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カテゴリ:第1巻「道の始まり」改編( 49 )

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 小さな卓をはさんで私たちがかけたとき、ろうそくの光は朱将軍のしわ深い顔にたわむれ、目はかがやき、この女が自分の生涯のどんなことをたずねようとするのかと好奇心に燃えている様子だった。

 

 「最初からはじめましょう」と私はいった。

 

 彼は話しはじめた。――新暦にすれば1886年12月12日に、四川省儀隴(ぎろう)県で生まれた。太平天国の乱が、清朝と同盟者である外国の力で弾圧されてから、ちょうど22年後である。彼は誕生日を陰暦でいったが、のちに中国共産党の新聞はそれを11月30日とし、さらに、彼の伝記に着手したある中国人作家は、何を考えたのか12月18日とした。あるいは、朱徳将軍は自分の正確な誕生日を知らなかったかもしれないが、とにかく彼が生まれたということに変わりはない。


 幼い時にも本当の名はあったはずだが、生まれると同時に「子犬」というあだ名をもらったそうだ。というのは、男の赤ん坊の場合には、それを取ろうと待ちかまえる悪鬼どもをだますために、動物の名がつけられるということだ。女の子は値打ちなどないから、鬼だって相手にはしない。


 「生まれてはじめての記憶は何ですか」と私はたずねた。

 「つまらんことです」と朱将軍は答えた。

 「そのつまらないことを話してください」と私はうながした。


 彼は頭を垂れて、しばらく黙りこんで、握り合わせた自分の手を見つめていた。それから、ぽつりぽつりとつぶやいた――光と色と音、高い山々と森、「ひらいた私の掌(てのひら)」ほどの大きさでいいにおいがする野の花、「何マイルも四方ににおいをはなつ」ような花、太陽の光、川の流れ、それからかわいい子守唄。


 彼の母はその子守唄を歌うだけでなく、眉をうごかして芝居をして見せてくれたので、彼は大よろこびだった。

 

   お月さんは眉みたい

   お月さんの弓の両はしがぶら下がる

   お月さんは眉みたい

   お月さんは鎌みたい

   この眉は、しかめっ面なんかしないよ


 この子守唄は彼に喜びだけでなく苦痛もあたえた。――母が彼にうたってくれるのはうれしかったが、のちに弟に歌うようになったのが悲しかった。それは自分だけのものと思っていたからだった。


 彼の記憶によると、幼少年期には、ほとんど愛情というものを知らなかった。それで彼は「乱暴者」になってゆき、衣食住以外のことでは、ほとんど自分の力だけで生きなければならなかった。

もちろん、母はかわいがってくれていて、きつい言葉で叱られた記憶はまったくない。だが、彼女は想像を絶するほど忙しくて、その時々に自分の乳を吸っている赤ん坊以外の子をかわいがる暇がなかった。そして、いつも赤ん坊がいた。


 「私は母親を愛したが、父親を恐れにくんだ」と朱将軍は、自然なゆったりした口調でいった。「父親がどうしてあんなにむごかったのか、どう考えてもわからん」


by far-east2040 | 2018-03-27 21:26 | 第1巻「道の始まり」改編

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 さじを握ることができるようになると、自分の手で食べた。それからむずかしい箸を使えるようになった。怪我をしたときには、だれもなぐさめてくれなかったので、ひとりで泣くか、泣かずに我慢するかだった。気候が暖かなときには、ほとんど裸でかけまわったが、冬になると、小さな綿入れの上衣とズボンを着せられた。ズボンはお尻のところがひらいていて、用を足すときにはしゃがめるようになっていた。病気したことがあったか。いや、今まで一度も病気をしてしない。


 そのころの遊びぶりを思い出すと、あきれてしまう。「くたくたになるまで遊んで、そこらへんにころがって寝いった。それから起きて、また遊び出して、それからまたころがって寝いった」


