カテゴリ:第2巻「革命への道」改編( 48 )

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           日英同盟の風刺画(ビゴー作、Wikiより引用)


朱将軍は、つぎに談話をしにきたとき、義和団の乱につづく民衆の惨苦についてながながと物語った。

広西省では大飢饉になった。

政府軍は、飢えて反乱する人民を殺し、村を打ちこわし、遺棄された死体の山は犬がむさぼるままにさせられた。


多くの省で、年1回の地租が6回も7回も取り立てられ、牢屋は、そうした税が払えなかったり、役人が要求する賄賂が出せなかったりする農民でいっぱいになった。

朱家は、他とくらべてかなり運がよかったが、それでも、役人から税を厳しくとりたてられ苦労した。

きびしい労働を7年間たえて、なんとか以前からの1万文の借金をかたづけることができた。

と思う間もなく、新税でしぼりあげられて、一文無しにされた。

地代は上がり、借金の利息も高くなった。

前々から朱家は、朱徳の授業料を払うために二度ばかり小さな借金をしていたが、義和団の乱後のものすごい不況では、授業料をはらうことも、目玉が飛び出るような利息で借金することもできなかった。


シ老先生は朱徳を塾から手放すのを惜しんで、自分の家に住みこませて、食事代として分割払いで米百斤を出してほしいといってきた。

というわけでこれからは、朱徳は休日と休暇にだけ家に帰って、ほかのものといっしょに田畑ではたらくことになった。


老師の家に仮住まいするようになってからは、その家に宿をかりる読書人の旅人の話をきいたり、夜半までろうそくの火影にすわって、おそるべき反乱の予感について語ることも多かった。

こうした旅人のなかには、成都の官辺とつながりがあるものもいて、よく情報に通じていた。

1904年から1905年の学年もおわったが、彼はまだ師の家に住む弟子として勉学し、旅人の話に傾聴し、そうでなければとうてい得られなかったような広い知識を身につけた。

日英同盟の話もきいた。

1904年には、こんどは日本と帝制ロシアが満州を争ってたたかうという新しい戦争の風説が流れてきた。



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by far-east2040 | 2018-05-14 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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           日露戦争の戦場となった地域(Wikiより引用)


日本の勝利の知らせが四川の村々に達するには数週間かかった。


朱徳がいうには、この戦後から日本の勢力が急速に中国にしみわたってきた。
日本人の顧問が、政府の各部門、産業、いろいろな種類の学校、大学に入ってくるようになった。

「日本人の教師が、私の家からそんなに遠くない新学校にまできて、教えはじめた。
日本帝国主義の急激な勃興にあわてて、北京は何千の学生を日本に送った。

そのうえ、私費留学生が群れとなって日本にわたったが、主に、軍事、行政、国際法などを学ぶためだった」


多くのものが日本に留学したのは、そこでの生活費が中国とほぼ同じだったからだ。

義和団賠償金の奨学金でアメリカに行ったものもいたが、1905年ごろは人気がなかった。

というのは、そのときに中国人排斥法案制定が決定され、さらにアメリカ国内の中国人の虐待、ひどいのは殺害の噂まで中国につたわってきていたからだった。
全国民的なアメリカ製品不買運動がはじまり、大湾ですら人びとはものを買うとき、アメリカ製品かどうかをひとつひとつ注意深くしらべたものだった。


