カテゴリ:朱徳の半生(改編後削除予定)( 105 )


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四川省の貧農の子だった朱徳将軍はいま六十歳になった。

11月30日、戦闘の真っ最中に、華北の人民と部隊は彼を祝福して愛情と激励の言葉を贈った。

はるかな満州の戦地から林彪の幕僚が打電してきた。


「貴下の六十歳の誕生日を祝うため、われわれは一つの新しい勝利を贈る。ただいま国民党の一個連隊、わが方に投降せり」


上海で出ている雑誌『群衆』の編集局が誕生日に間に合うように手紙を送ってきた。


「敬愛する先輩。

貴下は中国人民を敵の鉄蹄から救い出されました。

貴下は中国人民を指導して、千年の奴隷状態から自らを解放させ、衣食の道を得ることを助けました。

貴下は侵入者を中国人民の田園から追っ払う。

貴下は中国民族の偉大なる子であり、中国人民の再生の親であります……今日、貴下の六十回誕辰にあたり、われわれの胸のうちに、感謝の情は香華のごとくに燃え立ちます」


延安の朱将軍の司令部には、11月30日の朝から晩までたえまない人の流れが寄せてきた。

ひとりの女を混じえた4人の農民の一団は、彼に誕生祝いの果実入りの菓子、二本の酒、一かごの誕生祝いの麺を贈るため、20マイルも歩いてきた。

延安守備隊の兵隊たちは彼のためにサンダルと靴を作って贈り、そして司令部の前で革命家を歌いヤンコを踊った。


だが、おそらく朱徳がもっとも貴重と感じた贈り物は、共産党中央委員会からの彼の勲功を数え記した巻物ではないだろうか。

清朝の全滅、袁世凱の打倒、大革命における役割、毛沢東との協力による中国紅軍の創設、長征中の軍の指揮、そして抗日戦争における偉大な業績。この文書はこう結んであった。


「貴下は過去六十年における中国人民の偉大な解放闘争を象徴している。

貴下は抑圧された中国人民のよき子、よき兄弟である……


「国民党反動がアメリカ帝国主義とともに対日戦勝利の果実を中国人民から奪い去ろうと企てている今日、貴下と同志毛沢東はわが国とわが人民の利益をまもる闘争の先頭に立つ」


朱将軍は六十歳の誕生日に一文を発表した。

それは流浪する旅芸人の娘で名前さえないほど目立たない女だった彼の母が、八十歳で亡くなるまで農婦として働きとおした物語である。


この六十歳の誕生日の2週間後には、朱将軍はふたたび中国の山野の道を歩いていた。

胡宗南が率いる蒋介石の封鎖部隊が延安に殺到しつつあった。

敵が進出してきたときにはこの小さな街は空になっていて、敵が寸土を取るごとに血を流すことを強いられる部隊だけがあとに残っていた。


悲しげな顔で別れをいいにきた農民たちに向かって朱将軍はつげた。

「ほかへ行っているのもそう長いあいだじゃないよ」


朱将軍はそばを歩いてゆく53歳の毛沢東に話しかけた。


「私は六十年生きてきた。これからの一年一年はそれだけ儲けものだ」


こうして彼は、人類解放の偉大な道を進んでいく。

今度は、3年後に蒋介石を突きくずし世界の反動をふるえあがらせる勝利に向かって、祖国と人民を導くために。
  
                       紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋

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                                               (完)


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by far-east2040 | 2017-06-10 15:04 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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マーシャル将軍がアメリカへ帰って報告書を出したのは、国民党が攻撃を開始した7月22日から6ヶ月の後だったが、彼は内戦について国共双方を非難しながらも、誠実に次のようにのべていた。


「国民党反動グループは、彼らの封建的な中国支配の保持に熱心であり、……彼らが何をしてもアメリカは支持してくれると計算している」


朱将軍は後になって、マーシャルの失敗の原因はマーシャル自身というよりもアメリカ政府の政策にあったと語っていた。


アメリカの記者団が延安に飛んだ10月ごろには、蒋介石は兵力の80パーセント、253個師団のうち193個師団を内戦に動員していた。
朱将軍が記者たちに語った話しによると、1月の停戦協定がやぶれた根本の理由は、「独裁を続けようとする国民党の決意と、アメリカの蒋に対する激励と援助」であった。

国民党はヒトラー、フランコ、ヒロヒトのような専制政治を樹立しようと望んでいて、共産主義者と人民はそれをやっつけようと決意しているのだ。


国民党がふりまいている米ソ戦という風説のことにふれて、朱将軍はいった。


「そうした戦争を製造しているアメリカの反動の一団があるし、中国の反動どもは、それがすぐ起るのを望んでいる」


「だが、彼らの野心が実現されるとは思わない」と彼はつけ加えた。

「もしそうした戦争がはじまった場合には、われわれの態度は、中国人民に対する両方の側の態度いかんにかかっている……


「アメリカがとりうる、ふたつの異った政策がある。

ひとつは、中国をソヴェト同盟との友好のかけ橋にする政策であり、もうひとつは、中国を対ソ攻撃の戦場にする政策である。

前の政策はヘンリー・ウォーレス氏が主張するものであり、後の政策はアメリカの反動たちが主張するものだ。

われわれはそうした戦争の発生を阻止するであろう! 

