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主人公たちは子役から青年になり、戦中の朝鮮半島が舞台になったので、当時の日本語と朝鮮語の使用について考えてみた。

植民地時代だからといって、朝鮮半島は一様な日本語使用社会ではない。
ドラマでも町の看板を始めとする印刷物は漢字、ひらがな、ハングルが混在していた。
慣れるまでちょっとおかしかったが、登場人物はドラマなので日本人役の俳優もみな韓国語を喋っていた。

実際は日本人同士は日本語、朝鮮人同士は朝鮮語のはず。
では日本人と朝鮮人が出会う場ではどうだったろか。
朝鮮半島が併合された初期のころは通訳が活躍したと思う。


植民者二世として朝鮮半島で生れ育った作家森崎和江著『慶州は母の呼び声』によると、


「わたしの父は大邱公立高等普通学校、つまり朝鮮人の少年たちの五年制の中学校に勤めていたのだ。朝鮮人は家庭では朝鮮語であったが、併合後は国語は日本語ということになり、生徒たちは国語として日本語を学習した。普通学校の入学率は低かったが、学校では朝鮮語のほかに日本語を学び、高等普通学校の受験を志す子は日本人の子らとかわらぬ理解力を日本語にも示した」


教育を受けた若者になったチェフンもカンチョルもバイリンガルだった。

銀行の頭取になったチェフンが総督府に出向くシーンがあったが、流暢な日本語で交渉できたのだと想像する。

Koreanは教育を受けてバイリンガルになれるいうことをこの時代に経験している。


さらに森崎和江さんの著作によると、


「わたしの父は、他の日本人教師と同じように朝鮮語を使えなかった。総督府では官庁の職員に朝鮮語の習得を奨励していた。その試験の合格者には手当を給付した。公用語は日本語だったが、都市部はともあれ、村に入ると必要だったから朝鮮語を話す役人や警察官はすくなくないのだった。」


ところが、1938年の第三次教育令で随意科目になり、しだいに教育現場から「朝鮮語」は排除されていったという。
しかし農村部や朝鮮人同士や家庭の中では当然のことながら、朝鮮語で話していた。

亡くなった私の父も農村部の面事務所(日本でいう村役場)で働く下級官吏だったが、農家をまわるときは朝鮮語を話せないので、日当で通訳を雇っていたという。

「学校でうっかりして朝鮮語を話したら、先生から怒られたり、「ごめんなさい」と謝らされたりした」という内容で思い出を語る韓国にいる遠縁の親族を数人知っている。

こういう風景は沖縄で日本語を普及していくときにも一時見られたという文章をどこかで読んだ。東南アジアでもそうだったかも知れない。

戦中は公教育の現場や官公庁においては日本語使用が徹底されていった時代だった。
理由はなんだろうか。朝鮮語の学習時間が国語の学習の妨げにはなっていないと思うが。どう考えてもバイリンガルの人間や社会への圧力と写る。

森崎和江さんのお父さんが戦後日本に引き上げてきてまもない頃、自分の教え子たちが一人でものを考えるときも日本語だということを気にかけて泣いていたという思い出も読んだことがある。

私はバイリンガルでないので、ものを考えるときの言語の選択がどんなものかよくわからない。

学校で習った主たる言語がものを考えるときの言語になるのかな。


話がそれてしまうが、1942
10月に朝鮮語学会事件というのが起こった。詳しく語る見識はないが、ハングルを保存していこうとする学者たちの集まりだった朝鮮語学会の主要メンバーが別件で治安維持法違反で逮捕されるという事件だったらしい。

8月15日の解放後、「地下」でしか行動がとれなかった学者たちが一斉に表に出てきて、まずハングルを教えないといけないということで、にわかに講習会のようなものが開かれたらしい。

亡くなった父もそのような場で子どもがひらがなを学ぶようにハングルを習ったらしい。

「そのへんの先生ちゃう。えらい学者に教えてもらった」と語っていた記憶がある。


で、なぜ戦中こんなふうに朝鮮語使用を弾圧したかだが、私はやはり戦力不足を補うために実施された朝鮮半島での「徴兵制」が関係しているように、ドラマを観て改めて思った。