 彼はちょっと思い出し笑いをした――木かげに日の光が筋になって射していたので、汚れた小さな手でつかもうとしたら、するっと抜けてしまった。家から離れたところになにか果樹があったが、それに花が咲いたとき、彼が枝をゆすると、雨みたいに花びらが降りかかってきた。そこらへん一面に野の花が咲き、家の裏では竹やぶが風に鳴り、かげをつくる木の高い枝からは長いブランコが垂れ、材木のうえにはシーソーがのせてある。真向いに立つ山裾を洗いながら、流れの早い小川があたりを走っている。岸には赤い小石がころがり、橋があり、小舟と竹のいかだがあり、魚がきらめいて泳ぐ。


 家の西の方には「伏犬丘」という低い山が長くのびているが、そのすぐむこう側には、荷車が通れるほどの公路が、南の方からきて北の山々の中に消えてゆく――見知らぬ遠い国への冒険の夢をのせる道だ。


 朱将軍がかたるにつれて、目の前に、頭を剃って、夏は腹巻か前垂かを胴につけただけの、丸々とした小僧の姿が、浮かび上がってきた――嵐の前に乗り出した頑強な小舟に似た、陽気で手ごわいわんぱく小僧だ。



by far-east2040 | 2018-03-27 01:01 | 第1巻「道の始まり」改編

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 幼いころの記憶のひとつに、不正への怒りというものがある。彼と兄弟たちは川や池で釣りをするのが好きだったが、彼らの地主の番頭につかまるのを恐れて、こっそりとやらなければならなかった。というのは、川や、うちの小さな畑の中の池のどんな魚も、地主ののもので、手下がやってきては網でさらってもってゆくからだ。「子犬」と兄弟たちはわめいて抗議したが、年とったものたちはむっつりと黙りこみ、父は相手が消えてしまってからののしった。同じ奴らが、秋には果樹の実をもぎにやってきたが、朱の家の人びとを「お前らぬすんだな」といって泥棒呼ばわりすることもあった。あらゆる池と川のすべての魚、小作人の土地のあらゆる果実、山々のあらゆる森は地主家のものとされた。中国は、――基盤的には民主性をもつ人びともいるかも知れないが、封建主義の国であった。


 朱徳は、アメリカの子どもがジャックと呼ぶものに似ている球遊びをしたことを思い出したが、ちがっていたところは、彼と兄弟たちは石ころと固く巻きしめた紙玉を使ったことである。秋には、彼と兄弟たちは凧をつくって、山腹からあげながら、災難よけのための菊の古歌をうたった。


   菊の花は黄色い、おれたちは強い

   菊の花はかおる、おれたちは元気だ

   重陽のお節句だ、菊の酒飲もう

   重陽のお節句に、人と菊が酔った


 この歌は、彼の生涯を交響曲のライト・モティーフのように流れつづけてきた。古い伝説によると、巫術師(ふじゅつし)が弟子たちに洪水を告げ、山に逃れるなら彼らも家族も難を避けることができると教え、彼らはその言葉にしたがった。その後ずっと中国の人たちは、その日に凧をあげて菊の歌をうたう。

 

 朱家の長兄タイ・リーは四つ年上だったが、笛と二弦の琴である胡琴をもっていた。「子犬」はそのそばにすわって、ほれぼれしなら聞いた。彼自身の手が大きくなると、自分で演奏できるようになり、大人になってからはいろいろな楽器を買って習った。


 次兄タイ・フォンは二つ年上だったが、朱徳を悲しませた。というのは、鳥をわなでとり、大きくなると家の鳥銃で打ち殺した。「子犬」は瀕死の鳥のところにかけつけ、手に持ちあげて泣いてやった。母がタイ・フォンに鳥を殺すことを禁じたが、それでもすきを見ては殺した。



by far-east2040 | 2018-03-26 09:23 | 第1巻「道の始まり」改編

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 母のことを話すときには、朱徳将軍の顔には愛と悲しみの表情がただよう。母は二十歳そこそこで彼を産んだ。彼女は、たいていの女たちよりも背が高くてがっしりしていた。着ているズボンと上衣はつぎだらけのぼろぼろで、手には太い血管が浮きでて、仕事のためにほとんど真黒になっていて、もじゃもじゃの髪がえり首のところで巻かれ、大きな褐色の眼はやさしく、うるわしげだった。