そうしたおそるべき大惨害を心にえがくにつけて、われわれは何としても平和のために努力せざるを得ないのだ」


ところで、あの強大な国民党軍に対して人民解放軍はどれだけ持ちこたえることができるか。

この質問に朱将軍は冷ややかに微笑した。


「それは全くアメリカ反動勢力にかかっている、というのは、彼らは中国の反動を通じて、われわれに武器や弾薬を供給してくれるからだ……」


「わが国の人民や兵隊は、これが中国とアメリカの反動勢力とのはじめた戦争だということを、また、もしわれわれが負ければ、これまでに得たもののいっさいを失うことや、何百万人のものが絶滅されることを、知っている。

だから対日戦のときと同じく、全人民がわれわれを支持している……蒋に従属するものの多くも、内戦を欲していない。

だが、彼らはその命令にしたがうか、それでなければ彼と関係を断つしかない。

しかし、現在のような服従の時期はそう長くはつづかないだろう。

われわれは過去2ヶ月半のあいだに国民党の25個師団を全滅させたが、国民党は、わが軍の1個連隊さえ、全滅させることができなかった」


もし提供されたとすれば、ソビエト同盟の援助を受けるかという質問に対しては、朱将軍はこう答えた。


「今日われわれがもっとも求めている援助は、アメリカ人民からのものだ。

われわれは、アメリカの人民がその政府の不名誉な政策をやめさせることを、望んでいる。

私は衷心からいうが、われわれは、中国の独立と平和と民主主義とに同情するすべての人民、すべての国家に深く感謝するものであり、わが国の国内問題に干渉し内部闘争をかき立てるあらゆる反動勢力に反対するものである……」


その2週間後に、ひとりのアメリカ人記者が延安に飛んで、朱将軍にぶしつけな会見を申し込んだが、朱将軍もまたぶしつけな返答をした。


「わが国をアメリカに売ることによって設けている国民党の官吏や将軍や寄生虫だけが、この内戦を欲している!」


「アメリカ帝国主義は、日本帝国主義と同様に憎むべきものだ!」

彼はにがにがしげに断言した。

「アメリカ政府は、反動政府だ。

その反動勢力が、これまでに蒋介石につぎこんだ援助は30億米ドルをこえる。

これだけの金が、役人や軍閥がくすねた一部をのぞいて、すべて中国人を殺すために使われているのだ。

一年前にはトルーマン大統領の声明やマーシャル将軍の派遣に歓喜した中国人で、アメリカの兵器の犠牲にされたものが何万人といるのだ。マーシャルが和平をかたっていたあいだに、国民党とアメリカ政府とは、戦争準備をしていた」


1946年が終わりに近づくころには、華北と満州は中国人民の鮮血で彩られたが、もしひとりが前線で倒れれば、多くのものが彼に代わるというありさまだった。

人民解放軍は敵の勢力をけずり消耗させるため、大都市をすてて農村部に退いた。

国民党の士気はますます低下してゆき、いくつもの師団がそれぞれ師団ごと共産側に移りはじめるまでになった。


何千回の闘争できたえた鉄の規律をもち、死のみが絶つことのできる不屈の確信の装甲を身につけた人民解放軍は、いまや急速に最良のアメリカ兵器で武装しつつあり、彼らが遊撃戦と移動戦から正規の戦争へとすすむ時期は近づいてきている。

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-06-10 13:44 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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1946年4月になって重慶協定が破綻したことがはっきりしたので、これに参加した共産党側の指導者11人が飛行機で延安に向けて重慶を去った。

この飛行機は途中で墜落して、乗っていた全員が死亡した。

操縦者と乗務員はアメリカ人だったが、そんな小さなことは国民党秘密警察のサボタージュ行為の妨げにはならなかった。

死亡者の中には新四軍の前司令官葉挺将軍がいたが、彼は5年間の監獄生活から釈放された人で、いま妻と二人の子どもといっしょに遭難したところであった。


中国の民主勢力は戦った。

トルーマン大統領、アメリカ議員、マーシャル将軍にあてて、保守的な実業家まで含むあらゆる層の中国人団体から抗議文が殺到した。


7月には長い間崇拝されてきた名である孫逸仙未亡人の宋慶齡が、アメリカ議会とアメリカ人民に向かって、国民党に対する彼らの援助を打ち切ることによって、混乱と飢餓と数百万の新たな死をもたらす新内乱を阻止することを求めた。

このような戦いに国民党は勝つことができないとも彼女は警告した。


孫夫人の訴えはその他何千の抗議の場合と同じく、何の応答もなかった。


7月はすでに書いた陰謀計画で全面的な内戦を予定していた月だったが、この時になっても中国に民主主義の根拠地がひとつ残っていた。

それは西南の昆明にあった。

そこには民主同盟の最後の機関紙である李公樸の編集する『民主週刊』があった。

有名な詩人で、10年前から清華大学の文学の教授であった聞一多もその編集陣の一人だった。


7月11日に、秘密警察が昆明の街頭で李公樸を射殺した。

翌日、聞一多教授は友人の遺骸の前で悲痛な追悼の辞をのべた。

「私は今日家を後にするとき、二度とかえらないことを知った」と彼は数千の会葬者を前にしていった。

そして聴衆の中の秘密警察員に向かってはっきり「出てこい」と叫びかけた。


「なんという恥知らずな行為だ! 

