カテゴリ:第3巻「災厄と禍害」改編( 43 )

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困憊(こんぱい)し混乱したひとつの軍が、1912年3月、四川を去って、雲南の本拠地に帰るために南に向かっていた。

その道を、4ヵ月前は途方もなく大きな望みをいだいて歩いてきたのであった。


雲南軍の四川人部隊中の二個大隊は、四川にとどまることになった。
雲南は中国でももっとも貧しい省のひとつだったので、もし蔡鍔(さいがく)たち共和派指導者が計画する近代化を完遂しようとするならば、まず口を減らさないといけなかった。


朱徳と同志たちは、むっつりとして、古い交易路に重い足を引きずった。
10月のころには、山を動かし河の流れを変えることができると信じていたけれど、いまは退却しているのだと認めないわけにはゆかなかった。
常に楽天的な朱は、自らの気力をふるい起こそうとして、帝政派といえども今となっては共和国にそむきはしないだろうし、雲南は、指導者の計画どおり、模範省となるだろう、などと論じた。


雲南に帰り、5月になると、軍の式典があったおりに、少佐に昇進したが、さらに彼が心から感動したことは、蔡鍔将軍が彼をえらび出して、「四川擁護」と「光復」の2つの勲章を受けるものの仲間に入れたことだった。

「光復」は満州朝を廃して漢族が復興したことを意味する。

ふたりのあいだに以前から結ばれていた暗黙の友情は、いまも絶えることなくつづいており、蔡将軍はときどき、わざわざ朱に声をかけて、彼自身のことだけではなく、家族のこともたずねたりした。

朱は、ふたたび故郷の家族からたよりをもらい、俸給の大部分を仕送りしていた。


「顔色がお悪いです」と朱は蔡にいった。

「みなが、閣下の健康を心配しております」

蔡はそれにこたえて、ちらりとふしぎな微笑をしたが、そのとき、何かはるかなものに思いをはせているようであった。


蔡は、軍隊にむかって演説をして、雲南省の実態について報告し、各人は満州朝を倒したときよりも、はるかに大きな犠牲をはらう必要がある、といった。

軍の俸給は2ヵ月もおくれていて、財政の大緊縮をおこなう必要にせまられていた。

負傷兵や戦死者の遺族には、終身の恩給を出さなければならない。

老兵は引退しつつあり、若い兵といえども、離隊したいものは許可しなければならない。

今後は、いかなる士官も官吏も、自己と家族を養うための給与以上を受けることはできない。



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by far-east2040 | 2018-06-26 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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省の行政は改革され簡素化され、新しい政治学校の若い卒業生たちが、まもなく、まだ残っていた老朽腐敗した官吏たちの地位にとってかわるだろう。

