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「伏犬丘」のほとりにしゃがんで、「小犬」は世界が流れてゆくのを見る。

稀にしか門を出ない郷紳の家の女が籠で通り、百姓女たちが、ろばの背にゆられながら、どこかの寺へ子どもを授けたまえと祈祷しに行ったり、占い師のところへかよったり、年一度の里帰りをしたりする。

市の立つ日には、「小犬」の母の里の人たちのような芸人の一団がとおりすぎ、百姓は売りに出すものを運んでゆく。
長い籠をかついで塩をはこぶ苦力が、列をつくってとおる。
この塩運びの苦力はみじめな連中で、ぼろをまとい、体はやせこけ、ときには足は傷ついてうみを流し、多くのものは肺病の咳をしていた。


ときおり朱家の人たちは田んぼ仕事をやめて、家の前の木かげで休息する旅人と湯をいっぱい飲みながら、話をしたりした。

そういう人びとから、「小犬」は中国というのは大きな帝国の四川よりももっと大きいものだと聞いた。

つづいて彼らは、まるで気やすげに、重慶、西安、それから人びとから「老仏」と呼ばれていた邪悪な西太后が竜の玉座にすわっているという北京のことを話した。

ときには、彼の先祖たちの地である広東のことを話題にすることもあった。

省の都の成都は、はてしなく古くて高くて長い城壁をめぐらし、5つの門のうち清達門は大雪山脈チベットと中央アジアに向かってひらき、迎ウン門は東にひらく。
しかし朱家に近い方の門がただ「北門」としか呼ばれないのは、不公平のようだった。


帝国のあらゆるところからくる商人が成都に旅してきて、毛皮、麝香(じゃこう)、翡翠(ひすい)、茶、それから薬草、絹などの四川の名産物を買った。
そのほかにも、ある種の病気の妙薬とされる虎の骨や鹿の角、それから銀の重さと同じ値打ちのある貴重な人参なども買うことができた。


時がたつにつれて、「小犬」はもっと遠い都市のことを聞いた。
はるか南の雲南府は雲の南の国である雲南省の都であった。

その向こうのビルマは「小犬」が生まれる前の年に英夷どもが奪いとった。
広東の南の安南は、同じ年にフランス人が中国とたたかって奪った。
北京はその戦費のために塩の値上げをして、そのために人民は反乱をおこした。


大街道の旅人から、少年はもっとほかのことも聞いた。

洋夷どもは戦えば必ず中国軍をうちやぶったこと、清朝は腐りきっておろかで、暴虐で、軍隊は無力だということ、そのために、長年のあいだ燃えてきた人民の怒りは年ごとに大きくなってゆくということなどだった。

また、暮らし向きは悪くなる一方で、街で売る品物はこの2、3年で値段が倍になったということだった。


「私は、その大街道で、いろいろな旅の人から、帰れといわれるまであとを追って歩いたものだ」と朱将軍はいった。
「私も旅をしたかったのだ」



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# by far-east2040 | 2018-02-25 09:56 | 第一巻『偉大なる道』改編

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           四川省南充市儀隴県にある整備された朱徳の生家


朱家の人たちは、そうした古来の祭祀を信じ、作物をつかさどる土地神や、さまざまな善い鬼神と悪い鬼神の存在を信じていた。

出没自在の狐の霊はとりわけ厄介で、さまざまないたずらをしたり、化けてさまざまなもの、たとえば髭を生やした老人や、また相手が隠士とかひとりものの学者のときには、きれいな若い女に化けることもできた。

「もちろん、ばかばかしい迷信だ」と朱将軍はちょっと笑った。

「だが、さびしい学者なんかには好都合だったな」

 