恥知らずな! 

君らは生けるものを亡ぼし、死せるものを汚す!」


数時間後には、聞教授も18歳になる息子の学生といっしょに昆明の街頭で射たれて死んだ。


昆明の16人の民主的教授たちは家族とともにアメリカ領事館に避難し、香港、ついで上海に飛行機で運ばれた。

ほかの都市の13人の有力な学者たちは生命の危険を賭けて、昆明殺害事件のことを国連の人権委員会に打電し、使われたピストルは消音装置のついたアメリカ製のものであることを訴えた。


外国の新聞が昆明暗殺事件を詳細に暴露したし、各国の有力な知識人たちが蒋介石に抗議したりので、公然とした暗殺は止まったが、秘密の誘拐や殺害は相変わらず続いた。


昆明殺害事件と同じ週に、南京の共産党側の主任連絡将校である周恩来将軍は、蒋介石の命令書の写しをマーシャル将軍に手渡したが、その内容は蒋が部下に下した全面的内戦の開始を告げる最終命令だった。

命令は人民解放軍に対する攻撃開始を7月22日と指定していた。

そして実際に、1946年7月22日には、アメリカによって訓練され装備された国民党軍がアメリカ製の爆撃機や大砲を先頭に解放区に押しよせてきたのであった。



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by far-east2040 | 2017-06-10 10:47 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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マーシャル将軍は1946年3月初旬ワシントンに行き、5億ドルの借款を請求した。
これは12月15日のトルーマン大統領の声明によれば、新しい民主政府だけに与えられるはずだった。

  

ところが国民党反革命の武器庫には、マーシャルが想像もしないような謀略が隠されていた。

マーシャルの不在の間に、国民党中央執行委員会は秘密会議を開き、重慶協定の決定を廃棄した。

国民党は行政部門が国会に対して責任を負うという原則、つまりこれは蒋介石の独占を奪うものであったが、この原則を否認したうえ、新しい連合政府におくる自党の代表者だけでなく、他党の代表者までの任命権を要求した。


国民党がどんな政府を考えていたかということは、共産主義者に農林部長の地位を割り当てたことではっきりした。

この地位はこれまでずっと現役を退いた軍閥の収容所だったからだ。

民主同盟の一人は教育部長の地位が提供されたが、彼は「私はこんな地位より命の方が大事だ」と回答した。


共産党と民主同盟は国民党のあらゆる申し入れを拒絶して、一月協定の完全履行を要求した。

しかし国民党は単に協定の取り決めを廃棄したばかりでなく、共産主義者の掃蕩を目標とする秘密計画の具体化に着手した。


その計画は3つの段階に分かれていた。

第一の準備段階では、民主同盟に指導される国民党地域の民主運動を買収によって沈黙させるか、テロによって破壊する。

そしてアメリカの目に、中国問題が中国人民の民主主義のための闘争ではなく、国共のぎりぎりの権力闘争として映るようにする。

そうすれば、全能のアメリカがどちら側につくかは明らかだったからだ。


共産軍に対する掃討戦になる第二の段階は7月半ばに開始されることになった。


この第二段階はそのまま次の第三段階である米ソ戦に移っていく予定で、この戦争でアメリカが勝って、中国と世界の有産階級に対する共産主義の脅威がついに永久的に取り除かれるというのが国民党の確信だった。


蒋介石はこの当時「3ヶ月準備して、あと3ヶ月で共産主義者を絶滅する」と豪語したと伝えられる。


朱徳将軍がこの陰謀の詳細を知っていたことは、五四運動記念日の民衆大会での彼の演説で明らかであった。

彼は重慶協定はこの陰謀のためぶちこわされたとのべた。


「まだ闘争に勝ってはいないが、しかし全中国人民がこの陰謀をやっつけることを確信して疑わない」


1946年3月から7月にかけて、秘密計画の第一段階が実行された。
満州と華北一帯にわたって戦闘が続いているとき、国民党地域では秘密警察のテロ時代が出現した。

反対派、とくに民主同盟の新聞雑誌社は平服の秘密警察の暴徒に襲われて破壊された。

印刷工や編集部員が殴打され、多くの記者が誘拐されたり殺されたりした。

西安では、秘密警察が民主的日刊紙の印刷工場を破壊し、幹部を殴り、主筆を射殺した。
事件を告訴した弁護士ワン・エンはとらえられて処刑されたが、国民党はあとで彼は阿片吸引者だったと発表した。