新しい学校がひらかれ、新しい工場が建てられ、近代的な道路や建築物があらわれた。

新しい師範学校では男女の学生を教育していた。

革命以来閉じていた軍官学校は、秋には再開されるだろう。


朱徳は、1912年の春と夏は、軍隊を訓練しながらすごした。

秋には軍官学校にうつり、候補生で組織された五個中隊のうちのひとつを指揮することになった。

そのころまでに、彼の個人的生活にも、また国家にも、大きな変化がおこっていた。


「その秋に、私は結婚した」と朱徳は、どちらかといえば、さり気ない調子でいった。

「妻の名はシャオ・チュ・フェンといった。

師範学校の生徒で、18になっていた。

改革運動や革命で積極的に活動した知識人階級の家の娘だった。

誠実で、かなり進歩的で、てん足はしていなかった。

彼女の兄が、軍隊内での私の友人だったので、結婚話がすすんだ。
私も26になっていた。

普通の男なら結婚すべき歳で、私は普通だったので、妻がほしくなっていた」


朱将軍が、彼女を愛したかどうか、それについては彼は何もいわなかったが、彼としては、私のために、愛していなかったと打ちあける必要もなかった。

ふたりの関係については、たがいに友人となり、顔をあわせればいくらでも話すことはあった、というぐらいの説明で終わった。

この結婚はブルジョア的なものではないこと、またふたりは結婚を決意するまえに、チュ・フェンの家の人びとの前で会い、話しをしたことを彼は誇りにしていた。

これは当時とすればひとつの革命であった。

というのは、良家の子女は、1911年革命後でも、結婚前に夫となる人と言葉を交わすことはしなかったからだ。


そのうえ、チュ・フェンは師範学校での勉学をつづけながら寄宿舎に住み、朱徳は軍官学校に住んだのである。

彼らは、彼にとって週に一度の自由な日曜日にだけ会った。


「私たちは、どちらも、大事な任務をもっている革命家だった」と朱将軍はつけ加え、それから、彼にとっては結婚よりも重大と思われる話題に切りかえた。



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by far-east2040 | 2018-06-25 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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            フランス革命を描いた絵(Wikiより借用)


軍官学校が再開されると、彼は、諸省からの多数の候補生と親しく交わることになったが、彼らの多くは、前年の革命に参加するために学校を去って出身省に帰っていた青年たちだった。

あるものは遠く上海や広東まで行っていた。

課業を修了するために帰校してきたのだが、彼らは、朱徳と彼の仲間たちよりもはるかに経験に富み、大人びてもいた。

何人かの教官同様に、他省からの候補生は、すでに袁世凱が共和派に対してテロを開始していたので、亡命者であった。

雲南は、共和派が実権を握っている数少ない省のひとつだったので、亡命者でいっぱいになっていた。


「その連中が、教師や役人や士官になり、あらたにわれわれが雲南府で出した新聞でもはたらいたりして、雲南の生活を充実させた」と朱将軍はいった。

「私は、ひまなときには、たいてい、その亡命者の候補生や教官たちの話、たとえば、袁世凱にやとわれた手先どもが、共和派を逮捕し、投獄し虐殺する話に、耳をかたむけた」


国事として重要な問題は、国際借款団が袁世凱と交渉しつつあった善後借款のことだった。

その条件は中国にとっておそるべき危険がはらんでいたので、すべての国民がこれを非難した。

孫逸仙博士は、外国の銀行家に警告して、もし彼らが押しつける条件で取り決められるならば、中国の国民はその善後借款を無視するだろう、といった。

袁の、反対派への答えは、逮捕、投獄、虐殺であり、またあらゆる役職から共和派を追放することであった。

そして、ただ彼に忠実なものだけを役人とした。


雲南軍官学校の教官になった亡命者のなかに、フランスに留学したことのあるものが数人いた。

朱は中国では革命が失敗したと見えることもあって、フランス人はどうして大革命を成しとげたのか学びたかったので、その連中に、何時間もつづけてフランスの議会制度について質問したりした。



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by far-east2040 | 2018-06-24 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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             宋教仁(Wikiより借用)



1912年の秋、有名な革命指導者宋教仁は、共和制を防衛する目的で、あらゆる革命団体をひとつにまとめて、新しい統合政党として、国民党を組織した。

雲南で旧同盟会からその新組織に率先してうつっていった人びとのなかに、朱徳はいた。

国民党員は前年とかわらずに秘密行動をとった。

というのは、袁のスパイや暗殺団は、満州朝時代とすこしも変わることなく、国中をうろついていたのだ。

これに引きつづく事態についての朱将軍の物語は、悪夢のような感じをあたえ、主要人物たちは盲目暗愚という劫罰をうけた亡霊のように、永遠に、なんどもくりかえし、歴史的過失をおかすのであった。


