動をともにする、と決めた。




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by far-east2040 | 2018-06-15 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編