上海の北の南通市では、国民党軍と新四軍とのあいだの戦闘を調べに休戦班が来ることになっていたが、秘密警察が住民に家の中にいて証言しないように強要した。

ところが町の人々は休戦班を歓迎に出て、20人の教師や著述家や新聞人が証言した。

この20人は翌日姿が見えなくなった。

16人の死体はついに見つからなかったが、4人の縛られた死体が数日後に近くの川で発見され、その身体は切りさいなまれ、眼はえぐり取られていた。


広東では、秘密警察がすべての書店と文化団体を襲って閉鎖し、アンラ物資にからむ官庁の腐敗を暴露した2つの自由主義日刊紙を破壊した。
これらの新聞は、一隻分の救済米がそっくり国民党第五十四軍にわたっている事実をつきとめたのだった。

数百袋の米がなくなっていることを記者が指摘すると、アンラの中国人役員はすまして答えた。


「強い風が吹いてきて、米袋が海に飛ばされた」

                         紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-06-10 08:06 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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1946年1月に、朱将軍は外国人記者ジョン・ロデリックと会談したが、彼は朱将軍のことを「熱心な聴き手」で、「旧世界的な作法」をもった人であり、すすめられる煙草をとる前などには両手を胸のあたりで握り合わせて、軽く頭をさげると書いた。

ロデリックの話によると、朱将軍はそのころはもう兵隊とバスケット・ボールをすることはなく、長い散歩をとり、ときどき馬に乗って猟に出かけた。

戦争中に日本の爆弾で破壊されていた延安から5マイル離れた酷寒の洞窟にすわっている朱徳の姿は、「無給のみすぼらしい身なりの革命家だが、階級はアメリカの5つ星の将軍に匹敵するのだ」


「この天下のおたずねものはほとんど護衛なしに、しかも決して武装せずに延安を歩きまわる。

彼の兵隊たちは、中国の軍隊では稀有なことだが、彼を偶像視している。
重慶の統一交渉が進行中で、重要な党の決定や配下130万の部下の指揮などで多忙なこのごろは、毎日朝から晩まで予定表に従って動いている。

6時に起きて朝食をすますと、すぐ前線からの電報の山にとびつく。

軽い昼食をとって、午後もずっと仕事を続け、他の指導者たちと会議をしたり、時には彼らに会うため5マイル歩いて町に出る。

朝食前と夕食後には本や新聞をむさぼるように読み、外国のニュース放送や新聞の翻訳を通じて、国際情報におくれないようにする……

「生涯を統一と自由と民主主義のための戦いで過ごしてきたので、それが成就しさえすれば、自分はいつでも即座に武器をすててもかまわないと彼はいう。
『1946年にはそれが実現するといいのだが』とつけ加える」


朱将軍は非常に熱心に重慶会談のことを話した。

「日本がやぶれ、ロシアは問題ではなく、内戦の危機も明白に去った」とすれば、次に必要なことは軍隊を国でまかなえる程度まで縮小し再編成することだと彼は考えた。

国民党軍90師団、共産軍20師団という協定はもっと縮小すべきだと考えた。

中国はできるかぎり自分の足で立つべきであり、蒋介石が頼んで来てもらい、ウェデマイヤー将軍がいまそこで働いているアメリカ軍事顧問団のようなものは不必要だと見た。


なおまた、軍事目的の外国借款は返すことがむずかしいが、産業建設につかう借款は新しい工場の生産から支払うことができ、同時に生活水準を引き上げることができる。


極東の平和を維持するには、十分訓練された大きな軍隊が必要ではないかという質問が出たとき、朱将軍は新しい中国の民主政府の存在こそ国内平和の最大の保証だと思うと答えた。


「われわれが軍隊を国軍に統一することを主張しているのはそのためだ。

中国では、大きな軍隊を維持する誘引になる権力や利潤を取り除くことが、先決問題だ」


熱心に語りながら、これはこう結論した。


「私はこの華北で、人間が逮捕やテロにおびやかされずに生活でき、自由に民主的な自治を行なうことのできる地域をつくりだす仕事を、手伝ってきた。

私は幸いに生きのこって、現にわれわれの打ちたてた民主主義が、現在混乱と圧迫との中に住む地域の中国人から要求されているのを、自分の眼で見ることができた。
この点で私は有りがたいと思っている。
私の生涯は、無駄ではなかった」


重慶の統一会議の妥結を祝う2月4日の延安の民衆大会で、朱将軍は、もし中国が30年の平和を手に入れることができるならば、世界のどこにも負けない近代的国家になるだろうという確信をのべた。

総統が民主政府に同意したことに敬意を表すといった上で、蒋介石に延安辺区の軍事封鎖をやめて、その誠意を示してほしいと呼びかけた。

しかし蒋はこのよびかけを無視した。


3月4日、マーシャル将軍が延安をたずねた。

朱将軍はその歓迎民衆大会で、マーシャル将軍が三ヶ月足らずのあいだに中国の内戦をとめ、軍の再編成計画をたて、民主主義と平和とへの第一歩を成就した功績をたたえた。

そして人民解放軍は停戦条項とマーシャルの設置した軍事執行部の指令を忠実に実行するとのべた。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-06-09 21:34 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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朱将軍が満州地域の問題を考えていた当時、中国の情勢がまた急に変わった。

1945年12月15日にトルーマン大統領は声明を発表して、アメリカ政府は、「中国の国民政府が一党専制の政府」だということを認めること、そして政治的統一は中国人自身によってのみ作り出されるということを明らかにした。