「1905年には、ロシアに動揺が起こっているという噂も耳にした」と朱将軍はいった。

「だが、四川にいては、1905年のロシア革命についてはそれ以上のことはわからなかった。

ロシアははるか遠いところだった。

白人の帝国主義強国がアジア民族の日本に敗れたということは、エジプトから中国までの被征服国民に希望の火をつけて、独立への民族主義的闘争の火ぶたが切られはじめた」


しかし、日本がロシアを破ったことは、中国では、インドやペルシアその他の国のようには受けとれなかった、と朱将軍はいう。

というのは、この戦争は、中国の勢力範囲内で中国の領土をあらそって起きたものだったからだ。

すべての中国人が、孫逸仙先生が考えたように、日本の勝利は白人支配者に対するアジア諸民族の闘争の烽火(ほうか)であると考えたわけではなかった。

孫博士は日本を利用しようとしたが、日本の帝国主義者は、中国の民族主義運動を利用してごたごたを起こし、漁夫の利を得ようともくろんだ。



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by far-east2040 | 2018-05-13 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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            黄興将軍(Wikiより引用)


1905年には、孫博士は、いまなお巨額の賞金を首にかけられた亡命者として日本にいた。

そして、日本で「同盟会」という秘密革命結社をつくり、武力をもって清朝を打倒し、西洋式の共和制を中国に樹立することをちかった。

日本に留学中の多くの学生がそれに加入し、のちに中国に帰って、国のいたるところに支社をもうけた。


日本が発展して強国となり、白人の強国にたたかい勝ち、中国の領土を奪取するまでの力をもつようになったことは、清朝がいかに退廃的であったかということを暴露したことになった。

そこで朝廷としては、国民の敵意とたたかいながら、なんとしても延命策を考えなければならないことになった。

それが、いまも老西太后の手中にある朝廷が改革に着手し、日本を手本として産業化、近代化しようとした理由だ、と朱将軍は断言した。

もちろん、彼女は、人民が「洋夷の奴隷」とよぶ貪欲な狼である高官の手に改革のことをゆだねた、とも朱将軍はいった。


またしても、彼らと手を組む列強群の先頭に立つのはイギリスとアメリカで、北京政府と大借款の取り決めをし、その代わりに鉄道の権益を要求した。

すでに、中国の産業家たちは、中国の資本をもって自力で鉄道を敷設して、このような開発は中国人自らの手中におこうと計画していたところだったので、外国銀行業者らは、政府がすべての鉄道建設を中央集権化してその手におさめ、一切の新計画はわれわれに振り当ててほしいと強く要請した。
この「鉄道陰謀」は、英米銀行家が主謀するものだったが、まもなく、民族独立運動の中心の標的となり、ついに1911年の革命を促進したのである。


一方で、人民を暴圧しつつ外国人には屈従する清朝への憎しみは大きくなり、反税運動も華南一帯にひろがり、四川にも余波がおよんだ。
山東では強制労働への大衆による反抗がひろがり、
黄興軍の下に、同盟会は湖南で決起してたたかった。
そこでは、湖南の実業家たちが新たに鉄道をつけ鉱山をひらこうとしていた。
その湖南の鉱山の労働者は、反乱に活発に参加した。
朱将軍は「中国の労働者階級が動きだして、民族解放の戦場に立ちはじめたのだ」といった。
その武装蜂起はすさまじい流血の惨事となって弾圧され、首領たちはふたたび亡命者としてのがれた。



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by far-east2040 | 2018-05-12 09:00 | 第2巻「革命への道」改編


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1905年に教育改革のことが公布された直後に、朱徳は帰宅して、さほど遠くない順慶に開設された新学校に入って学ぶことを許してほしいとせがんだ。