1912年の冬に施行された第1回国会選挙は、善後借款の是否をめぐってたたかわれた。

国民党の指導者たちは、死をも恐れないで、国内外で借款反対運動をおこし、中国がこの借款を受けいれることは、のどが渇いた人が毒をのむようなものだ、と叫んだ。


国民党は絶対多数の議席をえて、第1回議会は1913年4月に北京で召集されることになった。

その年の3月に、しばし、あたりに一筋の光明が流れた。

アメリカの新大統領ウッドロー・ウイルソンが、政府はアメリカ銀行家がその借款に参加することは認めないと声明したことが、革命派の人びとに勇気づけた。

その借款は中国の主権を脅かすものだ、と彼はいったのである。

それでアメリカ銀行団は手を引いたが、のちにはふたたび、国際銀行団としてではなく、個々の資格で立ちもどってきた。


アメリカ大統領の声明と、ほとんど時を同じくして、国民党の組織者であり借款反対の国民運動の指導者であった宋教仁が、袁世凱の子分のひとりによって暗殺された。
それは、彼が議会に出席するために北京に向かう途上でおこった。

この暴動にも知らぬ顔をして、アメリカをのぞく5カ国の借款団は、イギリス系の香港上海銀行の北京支店で、袁世凱と会見して、そこでひそかに、外国人のいうがままの条件で善後借款を締結した。

議会の副議長は、その部屋に飛びこんで、借款は憲法違反だと弾劾したが、だれかが手を振り、護衛のものが彼を放り出してしまった。



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by far-east2040 | 2018-06-23 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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           フランク・グッドナウ(ネットより借用)



孫逸仙博士は、借款契約の実行を阻止するための必死のこころみとして、ロンドンの借款団総裁に訴え、もし銀行家たちが強行するならば、流血を見るだろう、と警告した。

孫博士は、彼らからあたかも存在しないかのように無視されたが、たしかに、このむごい劇の主役たちにとっては、彼は存在しないも同然だったのだ。


1913年6月までに、華南の6省がにくむべき善後借款を秘密裏に締結した袁世凱に抗議し蜂起した。

しかし袁は、その借款を使って軍隊を装備し、養成し、財政をまかない、それによって彼の独裁権を確立したので、反乱軍は、ほとんど戦場に行きつかないうちに、たたきつぶされた。

ふたたび孫逸仙や他の共和派指導者たちは首に償金をつけられながら、海外に亡命した。

孫博士は、袁の手先の追求をのがれつつ、東京の友人の家にかくれた。
1913年11月には、袁は国民党を非合法として、党員は見つけしだい射殺せよと命じた。
12月には、儒教を国教とすると宣言し、古来ただ帝王のみの仕事である天帝の祭を復活した。


次に彼は議会を解散してしまい、彼のまわりに、旧軍人や帝政派からなる顧問会議を召集して、国家統治を手伝わせた。

それからまもなく、新しい人物が舞台に登場する――というのは、アメリカ合衆国の市民フランク・グッドナウ博士が、袁の「憲政」顧問として、北京に送られてきた。

1914年の夏までに、グッドナウ博士は、「国体論」と称する奇怪な書類を提出し、それを、袁は、国法とすると宣言し、それをのちに朱将軍は「世界最初のファシスト憲法」であると説明したのである。

この「論」は、袁世凱を全中国の最高執政官とし、国家のあらゆる文官と武官の任免、官制官規の決定、宣戦講和、条約締結、それから爵位授与の権利をあたえた。


2、3週間後には、グッドナウ博士は、もうひとつの書類を仕上げて、袁に、後継者を指名する権利をあたえた。

2、3ヵ月すると、またもや彼は、かの悪名高い「覚書」を提出したが、それには、中国には共和制よりも帝制の方が向くということが論じられ、ただし、あまりはげしい世論の反対を浴びないように事をはこぶべきだ、ということだった。

袁は、彼の全国的な帝政運動の宣伝のために、この覚書を使った。

世論の支持があるように見せかけるため、部下の役人どもに、国中の各地から、彼を皇帝とする帝政復帰の嘆願を打電するように命じた。

「官民の要望もだしがたく」袁は、1916年1月元旦を、彼の即位式の日と定めると宣布した。



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by far-east2040 | 2018-06-22 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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            蔡鍔と袁世凱(ネットより借用)



