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2010年の8月15日にNHKで放送されたテレビドラマの特別番組だった。

「志願兵」ということばに引かれて観た。

このドラマは志願兵や徴兵のことを考えるのにすごくよかったという記憶があるので、6年前のものだけれど、ぜひ再放送してくれたらいいのにと思っている。


太平洋戦争の戦局が悪化する1943年、名古屋市の旧制愛知一中で3~5年生700人が海軍予科練への志願を表明する「総決起事件」にまつわる人間模様を描いていた。まず徴兵年齢に達していない、当時15歳だった青年を主人公にするドラマはめずらしいとも思った。

原案は江藤千秋の『積乱雲の彼方に - 愛知一中予科練総決起事件の記録』。

Wikiによるとあらすじは


太平洋戦争末期、エリートと呼ばれる愛知一中の生徒たちは戦局を冷静に見つめていたが、決起集会で状況は一変、全校生徒700人が戦争に行くことを志願する。その裏には軍の兵士不足解消の思惑があったが、少年たちの心は戦争へと飲み込まれていく。

そこには切り裂かれた少年たちの夢や友情、そして彼らを戦場に送らなければならなかった教師や親の葛藤があった


18歳だった父の「志願兵」にまつわるエピソードも聞いていたので、いろいろ想起することがあった。
1938年(昭和13年)に朝鮮人の青年を対象に「陸軍特別志願兵令」が施行されて、選考に合格すれば入隊することができた。父のように内地日本で育った朝鮮半島出身者は適した人材だったと思う。

というのは日本語が内地日本人と同じようにできるからだった。

父は1940年に旧制の高等農林学校に入学していて、在籍中の一年の担任から毎日ビラを渡されて「志願兵」になることを勧奨されていた。

父は帰宅すると、祖父に「志願兵になることをすすめられた」といってそのビラを渡していたが、「兵隊にするために学校に行かせてるんちゃう」といって祖父は無視していた。何回か続くと、とうとう祖父も黙っていられなくなって「先生は学校におるか」と父に確認すると、外出用の背広を着こんで学校に出向いたという。

このあたりの時代背景をイメージするのに『15歳の志願兵』はとても参考になった。
祖父は父の担任と学内の一隅で話しあいを持った。

話しの展開はわからないが、はっきりしていることは、祖父の方に説得力があったということである。

担任の勧奨は止まった。

祖父は父に「もっと勉強しろ」というふうに諭した。

父はのんびりした性格で、それまでは学年で「中の中」ぐらいの席順の成績だったのであるが、その日を境に必死に勉強するようになり「上」の席順をとるようになった。

祖父から父への申し送りに力を感じる。

さらにわかっている事実は、この担任は朝鮮半島の水原高等農林学校の出身で、この学校は現在のソウル大学農学部の前身であることと、祖父と祖母は父が生まれる前後に乳離れしていない長男を亡くすという経験をしていた。


それと後に父が朝鮮半島で就職できたのも、1年のときのこの担任の紹介だった。

父は卒業後一旦は東京の蒲田にある軍需工場の下請け会社に就職したが、専門も生かせないし展望が持てない日々を送っていた。

この担任からふるさとの朝鮮半島での就職を紹介できるので、いやなら戻ってきていいといわれていたらしい。


当時は戦中で兵力不足のため、それまで徴兵を猶予されていた高等教育機関に在籍する主に文科系学生の学徒出陣がなされていた時代だった。

1943年(昭和18年)10月21日に東京の明治神宮外苑競技場でよく写真で見る出陣学徒走行会がなされた。

さらに朝鮮半島出身の学徒にも当然対象が広がってきていた。なぜなら兵力の絶対的な不足があったから。



李光洙その後創氏改名して香山光郎と名を変えた有名な戦前戦中の作家がいた。この作家の朝鮮半島出身学生を集めた講演会が東京で開かれた。父もたまたま東京にいたので参加したのだが、もちろん時局の要請でなされた集まりなので、「戦争に行け」という内容だった。