家族のものは、金がないといった。

彼は、その学校は官立だから一切が無料で、少しばかりの小遣銭があればいいだけで、しかも、その小遣銭は老先生に送っている米の代価の何分の一ぐらいだといった。

家族は、それでも許さなかった。

役人になれるように、彼ひとりを学問させるために大変な犠牲をはらったが、このうえ、あわてて流行かぶれの学校に飛びだしていってほしくない、という。

彼らは、改革がいつまでもつづくとは信じられなかった。


家族を説きふせることができなかったので、朱徳は、老先生の家にもどって、口を利いてくださいと嘆願した。

老人は「新学」を信じていた。

そして、彼の言葉は、塾生の親にとっては絶対従わなければならない法だった。

彼は朱家の長をまねいて、ながながと話し合いをした。

その結果、朱徳の親たちは彼が新学校に入ることをみとめたが、次の年に受ける予定になっていた科挙への準備学習はつづけるという条件がついた。

新式の学校も、近代的な学科を教えるだけでなく、科挙への準備教育もしてくれたのである。


1905年の秋の学期がはじまる数日前に、19歳の朱徳は、まず老師の前に、つづいて義父母の前にひざまづいて礼をのべ、それから、徒歩で新しい学校に向かった。

それは、丁家の土地にいたころはじめて塾に入った日と同じくらい生涯の一大事であった。
彼は、今までの学問をつづけながら、自然科学、外国語、世界史、地理を学ぶだろう。

彼の前に新世界がひらけ、彼は、新しい革新された中国の一員となるだろう。



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by far-east2040 | 2018-05-11 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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           張瀾博士 (Wikiより引用)


新学校に到着と同時に、自分で考え出した書名」、朱・チェン・徳という名で手続きをした。
当時の中国人はたびたび名を変えることがあり、これは彼の2回目の「書名」だった。
さてそのとき、指導教官のおそろしい宣告があった。
科挙の準備をするものは、新学科を1つでも学ぶ時間はないだろうというのである。
教官は、最近本校に配属されてきた日本人教師に日本語を習ってはどうかとすすめた。
物理と化学の講義はあるが、教科書も実験室もなく、教師たちは記憶によるか、自分がおそわった時のノートをたよりに教えなければならなかった。
四川では、新しい学問は生まれたばかりだった。


「なさけなくなって、私は泣いた」と朱将軍はいった。

「だが、教師の言葉は絶対だから、私はしたがった。

そして、科挙のための勉強はつづけた。

日本語も習ったが、ほとんど何もおぼえていない。

語学は不得手だったし、教師が何となくきらいだった。

日本は最近わが領土を占領したではないか。

あの男は日本人ではないか。

私は、彼が教えることは何から何まで、犬とか猫とかいう言葉まで、信用しないことにした。


「私は、希望する科目は学べなかったが、8百人の学生の中に交じったり、教師におそわったりして、かなりの学問を積むことができた。

ほかの学生たちといっしょに、夜分に教師の家によくおしかけたものだ。
たいていの教師は改革派で、そのうちのひとり張瀾という人は、あとで知ったことだが、同盟会の秘密会員だった。
今日、張瀾老博士は中国における民主的な指導者のひとりである。
そうした教師たちはみな、授業や普段の会話のなかで、遠まわしに、反清朝の政治的宣伝をまじえた。

はっきりと清朝の名は出さないで、ただ『古い制度』というようにいった。

私たちにもその意味はわかったが、口には出さなかった。

おおっぴらに清朝を攻撃することは、あえてしなかった」



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by far-east2040 | 2018-05-10 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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           科挙の受験会場(ネットから借用)



1学年が終わると、朱徳はシ先生のもとにもどり、そこで先生の息子といっしょに
科挙備えて古典の猛勉強をして、夏をすごした。

1906年の8月の末に、彼とシ先生の息子は、県の試験を受ける年長者たちといっしょに大湾を出発して儀隴県に向かった。

儀隴県はほんの25マイルほどのところだったが、朱家のだれひとりとして、かつて家をはなれてそこまで行ったものはいなかった。

そこは小都市にすぎなかったが、一家は危険がいっぱいの大都市と考えていた。

だから、彼の養父は、シ先生に頼んで、ふたりの若者が年長の人たちといっしょに旅ができるようにとりはからってもらい、その年長の人たちに、大都市の底辺のペテン師らから守ってもらい、盗賊にもかからないようにも気を配ってもらおうと考えた。