これはKoreanにしてみれば、負の記憶として残ってきたと思う。



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by far-east2040 | 2016-09-29 14:49 | 言語・文化・民俗……

エスペラントと英語

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2010年チリでの鉱山事故を知って書いた文章の再掲と英語について最近思うことを書いてみた。


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「エスペランサ(希望)」を聞いて知人を思い出した。

                              2010-10-14


チリ北部の鉱山事故で地下に閉じこめられた作業員救出作業が昨日から始まった。一人目がカプセルから出てくるところはリアルタイムで観ていた。いよいよお父さんが上ってくるという段階に入って、幼い息子が感極まって泣き出すシーンが感動。ちょっとウルウル。

一連の報道の中で、希望を意味する「エスペランサ」ということばを何回か耳にしたのだが、夫も私も50代という若さで逝ったエスペランチストの知人Hさんを思い出す瞬間を持っていた。もともとは夫の行きつけの「立ち飲み屋」の常連客という縁で親しくなり、私も数回いっしょに飲んでおもしろい話しを聞くことができた。

満州から引き揚げてきたのだが、38度線を越えてやっと韓国の釜山で引揚船に乗る際、親とはぐれて迷子になって「あわや……」という話、引き揚げ後の生活の困難さ、学生運動、挫折、語学を必死に勉強したこと、新婚旅行は韓国のエスペランチストを訪ねる旅でもあったこと、好きなヨーロッパ映画の題名をそのままお嬢さんの名前にしたこと、息子さんの行く末を心配していたことなど。 

酒をこよなく愛する人で、ヨーロッパのエスぺランチストを自宅に招いて交流という知識人の顔も持ち、下町の「立ち飲み屋」で庶民の酒を一人でたしなむ時間も大切にしていた。なじみのスナックでは「先生」と呼ばれていたと夫の証言。

「アナーキスト」を自称して、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の時代背景あたりのアナーキズムの在野の研究家でもあった。このあたりはむずかしくてよくわからないのでここまで。

仕事柄インターネットは早くから利用していて、一般に普及し始めたころ、インターネットで世界をつないでいく言語として「エスペラント」の地位を上げることに関心を持っていた。積極的に講習や講演をしていた頃に「病」を得て亡くなった。
本人の強い希望で「葬儀」「周囲への告知」もしていない。夫も「立ち飲み屋」でのうわさで初めて知った。

もちろん英語は「言語帝国主義」ということばで否定的にとらえていて、受身で聞くしかなかった。
アジア図書館にいた頃は「エスペラント」について考えるきっかけもあったが、その頃に比べるとだいぶ考えが煮詰まってきて、今なら私の「言い分」もあるが。

数年前、新聞のコラム記事で、同じエスペランチストでもある夫人が遺稿集を編集しているということを知った。

どうやらチリでは33人全員が救出されたようだ。

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H
さんがもう亡くなって10年ぐらい経っている。

アナーキストだからなのか、政治、経済、宗教など世の中のこと全般に渡って感情的になることはなく、距離を置いてクールに眺めている感じだった。

世俗的なことにほとんど興味もなかったようにお見受けした。


病気になってからは医師から大好きな酒類を一切止められていて辛かったようだ。
亡くなった後、夫人がかばんの中から飲みかけの焼酎の入った瓶を見つけたという笑えない話を聞いたときはほんとに好きだったんだと思った。

Hさんの亡くなった年齢を今の私はとっくに越えている。

あらためて早く亡くなりすぎたと思う。


英語についてはHさんが今生きていたら、「やっぱり英語じゃないですか」と言いたい。

多言語を話す人たちを知っているので、人間は複数の言語をある程度受けいれる能力は誰でも持っていると思ってきた。

日本社会では英会話能力を伸ばす必要性がなかった。

これだけ米国の影響下にあるというのに、不思議だ。


エスペラントについてはこれからもいっそう衰退していき、20世紀の遺物になると思っている。もうひょっとしたら、遺物かも知れない。


エスペランチストは日本だけでなく、世界のどこでもそうだと思うが、インテリやエリート層の趣味の言語という感じがしてきた。


H
さんからエスペランチストの学習会にはそうそうたる肩書きを持つインテリが集まり、エスペラントで講演しているときに、途中でいつのまにか英語に切り替わったりしたなんて話を聞くと余計に思った。