因みにこの作家は朝鮮戦争中、北朝鮮側に拉致されて亡くなったらしい。


父の決断はあの担任と連絡をとって別の就職に望みをつなぐことで東京を出た方がいいということになった。

私のような世代の親たちはあの時死んでいたかも知れないという経験から免れていない。

蒲田周辺は東京大空襲で焼け野原になった所なので、父もあの時死んでいたかもしれないと語る過去の語りの1つになっている。


『15歳の志願兵』を観終わったあと、こんなことがぐるぐる頭の中を巡っていたのだと思う。

それから6年たったが、またもや戦争に向かいそうな時代になってきたことを憂慮している。



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by far-east2040 | 2016-08-09 16:27 | 戦争の記憶

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朝鮮戦争について書かれた優れたドキュメンタリーの存在は知ってたけれど、つらいので避けてきた感じがする。


朝鮮戦争はやっぱり北朝鮮側が先に仕掛けたのかな。


いや、裏の裏はもっとややこしいかな。


二十代の若者だった父は、この戦争が始まったときはたまたま日本にいたので、「命拾いした」というのが正直な感想だったらしい。


その後の戦局の情報を得ていたとき、「父母や弟妹が住む国が共産主義国家になるんだ」と将来を予測したときがあったという。


なお、この戦争で亡くなった民間人軍人の中には戦中の強制的に実施された徴用や慰安婦の件で重要な証言できる人もいたのではないかと思う。


親日派の問題があるので、生存していても、表には出難い面があっただろうとは思うが。





2010-09-27公開

子どものけんかも大人のけんかも、そして国のけんかである戦争も、どっちが先に始めたかがよく問題になる。

朝鮮戦争に始まり、ベトナム戦争、イラク戦争。

たいていは始めた方だけではなく、他方も先に手を出していたかも知れない事情、或いは相手に先に手を出ささせた事情があったように思う。双方に言い分らしいものもあって、まともに付き合うと疲れてくるという教訓を得ている。
つまり権力者に関しては「どっちもどっち」と考えている。

さて、主人公ハン・スーインが朝鮮戦争の発端について書いているので抜粋する。

香港の共産系新聞が彼らの観点から見た真実を発表するまでには、まる三日かかった。
それは南鮮が北鮮に侵入したというものだった。
「アメリカ帝国主義のけだものどもは、国連の協議も待たずに朝鮮に侵入した。
この侵略によって、アメリカはその世界征服の野望をはっきり暴露したのだ」
そして、なんといっても中国人はばかではなかったから、たとえあの小さな町の住民でもそうではなかったから、この新聞論調には首をかしげた。
ここにおいて、はじめて彼らの新政府にたいする信頼は揺らいだのだ。

「二日前に、われわれはラジオで南鮮が北鮮に侵入されたと聞いた。
ところがいま政府が言うのを聞くと、それは反対だという。
それでいてなおいま南鮮を破竹の勢いで進撃しているのは、北朝鮮なのだ。
だれかが嘘をついている。
なぜわれわれの人民政府がわれわれに嘘をつくのだろう」
だがすぐにこれらの疑念は、アジア人にたいする白人の干渉への怒りに一掃されて姿を消した。
「いったいなぜアメリカは、朝鮮に自分たちの意志を押しつけなきゃならないのだ。
朝鮮人はわれわれの兄弟だ。
ひとつの国を二つに割って、それがまたひとつになりたいと望むのを、だれも阻止することはできないのだ」
というわけで、多数の中国人がアメリカに反感を持った。
アメリカにはアジア本土の問題に干渉して、事情をいっそう悪くさせる権利はないと考えたからである。       (514~515ページ)

民衆の心理がマス・メディアの情報によって操作されやすいことも感じとれる。
権力者の考えていることは、今とあまり変わっていないように思う。



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by far-east2040 | 2016-07-07 10:40 | 戦争の記憶




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この本も「もう読み返すことはない」と思い、数年前に手放した。


