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             紅軍の男女兵士に演説する朱徳
    『抗日解放の中国 エドガー・スノーの革命アルバム』(サイマル出版会)より借用



『偉大なる道』を読んで東アジアの歴史・政治、民族、習俗など思いおこすことを書いてきた「いろいろシリーズ」は私の頭のなかではキーワードがまだまだ文章にできない状態でうずまいている。

キリスト教、宗教、教育、買収、借款、少数民族、戦略、政策、西欧列強や日本の軍部、おくれてやってきたアメリカのふるまいなど。

そして革命にむける情熱と友情。


言葉にまとめていくにはトータルに語る見識不足を感じているところ。

なかなか進まない。

ここでちょっと記事内容を変えてみることにした。

もしこの本の著作権が完全に切れるならやってみたいと思っていた改編を試みたものを公開しておく。

こういうことをする目的は著者であるジャーナリストのアグネス・スメドレーの名誉回復とこの作品そのものの再評価、そして革命はひとりの英雄がなしとげるものではないが、象徴的な人物のひとり朱徳への再評価を願っている。

以下の文章は著者アグネス・スメドレー、翻訳者阿部知二で出版された岩波書店の文庫本『偉大なる道』の序曲にあたる部分の改編を試みたものである。

著作権にひっかからないように序曲のみにして、あくまでも現在のネット環境を利用してのプロモーションのつもりであり、試行錯誤のはじまりである。
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これは、中国人民解放軍の総司令官朱徳将軍の60歳までの生涯を記録した物語である。

私がこの物語を書くことを朱将軍は許可してくれているが、これは公式の伝記というものではない。

物語の舞台が遠い過去のものになっているために、また彼が、世界をゆるがしている中国革命の中心的な指導者のひとりであるために、私の記述や解釈についてていねいに精査することはまったく不可能だった。


私がはじめてこの本をつくろうと思い立ったのは、1937年1月、西北中国の古い町延安に着いたときであった。

そこはほんの少し前、多くの試練をへてきた中国労働者と農民からなる紅軍とその紅軍の運命をみちびく中共中央委員会が根拠地にした町だった。


私はそれまでに7年間を中国ですごしてきた。


その間、政府側の諸新聞は、朱徳将軍のことを「紅匪の頭目」、「共匪」、人殺し、盗賊、放火犯などさまざまな名でよび、それが国内の外国語新聞や国外のいろいろな新聞にこだましていったのである。

しかし彼らは、それではどうして何百万の正直で勤勉な農民や労働者や、理想に燃える学生や知識人たちが、彼が推進する主義のためには喜んで戦い死んでいったか、ということを説明しようとこころみたことは一度もなかった。


彼の名前には、数多くの伝説が織りこまれていた。

だから、私が延安に着いて会うことになったときは、たけだけしく英雄的な烈火のごとき人物、雄弁で大森林をも焼きつくすような鋼鉄の革命児というような人物像を予想した。

そして、好奇心いっぱいで、私は二人の友人といっしょに延安到着のその日の夕方に、彼の司令部にゆき、彼の部屋の扉をあけて踏みいった。


最初に目にはいったものは、ろうそくの灯に照らされた白木の机、その上に積み重ねられた書物、綴込み、書類だった。

それから、藍灰色の木綿の制服を着た人が、私たちがはいるのを見て立ち上がるのが、ぼんやりと見えた。


まずお互いが、たがいを品定めするように向き合って立った。

彼が51歳だということはすでに私はきいていたが、目の前の顔には深くしわがきざまれ、頬はくぼみ、少なくとも十歳は老けて見えた。

彼はつい先頃、あの叙事詩的な紅軍の長征を完了したばかりであり、栄養失調と苦難のあとがはっきりと残されていた。







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by far-east2040 | 2018-02-12 13:51 | 序曲 改編

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           延安で毛沢東と再会した朱徳
    『抗日解放の中国 エドガー・スノーの革命アルバム』(サイマル出版会)より借用