「家のものが、私が金を使いはたすのではないかと心配する必要なんかなかった」と朱将軍は笑った。

「そりゃ、借金して、私の受験費用と儀隴県に1ヵ月いるだけの費用は持たせてくれた。

だけど、私は、前の年にほんのちょっぴり小遣銭を持ったぐらいで、生まれてこのかた金をいじったことはなかった。

私は金の使いようを知らなかった。

何か買うまえには、一銭一厘をけちけち惜しんで必死だった。

私は、百姓らしく金をあつかった」


儀隴県についてみると、ほとんど千人に近い、年齢もさまざまな受験生が、古い孔子廟で登録して受験料をはらっていた。

農民は彼ひとりだった。

たいていは地主の家のもので、儀礼どおりに絹の長衣を着て帽子をかぶった紳士であり、ここにくるためにも下僕をしたがえて、かごに乗って旅したのである。

朱徳は、大昔からの風習にもしたがって、新しく朱・ツン・メンという名に変えたが、これは、もし彼が役人になるならば、生涯の役人名になるだろう。
この名はやはり風習にしたがって、彼の科挙の準備教育をさずけたシ先生がえらんだものであった。


彼と友は小さな部屋を借り、市場で炭と食料を買い、受験期間の自炊生活の準備をはじめた。

どちらも、いままで料理店に入ったことはなく、料理の値段を見ては、腰をぬかすばかりだった。

ふたりは、毎日市場にゆき、ケチをつけたり値切ったりしたあげくに、しぶしぶ必要なものを買った。


改革の公布は出ていても、試験方法には変わりはなかった。

試験官は、いままでどおりで旧制のことしか知らず、大昔以来のしきたりで、経典から題目をえらぶのであった。

朱将軍は、それらの問題は思い出すのもばかばかしいという。
ただひとつの題が中国の歴史の幅広い知識を必要としたので、いくらか値打があったといえるだろう。

作文のひとつは、キリスト誕生以前の人である孫子の兵書からの主題であった。


試験は1ヵ月つづいた。

5日が終わるごとに2日の休日があり、そのあいだ、受験生たちは、合格して次の段階の問題群と取り組む資格ができるかどうかを知るまで待つ。

何百人かがそこで不合格になる。

だが、朱徳と友は、各段階を通過して、最終段階に立ち向かう。



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by far-east2040 | 2018-05-09 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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休日には、朱徳は、あちこち歩きまわって、受験生たちと交わり、日本への留学とか成都高等師範進学などの計画をもつものに敬意を表しながら、その話をきいた。

ふしぎにも、すでに1年間日本に留学したという男のことを思い出す。
なんでも、その男が日本からぶんぶんうなってリュウマチをなおす電気機械を買って帰ったということが、印象に残っている。

彼ほど雄弁に、旧制の破壊と新建設という愛国の決意をのべる男はなかったが、その彼がいったいどうして帰国して受験したのかということは、朱徳には解けない謎としてのこった。

とにかくその男は、成都で医学博士の看板をあげて、その魔法の機械を使用するという計画をもっていた。


「君のリュウマチをなおしてやるよ。
いや、痛んで苦しいとこがあったら、どこでも」と彼は朱徳に向かってまくしたてた。

「ぼくはリュウマチなんかでない! 
痛くも苦しくもない。
ぼくは、生まれてから一日も寝込んだことはない!」

「そんなこと、どうでもいい」と、学生は、相手は田舎からひょこり出てきたものだとなめてかかってきた。
「おれの機械をかけると、君がやりたいことは何でも楽にできる力がつくぞ」

そして、ほかのだれよりもめちゃくちゃ安い料金にまけてやると強調した。

 
朱徳は、しつこい「新医学士」から逃れると、金でもすられはしなかったかと丹念にかぞえてみた。
減ってはいなかった。
あの男にとって、手ごわい相手だったのだ。


彼がきいたさまざまな話のなかで、いちばん引きつけられたのは、成都に新しく官立高等師範学校ができ、特に体育科が設けられ、そこで体育を1年間だけ修練すれば、出てから教師になることができるという話であった。