エスペランチストが平和主義者だということには敬意を持っているが、私から見れば、雲の上の人たちだ。

そういう人から言語帝国主義ということばで、英語をさらりと流してエスペラントをと言われてもそう簡単に納得できない。


社会的に立派な肩書きはなくとも、エスペラントを話せる人はほとんど英語(地域によればロシア語)も話せる人ではないだろうか。それと外国語の効率的な学習方法や楽しみ方を知っている人だと思う。


一方で、母語+学校で習う外国語、または生活のために身に付けた外国語で四苦八苦してる人たちは多いはず。私もそうだ。


しかし、この程度の英語でも、インドで幼い妹を学校に行かせるために物売りをしている少年とかんたんな会話は通じるだろうし、アジア各国で英会話を学習して今いる場から這い上がろうする人たちとなんとか会話は通じる可能性はある。


広大な中国大陸では地方ごとの言葉があり、中国語を学習することで一体感を築いてきた。

同じような感じで、多言語であるアジアを繋ぐ共通言語としてはっきりと英語を位置づけていけばいいように思う。

「あれっ、英語って南米や欧米でも通じるわ」なんて思えるぐらいに。


と考えて英語を勉強してるけれど、なかなか集中力が続かないのが悩みだ。



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by far-east2040 | 2016-09-18 14:08 | 言語・文化・民俗……

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よく買い物をするスーパーの漬物コーナーでは、梅干、たくあん、キムチを並べる面積はほぼ同じで、他の漬物よりも圧倒的に広い。

いつからこんなに普及し始めたのかなと思う。


私は結婚するまで、キムチを買ったことがなかったが、夫が毎日食べても飽きないぐらい好きなので、買い始めたのである。

夫は九州の田舎町で育った人なので、多分大阪に出てくるまでキムチは食べたことはなかったと思う。

ある日下町の露天で売っているキムチを食べたときに、あまりの美味しさに帰郷するときにはおみやげに持って帰ったこともあるという。


夫が出かけるときによく一人で作るお弁当は、ご飯の間にマヨネーズ、キムチ、ピザ用チーズをはさんだキムチ丼風か、マヨネーズかマーガリン、キムチをはさんだサンドウィッチだ。

私は受け付けられないので味はわからないが、本人は「こんな美味しいもの……」というぐらいかなりいけるらしい。
キムチとマヨネーズは合うらしい。

韓国でこんな丼やサンドウィッチ売っているのかな。


私は小さいころからキムチを眺めてはきたが、複雑な家庭環境ゆえに親しめなかった。
兄妹みなそうだ。
今までの見聞でいうと、在日Koreanではかなりめずらしい。

小さい頃の味の記憶がないので、冬場にスープやお鍋で美味しく食べるぐらいで、今でも漬物としては積極的に食べたいと思わない。

夫の酒飲み仲間から「アホちゃうか」なんていわれたことがある。


Koreanとキムチの関係は日本でいえば、なんだろう。
たくあんや梅干との関係は超えている感じがする。
キムチなしでKoreanは生きていけないのではないか?


新聞を購読していた頃、1932年生まれで現在84歳の作家高史明氏が、少年時代の思い出話を語るコラム記事を読んだが、キムチに触れていたところを覚えている。


……冬は教室のダルマストーブに弁当箱を並べて温めていたのですが、うちのおかずはキムチしかない。そのにおいが教室中に広がって、くさい、くさいと騒ぎになった。自分もくさいと思ったのですが、気がついたら原因は自分だった……。自分が二重に壊れてしまった感じで、くさいと言っている連中を一人ずつ殴りつけました」


高史明氏はお母さんを早くに亡くしているので、このお弁当はお父さんが作ったものだと思う。
それを思うと、余計に胸に迫ってくるものがある。


1930年生まれの韓国人女性イ・サンクム(李相琴)さんが、15歳で帰国するまでの思い出を綴った『半分のふるさと』にも同じように「キムチ入りのお弁当」がもたらした冬の日の教室内のほろ苦い思い出を書いている。