 「私は母親似だ」と彼はいう。「母親は全部で13人生んだが、男6人と女2人だけが生きれた。末の方の5人は生まれるとすぐに水に入れて殺した。家が貧しく、そんなにたくさんの口は養えなかった」

 

 いちばん上の子は女で、チュオ・シヤンといったが、てん足をされるときには、何ヵ月も泣きつづけた。十五の年に嫁にいった。その次が長兄タイ・リーで幼いころ「小馬」と呼ばれ、その次がタイ・フォンで「小牛」だった。朱徳は4番目の子どもで、男子としては3番目で、名はタイ・チェンだった。男子はみなタイという世代名をもち、同じ慣わしで彼らの父やおじたちはシーという世代名をもっていた。

 

 朱徳は、4番目の子で三男だった自己を、「大きな家族のまっただ中に押しこまれたのだから、私は圧迫された人民の子だけでなく、家のなかでも圧迫されて、兄の用を手伝ってかけまわらされたり、下の子のお守りをさせられたりした」といった。「私が生まれるまぎわまで、母親は米をたいていたそうだ。たけないうちに私は飛び出してきた。母親は、生むとすぐおきて、たき続けた。私には誕生日の祝の記憶はない。つまりそんなことはしなかったからだ。ひどい貧乏だったものだが、私たちは気にしなかった、というのは、地主をのければ、他のものもみな貧乏だったからだ」

 

 彼がいうには、母親は、「自分の名前がないほどみじめなものだった」娘のころには名前もあったのだが、嫁にきてからは、子どもとのつながりでは「母」、夫のつながりでは「次男の嫁」というように、家のなかの地位によってよばれた。いつもおなかには子がいて、煮たきし、洗濯し、つくろい、掃除し、水を運び、それから、男と同じように野良仕事にも出ていった。百姓女を嫁に選ぶには、しっかり働けるかどうかで決めた。愛情などは関係ない。嫁にゆくまえには、女は父親に支配され、嫁にゆけば、夫とその両親に、そして夫が死ねば、自分の長男にしたがうことになる。再婚は許されない。そのように、孔子がたてた古い封建の教えがおさえつけていた。

by far-east2040 | 2018-03-25 18:31 | 第1巻「道の始まり」改編

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 女の義務とは、働くこと、それから、家系をつづかせ家の労働力を増やすために子を生むことであった。その古来の義務がはたせなかったら、夫は彼女を去らせることができた。妻の方からはどんな理由があっても、離婚することはできないが、夫はさまざまな理由から、たとえば自分と両親とのいうことをきかないとか、両親をうやまわないとか、しゃべりすぎるとかで、妻を「追っぱらう」ことができる。好きなだけしゃべられるというのは男の特権だった。


 役人や金持ちの家はみな妾をもっていたが、農民はそういうぜいたくはできなかった。蓄妾は男性の権威を高めるというのが古来の封建の教えであった。朱家の女は娘も、すべての農家の女たちと同様にてん足し、おさえつけられていて、娘に教育を受けさせるなどということは、他人の庭に水をまくことのように馬鹿げたこととされていた。

 

 朱徳の伯父朱・シー・ニェンは風変わりな男だった。妻を虐待したことがなく、子がなかったのに追っぱらうこともしなかった。この夫婦は子がいなかったので、「子犬」は幼いときに、彼らにゆずり渡され、固めの式によって養子となった。どうして自分が選ばれたかはわからなかったが、一族は同じ屋根の下に住んでいるので、その新しい関係はなんら変化をもたらさなかった。

しかし、のちになると、この養子縁組のおかげで、朱家のすべての息子たちのうちで彼ばかりが選ばれて、家を税吏その他の役人から守るために教育を受けることになった。

 

 朱将軍の母はチュン家の出だったが、その家の人たちは旅芸人で、結婚、葬式、誕生祝などに、楽人や役者としてやとわれたり、田舎の祭りや市の日に、簡単な舞台をしつらえて、どたばたの道化芝居をやったり、古い伝統劇をやったりした。こういう芸人は世間から疎外されていて、目もあてられないほど貧しく、そのうえ政治的にうさん臭いものと見なされることもあった。