また、体育のほかに、その科では数学、地理、軍事教練をさずけるという。

体育は中国ではまったく新しいもので、朱徳も、いままで聞いたこともなかったが、1年たてば卒業できて、教師として自立できるとわかったとき、これでおれの問題はすべて解決したと思った。



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by far-east2040 | 2018-05-08 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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             科挙試験の一覧(Wikiより引用)


彼は、清朝の下で役人になるということを嫌悪した。

というのは、たとえこの地方試験に合格し、さらに省の試験にも合格したとしても、朱家には、彼のために官吏の地位を買うだけの金がない。
金を出さなければ、だれであろうと官吏の地位につくことはできない。
常人では絶対出せないほどの賄賂を要する最上級の試験を受けることはあきらめるとしても、買官の費用は巨額である。

もちろん、彼がこの今の試験に合格すれば、朱家は、どこかの金持ちの家の娘と結婚させて、金を手に入れるだろう。

その娘が、文字を知らず、てん足をしていることはほとんどまちがいない。

もういままでも、そんな話は聞かされていた。

だが、新しい自由の風は中国に吹きまくっていて、青年たちは、国が自由になるまでは結婚しないし、そのときにも、教育をうけた女でなければしないといっていた。

昨年、彼は、新しい学生たちからきいたたくさんの高邁な言論が胸にしみこんでいた。

たとえ家族のものから、お前はわがままで親不孝だといわれても、頑として一切の結婚話を拒否するつもりだ。


儀隴県でのひと月がたつうちに、成都の高等師範学校で体育を学ぶ決心をかためた。

いままで家のものをあざむいたことはなかったが、今度はうそを書いた手紙を家に送った。

この試験はまちがいなく通りそうだから、これからは成都で省の試験を受ける準備をする段階になるが、これは官費でまかなってくれますと書いた。
ただ、ほんの少しばかりの小遣銭が要るだけというわけだ。
それで、1年間だけなんとかすごすために、もう一度ちょっと借金をしてもらえば、あとは上級試験を受けるだけだというように嘆願した。


この手紙の返事と最終の試験の結果を待つあいだに、20マイルほど離れた南部塩井に遠足した。

そこには、西洋の機械があるそうだ。

新しい機械というものを見たことがない彼にとっては、またとない機会だった。


何人かの受験生といっしょに、南部に歩いて行った。

新しい機械はなかった。

その代わりに、何千という病みおとろえた塩井労働者が、明け方から夜まで、昔ながらの奴隷労働の制度に契約でしばりつけられて、苦役していた。

身体の半分あたりの腰布以外は、まっ裸で働いていた。

彼らの身体が黄色いのは、マラリアか黄疸なのだろう。

足にも脚部にも、うみのふき出る大きな傷がついていた。

多くのものが、うつろな、肺病の咳をしていた。

彼らは、ある期間、請負業者に身を売っているのである。

業者は、労働をつづけさせるだけのギリギリの食べ物しか与えず、暗くて毒虫だらけの小屋に寝泊りさせていた。

そのころ、労働者のための医療施設なんてことは、聞いたこともなく――「いや、今でも」と朱将軍はつけ加えた――それから、労働組合などは、もし彼らがそんなことを夢見たとしても、破壊的犯罪行為として弾圧されただろう。



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by far-east2040 | 2018-05-07 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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             科挙の合格発表風景(Wikiより引用)