父の思い出にも当然キムチが出てきた。
1930年代いなか町の尋常小学校に、ほぼ初めての朝鮮半島出身の子どもとして入学したのだが、お弁当のおかずはキムチだけ。

他の子どもはうめぼしだけのいわゆる日の丸弁当。

その当時は麦入りのご飯が当たり前で、お弁当を持参できない子もいっぱいいたので、持参できるものがあるだけで恵まれていたという。

まわりから「くさい、くさい」といわれたので、隠して食べたり、わざと持って行かなかったりしたという。
祖母はキムチを水で洗ったりして入れてくれたが、父はみんなと同じうめぼしにしてほしいと必死に頼んだらしい。
祖母はどんなものかわからない。
仕方がないので、手に入ったまだ青い梅を切って入れてくれたらしいが、おいしくなかったという。
当り前だわ。
高史明氏もそうだが、父も笑い話として語る心境には達していた。

日本社会でKoreanが定着するところには必ずキムチがついてきた。


日本社会で一番早くキムチの美味しさに気づき、食生活に取り込んできたのは九州ではないかと思う。

「うちは朝鮮漬けも作りますよ」

なんて聞いたのも九州のお宅だった。

九州では早くから「朝鮮漬け」として、家庭でマメな女性たちに漬けられてきたようだ。

自分で白菜を栽培して、キムチを自分で作っている人を2人知っているが、偶然だろうかどちらも九州出身だった。


とにかくキムチとして、広く日本の家庭の食卓にも上るようになったのはこの数十年だと思う。
夫もそうだが、キムチをほんとうにおいしそうに食する日本人がいる。
当然まったく忌み嫌う人もいると思う。
私もそれに近いところがあるので、匂いがついていけないんだと思う。


反韓・嫌韓を煽る言論や行動の仕事についている人のことを考えていると、案外キムチは好きで食べている人もいるような気がする。


戦前のキムチが受けてきた扱いのひどさを知っているので、日本人の食欲を満たすことで確固たる地位を勝ち得たキムチの忍耐と努力に拍手を送りたい。



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by far-east2040 | 2016-09-11 15:13 | 言語・文化・民俗……

日本料理の独自性

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昔むかし、マレーシアの若い女性留学生と食文化の違いについて話していて、

「わたしは韓国人と台湾人とは結婚できる」

というので、理由を聞くと

「食べるものが似てる」といった。

「なるほどな」と思ったものだ。


これは食生活だけに限った世間話で、実際の結婚となれば、イスラム教徒以外との結婚はかなりむずかしいと思う。

多分、マレーシアではマレー系=イスラム教徒=イスラム教徒以外の結婚は禁止となっていると思う。今は違うのかしら?

実際マレー系の男性と結婚するために、イスラム教徒になるための学習プロセスを経て無事に結婚した日本人女性を知っている。

で、話を戻すと、あくまでも傾向としていうのだが、日本料理にはとうがらしの「辛味」がないということで、アジア全般を見渡して特長になっているようには感じる。

にんにくも伝統食の中で日本ほど使われない国はアジアでは珍しい。

あくまでも食文化の違いであって、優劣を語っているのではない。


私は今野菜を栽培する生活を持っているが、周りを見渡すとにんにくはたいていの人が栽培しているし、ホームセンターでも種球はシーズンになるとたくさん売られている。

にんにくは日本では避けられていた野菜の1つだったと記憶しているのだが、いつから普及してきたのかなと思っている。

中華料理の普及? それともイタリア料理のブームがあったらしいので、そのイタリア料理の受容からかな?


ネットでよくマレーシアなど東南アジアの庶民的な料理が紹介されているのを見ていると、どれも美味しそうだなと思う。

麺やご飯、チキンの上にかかる辛そうなタレがたまらない感じ。

その料理は日本以外のアジアのどこの国の伝統食にでも入っていけるというか、馴染んでいける親和性というものを感じる。

つまり、日本以外はみな似てる感じがする。

でも、タイのナンプラー、ベトナムのニョクマム、東北地方の魚醤は似ているらしいので、いろいろ例外がありそうだけど、日本の伝統食のアジアの中での独自性は際立っていると思う。