身長は5フィート8インチぐらいだろう。

みにくくもなく、好男子でもなく、また英雄的とか烈火のごとしとかいう感じはまったくない。
頭は丸く、短く切った黒髪には灰色がまじっていて、額はひろびろとしてやや高く、頬骨は張っている。
強くがっしりとした上下のあごが大きな口をささえ、彼が歓迎の微笑を見せたとき、完全にそろった白い歯並びがかがやいた。
鼻は幅ひろくて短く、顔色は黒い方だった。

とても平凡な風貌だったので、もし制服を着ていなかったならば、中国のどこかの村里の百姓のおやじさんぐらいにしか見えないだろう。


彼を知る人びとは、彼は、素朴で親切で庶民的な人物であり、労苦は惜しまず、自分を英雄に見せようなんて気持ちは少しももっていないと、私に教えてくれていた。
すべて当たっていたが、ただ「素朴」という言葉は、ある意味において真実と但書をつけたほうがいいと思う。
私を見つめたその目は、とても注意深く、観察的であった。

ほとんどの中国人の目の色は黒いが、彼の目は淡い褐色で大きくて、知恵と分別でかがやいている。

このように長い年月辛酸をなめた革命指導者がまるっきり素朴だったとすれば、生き抜くことはできなかったはずだ。


一瞬、私が感じたことがある。

それは、彼の声から動作から、しかと踏まえた足構えまですべてが男性的だということだった。

室内の暗さに目が慣れてくると、彼の制服が長年着古して洗いざらしたもので、いたんで、色もあせているということがわかった。

また、彼の顔は無表情ではなく、心をかすめるあらゆる感情の影をいきいきと表現していることもわかった。


私は、彼についてふりまかれた噂のかずかずを思い出しながら、匪賊呼ばわりについて、笑いながら話しかけてみたが、彼もまた一笑するものと予期した。

ところが、彼は笑うどころか、にわかに黙りこんで頭を垂れ、土の床をじっと見つめたが、その顔は、悲劇の中にいる人物のように苦痛にゆがみこわばった。
その瞬時に、私がかすかにとらえた深刻で悲劇的な激情のほのめきは、友人や同志にも稀にしか見せなかったのだろう。

それゆえに、それを知らない人びとは、彼をいつも変わらない楽天家というのだろう。
一瞬はおわり、彼は頭をあげ、まっすぐに私を見つめていった。


「匪賊の問題は階級の問題です」

                        

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by far-east2040 | 2018-02-09 12:00 | 序曲 改編

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           延安でのスメドレー
       『抗日解放の中国 エドガー・スノーの革命アルバム』(サイマル出版会)より借用


私はアメリカ民謡の一行を思い出した。

「銃で物盗りする奴もありゃ、万年筆でやる奴もある。」
しかし私はそれを口にしないで、すぐに彼の生涯についてあれこれとたずねはじめた。
ひとつの問にたいして、彼は訂正した。
彼の出身は富んだ地主ではなく、四川省の貧農であるというのである。
のちにわかったことだが、彼の同志の中で、彼の生涯についてよく知っているものはごくわずかというか皆無だった。
しかも彼または彼のような人物のことを、落ちついて書いて本にしようと考える余裕をもったものはひとりもいなかったのである。


彼が話しているあいだに、私は彼の伝記を書こうと思いたった。
だから、あなたは延安で何をしたいのかときかれたとき、

「あなたの今までの生涯のお話をすべてききたいのです」とこたえた。
「何ですと?」と彼はいぶかしげにたずねた。
私はこたえた。

「あなたが農民だからです。いまこの国の10人のうち8人は農民です。しかも今までひとりも、世界にむかって自分のことを語らなかったのです。もしあなたが私に身の上話をしてくださったならば、ここではじめて農民が口をひらいたということになります」


「私の身の上話なんて、中国の農民や兵隊の話しのひとつにすぎない」と彼はこたえ、「待ちなさい。もっと視野をひろげて、いろんな人に会ってから決めなさい」


私は彼のすすめにしたがって、朱将軍よりも劇的で、偉大な文学を生む素材となりそうな生涯をおくってきた人物の多くにも会った。
しかし、中国の農民の生涯は劇的ではないと考え、私は原案を固執した。
1937年3月私たちは仕事をはじめた。