彼の家族は、貧苦は星まわりの悪さからきた不運なのだと思っていた。

無学文盲で、厭世的で、不運に溜息をつくばかりだった。

骨身をけずる労働のほかには何も知らない。

「小犬」も幼いときには、そのころの迷信のすべてを、幽霊の存在までふくめて信じていた。

一度彼は、大街道をゆく旅人がアメリカに行った人の話をするのを聞いた。

何でもそこでは、人々は幽霊はいないと考える建前になっているので、じっさいにいないようになっているということだった。

その話はよほど強い印象をあたえたようで、朱将軍は50年後にも覚えていたのである。


大街道といっても、彼が家のわきを通る車一台ほどの幅の道をそう考えていたにすぎないが、その道は少年時代の彼に絶大な影響をあたえた。

それは、帝国の領土にまばらな網目をつくっていた旧公路から分かれてきた道だった。

南からやってきて、儀隴県に向かってのびて、それから山岳地帯をすすんで、ある大公路といっしょになり、西安に、さらに帝都北京に達していた。


幼少時代の彼は、この街道をとおる旅人をながめて、時をすごすことが多かった。
重慶からはるか南方に貨物をはこぶ商人もあり、旅まわりの職人も、またときには長衣をきた学者もいて、また、あの閻王までがはなやかな籠にのって、下男を急がせながら、自分は扇を使ってやってきた。

旧正月が近づくと、ときおり役人がりっぱな緑色の籠にのって通り、従者たちは脇を走ったり、前を走りながら身分の低い百姓どもを追っぱらったりした。
葬式も通り、棺のうしろには、白い粗布の服を着て白い鉢巻をした泣き男や女たちが歩いたが、なかには式自体を楽しんでいる様子をありありと見せているものもあった。

花嫁行列もきた。
紅い衣裳の花嫁は、紅い花嫁籠(かご)のとばりのかげに恥ずかしそうに身をかくし、前後で旗をかついだ男、じゃんじゃん打楽器を鳴らす男が歩き、花嫁の家具、衣裳、そのほか婿の家に運びこむ一切の道具をのせた籠をかつぐ男がいる。

こういう婚礼は、世界のどこの国の農民でもそうだろうが、なかなか陽気で、猥雑なもので、経験豊かな年長の女が花嫁の頬を真紅にもやすようなことを教えたり、子どもや大人が、花嫁の寝床の下のバネ代わりに張りわたされた綱に鈴を結びつけたりしたものだ。



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# by far-east2040 | 2018-02-23 21:35 | 第一巻『偉大なる道』改編

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朱将軍が四川についてかたるときは、いつも壮麗な景観にふれた。

省の西境の空にえんえんと連なる大雪山脈から、東につき出した長い山脈の一部分が、彼の家の上にそびえていた。

その大雪山脈と北につき出した支脈が、省全体と赤色盆地といわれる平野を取りまき、この省の気候を温暖でさわやかなものにして、温帯と亜熱帯の多種多様な植物をわき立つように繁茂させていた。

赤色盆地の中心には省都の成都があり、一帯では年中収穫を得ることができ、中国でもっとも豊かな地方のひとつになっていた。

またこの地方は塩やいろいろな種類の鉱物にもめぐまれていたので、「四川は、ここを併合しようとする仏英の帝国主義者に、絶えずねらわれていた」とも朱将軍はいった。

「四川の花を見たことはありますか」と彼は突然たずねた。
「びっくりするぐらい大きくて、きれいで、香りが高くて、何里も周囲までにおってくる」


この雄大な自然美にかこまれて、何十年の雨と雪のために崩れそうになった陰気で古い彼の家がたっていた。

東西に長い主屋部は南向きになっていて、屋根は灰色の瓦で、荒けずりの白木の扉はみな木製の軸ではめられていた。
中国内地ではたいてい、このような扉ははずして寝台にすることもできた。

わらぶきの両翼部は主屋部から突きだしていたから、全体は四方形を半分に切ったような形になっていた。

窓はなく、扉だけが光線を取りこみ、床はなめらかにカチカチに固めた土だった。
家屋は泥塗りで、色はない。
あたたかな日には、家族は半開きの中庭で食べたが、ここは収穫時の脱穀場にもなった。