ベトナム戦争もそうだけれど、朝鮮戦争には強い憤りを感じる。

大国の裏で操る人たちの思惑で起こされた無意味な戦争だったと思っている。


ある会社が倒産したので管理職は全員撤退することになった。

会社の運営をほとんど経験してこなかった残された者たちは業務引き継ぎもないまま会社の再建をすることになってしまった。

そこへ大火が起こった。

私にはこんな風に朝鮮戦争は例えられる。


父の親族があの時代をどう生き抜いたのだろうかとも思う。

この戦争が起こらなかったら、父は多分日本にいなかっただろうから今の私も当然生れていない。

叔父の一人はこの戦争に従軍して負傷した。


因みに主人公の恋人マークはイアン・モリソンというイギリス人特派員で、東洋文庫の基礎になったモリソン文庫を創った人の息子とどこかで読んだが、多分正しいと思う。



2010-09-24 公開

手元にある文庫本『慕情』(角川文庫)は、アメリカ映画「慕情」の原作“A Many-Splendored Thing(多くの輝けるもの)の全訳である。

原作の刊行は1952年で、日本では深町真理子さんが翻訳して1970年に発行されたものである。

映画自体は1955年に公開されている。

物語は香港を舞台にした1949年から1950年にかけての激動の時代の出来事をラブストーリーを織り交ぜながら描いていて、映画とは一味違う。

個人的にこの本が好きなのは、主人公の恋人マークが従軍記者として朝鮮戦争を現場で見ているからである。
主人公ハン・スーインは同じアジア人としてのコリアンの受難を憂い、マークは恋人と同じアジア人としてのコリアンを気にかけている心情が手紙で綴られている。

マークが、コリアンが地上から消えていくのではないかと綴る箇所は胸をつぶれる思いがする。
良心的な外国人が見聞した朝鮮戦争の記録も含まれている作品と考えると、珍しいものに思える。

当時の香港は外国の特派員や記者が多数集まり「アジアの十字路」とか「竹のカーテンの隙間」といわれていたという。

中国では反米運動が高まり、難民が香港や台湾に逃げてきていた。

一方が「共産主義の脅威」をいい、他方は「帝国主義の戦争欲」と非難しあう政治的緊張が続く社会が綴られて、東西冷戦時代の幕開けというものだろうか。

そんな中で、主人公が戦争が始まったことを知ったときの様子が印象に残っているので、抜粋する。

わたしたちはベイ・ホテルのベランダで昼食をとった。
そのとき、べつのテーブルにいた肥った禿げ頭の男が、こちらに身をのりだし、アンに言った。
「ニュースを聞いたかね。アン?」
「いいえ」
「朝鮮だ。北鮮が南鮮に攻めこんだ。ゆうべ38度線を越えて侵入したそうだ」
「まあ」アンは言った。
「じゃあ戦争ね」
「アメリカ軍がぞくぞく戦線に向かっている」肥った男はいった。
「アメリカにとっちゃありがたい話さ。めんどうな宥和政策なんてものがいらなくなってね。まあ見てるがいい。いまいましいロシア人どもに一泡吹かせてみせるから」

つづく数日間は、わたしにはぼんやりした悪夢の連続でしかなかった。
歓呼と狼狽と予言とのごった煮が、四方からわたしに襲いかかった。
一部の人のなかには、不穏な、不確かな平和という退屈から、やっと解放されたという開放感、とにかくこれでどちらかに結着がつくという一種の安堵感があるのをわたしは認めた。……
(512~513ページ)



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by far-east2040 | 2016-07-06 10:07 | 戦争の記憶

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動画の中の肥田舜太郎氏は94歳だから、現在99歳!

放射能に対する感受性は個人差があることは知っていたが、この方は実際広島で被ばくされたのに、この歳までしっかり生きてきておられる。どうしてかしら。

あとこの映画「純愛物語」に出てくるような悲劇はこれから増えそうな気がする。 
社会の不安定さも戦後まもない頃と豊かさを除いたら、似ていなくもないし。



                         2011-05-14  公開

前回エントリーで紹介した福島から避難してきた女性の前に講演された方が、広島で自らも被ばくした医師である肥田舜太郎氏であった。この方は94歳であるにもかかわらず杖だけでずっと立ちっぱなしで講演された。しかも背筋がまっすぐで矍鑠としていた。