朱将軍がいうには、雲南は国政の舞台からかなりかけはなれていたので、やっと1913年の12月になって、ある人物が袁にむかって、まだ雲南には蔡鍔(さいがく)という「危険な傑物」が野放しになっているが、ああいう人望が厚く、術策にたけた人間は、北京に置いて監視するのが賢明だろう、と警告した。

それで袁は、蔡を暗殺はしないで、北京にくるよう、そしてーー事もあろうに、耕地整理局長と軍事顧問を兼任するように命じた。


雲南の秘密共和党員たちは、何度か小さな秘密会議をひらいたが、結局蔡は、ただちに北京に向かう、と打電した。
もし彼が拒絶すれば、雲南は袁の軍隊にふみにじられ、蔡は殺されるか亡命するかの運命になっただろう、と朱将軍はいった。
蔡の旧師梁啓超は、北京政府の官位についていたので、彼の生命は守ってくれるだろう。
蔡の意図は、雲南の革命的政権を温存しておき、共和派が崩れた陣容をふたたび整えるまで、省を国民党の勢力下に置いておこうということにあった。


雲南を去る前に、蔡は、朱徳が一士官であった第一師団を、フランス鉄路の沿線および国境線に沿って配置することにした。

というのは、あらゆる帝国主義者らは、袁の権力把握に後押しされて、またもや暴れだして、フランスは匪賊や蕃族に武器をあたえ、インドシナを荒しまわらせ、そこでフランス軍は彼らを追い返すという口実をつかんで、雲南に攻めいり、そこを取ってしまおうというのが本心だった。

朱徳は、つづく2年間を、立派なフランス製の銃をもつ匪賊蕃族と戦いながら、彼らの雇い主が中国領土内に占領の手をのばそうとするのを妨害することですごした。


その国境での2年間は、彼にとって暗くみじめな日々だった。

彼がいうには、雲南の南部は、高山が立ちならぶ、むしむしする熱帯的風土で、瘴気(しょうき)にみちた谷間におりたまる濃い霧は人びとの胸を病ませ、水がひどく悪くて、みなが胃腸をこわしてしまうのであった。



彼は、ときどきは蒙自まで旅をしたが、そこで手紙や新聞や、ときには家で彼を待つ妻からの手紙を受け取った。

新聞は力づけてはくれなかった。

気がくさるような記事ばかりだった。

中国には一筋の光明もささず、西洋諸国は、第一次世界大戦で殺し合いをやっていた。



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by far-east2040 | 2018-06-21 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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             当時の日本の外務大臣加藤高明(Wikiより借用)



気がめいる単調な生活をまぎらそうとして、ときどき、盲自で出会ったフランスの実業家を訪問したが、彼はフランスの生活や制度についての質問によろこんで答え、ヴォルテールの本も紹介してくれた。

朱徳は、何人かの若い共和派士官たちと話し相手になることもできたが、彼らは、彼といっしょに、師団長と師団参謀のルー・シャオ・チェンをののしった。

ルーは1911年の雲南革命を裏切ったとも疑われていた。

革命が勝利を得ると、このふたりの高級軍人は共和派への忠誠を誓ったのである。

蔡鍔が北京に去り、袁が帝制運動をはじめると、彼らは昔の思想にもどっていった。

15年後、朱将軍が江西で中国紅軍を指揮したとき、参謀は蒋介石軍の一師団長として立ちあらわれてきた。


「私は悪党めと戦場でまみえた」と朱将軍は唇を憎悪で引きしめ、そして断乎としていった。

第一次世界大戦がはじまったころには、中国は完全に暗黒につつまれていた、と朱将軍はつづけた。
日本は、連合国のひとつであったが、ドイツ帝国主義が1897年に中国から強奪した大海軍基地青島を占領し、おのれのものにしてしまった。
さらに日本は、1915年早々に、あの悪名で鳴りひびく秘密の21カ条を中国につきつけて、中国を日本の保護領にしてしまおうとした。
袁は、数ヵ月はぐずついたのち、ついに、少し修正しただけで調印したが、それは自己の死亡書に調印したことにほかならなかった。