韓国にいる親族で日本でたびたび日本料理を食べた叔母がいるのだが、「日本料理は味がない」ということを不思議そうに語るのを何度か聞いた。

さらに「お皿にちょっとしか載ってない」と指先で「ちょっと」を表現するしぐさがおかしかった。
私にもう少し韓国語能力があれば、日本料理が持つ美学を多少は語ることができたのだが。


確かに韓国料理は辛味たっぷりで、お皿にしっかり盛られることが多いように感じる。

ドラマ『チャングムの誓い』を観ていたとき、宮廷料理として出される一人前の量が多すぎるので、残り物の行方をあれこれ考えたことがある。

人間の食べる量はさほど変わらないはず。

祭祀の際、あっさりして見た目もかわいいチジミを見たことがあるが、そのままでは食べず、やはりこってりした辛味タレをつけて食べていた。
韓国料理を色で表現すれば、とうがらしの色で、日本料理はおすましのようなうすいしょうゆ色かな。素材そのものの色合いを大事にしている感じがする。

私自身は韓国料理を味わう舌を持ち合わせていないので、日本のどこにも根がない、こってりしたしょうゆ味が好きになり、加齢とともにますます和食が好きになってきた。

JAPANESEKOREANの庶民の食生活の違いの1つは、KOREANは牛肉のおいしい食べ方を伝統的に知っていることだと思う。

最近、その肉食文化はモンゴル帝国が高麗という国を一時支配していた時に伝わっただろうという事実を知った。合っているように思う。

だから体格についていえば、肉食の伝統があるKOREANの方が骨格がしっかりしているように感じている。もちろん一般論として。


在日文化としてホルモン焼きとか焼肉はよく知られている。

これは生活の貧しさから日本社会から見向きもされず捨てるような部位を見つけて生み出した料理と思っていた時期があったが、そうではない。

KOREANは母から娘に牛肉のすべての部位を美味しく食べる方法が伝えられていたからだ。


伝統的な日本料理は繊細な美意識を表現する巧みさがなければ、外国で正確に語るのはむずかしいように思う。



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by far-east2040 | 2016-09-07 19:21 | 言語・文化・民俗……

父系の血縁集団を表す姓

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6年前はまだ新聞を購読していたので、その年のノーベル平和賞に、中国の作家で、服役中の劉暁波氏に決まったことを大きな活字で知った。

ノーベル平和賞に関心をもつ世界中の人は「劉暁波氏って誰?」って思ったんじゃないかな。
はじめて聞く名前だったし、服役している理由や受賞理由をあらためて知ってもほとんど理解できなかった。

政治にあまり関心をもてないからなのかも知れない。

中国側の言い分も、受賞を支持する側の言い分も、私には同じ距離があるというのが正直なところだった。

私が気になったのは、劉暁波氏の夫人の名前がやはり劉氏であることだった。
劉氏と劉氏が結婚していることになる。

ひょっとしたら、名前を変えている可能性もあるかも知れないが、封建社会の中国だったら、成立していない婚姻ではないかとちょっと思った。


最近、中華人民共和国成立の功労者の一人である朱徳の娘が生んだ孫が、現在の中華人民解放軍の幹部にいると知った。

当然生まれたときは朱以外の姓だけれども、朱姓に変えたとどこかで読んだのだが、多分合っていると思う。
軍部にいるので、朱徳との血の繋がりを表現するためだと誰でも考えてしまう。


韓国でも離婚再婚が増えてきているので、離婚後再婚した女性が、前夫の姓を名乗る子どもたちの姓を現在の夫の姓に変えることは法的に可能だと知った。

姓は父系の血縁集団を表現しているので、いかなる状況でも不変だと思っていたので、姓を変えることができる事実に時代の変化を感じた。

父系の血縁集団という本来の意味が崩れてきている。

朝鮮民族や漢民族、ベトナム民族の姓は血縁集団を表していて、女性は婚姻しても姓を変えることはない。これはよく知られている。

朝鮮民族は、過去において同じ本貫(氏族集団の発祥の地)どおしは婚姻できない法規制と慣習があったが、現在は北朝鮮でも韓国でも法的に婚姻は可能という。
しかし、北朝鮮はわからないけれど、韓国では根強い慣習として続いているはず。