「内部被ばく」や当事のアメリカがこれらの症状が明るみに出されることを避けたという政治的事情について学ぶことが多い。原爆に落とされた後に広島・長崎に入って被ばくするという「入市被ばく」とか、身体がだるくなって傍から見ればぶらぶらして怠けているように見える「ぶらぶら病」についても、直接医師として見聞きしておられるので説得力がある。

見終わってから、30数年前に観たある邦画を思い出したので紹介したい。
「純愛物語」という一見恋愛映画のようなタイトル。しかし広島の原爆も扱っていて薄幸のヒロインのけなげさが際立ち、今観たら泣けると思う。冷静に考えたら、反戦・反原発映画として秀逸のものに思えるのだが、何らかの規制があったのか、古くさいのだろうか。


Wiki
によると概要は以下のとおり。

広島の原爆で被爆した少女を描いた作品だが、舞台は東京。遠い広島のことを連想させるシーンは作品の中盤まで一切ない。いわゆる不良少年と不良少女の恋愛物語としてストーリーは展開していく。原子爆弾被爆者の医療等に関する法律が制定された1957年に作られた映画だけに、被爆者の問診風景では主人公の少女の他に、胎内被爆と思われる少年などが描かれるなど、シナリオを書いた水木洋子の鋭い視線が光る作品となっている。水木は、1955年から原爆関係の新聞記事のスクラップをつくっていたという。


不良少年と不良少女は江原真二郎と中原ひとみが演じていて、多分このお二人はこの映画の共演が縁で後に結婚されたのではないかと思わせるほど、お似合いのカップルだ。

Wikiによるあらすじは以下。

スリ集団の制裁から孤児のミツ子を救い出す同じ孤児という境遇の貫太郎。ミツ子はスリから足を洗う決意をするが、ふたりは共謀して再びスリに及ぶ。刑事に摘発されたふたりはそれぞれ更生施設に送られる。やがてミツ子の身体に異変が起こりはじめる。病変は、ミツ子が広島で育ったことと関係があるのだった


中原ひとみさんが演じるミツ子が更正施設でだんだん疲れやすくなって不調を訴え始める。周囲からは怠けているといじめられる。女性教官の計らいで外の医師の診断を受けるのだが、幼いころにおばあちゃんの背中におぶわれて広島に両親を探すために入ったことを初めて語る。
それからだんだんいわゆる白血病の初期症状が現れ始めて、施設を出て貫太郎と貧しいながらもいっしょに生きていこうとする中で亡くなるので、涙腺がみるみる緩む。


「直接被ばくしていないのに、こんなふうになるのか」という消化しきれていなかった問いへの答えを肥田氏からもらったような感じがする。
シナリオを書いた水木さんも新聞報道を通じて「入市被ばく」で亡くなるケースの存在を知っていたのだ。

良質の動画を見たとき、現在のネット環境をありがたく思う。


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by far-east2040 | 2016-07-01 21:21 | 戦争の記憶

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著者が社会人で大学に入り直して朝鮮語を学ぶ動機の一つが被害者から通訳なしに直接ヒアリングしたいためというのをどこかで読んだ。

子どもを保育園に預けながら、大学生活を続けるなんて、よほど強い信念がなければできなかったと思う。

この本を読んだとき、「そうかな?」と思うところもあったけれど、全体的には私にはとても貴重な本だった。



                          2010-07-16公開

副題はー「韓国の広島」はなぜ生まれたのかーである。
「韓国の原爆被爆者を救援する市民の会」の会長をなさっている市場淳子さんの著作である。1998年に前会長松井義子さんが亡くなられたので、その後を継がれたのだと理解している。

著者紹介から抜粋する。
「1956年、広島県生まれ。大阪府在住。1979年1月に初めて韓国を訪れ、在韓被爆者の実態に接して以来、「韓国の原爆被爆者を救援する市民の会」の活動にたずさわり、現在会長。大阪外国語大学、神戸女学院大学朝鮮語講師」

松井さんに講演していただいたときに、後継者としてこの方の名前を聞いていた。当時市場さんはまだ手のかかる子どもさんがいるのに大学に籍を置いて朝鮮語を学ばれ,と同時に「市民の会」の活動もなされていたということで、松井さんが評価されていたことが記憶に残っている。