何ヵ月かがすぎていった。週に二晩か三晩、将軍の話を書きとめていったが、私は仕事に自信をうしなうときもあった。
彼は身分の低い文盲の人びとの中から出てきたので、参考になるような手紙、本、文献、または日記というようなものがなかった。
日時についての彼の記憶はいつも正確というわけにはいかず、40歳をすぎるまでは、彼の存在は社会に記録されることもなかった。
彼はきわめて多忙な人であり、幼年期の思い出などはどうでもいいことのように考えがちだった。
中国の家族主義、彼の軍隊生活、それから最後に共産党の訓練と生活が、彼をひとりの集団主義型人間につくりあげてしまっていた。
だから、いったい彼個人としては何を考えたり実践したか、いつごろから彼の個人的な問題から革命の問題を中心に考えるようになったかなどを正確に把握することは困難であった。



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by far-east2040 | 2018-02-08 10:28 | 序曲 改編

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           延安でくつろぐ賀竜
        『抗日解放の中国 エドガー・スノーの革命アルバム』(サイマル出版会)より借用

私たちの作業が伝記の真ん中ぐらいまできたとき、抗日戦がはじまり、彼は前線に出た。
私も伝記本の作業は中止して、すぐに前線に向かったが、それはただ別の本を書く目的からだけではなく、行動する彼をできるかぎり観察したかったからである。
そういうわけで、1年にわたって私は、仕事をしたり、余暇を楽しんだり、日本帝国主義と戦う彼を見ることができた。


多種多様な軍事的政治的な義務を果たすことはいうまでもなく、彼ほど生命への執拗な意欲をもち、本質的に民主的な人間というものを、私はかつて見たことがないと思った。
人間の生存に関するあらゆる問題を、彼はいつかは掘り下げて考え把握する。
延安での私との定例の作業以外にも、私の住居の日当たりのいい庭で友人たちがお茶を飲んでいるところに、ときどき彼はひょっこりとあらわれた。
そして南京豆をかじり、雑談をし、歌をうたい、それから彼の口ぐせによるのだが「ホラ」を吹いたりした。


こんな風に気楽でくつろいでいるときに、私はみんなを並ばせてヴァージニア踊りを教えたりした。
将軍は何をおいてもまっ先に加わり、パートナーをふり回し、ド、シ、ドと調子をとり、閲兵行進の初年兵にもおとらない張りきりようでほこりをけりあげる。
私が知っているすべてのフォークダンスを彼に教えてしまうと、今度は西洋式の社交ダンスまでもとめる。
さらに私は教える。


軍務のかたわら、彼は踊るーーねばりづよく、こつこつと学ぶのだが、こういうことも、古い中国の封建的因習を突きくずすひとつの手段と信じているわけである。
彼はとても気に入っていたにもかかわらず、彼の幕僚である派手な賀竜将軍のように名ダンサーになる天分には恵まれていなかった。


軍のしていることを見のがすまいと私はあちこちとうろつき、抗大つまり、抗日軍政大学と改名された紅軍大学で講義している姿もときどき見たし、その大学の庭で学生たちとバスケット・ボールをしているところも見た。
後日には、前線で彼と幕僚が司令部の衛兵たちと試合をするのを、私はサイド・ラインに批評家のようにすわってたびたび見たものだ。
朱将軍はときどき、少し悲しそうに首をふって、若い兵隊らがわしを下手だといって組に入れてくれんといって沈みこむのだった。


芝居や歌が好きだった。
絶対はずせない用務のないかぎりは、延安でも前線でも上演を見逃すことはなかった。
第二次世界大戦の末期のころ、延安にきたアメリカの軍事視察団がアメリカ映画を公開した。
彼はほとんど毎晩そこにあらわれて、アボットとコステロにわいわいと掛声をおくっていたが、ふたりは中国古来の道化役やどたばた喜劇役にぴたりとはまっていたからだろう。