 「だが、とても陽気で面白い連中でね。百姓らはそういう気のおけない芸人を好いたものだ」と朱徳は思い出しながら、愛情にみちた微笑をみせた。


 朱家の子たちは民謡をうたったり、手に入るものならどんな楽器でも鳴らしたりして成長していったが、そういうことは、おそらくチュン家の血を引いていたからだろう。ある民謡の節はもの悲しく、あるものは陽気で騒々しく滑稽であり、また数すくないが恋の抒情もあり、そうかと思うと、ひそかに政治を風刺したものもあった。当時の清朝、つまり満州朝を批判したものがひとつあった。


   昔の四川はどうかというと

   それこそまことの天国で

   代々の帝王さまの都だった。

   どえらい国で、力が強くて、

   八方から呉をおどかした。

   大臣さまの御殿の前の杉

   がっしりと立つ頼もしさ。

   じゃが、今はどうだろ!



by far-east2040 | 2018-03-24 10:54 | 第1巻「道の始まり」改編

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 朱家は数多い「客戸(かくこ)」のひとつだった。ということは、彼らはよその地方から移住してきて、まだ八代になっていないので、はえぬきの人または郷土創建の家系と見られる権利は獲得していなかった。朱の一族の最初の一団は、白蓮教徒の反乱の直後、つまり18世紀の末から19世紀のはじめかに、はるか南の広東省からやってきたその反乱と満州朝による制圧がこの地方の人口を稀薄にしたので、広東や広西の貧農たちが流れこんできて「客戸」となった。朱の家はすでに80年も四川に住んでいるが、まだ広東語を使い、広東の習俗をのこしていた。やっと朱徳たちの代になって、広東と四川の両方言を話せるようになった。


 朱家の最初の一団は金をたくわえて、ようやくわずかの土地を買い、家をたてることができた。そこは、儀隴県の馬鞍荘というところからさほど離れていない大湾という市場町のはずれであった。しかし、やがて地主や役人と高利貸しの略奪のために、その土地を抵当に入れさすらい、あちこちの地主の小作になった。朱徳が生まれたときには、彼の家は地主丁の所有地を耕す60家族ほどの小作の仲間になっていた。その地主は「閻王」という名以外でよばれることはなかった。


 「閻王」から朱家が借りた3エーカーの土地は、段々になった山腹と谷で、ほとんど1インチきざみに手で入念に耕された。流れの早い小川の東に木々におおわれた山がそびえ、そのふもとの近くに彼らの家がたっていた。3,4の小作家族が近くに住み、朱家とともにリン・ロゥン・ツァイといわれる部落をつくっていた。市場町の馬鞍荘は2マイル(3.2キロ)ばかり北にあった。もう少しゆくと大湾の町があり、そのはずれに朱家の人びとが嘆きあこがれる祖先の地があった。さらに25マイル(40キロ)ほど北には、城壁にかこまれた儀隴県の町があり、そこは農民たちにとっては大きな都であって、そこを訪れたものはほとんどいなかった。朱家から数マイル西に、四川の名の元となる四つの川のひとつ、嘉陸江が流れていた。


 朱家には三世代の家族が住んでいた。祖父と祖母、シーの世代名をもつ4人の息子たちとその妻子、それから朱徳が属しタイの世代名をもつ三代目である。


 二代目のなかで長兄として大家族の名目上の家長となっているものは、朱・シー・ニェン、すなわち長男であり、のちに「小犬」の養父となる人で、彼は「小犬」が生まれた時には37歳くらいだった。次男である朱・シー・リンは、「小犬」が恐れている父で、暴力と激情の男である。他のふたりの叔父については、朱徳将軍はほとんど語らなかった。また、自分の弟たちについても数えてみただけで、それ以上はふれなかった。朱家の長男である「小犬」の養父は、きまじめで野心的な男で、よく働き、しまり屋で、一銭一厘も生命がけでたくわえ、大家族のために計画的にそなえた。