大統領は内戦の停止命令を擁護して、平和と統一と民主的改革は中国政府の基盤をひろげて他の党派を含めることによって促進されるといった。

アメリカ政府はそうした基盤の拡大された政府に融資するだろう。


この声明と、それを具体化するためのジョージ・マーシャル将軍の派遣を中国人民は大きな喜びをもって迎えた。


重慶の『新華日報』は「いざ立て! 人民大衆よ」と叫んだし、上海の新聞も一斉に歓呼し、そして『大公報』は上海の学生たちからマーシャル将軍への訴えをかかげた。


「(1)民主的中国政府の樹立を援助していただきたい。

(2)中国における工業、農業、商業、医療、および文化事業の発展を援助していただきたい。

(3)中国国民の利益を尊重し、故ルーズベルト大統領の政策を実行してほしい。

(4)中米友好が強化されるように中国人民の真の感情をよく理解してほしい。

(5)内戦を公正に仲裁していただきたい。

(6)アメリカ軍隊をできるだけ早く中国から撤退し、またレンド・リース協定の兵器による中国部隊の援助を停止してほしい」


毛沢東と朱徳はトルーマン声明を歓迎することを発表し、ジョージ・マーシャルが「パトリック・ハーレイ将軍とアルバート・ウェデマイヤー将軍がもたらした損害をつぐなってくれる」ように希望した。


しかし、中国のアメリカ部隊は相変わらず国民党軍を保護していたし、アメリカのレンド・リース物資はぞくぞくと流れ込んでいた。

したがって、ウェデマイヤー将軍は新聞記者に、中国の傀儡軍は「うまく蒋介石軍に吸収されている」と平然とうそぶいていた。


そうした警戒すべき兆候があるうえに、さらに毛沢東と朱徳は『国家再建計画』という国民党の新しい秘密文書を手に入れた。

それは彼らの軍隊を掃蕩するための設計図であった。

アメリカの行動とこの新しい計画が符号する事実は、トルーマン声明とマーシャル将軍派遣の目的について彼らに深刻な危惧の念をいだかせたにちがいない。

それは彼らを解体し弱めるために時をかせぐ行動ではないだろか?


このような危惧はあったが、それを口に出したのは数ヶ月後のことであった。

共産主義者たちは蒋介石がマーシャル将軍の助言でついに召集した政治協商会議にただちに代表団を派遣した。


1946年1月末、国民党、共産党、民主同盟の代表は、民主連合政府を樹立する歴史的な重慶協定に厳粛に調印した。

委員会はすぐ新しい民主憲法の起草に着手し、これは総選挙の後に新たな中華民主共和国の国会で討議し採決されるはずであった。


この重慶協定の最も重要な点のひとつは、国民党代表はそれとたたかって敗れているのだが、新政府の行政部門は大統領ではなくて国会に対して責任を負うことだった。

これは、1911年以来繰り返し起こったような政府が独裁者の道具になるのを防ぐために、特に設けた規定だった。


重慶協定に調印したすぐ後、国民党と共産党の代表はもうひとつの協定に調印し、マーシャル将軍がそれに副署したのだが、それはそれぞれの部隊に停戦命令を下し、各軍を縮小再編成して、合同最高司令部の下の国軍を創設することを取り決めたものであった。


共産主義者はこの協定は実行されると確信していたので、朱将軍の司令部はただちに人民軍全師団の解体に着手した。

人民軍は停戦協定によって18個師団に減らされることになり、一方、国民党軍は90個師団を維持することになっていた。

3ヶ月のうちに50万が動員解除されて、各自の郷里に送り返された。

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by far-east2040 | 2017-06-09 18:11 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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毛沢東は10月に重慶から戻ってきた後、ひどく心臓を病んでいたので、延安に来た二人のアメリカ人記者と会見できなかったが、朱将軍は率直に会談した。


その当時、共産主義者の本拠地延安は引越し最中だった。

戦争が終わったとき、八路軍部隊は工業都市の張家口から日本軍を追い出したが、そこは延安から東北40日の行軍距離にあった。

この途中にたくさんの宿泊所が設けられ、延安から張家口やその他の場所へ移動する何千人の男女がそれを利用した。

戦争中に数千人の軍事、政治の幹部を養成した有名な軍政大学である抗大はいくつかに分かれてあちこちの解放区に分配された。

延安大学の学生も行政の仕事につくものや、新しい張家口の連合大学に移るものもあって、大部分がいなくなっていた。

芸術、音楽、文学の分野でいくつかのすぐれた作品を生んだ魯迅芸術学院は張家口に移った。

戦争中に三年課程で千人以上の医療工作員を送りだしたピーツン医学校も張家口に移ったが、移転のとき延安の洞窟病院の患者の大部分を連れて行った。


数百人の党と軍の幹部も出発していたが、毛と朱とは最高幹部といっしょに延安にとどまって仕事を続け、蒋総統が10月10日の協定で約束した政党連合会議を召集するつもりがあるかどうか様子をみながら待機していた。