金や李などのように数種類の本貫をもつ姓もあるが、たいていは1つである。
だから、違う姓同士なら、たいてい本貫が違うので婚姻可能。
もちろん同じ姓でも本貫が違うなら婚姻可能だが、違う姓でもたまたま本貫が同じ場合は不可能だったと理解している。

この慣習は、非科学的であることは間違いないが、はたで想像するほど窮屈なものではないかも知れない。
選択の幅はあるし、双方にとってフェアな忌避感情であるし、婚姻相手を選ぶ際のたしなみのようなものと理解しているが。

ただ、積極的に残していく遺産とは思えない。
 
かつて中国人の留学生に直接きいたことがあるが、同姓との婚姻を避ける慣習はないと聞いた。
地方に行けば、状況は少し違うかも知れない。


ベトナム人の名前のグエン、ファン、フィン、ホー……もみなかつては漢字一文字の姓である。
もと留学生で日本の大学でベトナム語を教えておられた在日ベトナム人男性に、こういう慣習があるのかきいたことがある。
南ベトナムで仏教に縁がある家庭の出身だった。

私の質問に即答しなかった。
首をかしげてしばらく考えて、
「年寄りはいやがる……しかし若い人は結婚するよ」
と答えられた。
 

こうなるとかつて儒教文化圏と呼ばれる地域に存在したこの慣習は、台湾の情報がわからないけれど、韓国において色濃く残されていることになる。

現在の韓国においては、法的には日本と同じように、医学的見地から近親結婚を禁止している部分を除いて、いかなる制約もないことになっている。


しかし、実際、韓国内にいるとどうかな。

若い世代の人たちは親の世代に比べるとはるかに変化してきているのは間違いないが、同じ姓や本貫同士、慶尚道出身者と済州島を含めた全羅道出身者との結婚忌避は、現実問題として水面下では存在しているように思う。



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by far-east2040 | 2016-09-02 17:03 | 言語・文化・民俗……

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女性史の在野の研究家でもある作家森崎和江さんの父親は、植民地下の朝鮮半島で朝鮮人の五年生の中学校である高等普通学校の教師だった。

そのため森崎さんは1927年に朝鮮半島で生まれたのだが、ご自分の植民地体験を客観するために回想記『慶州は母の呼び声』(ちくま文庫)を書いた。

この本は個人的にとても味わいがある作品だ。

序章より

……わたしが生まれた大邱は今日の韓国の、慶尚北道大邱市である。町名の三笠町というのは植民者である日本人が名付けたのだと思う。旧市街の中の日本人住宅地の一角であり、わたしはここに産院をひらいていた日本人医師の産室で助産婦によってとりあげられた。
 三笠町という町名が生まれ、消え去ったように、他民族を侵しつつ暮らした日本人町は、いや、わたしの過ぎし日の町は今は地上にない。


日本人町は内地日本での故郷を異にする人々が永住目的で新たに築いたコミュニティだった。

公務員は外地手当がかなりつくので、ここでの暮らしはかなり豊かだったことが書かれてもいる。
普通の家庭でお手伝いさんがいて、夏にはプールへ行ったとか、進学するために福岡に戻ったとき、農作業を日本人がしていることにびっくりしたとか。

このようにこの著作は私にとって興味深い記述が多いのだが、当時森崎さんが使っていた日本語のことに触れているところもその一つになっている。

運動会のシーンより

「先生はほとんど日本人であり、日本語で号令をかける。生徒たちの掛け声も日本語である。普通学校時代に習得してきているので、わたしたちとかわらない。わたしら植民者の子どもたちは朝鮮人の子どもたちが学校で習う日本語と同じことばを使った。それは方言のない学習用語で、標準語と言っていた。家庭でもそれを使った。
 余談めくが、敗戦後二十余年ぶりに韓国で旧友に会った時、その日本語が昔のままに、なんのなまりもないことに激しいめまいを覚えた。日本に帰って来て、その日本語と同じことばを耳にしなくなっていた。地方はもとよりのこと、東京語も、そして共通語にも地域ごとのなまりがあったから、わたしは亡霊となった自分に出会った気がした。」