 すべての農民家族と同じく、朱家は、飢餓からまぬがれるためのきびしい重労働を目的として組織された経済的単位であった。



by far-east2040 | 2018-03-23 14:22 | 第1巻「道の始まり」改編

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「祖母が家全体の家計をやりくりし、指図した」と将軍が説明する。「祖母が、家族の男と女にそれぞれ仕事を割りあてた。野良の力仕事は男、軽い野良仕事と家事は女と子どもが分担した。祖母の4人の嫁は、順番で1年ごとに家族全体のための炊事番になり、小さい子たちがそれを助けた。ほかの女は紡いだり縫ったり洗ったり掃除したり、また野良ではたらいたりした。夜明けには、その年の炊事番の嫁がおきて火をおこし、朝食の支度をする。祖母が動きだす音を聞くと、みながおきあがって、井戸からの水運び、薪割り、家鴨(あひる)や豚や鶏飼い、掃除など各自の雑用にとりかかる。


「食事は一年中同じだった。慣わしだったから、男はみないっしょに食べ、そのあとで女子どもが食べた。ひどい貧乏だったから、米はごく稀にしか口にしなかった。朝食は高粱(こうりゃん)のかゆだが、その中に米か何かしらの豆がちょっぴり入っていたかも知れない。それと、ありふれた野菜がでる。茶は飲んだが、もちろん砂糖は使わない。昼飯も晩飯もだいたい同じものだ。かゆの代わりに、高粱に米をまぜて汁気なしに炊いたものに、いろんな野菜を煮たものが一鉢、ときには二鉢でて、みなで食べる。釣り好きの兄たちや私がとっつかまらないで魚をとってきたら、ほうびに米が出るかも知れない。肉といったような特別な食べ物は、もし食べることができるとすればだが、――旧正月の祝だけに食べる。


 「四川では塩がとれるが、すごく高かったから、貧乏人はできるだけきりつめて買った。塩には3種類ある。金持ちのための白い粉になったもの、中くらいのもののために茶色のもの、私たち貧乏人のための、石ころみたいに黒く汚れたもの。塩はこの上ない貴重品だったから、料理に使ったりはしなかった。食卓の真ん中におかれた鉢の湯にとかして、みなは野菜をそれにつけて食べるか、やはり食卓の真ん中の鉢に、かたまりのままおかれて、みなはぬれた野菜をそれにこすりつけてから食べたりした。

 

 「祖母は仕事の振りあてをしただけでなく、めいめいの年齢と仕事ぶりなどをにらんで、食べ物の割りあてをした。食べることにも、個人の自由はなかった。みなはひもじい思いで食卓をはなれたものだった。私はいつもすきっ腹でそだった。だから、のちに革命運動をやったときにも、もう不感症になっていたのか、すこしもこまらなかった。歩くことだって同じだ。成人してからは馬に乗るときもあったが、ほとんど一生を歩いて暮らしたようなもので、一気に何ヵ月も何年も長距離を、指揮下の兵隊たちといっしょに歩きもした。


 「革命を成しとげたならば、われわれは国を開発しよう。人民は十分に食べて服を着て、汽車や自動車に乗り、文化的な人間になるだけの時間と精力の余裕をもつだろう……いや、われわれは、もっとも困難な状況のなかでも、われわれの文化を高めてゆくのだ」



by far-east2040 | 2018-03-22 10:25 | 第1巻「道の始まり」改編

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 「祖母は並はずれて腕ききで、差配ぶりもりっぱで、棺桶にはいるまでは、一家のものといっしょになって、体力相応に働きつづけた。地主へ小作料を完納することを祖母は一番苦心していた。小作料は穀物の収穫の半分以上だったが、そのほかにも、卵、ときおり鶏や豚まで封建的な特別の貢物(みつぎもの)としておさめなければならなかった。われわれはみな、この古い封建の貢納をにくんだ――言葉の定義とやらはいろいろあろうが、私はあえて封建制というのだ。なぜなら、地主郷紳(きょうしん)どもはわれわれの仲間の農民を奴隷あつかいして、あらゆる種類の負担と義務をおっかぶせてきたからだ。