アメリカの記者が朱徳将軍にたずねた最初の質問は、満州のことと中国共産主義者がソビエト同盟の援助を受けているという国民党やアメリカ側の非難についてだった。


朱将軍はこれに答えて、共産主義者は延安でも満州でもロシア人と全然接触をもっていないと断言し、ロシア人は国民党よりも共産主義者を特別に援助する意思はないと思うといった。


話が国民党の満州に対する政策のことになると、彼の口調はひどく軽蔑的になるのだった。

日本が満州を占領してからの長い年月の間、国民党指導者たちは東北を日本に譲る気だったし、1937年7月7日の中日戦争勃発後に日本が占領した地域を取り返すだけで満足していたと彼はいった。


中国共産主義者は国民党が満州で活動することや、役人を送りこんで中ソ友好同盟条約にしたがって平和にその義務を実行することに反対しないとも彼は言明した。


「だが、次のことだけははっきりといっておかなければならない」と彼はつけ加えた。

「中国共産主義者は、過去14年間、抗日闘争を通じて東北の人民と結びついていたし、戦争中は八路軍が東北の人民といっしょに河北・熱河・遼寧解放区を樹立したのだ。

だからわれわれは、東北の民主的再建に関心をもたざるを得ず、人民が現に獲得している民主的権利を破壊されないようにする義務があるのである……


「混乱の根本原因は、国民党が東北の人民の意思を無視して、その一党独裁を押し付けようとしていることである。

国民党の役人は人民と協力することを拒み、彼らの民主的権利を否定する。

国民党はアメリカ軍にたより、それをつれて東北に踏みこんでいる。

またある種の反動家たちは、東北を反ソ基地、したがってまた第三次世界大戦の戦場として、利用しようとさえたくらんでいる。

このことが、東北人民のあいだに懸念と反感をまきおこすのだ。

じっさいアメリカ軍が華北にいることでさえ、絶対不必要なことなのであり、まして東北に入る権利など、まったくないわけだ。

……もし国民党が反人民的な反民主的な政策をすてないならば、決して東北の人民とのあいだの争をなくすことはできない……


「東北の人民は、地方自治を確立し連合民主的地方行政を作り上げることを提案しているが、そうすれば民主的復興の模範行政になるだろう。これが東北問題を解決する最善の方法であり、それを実行することは、統一中国の主権をそこなうことではない。


「国民党は、東北において人民に政権を返し民主主義を行うという約束をまず実行すべきだ。

それが東北人民の国民党への不満をしずめ、全国統一の強化を大きく助けるだろう」


東北ではこれまでの14年間に、共産主義者の指導の下に行動した10万人の地下工作者が殺されたと朱将軍はつけ加えた。

今では、林彪将軍の指揮下に30万人の部隊がいる。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-06-09 08:20 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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1945年10月、11月が過ぎると、全華北は革命兵力と反革命兵力の間の闘争場になった。

アメリカと日本と兵隊は、共産軍に挑戦する国民党軍や傀儡軍が使用できるように共同で鉄道を警備した。

国民党軍の使用にあてるアメリカの飛行機やレンド・リース物資が上海や華北のアメリカが管理する港にぞくぞくと送りこまれた。


8月23日に満洲の占領を完了したソビエト赤軍は、この地方の主要都市と交通線をおさえていて、一方で八路軍と満州義勇軍は郷村で行動しながら、中ソ友好同盟条約を用心深く文字通り墨守しているロシア人との一切の接触を避けていた。


満州に人民軍がいるため、蒋介石総統は国民党部隊が接収できる態勢になるまで赤軍部隊の撤退を延ばすように、正式にモスクワに要請した。
モスクワはこの要請を受け入れて、1946年1月3日を最終撤退日と決めた。


だが12月半ばになって、蒋総統の代表は赤軍の撤退をもう三ヶ月延ばすことをふたたび正式に要求した。

モスクワはそれを承諾した。

しかし赤軍は、中国の「不正規軍」を武装解除してくれという国民党の要求に対しては、中国の内政問題に干渉することはできないという理由で拒絶した。


国民党は赤軍の撤兵延期を二度も正式に懇請しているのに、国民党の宣伝家たちはアメリカの宣伝家たちにうまくそそのかされて、赤軍は満州撤兵を拒否したという猛烈な反ソ宣伝を行った。