父と同じ1925年生まれの金大中氏も流暢な日本語を話していたが、こんな日本語だったと想像する。

どうしても韓国人独特の発音上の限界は残っただろうが、日本語としてはていねいな響きを持っていたと思う。

現在の韓国大統領パククネ大統領の父親である1917年生まれのパクチョンヒ前大統領をはじめとする同年代の学校教育を受けた韓国人もていねいな日本語を話していたはず。

但し家庭では日本語なんて使わない。そこが日本人との違いである。

今風にいえば、バイリンガル。


私の父も考えてみれば、ていねいなひびきを持つ標準語を話していたように思う。
ただ両親が朝鮮半島出身者だったので、なんとなく話している会話は聞き取れても話すことはできなかった。両親は生活を維持することに必死だったろうから、子どもに母語を残す余裕もなかった。


話が少しずれるが、妹は結婚して英国にいるが、息子には日本語を残したかったので、小さい頃は家庭では努めて日本語で話すようにしていた。ところが一日中忙しく働いていたりして、親の方に余裕がなくなり、とうとう日本語は話せなくなってしまったという。


母語についてほぼ真っ白な子どもに異国で母語を残していく作業はよほど生活に余裕がなければ、むずかしいものだと思っている。


というわけで、森崎さんの著書から日韓併合時代、朝鮮半島の教育現場・官公庁、日本人の家庭では方言のない学習用語である日本語が話されていたというなかなか知りえない事実を知った。



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by far-east2040 | 2016-08-12 15:33 | 言語・文化・民俗……

アジアの名前あれこれ


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震災半年前こんなこと考えてけれど、のんびりしてたなと思う。


結婚の形態がすごく変わってきているので、名前に関しては、これからはビルマのように婚姻や血の繋がりなどに重きを置かないで、単に「Aさん」「Bさん」「Cさん」のように個体の認識のみ使われる世界になっていくような感じがする。つまり個人としてああだこうだと主張し合ってるネットの中の世界。

全世界を視野に入れて名前を考えるだけもいろいろなことが見えてきそうだ。



                                          2010-09-20公開


朝鮮半島が日本の植民地になっていた頃の政策「創氏改名」を調べる機会があって、氏や姓、ファミリーネームについて考えたことがある。

日本の苗字は血縁集団ではなく、「家」の名前である。
かつて儒教文化圏にいた民族は血縁集団の名前である姓(苗字同様に姓がない階層もいたらしいが、ここでは考えない)を使う。漢民族や朝鮮民族、ベトナム民族など。血縁関係を表しているので、婚姻関係で変わることはない。一つ屋根の下に暮らす一族では、配偶者として嫁いできた女性だけが別の姓を持っていることになる。  

一方イスラム教文化圏内では姓や苗字を持たず個人名だけである。
むかしマレーシアの女性に、名前の後ろに「アリ」とか「モハメッド」に似たごつごつした男性をイメージする名前が付いていたので訊いてみた。
○○はお父さんの名前で、□□はお祖父さんの名前」と答えられて、儒教社会の姓のように父系を表現する努力を感じて納得できた。この名前の表現方法はモンゴル人も同じで、朝青龍の本名もこういう構造になっているはず。

ミャンマー(ビルマ)について調べることがあった。この国も多民族社会で、多分マジョリティに関する情報だと思うけれど、名前については個人名しかないとのこと。その個人名に母系はもちろん父系も表現する慣習がないらしい。つまり一つ屋根の下に暮らす家族はみなバラバラの名前しかないことになる。びっくり!
ネット上のニックネームのような世界かな。私にはなかなか理解しにくい状態で、「不便じゃないのかな」と思ってしまう。
しかし食べることや生きることに、また政治的に不自由はあっても、名前に関しては不自由はしていない。逆に世界的に見て女性の地位はそれほど低くないということをデータを使って説明していた。

以上は私が持っているアジアにおける各民族の名前の情報である。他の民族のことはわからないし、頭の中はすっきりと整理されていない。

というわけで、アジア全体を見渡して、名前について各民族の時系列の変化や現在の状況について書かれた一般向けの本を読みたいと思っている。




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by far-east2040 | 2016-06-24 10:37 | 言語・文化・民俗……