 「たとえば、毎年夏に、うちの地主がおおぜいの家族を引きつれて涼しい山の別荘に行くときには、小作の男どもはみな、いっさいの仕事を休みにして、ただで搬送してやらなければならない。秋には連れもどさなければならない。また、世の中がざわついて土匪が暴れだしたり、農民が一揆をおこしたりすると、小作人は地主の家に集合して武器をわたされ、御主人様のために戦えと命令される。農民はこういう古い封建的因襲を運命とあきらめて受けいれた。そこからの出口が見えなかったのだ」


 まわりの小作人同様に、朱家は旧正月の夜が明けるまでに、いっさいの年貢を片づけなければならなかった。年の暮れには、家族は居間にあつまり、祖母が朱徳の養父である長男の助けを借りながら、全員にこの年の収入の配当をし、誰がどういう衣類がいるかを決定した。女たちは、家の中のどんな切れっぱしのこともわかっていたから、誰のズボンは継ぎ当てできて、誰のが新調しなければならないかをわきまえていた。どの衣類もすり切れて影も形もなくなるまでは継ぎ当てされた。上衣とズボンは腫れものにさわるように大事にされたが、女たちがつくった布靴はよほどの時でなければはかないので、ずっと長くもった。この家族会議ですべてが決定されたあと、倹約家の祖母は家の貯金を集めて、彼女の寝室の床下に埋められた壺に入れる。

 

 仕事は朝食がすむとすぐはじまり、昼と晩の食事のときに中断するだけで、暗くなって寝床にもぐりこむまでつづく。夜になって灯をともすなんていうことは、言語道断なぜいたくなことだった。それは、わが家の畑で育てて乾かして市場に出すタバコを、家族の誰かが吸おうかと言い出すぐらいぜいたくな話だ。まあ、ときには家の男たちは、1本のキセルにタバコをつめて、みなのあいだを順々にまわして、ひとりが一口ずつ吸うというのが山々だった。たまに朱徳の父は、おたがいにキセルいっぱい吸ってもいいじゃないかとおおっぴらにいった。だが、この男はみなで監視しなければならないほどの不平屋の乱暴者だったのだ。



by far-east2040 | 2018-03-21 15:35 | 第1巻「道の始まり」改編

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 わずかな怠慢や油断もゆるされず、まわりの家同様に、朱家にも週の休日などは存在しなかった。

身分の高い人びとは、旧正月には1週間から2週間くらい休息を楽しんだが、小作や貧農は正月さへ休めない。農民は、冬のあいだは少しぐらいのんびりすることができたが、そのときにも、春作のために土の手入れをしたり、種まきもしなければならない。夏のあいだに大きくなった豚や鶏は、塩と交換するために市場町にもっていかれる。畑の綿は摘んで打たれて、女たちがそれを紡いで糸にするが、織るわけではない。旅まわりをする男の職人が織る。それから冬には畑でとれた油菜から油をしぼるが、料理に使ったあまりは売られ、きわめて稀なことだが、木綿をより合わせた芯といっしょに皿に入れて夜の灯にすることもあった。朱徳は二十歳になってはじめて灯火を使った。また彼がひとりでひとつの寝床を占領し、自分の部屋をもったのは、学生としてはじめて帰郷するようになってからだったが、それもほんの数日間のことだった。


 さらに、古来の封建の不文律によって、小作の男女が地主のためにただ働きをさせられることが、正月やそのほかの国の祝祭のときや、地主の妻女や妾が息子を生んだというような場合や、巡回してくる役人のために宴会をひらく場合など数多くあった。そういうときには、小作人は地主のために何か特別な食べ物を贈るという建前にもなっていた。

 

 「地主にとっては、小作人どもがひもじい思いをしようが、地すきとか収穫とかで手がはなせないとか、知ったことではなかった」と朱将軍は怒りをこめていった。「家の男たちは出てゆかねばならず、私の母や養母までが、『閻王』の台所働きをさせられた。家に帰るときに、何か御馳走を服の下にかくして、ちょっぴりもって帰ってきて、子どもたちにも一口くれ、まるでおとぎ話みたいな土産話をしたりした」