後に蔡鍔が国民に告げたところによれば、袁世凱は、日本が新帝制を認めるという条件で、その21カ条に調印したのである。

さらに袁は、他の列強にも、帝制承認と引きかえに、圧倒的な権利権益をあたえようとした。


国境線にいた2年のあいだに、朱徳は二度昇進した。

1915年12月には正式に大佐となり、今まで彼の大隊が属していた雲南軍第十連隊の指揮をとることになった。


彼がのちに知ったことだが、この第2回目の昇進は、秘密裏に北京から帰ったばかりの蔡鍔の指示によるものだった。



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by far-east2040 | 2018-06-20 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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           蔡鍔の北京脱出を手助けしたといわれる小鳳仙(ネットより借用)



蔡の北京脱出は、この上ないぐらい劇的だった。

2年間、昼となく夜となくつけまわした袁の秘密警察をまいて、天津にのがれ、日本行きの船に乗った。

日本で亡命していた国民党の指導者たちと相談したうえ、インドシナに渡り、さらにフランス鉄路によって、ひそかに雲南に帰ってきた。


ふたつのことで、朱は中国をおおう雲も晴れる心地がした。

ひとつは彼自身の昇進だった。

もうひとつは、あの有名な論客梁啓超が、病気を口実にして、北京での高官の地位を辞したという新聞の報道であった。

梁は、袁世凱に送った辞表の中で、私は健康そうに見られるが、じつは「脈拍が高く、めまいがし、咳がでて、腹にガスがたまり」などと病気をずらりと並べた。

そういう体調であるから、辞して気候が快適なアメリカに行って、病気療養を受けざるを得ないというのであった。


北京から汽車に数時間乗って、天津の外国租界に着くと、梁の病気はすべて消滅した。

アメリカにはいかないで、すわりこんで、袁と帝制に対する弾劾文をつぎつぎにたたきつけたが、袁とすれば、立憲帝政派の梁からだっただけに、いっそう腹立たしいものだった。
梁は、機敏にも、袁の刺客が来る寸前に体をかわし、やがて華南に立ちあらわれて、より快適な空気の中で、攻撃をつづけた。


梁が辞職して袁を攻撃していることを読んだとき、朱徳と、彼の若い友人の共和派士官たちは集まって相談した。

梁が逃亡したというのであれば、蔡鍔もまた逃れたか、それとも逮捕されたか、あるいは殺されたかであろうと考えられた。

というのは、梁は蔡の旧師であり、北京での保護者であったからだ。


1915年12月の中旬、朱徳は蒙自にいたが、街頭でひとりの国民党員の旧友と出会った。

その男は、初対面の人に接するときのように、ばかていねいに頭を下げたが、下げながら、すばやく、君が最も信用する共和派士官の友人たちを連れて、今晩町外れの寺まで来てくれ、とささやいた。


その夜、小さな一団が約束の場所に来たとき、朱の旧友は小さな布切れを出した。
それは蔡鍔の署名がある手紙で、彼の使者の指令にしたがうように、と書いてあった。



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by far-east2040 | 2018-06-19 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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指令とは、蔡鍔は12月25日の明け方に、雲南府地域の諸軍を反乱させ、共和制への忠誠の誓いを立て、国民が蜂起して袁世凱を打倒するように呼びかける、ということで、蒙自その他の主要都市の共和派も同時に同一行動にでよ、という内容であった。