入ってゆくと左手にある台所と、主屋部の正房のほかはみな寝室だった。

豚や家畜のための差し掛け小屋もあった。

主屋の正房は家族が集まるところであり、また客をいれたり何かの式をしたりするところだ。

部屋の真ん中に荒けずりの四角い卓があり、まわりに椅子がおいてある。
卓の真うしろの壁の前には、先祖の位牌をいれた仏壇があるーー位牌というのはよくみがかれた小さな木片のことで、代々の先祖の名が記されている。

小さい粘土製の観音像ーー道教と仏教に共通の「聖母」が、仏壇のまえの棚においてある。

観音とは慈悲の女神であり、嵐にあった漁夫など、すべて災厄の中にあるものが救いをこうことができる。


この先祖の祭壇に、一年に何度か、ーーたとえば旧正月とか、清明節とか、七月十五日のお盆の日などに、家族はわずかながらの供え物をささげた。
旧正月が近づくと、彼らは、台所のかまどのうしろの壁から、汚れたかまど神の絵をはがして、野の蜜で唇をぬり、この神が一家のことを天にいいように報告してくれることを祈り、それから中庭で燃やす。
正月には、新しい神の像の絵が米ののりで壁にはりつけられる。



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# by far-east2040 | 2018-02-22 21:05 | 第一巻『偉大なる道』改編

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わずかな怠慢や油断もゆるされず、まわりの家同様に、朱家にも週の休日などは存在しなかった。

身分の高い人びとは、旧正月には1週間から2週間くらい休息を楽しんだが、小作や貧農は正月さへ休めない。
農民は冬のあいだには少しばかりのんびりすることができたが、そのときにも、春作のために土の手入れをしたり、種まきもしなければならない。

夏のあいだに大きくなった豚や鶏は、塩と交換するために市場町にもっていかれる。
畑の綿は摘んで打たれて、女たちがそれを紡いで糸にするが、織るわけではない。

旅まわりをする男の職人が織る。

それから冬には畑でとれた油菜から油をしぼるが、料理に使ったあまりは売られ、きわめて稀なことだが、木綿をより合わせた芯といっしょに皿に入れて夜の灯にすることもあった。

朱徳は二十歳になってはじめて灯火を使った。

また彼がひとりでひとつの寝床を占領し、自分の部屋をもったのは、学生としてはじめて帰郷するようになってからだったが、それもほんの数日間のことだった。


さらに、古来の封建の不文律によって、小作の男女が地主のためにただ働きをさせられることが、正月やそのほかの国の祝祭のときや、地主の妻女や妾が息子を生んだというような場合や、巡回してくる役人のために宴会をひらく場合など数多くあった。
そういうときには、小作人は地主のために何か特別な食べ物を贈るという建前にもなっていた。

 

「地主にとっては、小作人どもがひもじい思いをしようが、地すきとか収穫とかで手がはなせないとか、知ったことではなかった」と朱将軍は怒りをこめていった。

「家の男たちは出てゆかねばならず、私の母や義母までが、『閻王』の台所働きをさせられた。
家に帰るときに、何か御馳走を服の下にかくして、ちょっぴりもって帰ってきて、子どもたちにも一口くれ、まるでおとぎ話みたいな土産話をしたりした」


朱将軍がこういう調子でかたるとき、私はペンを動かさなくなることもあり、彼はいぶかしげに問いつめるように私を見た。


「ときどき……」私は説明した。
「あなたが私の母のことを話していらっしゃるような気になるんです。
私たちは封建的地主のために働かされたのではないのですが、でも、母は、ときどき御馳走を子どもたちのためにくすねてきて、一口くれて、雇い主の家のすばらしい御馳走の話をしました。
母の手も労働でほとんど真黒になっていたし、髪もえり首のところで巻いていました。
黒くて、もじゃもじゃした髪でした」


