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 延安は、もともと小さな町で、これほど大勢の人間は収容しきれなかった。住居の不足を解決するため、谷に沿った黄土の崖に洞窟を掘りはじめた。これまで肉体労働をやったことのない学生たちが、つるはしやシャベルを取り、兵隊と協力して、この地域全体を洞窟住民の小都市に変えていった。戦争がはじまった後には、延安は人口5万の小都市に発展した。


反動の堅い殻にも、あちこちひびが入りだした。4月には、上海の印刷技術者の一団が、新しい印刷機をたずさえて、西安から紅軍のトラックで乗りこんできた。これまで貧弱な印刷だった『新華日報』が面目を一新し、420日には共産党の中央機関紙『解放日報』が創刊された。


この新しい『解放日報』の巻頭論文は、スペイン内乱に関するものだった。それは朱徳が書いたもので、彼の主な論文と同じように、歴史的な意義のあるものだった。はじめに民主主義のためのスペインの長い闘争について述べ、それにつづいて、


「今日のスペインでは、10万のイタリアとドイツのファシストたちが戦っている。……スペインは自身の独立のため戦っているばかりでなく、西欧がドイツとイタリアの手中に落ちるのを防ぐためにも戦っている。
……スペイン人民は、国際民主主義部隊――アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、ポーランド、ロシア、その他の義勇軍――に支持されている。……中国でもスペインのような内戦になると考える人も多いが、中国には対日戦争のための統一戦線があるから、スペインのような内戦はない。中国で内戦をかき立てようとするものは、日本人を手助けするものだ」


中国では、もとソビエト地区が改編されてできた特別行政辺区だけが、スペイン共和派に対する支持を声明した。その後しばらくして、スペイン共和国政府から送られたポスターが、陝西省の町や村の壁に貼り出された。



# by far-east2040 | 2019-05-20 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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私は、その後朱将軍に、紅軍の兵隊は統一戦線をどう思っているでしょうかとたずねたことがあるが、彼はとても率直に答えてくれた。


「わが軍の兵隊は、労働者と農民だ。彼らは知識人や文化人ではない。そのイデオロギーは、紅軍イデオロギーだ。農民や労働者として、心から地主や軍閥を憎んできた。だから、以前にはどうやるかということがよくわかっていた。ところが今になって、日本帝国主義と戦う意思をもつすべての人といっしょにやれ、といわれても、なかなか難しい。そこで、彼らを再訓練するため、数百人の幹部を延安に召集して、抗大(紅軍大学)で、統一戦線の原理と戦術に関する特別の訓練課程を受けさせている。この課程をおわると、彼らは部隊に帰って、ほかのものを訓練することになる。わが軍は、統一戦線実行の模範にならなければならない。


「これまでは『われわれは労働者農民の子、労働者農民の利害はわれわれの利害』というのが、主な紅軍規律だった。これからは『われわれは中国国民の子、国民の利害はわれわれの利害』といわなければならない。われわれは、もし中国が日本の植民地になれば、国民党も共産党もなく、奴隷のような国民が残るだけだということを、兵隊にわかるように教えなければならない。たえず最後の目標に眼をむけて、右翼または小児病的左翼からの誘惑や敵意に迷わされないようにしなければならない」


まもなく延安は、全国いたるところからたえず流れこんでくる数千人の青年でいっぱいになった。彼らを収容するために、新しい学校を作らなければならなかった。陝北大学、魯迅芸術学院、それに西安に近い紅軍前線の特殊学校が創設された。毛沢東と朱徳は、他の指導員も同じだが、何とか時間をみつけて、新設の学校で講義をしたが、朱将軍はやはり抗大の講義に一番多く時間をささげた。



# by far-east2040 | 2019-05-19 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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こうした国民党の策動について私と話をしていたとき、朱将軍ははっきりいった。


「もし国民党の提案を承認したなら、わが軍はつぶされただろうし、日本に対する抵抗は問題にならなかっただろう。蒋と彼の一派は、日本と戦うことなど本気で望んでいない。だが、戦わなければ、紅軍その他の抗日軍隊や中国民衆の手で、おのれが歴史の舞台から一掃されることを、蒋は知っている。わが軍は三個師団分の補助金や弾薬で我慢しなければならないかも知れないが、あとの四個師団を解体しようとは思わない。というのは、まもなく日本との戦争が勃発することははっきりしているし、そうなれば、国内のあらゆる人力と資源を勝利のために動員しなければならないことは明かだ。国民党は、口径の如何をとわず、新しい銃器の供給を拒絶した。また衣料や毛布や薬品も拒絶した。われわれが与えられるのはせいぜい三個師団分の金と弾薬ぐらいだろう。


「しかし、戦争がはじまれば、わが軍の部隊は全部前線にゆく。われわれは、いつもそうしてきたように、人民のなかに根をはやして、彼らを動員し、訓練し、武装し、教育する。われわれは生きのびて戦うのだ」