1946年3月赤軍が予定通り撤兵を始めると、国民党宣伝家たちは満州を中国共産主義者に引き渡すために出ていくのだと非難した。


国民党軍と傀儡軍はアメリカ軍と日本軍に勢いづけられて、この数ヶ月八路軍と満州義勇軍の抵抗を排除して、満州に進出しようと努めていた。

ロシアが撤兵し終わるまでに、国民党は南満洲の主な都市だけを接収することができた。

共産軍はロシア軍のあとに北満に入り、日本が首都にしていた長春も占領し、強力な国民党軍がここを包囲するまでもちこたえた。


アメリカは、ロシアが撤兵前に満州の産業機械を奪い去ったことを強く攻撃した。

若干の非難が事実にもとづいていたことは疑いないが、剥奪の理由が十分に説明されたことはない。

私(スメドレー)は事実は次のようなものだろうと考えている。


確かにロシアは、日本が過去14年間に対ソ戦基地の満州に建設した戦争施設や軍需工場はすべて剥奪したにちがいない。

太平洋戦争が始まるまでは、西洋資本主義国も満洲を「アジアにおける反共の要塞」と見ていたのだ。

「アジアの闘鶏場」である満洲は19世紀の末以来、アメリカ金融家のねらいのまとであり、ロシア革命のときはソビエトに対する作戦基地でもあった。


反革命的な国民党政権を支持するアメリカ人が、第三次世界大戦のための作戦基地の一候補として、満州の日本軍事基地を蒋介石に接収させたいと考えたことは疑いない。

ロシアがこの基地を剥奪したことは将来の反ソ基地の基礎を弱めたことなのである。


朱将軍やその他の中国共産党指導者は祖国が第三次世界大戦の戦場になるのを黙って許すつもりはなかった。

第三次大戦となれば、朱将軍が何回かいっているとおり「中国人民は肉で、帝国主義者が屠殺者」になるからだ。

彼らはソビエト同盟が国民党政権を承認していたので、ソビエト同盟や赤軍に頼るわけにはいかなかった。

しかしソビエト同盟が基本的に中国共産主義者に共感を持っていたことは疑いなかった。

ただし中国共産主義者が政権をとれるほど十分強いと考えていたかどうかは疑問だったが。


1945年11月末ごろの情勢はこのようなものだったが、このころ、二人のアメリカ人記者が飛行機で延安をたずねた。



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by far-east2040 | 2017-06-08 20:24 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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アメリカ軍に関係する事件が続いていたころ、上海の2、3の勇敢な新聞が「米軍暴虐のページ」という欄を設けたが、月日がたつにつれて、アメリカ軍の不法行為に関する報道や投書でいっぱいになった。

あるアメリカの提督は、婦女子の暴行や男子の殴打殺害に抗議しに行った上海の中国人代表団に向かって、「アメリカの若い連中」は何ヶ月も海上でさびしい思いをしたので、ちょっと楽しみを取っているのだと答えた。


だが、天津の年寄りの労働者がアメリカの海兵に捕まってちょっといたずらで片耳をペンナイフで切り取られたり、北京の女学生がアメリカの航空兵に街頭で陵辱されたり、南京で橋に立っていた人が海兵に溺死させられたりしたのは、中国人にとっては「楽しみ」どころですまされない。

アメリカ部隊の暴行事件が度重なっても、国民党政府が抗議さえしないので、中国人のあらゆる階級の憎悪が高まっていった。


この憎悪は1945年11月30日の事件で急激に燃え上がった。

この日昆明で、内戦とアメリカの中国領土占領に抗議する学生大会が開かれたが、秘密警察員がこれに手榴弾を投げて、数人を殺し数十人を傷つけた。

学生の抗議デモが全国に燃え広がった。

そのひとつの重慶の大会では民主同盟の二人の指導者李公樸と羅隆基が演説した。

羅教授はこうのべた。

「今日では生きているより死んだ方が楽だ。地獄の恐ろしさは聞いているが、地獄に思想統制や秘密警察があることは聞いたことがない。今日地上の世界は地獄より暗い」


1945年末、青島の高等学校教師フェイ・シィァオ・チンが思想と所属政党に関する質問に回答をこばみ、銃殺された事件があって、大衆の怒りが高潮したことがあったが、彼に質問したのは日帝協力軍の指揮官だった例の反逆者の市長であった。


昆明の学生殺害事件に抗議する延安の民衆大会で、朱徳将軍は国民党が「1927年以降に殺した進歩的な青年の数は40万から50万に達する」こと、そして今日も秘密警察は「日夜人民を殺している」ことを聴衆に訴えた。


「国民党は、旧北洋軍閥より開明したふりをしている」彼はさげすむようにかたった。

「人民に判断させるがいい! 

もし国民党がその望みどおり国内を『統一』したならば、わが国はいったいどうなるのか、人民に考えさせるがいい! 

それは北洋政権よりはるかに悪質な、はるかに専制的な、はるかに残酷な、はるかに狡猾な、ファシスト独裁になるだろう」


まもなく「アメリカを打倒しろ! 日本軍部隊を武装解除しろ! 傀儡部隊を武装解除しろ! 内戦を停止しろ! アメリカ部隊を即時撤退!」そうした叫びが国中に響きわたった。


中国共産主義者の態度は人民としてのアメリカ人に反対したのではなく、「アメリカ帝国主義」あるいは「アメリカの反動」に反対したのであった。

同様に彼らは日本帝国主義には反対してきたが、日本人民に対してではなかった。

日本人の中に友人をもっていたように、彼らはアメリカ人のあいだにも多くの友人がいることを知っていた。

1947年春E.F.カールソン准将が死んだときは、彼らは中国の愛国者を失ったかのように哀悼し、そしてカールソンの友だちだった朱徳将軍が個人としてカールソン夫人に弔電をうったのだった。

1946年10月のスティルウェル将軍の死も同様に解放区に深い哀悼を投げた。

朱将軍はスティルウェル夫人にも「中国人民は、抗日戦に対するスティルウェル将軍の貢献とアメリカの正しい対華政策のための彼の奮闘を、永久に記憶するでしょう」と打電した。