蒙自の部隊は汽車で雲南府に向かうことになっていた。

それから、雲南軍八個連隊は四川省に進軍して、袁世凱の支配をくつがえすということだった。

蜂起は、袁の即位式と定められた1月1日以前に、諸外国が新朝廷を承認しないうちに、しなければならなかった。


朱徳その他の共和派士官たちは、その月の残りの日々を国境守備のために残すべき新募集の兵の訓練をしながらすごした。

12月25日の夜明け前に、朱徳大佐はえり抜きの精兵の一団をひきいて、師団司令部にゆき、帝政派の士官をしばろうとしたが、すでに逃げてしまっていた。


夜明けに、蒙自地域の全軍が集合した。
朱と同僚は、国家の現状について報告をし、共和制への忠誠を誓う宣言をした。

列車を徴発して部隊をのせ、ただちに雲南府に向かった。


その同じ時刻に、蔡鍔と他の指導者は、雲南府における軍隊と市民の大集団の前にあらわれて、共和制への忠誠を誓っていた。

それと同時に、全国に向かって声明を打電した。

それは、民族の反逆者である袁世凱を打倒せよ、彼こそは外国帝国主義者である雇い主に叩頭しつつ、中国国民にむかって剣をふるうものである、と糾弾していた。


朱徳と友人の士官たちが、雲南府に着いて、汽車から飛び出して蔡鍔の司令部にかけつけてみると、蔡鍔と参謀たちが議論しているところだった。


「蔡鍔が立ってわれわれの方に歩いてきたとき」と朱将軍はいった。
「私はびっくりして、口もきけなかった。

幽霊みたいに痩せおとろえ、頬はこけ、顔の中で眼だけが燃えて光っていた。
結核で死にかかっていたのだ。
声はすごく低くて弱くて、耳を寄せてゆかないと、ききとれなかった。
近づいてこられたときには、私は首をたれて泣き出して、ものをいうことができなかった。



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by far-east2040 | 2018-06-18 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編

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             曹錕(Wikiより借用)


「死にかけてはいたが、精神は、昔ながらに、剣のようにするどくはたらいた。

われわれがすわると、彼は全国各地での蜂起計画について説明したが、雲南は、他の諸省で共和派の軍が組織されるまでの、重荷をになわなければならない、とつけ加えた。

3日後には、袁の最強の軍の何部隊かがいる四川に進撃する計画であった。

彼はまた、ほかの部隊も周辺の省から四川に移動してきているにちがいない、といい、今度は1911年の戦闘とはまるでわけがちがうだろう、とわれわれに警告した。
四川は北方軍でいっぱいになり、それは袁が列強から取りつづけている借款によって、手厚く武装され、高い給与を受けていた。

清朝軍をけちらかしたような具合に、袁軍をやっつけることはできない。
袁は、南四川だけに4旅団もおき、腹心の手下のひとりに指揮させていて、さらに友人である、張り切り屋の小軍閥の曹錕(そうこん)が、成都の司令官としてひかえていた。

この小悪党の曹錕は、1923年に大総統に選挙してもらうために、議員のひとりひとりに5千元ずつわたしたので、われわれは後に『賄選大総統』と呼ぶことになった。


「わが軍の第二師団は、ただちに貴州省に入って同地の袁軍を掃討し、つづいて広西に向かい、さらに海岸の広東に進む、と蔡はいった。

第一師団は、他の何部隊かをしたがえて四川に遠征し、さらに何部隊かの援軍が、訓練が完了次第に送られるだろう。

 

「蔡は、みずから四川遠征軍の指揮をとり、さらに、他の南部三省の共和軍の最高指揮官も兼ねるということになっていた。

雲南軍は、共和国の防衛の軍という意味の護国軍と改名された」

蔡が述べおわったとき、朱大佐が口をひらいていった。


「しかし、あなたはこの遠征は無理です。あなたは病人です。

命がなくなります」

蔡は朱を見つめ、それからはるか遠くを見るような目をした。

「ほかにやり方はない。いずれにしても、自分の余命はいくばくもない。

自分はわが命を共和国にささげる」



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by far-east2040 | 2018-06-17 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編