その市場さんのこれまでの活動の報告と、「韓国の広島」と呼ばれている韓国慶尚南道陜川郡の歴史的・社会的研究をまとめられたのがこの本である。この本を通じて、いっそう原爆の使用に対して強い怒りを持つようになった。

私が在韓被爆者に関心を持ち始めた理由は個人的なものである。父方の一家の戦前戦中戦後の歩みを検証したいと思ったとき、祖父や祖母は亡くなり、父の世代も高齢になってきたり亡くなったりと、直接話しを聞く機会がなくなっていたからである。

故郷はどんなところか、日本に渡るとき、また帰国したときどういうふうに、どんな手段でと想像するものの、具体的にイメージできないことを残念に思っていた。

だから祖父の故郷が「韓国の広島」と呼ばれていることを知ったときは、在韓被爆者と祖父は何が違っていたのか、どうして祖父は広島を選ばなかったのかという疑問から資料を探すようになった。そういう理由で在韓被爆者の資料の一つとして、この本に出会った。この本は韓国語の文献からの引用もあり、参考になることが多い。

広島・長崎の原爆の被害への憤りを持つとき、私は日本人だけでなく朝鮮半島出身者も視野に入る。




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by far-east2040 | 2016-06-27 16:00 | 戦争の記憶

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こういう方に直接お会いできたこと今でもよかったと思っている。


祖国が解放された頃、亡父はふるさとに戻っていたので、広島から帰国してきた原爆被害者から直接原爆の恐ろしさを陜川(ハプチョン)郡のどこかで聞いている。

「電車が舞い上がった」と。

日本育ちの亡父は生々しい証言を聞いて、

「ああ、自分を育ててくれた日本がもうめちゃくちゃになったんだ」という感慨で胸がつぶれそうだったと。

機会があれば、知る人はもう誰もいないふるさとに一度訪ねてみたいと思っている。



                                      2010-07-16公開

在韓被爆者の救済に中心的役割を果たした「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の代表をなさっていた方である。

スタッフとして働いていたアジア図書館で企画した「アジアを囲む会」という集まりでお話しをしていただいたことがある。もう20年ほど前になる。テーマが硬いとやはり人の集まりは望めなく、この日もごく内輪の人の集まりになってしまった。

当時は「アジアブーム」といわれていた頃なので、テーマ次第では椅子が足りなくなるぐらい人が集まったので、裏方として申し訳ない気持ちでいっぱいだった。しかし松井さんはほとんど気になさらず、それまでの活動のあらましに始まり、当時何が問題になっていたのかを講演してくださった。
* 
講演後は車で来ておられたので、スタッフと近所の喫茶店でお茶をご一緒した。
ちょうど真向かいにすわることができたので、
「ふるさとは陜川(ハプチョン)郡なんです」
と普段口にしない故郷の名前を出すと、
「韓国の広島といわれているところですね」
と即座に返してくださったのだが、会話がとぎれてしまった。

私もふるさとが「韓国の広島」と呼ばれていることは知っていて、
「そうであったかも知れないけれど、そうではなかったという立場」をどう表現すればいいのか、どうしても運がよかったということになりそうな気がして、ことばが続かず失礼してしまった。ただ活動に対して敬服していることを一言いいたかったのだが。

1998年12月に70歳で亡くなられたことを新聞の小さな死亡欄の記事で知った。確か葬儀もなさらなかったと記憶している。偶然参加していた集会で司会をされていた、きりっとした痩身の姿を思い浮かべて、あの方らしい生き方でしめくくられたという印象を持った。
* 
現在でも、密かにこういうふうに生きたいと思っている方のお一人である。
* 
後日、植民地だった「満州」の大連で生まれ、戦後無教会派のキリスト者として活動をなされた経歴を知った。著作も多いので紹介させていただく。

 『台所の聖書』 (聖燈社 1976
 『わすれなぐさ』 (キリスト教図書出版社 1985) 
 『平和のパン種』 (東方出版 1993
 『死ひとつひとつ』 (松井昌次・松井義子追悼文集)(松井謙介編
                            番紅花舎(さふらんしゃ) 2003




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by far-east2040 | 2016-06-26 09:29 | 戦争の記憶