延安放送はいった。


「蒋介石援助をやめろという昨年1月のスティルウェル将軍の助言がもし採用されていたとすれば、そしてもしアメリカ大使がスティルウェル将軍のような真に公平無私な態度をとっていたとすれば、中国の情勢と中米関係は今日のような困難に陥らずにすんだはずだ」


E.F.カールソン将軍は少なくとも死ぬ前に一つの大きな慰めを与えられたはずだ。

というのは、中国の民主主義のための彼の勇敢な奮闘に対して、中国人民の名による感謝状を毛沢東、朱徳、周恩来、彭徳懐の4人が署名して送ったからだ。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-06-08 16:06 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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朱将軍は9月17日に論文で反駁した数日後に、また文章を発表して、こんどはマッカーサー将軍が東京で発表した日本人戦争犯罪者の名簿に抗議した。

この名簿には真珠湾攻撃当時の閣僚と、フィリピン、ビルマ、そして蘭領東インドの残虐行為の責任の地位にあった高官の38人しか載っていなかった。

名簿には中国での残虐行為の責任者はひとりも入っていなかった。


朱将軍は「日本はその重工業の若干と極東貿易における指導的地位を保持することを許されるだろう」という9月11日のマッカーサー将軍の声明も攻撃した。

連合国は第一次世界大戦後と同じあやまりを犯そうとしていると警告し、マッカーサーは「第三次世界大戦のダイナマイトをしかけるのに懸命な日本ファシストのために、温床を残してやっている」とのべた。


まもなく多くの事件が発生して、中国共産主義者が重慶に招かれているのは表向き発表されていることとは全く別の理由によることが明らかになった。

毛蒋交渉がまだ続いている9月30日、アメリカ海兵隊が日本軍部隊がたくさんいる華南ではなく華北の都市に、日本軍を武装解除し送還するという名目で乗り込み始めた。

結局5万のアメリカ部隊が中国の領土に入り込み、人民軍に挑戦する傀儡部隊や国民党部隊、―時には日本軍部隊とさえ肩を組むことによって、直接間接に内戦に参加したのである。


重慶協定が調印される5日前の10月5日、朱将軍はまたも国際外交の舞台に登場して、アメリカの内政干渉に対して、重慶の米軍事当局に断乎たる抗議をたたきつけた。


それは、八路軍が早くも8月2日に日本軍から解放していた芝フに、アメリカ軍がやみ撃ちをしかけた事件に対するものだった。

10月1日、芝フ沖に停泊したアメリカ艦艇から将校が上陸して、八路軍守備隊をたずね、市中の米国財産を点検することと、湾内の小さな島の一つに休養目的で海兵を上陸させることの許可を求めた。


要求は二つとも非常に好意的に許可された。

翌日、同じ将校がやってきて、中国の沿岸防備を見たいと申し出た。

それも許し、八路軍将校が同行して視察させた。


ところが10月4日の朝5時、アメリカ駆逐艦から上陸してきた将校が、八路軍守備隊に向かって、芝フ地域の沿岸防備と兵力をすべて撤去して、かつ市政府をアメリカ軍に引き渡すよう命令した!


朱徳将軍はアメリカ軍事当局者にあてた抗議のなかで、彼の司令部との事前の取り決めなしに万一上陸を敢行して、重大な事態が発生したならば、責任はすべてアメリカ側にあることを警告した。

もちろん彼は、米軍司令官がアメリカの港を外国海軍に渡さないことは想像できるように、それを許しはしないであろう。


アメリカは芝フ事件では折れたが、ほかの場合はそうではなかった。

10月18日、アメリカ部隊は天津の八路軍事務所を包囲し攻撃し、幕僚を逮捕してアメリカ軍司令部に連行した。



この事件でも、ほかの3つの事件といっしょに朱将軍が抗議を出した。
事件のひとつは、米軍10機が解放区の宏次の町をおそって、民衆大会を機銃掃討し、多数の人民を殺傷したことだった。

もうひとつは米軍10機が解放区の固安の上空を旋回して通信を投下し、八路軍守備隊に2日以内に撤退を命じ、もしきかなければ攻撃すると脅したものだった。


朱将軍はこれら3つの中国主権の侵犯に対する謝罪、天津の八路軍財産の弁償、宏次における死者の遺族と負傷者に対する賠償を要求した後、ウェデマイヤー将軍に通告した。


「余は、かかる中国主権の侵犯と中国の国内問題に対する干渉が繰り返されざるよう、貴官が適切なる措置を講じ、かつ保証されること、また米軍が国民党の解放区攻撃に参加することのないことを、強く要求するものである」


アメリカ人記者の報道によると、ウェデマイヤー将軍は朱将軍の抗議を無視して、2日後の秘密会議では、レンド・リース援助を国民党に与えると同時に国民党軍を装備するというアメリカの意図と計画について多くの国民党陸空軍の将軍たちに話したといわれる。


それと同時に中国紙は、米軍機が西北を封鎖中の国民党軍や解放区の国民党部隊に弾薬を輸送していることを報道した。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-06-08 14:20 | 朱徳の半生(改編後削除予定)