 朱将軍がこういう調子でかたるとき、私はペンを動かさなくなることもあり、彼はいぶかしげに問いつめるように私を見た。


「どうかすると……」私は説明した。「あなたが私の母のことを話していらっしゃるような気になるんです。私たちは封建的地主のために働かされたのではないのですが、でも、母は、ときどき御馳走を子どもたちのためにくすねてきて、一口くれて、雇い主の家のすばらしい御馳走の話をしました。
母の手も労働でほとんど真黒になっていたし、髪もえり首のところで巻いていました。黒くて、もじゃもじゃした髪でした」


 「あなたのお父さんは?」彼はおどろいて私にたずねた。


 「私が幼かったころは、貧しい農夫でした。裸足で耕作しました。でも、たいていのときは革靴をはいていました。そういう生活をにくんで、何度も何度も、母を置き去りにして家を飛びだしました。あなたの御家族の男の人のような鍛錬はできていなかったのです。のちには未熟練の日雇労働者になったようで、私たちはお腹いっぱい食べたことなどありません。でも、塩には不自由しなかったわ」


 「世界の貧しい民衆は、ひとつの大きな家族だ」と彼はしゃがれた声でいい、それからかなりのあいだ、私たちは黙ってすわっていた。



by far-east2040 | 2018-03-20 08:58 | 第1巻「道の始まり」改編

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 朱将軍が四川についてかたるときは、いつも壮麗な景観にふれた。省の西境の空にえんえんと連なる大雪山脈から、東につき出した長い山脈の一部分が、彼の家の上にそびえていた。その大雪山脈と北につき出した支脈が、省全体と赤色盆地といわれる平野を取りまき、この省の気候を温暖でさわやかなものにして、温帯と亜熱帯の多種多様な植物をわき立つように繁茂させていた。赤色盆地の中心には省都の成都があり、一帯では年中収穫を得ることができ、中国でもっとも豊かな地方のひとつになっていた。またこの地方は塩やいろいろな種類の鉱物にもめぐまれていたので、「四川は、ここを併合しようとする英仏の帝国主義者に、絶えずねらわれていた」とも朱将軍はいった。「四川の花を見たことはありますか」と彼は突然たずねた。「びっくりするぐらい大きくて、きれいで、香りが強くて、何里も周囲までにおってくる」


 この雄大な自然美にかこまれて、何十年の雨と雪のために崩れそうになった陰気で古い彼の家がたっていた。東西に長い主屋部は南向きになっていて、屋根は灰色の瓦で、荒けずりの白木の扉はみな木製の軸ではめられていた。中国内地ではたいてい、このような扉ははずして寝台にすることもできた。わらぶきの両翼部は主屋部から突きだしていたから、全体は四方形を半分に切ったような形になっていた。窓はなく、扉だけが光線を取りこみ、床はなめらかにカチカチに固めた土だった。家屋は泥塗りで、色はない。あたたかな日には、家族は半開きの中庭で食べたが、ここは収穫時の脱穀場にもなった。


 入ってゆくと左手にある台所と、主屋部の正房のほかはみな寝室だった。豚や家畜のための差し掛け小屋もあった。主屋の正房は家族が集まるところであり、また客をいれたり何かの式をしたりするところだ。部屋の真ん中に荒けずりの四角い卓があり、まわりに椅子がおいてある。卓の真うしろの壁の前には、先祖の位牌をいれた仏壇がある――位牌というのはよくみがかれた小さな木片のことで、代々の先祖の名が記されている。小さい粘土製の観音像――道教と仏教に共通の「聖母」が、仏壇のまえの棚においてある。観音とは慈悲の女神であり、嵐にあった漁夫など、すべて災厄の中にあるものが救いをこうことができる。


この先祖の祭壇に、一年に何度か、――たとえば旧正月とか、清明節とか、七月十五日のお盆の日などに、家族はわずかながらの供え物をささげた。旧正月が近づくと、彼らは、台所のかまどのうしろの壁から、汚れたかまど神の絵をはがして、野の蜜で唇をぬり、この神が一家のことを天にいいように報告してくれることを祈り、それから中庭で燃やす。正月には、新しい神の像の絵が米ののりで壁にはりつけられる。



by far-east2040 | 2018-03-19 21:05 | 第1巻「道の始まり」改編