そのとき、彼はひとりの若い男を見つけた。
おさないころに丁家の土地でいっしょに遊んだ農家の子どもであった

この人びとの悲運はひとごとではないと、ひしと身に迫ってくる思いがした。
この若者は年期契約をしてここで働き、肺病でじりじりと死にかけていたのだ。

朱徳が話しかけようとしたとき、若者はおのれの悲惨を恥じるかのように声もなく逃げて行った。

朱徳の目の前に、自分の家族のみなのものの面影がうかんだ。
兄弟、甥、従兄弟たちの将来にはどんなことが待ち受けているだろうかと、それがわからないままに、彼は恐怖を感じた。
おれは一家のために重大な責任をになっているのだとはっきりと自覚した。
おそろしさに心も乱れながら、養父にあんなうその手紙を書いてよかったのだろうかと思いわずらった。
儀隴県に帰る道すがら、自問自答した結果、成都で1年間学習した後には、教師になって、家に送金することができるようになるのだと自分にいいきかせた。


儀隴県に帰ってみると、掲示板にはられた受験合格者の名前のなかに、自分の名を見つけた。
合格して、西方ではバチェラー・オブ・アーツにあたる「秀才」になったのである。


次の日、大湾からきたひとりの商人が、家からの手紙と成都での1年の小遣銭になる借金をわたしてくれた。

彼は、これにこたえて、手紙の中に科挙合格を通知する紅い紙の書面である「捷報(しょうほう)」を同封して送った。
彼はわかっていた。

その通告書は大湾の町にはり出され、彼の一家は「面子」を得、そして町の人々はお祝いにやってきて、彼の受験の費用の一助にと少額の金を贈り物とするだろう。
朱徳の気持ちは、いまようやくなごんできた。

あくる日の明け方、成都への道にいでたった。
一張羅の衣服と上等の布靴は、肩にかけた包の中に入れた。
旅人は、通常は11日で成都に行きつくが、彼はこれを半分の日程で行くことに決めた。

農民であり、いままでほとんどいつも、遠距離の塾を往復し、田畑でも割りあてられた仕事もしてきた。
長い道程を早く歩いてゆくことはできるはずだ。


「私は若かった。
ひとりで歩いた」と朱将軍はいった。



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by far-east2040 | 2018-05-06 09:00 | 第2巻「革命への道」改編

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成都への道をひたすら急ぎながら、朱徳は心の中で叫んだ――地上に四川ほど美しいところがあるだろうか、こんなに堂々たる山、とうとうと流れる河、なんと豊満で香ばしい果物や花々だろうか。

紅葉に燃える谷間や山腹に近道をとりながら、夜明け前に起きて、昔ながらの農民の歌を口ずさみながら、歩き出す。

夜には、ぐったりとなり、埃まみれになって、どこかの農家に宿をもとめるが、そこでは旅の人への親切は当たり前のことで、金をはらいますなどといえば、失礼になる。

食べ物は道ばたで売っている。


5日目の午後おそく、省都にゆくのにかかる通常の日数の半分以下だったが、彼は、赤土の野のかなたに、巨大な中世のような成都の城壁をのぞみ、そのはるかかなたに、空にそそり立つ山々の姿が蒼く霞んでいるのも見た。


音を立てて流れる川に入って水浴びし、上等の靴を出してはき、それから1時間ほどすると、彼は外城の北門の壁に、まるで何か神聖な誓でもするかのように手を差しのばしてさわった。

それから、彼は、豪華さを北京とあらそうといわれる、何千の壮大な店舗や古い構造物がひしめく、市街の迷路のなかに踏みこんでいった。

とうとうやったぞと心がおどって、疲労も忘れ、彼はいまこそついに中国西部の文学、教育、政治、商業の中心地に来た、という感慨をもつばかりだった。


彼の幼いころの空想の「大街道」は、ここで、東や北、南方雲南からと、はるか遠いチベットからの大貿易路とひとつになっていた。

ひろく清潔な街路、黄金色にかがやく商店看板、何万という料理店や酒店や薬種店、高価な四川の絹や舶来品があふれる大店舗、そのような豪壮な姿をいままで彼は夢の中でも描き出したことがなかった。



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by far-east2040 | 2018-05-05 09:00 | 第2巻「革命への道」改編