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by far-east2040 | 2018-02-05 14:43 | 序曲 改編

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           延安でバレーボールを楽しむ朱徳
       『抗日解放の中国 エドガー・スノーの革命アルバム』(サイマル出版会)より借用


彼が私の仕事に協力してくれることになった最初の夕方、私の中国語教師であり、秘書と通訳をかねたリリー・チャンという若い女優と、私たちが住居としていた黄土の洞窟の前の露台で、私は彼を待っていた。
私が中国語を理解できないときや、朱将軍と私が部分的に使うドイツ語がうまく伝わらないときがたびたびあったのだが、リリーの役目はそういうときに通訳することだった。
待ちながら私たちは、眼下の谷間の小さな延安の町を見おろしていた。
その古い城壁の彼方に延水が流れ、河の向こうの黄土の断崖の上には塔が見え、さらに平たくひろがる谷間を延水は東にむかって、「中国の悲哀」なる黄河に合流するために流れていく。
今は練兵場で、近いうちに飛行場になる予定のその広い平地は、つい先頃は競馬場にも使われていた。
というのは、立派な体格をした騎馬武者である蒙古人の一隊が、紅軍と交渉するために北方から乗りこんできたからだった。
その際に朱将軍は布令を発して、すべての既婚婦人また娘たちに家にひきこもるか、遠来の客が歓迎の意味を取りちがえないようにふるまいに気をつけるようにと忠告した。


しかし私をふくめて女たちはみな、蒙古人と紅軍騎馬隊との競馬を見ようとその広場に出かけて行った。
蒙古の騎手たちが、毛むくじゃらの馬を馴らして疾走させ、鞍上でうんと身をそらして、最後には馬の背に寝たようになるのにすっかりおどろかされた。
ひとりの紅軍騎手が、朱将軍が私に贈ってくれた敏捷な小馬を私から借りて競馬に出場した。
たてがみを波立たせ尾を長く引くタンクのような蒙古小馬に、私のアラビア馬みたいな小馬が抜かれていくのを、リリーと私は声が枯れてしまうまで叫びながら観戦した。
今はもう蒙古人は、紅軍の軍事顧問と政治顧問たちをつれて内蒙古に帰ってしまっている。
日本との対戦の準備は進みつつあり、革命は内蒙古にまで波及していた。


将軍は時間をきちんと守る人だったので、約束の時間には、眼下の谷の小さな町の道筋を歩いてくるのが見えた。
風采のあがらない彼の後ろに護衛兵がついて歩き、彼はふりかえって話をしているようだった。
彼は、腰のあたりから少し前かがみになって歩き、脚はポンプのように動いていた。
あの調子で中国の山野の何千マイルという果てしなく長い道のりを踏破してきたのである。
黄土の断崖をのぼってくるとき、しゃがれた咳をしきりにしていたが、それは、西康省の万年雪におおわれた山岳地帯で気管支をいためていたからである。
一度立ちどまって、腰に自動拳銃をつけた若い護衛兵と、延水の谷をながめ、指さしながら何か話し合っていた。
その谷にダムを築いて洪水をふせぎ灌漑をほどこし、裸の山々と谷間に植林するという計画があると町では噂されていた。
彼らの声はここまでひびいてきた。
彼のややしゃがれた深味のある声が、彼の倍ほどの背丈がある好男子の護衛兵の高くいきいきとした声と入りまじっていた。
その光景を見て、この中国の大革命には、朱将軍の世代や、あの若い護衛兵の世代、さらに若い十代の人々の三世代がまきこまれているのだと私は再認識した。


将軍と若い護衛兵が、丘をのぼって私たちの露台にきた。
私たちと露台を共有している農民の一家は、彼の声を聞きつけると飛び出しきてにぎやかに歓迎した。
農民対農民なのである。
彼は農民一家の家族に取りまかれながら、少年の頭を軽くたたき、母親の腕から赤ん坊をとって高々と差し上げていっしょにわらった。


このような環境と雰囲気の中で、この本は書きはじめられた。



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by far-east2040 | 2018-02-03 10:21 | 序曲 改編