「あなたのお父さんは?」彼はおどろいて私にたずねた。

「私が幼かったころは、貧しい農夫でした。
裸足で耕作しました。
でも、たいていのときは革靴をはいていました。
そういう生活をにくんで、何度も何度も、母を置き去りにして家を飛びだしました。
あなたの御家族の男の人のような鍛錬はできてなかったのです。
のちには未熟練の日雇労働者になったようで、私たちはお腹いっぱい食べたことなどありません。
でも、塩には不自由しなかったわ」


「世界の貧しい民衆は、ひとつの大きな家族だ」と彼はしゃがれた声でいい、それからかなりのあいだ、私たちは黙ってすわっていた。



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# by far-east2040 | 2018-02-22 08:58 | 第一巻『偉大なる道』改編

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「祖母は並はずれて腕ききで、差配ぶりもりっぱで、棺桶にはいるまでは、一家のものといっしょになって、体力相応に働きつづけた。
地主へ小作料を完納することを祖母は一番苦心していた。

小作料は穀物の収穫の半分以上だったが、そのほかにも、卵、ときおり鶏や豚まで封建的な特別の貢物(みつぎもの)としておさめなければならなかった。

われわれはみな、この古い封建の貢納をにくんだーー言葉の定義とやらはいろいろあろうが、私はあえて封建制というのだ。
なぜなら、地主郷紳(きょうしん)どもはわれわれの仲間の農民を奴隷あつかいして、あらゆる種類の負担と義務をおっかぶせてきたからだ。


「たとえば、毎年夏に、うちの地主がおおぜいの家族を引きつれて涼しい山の別荘に行くときには、小作の男どもはみな、いっさいの仕事を休みにして、ただで搬送してやらなければならない。
秋には連れもどさなければならない。
また、世の中がざわついて土匪が暴れだしたり、農民が一揆をおこしたりすると、小作人は地主の家に集合して武器をわたされ、御主人様のために戦えと命令される。
農民はこういう古い封建的因襲を運命とあきらめて受けいれた。
そこからの出口が見えなかったのだ」


まわりの小作人同様に、朱家は旧正月の夜が明けるまでに、いっさいの年貢を片づけなければならなかった。
年の暮れには、家族は居間にあつまり、祖母が朱徳の養父である長男の助けを借りながら、全員にこの年の収入の配当をし、誰がどういう衣類がいるかを決定した。
女たちは、家の中のどんな切れっぱしのこともわかっていたから、誰のズボンは継ぎ当てできて、誰のが新調しなければならないかをわきまえていた。
どの衣類もすり切れて影も形もなくなるまでは継ぎ当てされた。
上衣とズボンは腫れものにさわるように大事にされたが、女たちがつくった布靴はよほどの時でなければはかないので、ずっと長くもった。
この家族会議ですべてが決定されたあと、倹約家の祖母は家の貯金を集めて、彼女の寝室の床下に埋められた壺に入れる。

 

仕事は朝食がすむとすぐはじまり、昼と晩の食事のときに中断するだけで、暗くなって寝床にもぐりこむまでつづく。

夜になって灯をともすなんていうことは、言語道断なぜいたくなことだった。
それは、わが家の畑で育てて乾かして市場に出すタバコを、家族の誰かが吸おうかと言い出すぐらいぜいたくな話だ。

まあ、ときには家の男たちは、1本のキセルにタバコをつめて、みなのあいだを順々にまわして、ひとりが一口ずつ吸うというのが山々だった。

たまに朱徳の父は、おたがいにキセルいっぱい吸ってもいいじゃないかとおおっぴらにいった。

だが、この男はみなで監視しなければならないほどの不平屋の乱暴者だったのだ。



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# by far-east2040 | 2018-02-21 15:35 | 第一巻『偉大なる道』改編