この会話をしたあと、まもないころ、国民党の軍事使節団が、紅軍を視察するため西北に到着し、延安を訪ねた。私も胡宗南が西安を接収したときに、逃れて延安に入っていた。


国民党軍事使節団は、延安に1週間滞在していたが、私はそのあいだ朱将軍が、10年間も彼に戦争を仕掛けた将軍たちや大佐たちの接待をつとめるのを見ていた。その場合の彼は、私がこれまでに知っていたぶっきらぼうで素朴な兵隊ではなく、旧い社会秩序の上品さがすっかり板についていて、しかもまわりくどさやお世辞の伴わない人柄にみえた。その上品さの底には、威厳と重厚さと自信の、きびしいものが流れていた。国民党の将校たちをむかえた最初の朝食会の席で――私もそれに列席していた――彼は次のような飾り気のない言葉で、歓迎のあいさつをした。


「本席は、数百万のわが国最良の子弟が亡くなった、血で血を洗う兄弟殺しの10年が、いま終わったことをしめす歴史的な瞬間であります。

この民族統一戦線が、数年前に成立していたなら、中国の人力や天然資源は乱費されず、領土をうしなうこともなく、今日われわれは日本と対等に戦えるほど強くなっていたでしょう。


「中国はいま新しい時代に入りつつあり、紅軍と共産党は、国家と民族の生存のための戦争をたたかうため、統一戦線をかため、かつ維持することに全力をあげる覚悟であります。


「中国は弱くて日本と戦えない、という人がいまでもおります。そうではありません。われわれは、戦闘のまっただ中で、わが国の人民を動員し、訓練し、武装することができるのです。紅軍の歴史がこのことを証明しております。われわれは、中国の人民をおそれていません。中国の人民は善良な人びとです。ただ抵抗戦争の原因と目的を説明してやり、生活問題の解決を助けてやりさえすれば、いいのです」



# by far-east2040 | 2019-05-18 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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朱将軍、毛沢東と彼らの幕僚たちは、延安でほとんど絶え間なしに会議をひらいた。19372月、周恩来を長とする共産党代表団が南京に出むいていたときだが、朱と毛は、それぞれ共産党と紅軍を代表して、南京で開会中の国民党の国民党中央員会に長文の電報をおくった。そして民族統一戦線の結成をうったえ、国民党が国内の民主的改革をおこなうなら、大幅な譲歩をしてもいいとよびかけた。もし統一戦線がつくられ、紅軍が国民党軍と同じ待遇をあたえられるなら、紅軍は名前を変えて、中央軍事委員会の全般的指揮の下にはいる、という。また、国内のあらゆる人材を抗日闘争に引きこむため、地主所有地の没収を中止し、西北のソビエト地区を特別行政区――共産主義者が管理するが中央政府の指揮下におかれる――に変えることも申し出た。そしてこの地区では孫逸仙の綱領と政策を完全に実行するつもりだ、と声明した。


共産党と紅軍は、これらの譲歩と引きかえに、国民党を督促して、大衆の市民的自由を回復させ、命をかけて戦う値打ちのあるものを、大衆にあたえさせようとした。彼らはまた、すべての政治犯を釈放し、抗日闘争のための組織と武装の権利を人民にあたえなければならないと主張した。


しかし、統一戦線が具体的な形をとりはじめたのは、数ヵ月たってからだった。国民党は、共産主義者の申し出を降伏と解釈し、この機会をうまく利用して、紅軍をつぶそうと企てた。そして紅軍の七個師団のうち、四個師団を解体して、のこりの三個師団を国民党将校を入れた新たな軍隊に再編成することを要求した。共産主義者は、彼らの軍隊の解体には絶対に反対し、そのかわり、国民党軍と紅軍との間で、将校を友情の証として交換することを提案した――この提案におそれあわてた国民党は、ひどく熱い焼芋をつかんだ時のように、あわててこの問題を取りさげた。



# by far-east2040 | 2019-05-17 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編

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  西安事件解決後、延安の飛行場で周恩来を迎えた毛沢東(『抗日解放の中国』より借用)


蒋が釈放されたのは、日本帝国主義にたいして中国の救国に努力することを誓ったからだった。

 

1225日、青年元帥は自分の「誠実」を証明するため、蒋を釈放し、同じ飛行機で南京に飛んだ。青年元帥は、そこで裁判にかけられ、禁錮の判決を下されたが、すぐ特赦で釈放された。自分の身上にうけた侮辱を犯罪視する蒋介石は、「青年元帥」をとらえて、浙江省の彼の郷里の家に監禁した。この時以来青年元帥は、蒋介石の個人的な囚人になってしまった。蒋の釈放とともに、民族統一戦線結成のための、長い苦悩に満ちた闘争がはじまった。青年元帥をうしなって志気沮喪した東北軍は、まもなく蒋に解体されて、全国にばらまかれた――そのいくつかの師団は後に紅軍に加わった。1月半ばに極右翼の胡宗南将軍が、西安を接収し、愛国者たちは四方に散り、ある者は紅軍に加わり、ある者は華北の元の場所に帰って、闘争を続けた。


延安は、全国の抗日運動の中心地になった。労働者、学生、学者、文化指導者などが次から次へと陝西省北部に流れこんだ。彼らは敵意をもつ国民党軍隊――この当時でも「日本は皮膚病だが共産主義者は心臓の病気だ」と公言していた――を避けるため、大迂回してやってきた。



# by far-east2040 | 2019-05-16 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編