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            蒋介石夫妻(『抗日解放の中国』より借用)


この巻は1930年10月末ごろから開始された蒋介石による「紅匪」討伐作戦に対して紅軍や共産党がどういうふうに抵抗していったかが描かれている。


蒋介石は、じわりじわりと侵略してくる日本軍と対峙するまえに、なにがなんでも「紅匪」をこの中国の領土から消し去りたいと考えていた。


このころの蒋介石の「日本軍は皮膚病、共産党は重い内蔵疾患」という文言はよく知られている。


その作戦は数回にわたったが、すべて失敗している。

末端の兵士や将校の士気や動機付けの低さが原因に思われる。

蒋介石側の末端の兵士ひとりひとりの内面を見れば、あてがわれた武器で同族の相手を殺す個人的理由がほとんどない。

そこで将兵にとっては人為的に駆り立てられるものが必要。

相手が自分と同じ同胞、人間だと考えたら絶対できないので、残酷な心理的手法が使われた。


気になるキーワード

撤退―紅軍は、敵の兵力が大きすぎて、味方の兵士の犠牲に耐えられないと判断したときは、撤退している。


紅軍内部の矛盾・衝突―


食糧不足―兵士は1日2食に耐え、自ら荒野を耕しはじめた。


報告書―現場から朱徳にもたらされた様々な報告書に感心。

    敵のなかの「味方」からのものもあった。

    彭徳懐による簡潔な文体は性格と教養がにじみ出ている。


武器―紅軍は軍閥や蒋介石の軍(のちには日本軍)から奪い取った武器や軍事品で武装していくのだが、どこの国のメーカーのものか興味がある。


続いて第9巻は個人的に大好きな長征が描かれる。

結果的にみれば、日本軍の侵略行為の功罪が見てとれる。

功とは、共産党側の国民党側への統一戦線結成への呼びかけに成功していったこと。

一握りの特権層を別にして、農民から学生や知識人まで大勢が、抗日民族統一戦線を希求していくことになったから。



# by far-east2040 | 2019-01-28 09:00 | 『偉大なる道』

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その1930年の10月末、いよいよ赤を絶滅するという壮挙がおこなわれることになり、上海そのほかの中国の大都市では、沸きかえるさわぎだった。

北方の敵を征服して帰ってきた蒋介石は、時の英雄であった。

いまや彼は、自分の10万の精鋭を江西の「紅匪」に向けてきた。


共産主義は、中国において、帝国主義や封建主義とはどうしても妥協しないという唯一の勢力で、党員は主義のために喜んで死ぬということを実証した唯一の組織だった。

こういう人間どもは危険であったが、弱かったので、手遅れにならないうちに攻撃を加えたら、たたきつぶすことができる。

今こそ、その時であり、結果は明らかだ。

いったい、江西の「アカ」とは何ものかといえば、百姓と労働者、つまり人間のクズの集まりでしかないではないか。

全世界で知られているように、中国の百姓とは、誰が天下を支配しようとかまわず、ただ自分の少しばかりの土地を耕せてもらえればいい、という人間ではないか。


国民党の機関紙と外国の協力紙は、鳴り物入りでさわいだ。

機関紙は、誇らかに、紅匪討伐に向かう軍の計画の詳細、さらにその行進路まで発表した。

だが、紅軍からは、とくに、国民党軍にやぶられて吉安から敗走したという朱毛軍の方からは、何の気勢もあがらなかった。

紅軍はいまや、「敗残の匪賊」でしかなく、まもなく、これを完全に包囲し絶滅することができるだろう。


ところで、その江西では、朱徳、毛沢東と同志たちは、じつに丹念に国民党新聞を研究し、そして朱将軍は、国民党新聞がいばって書いている戦争記事にいちいちしるしをつけ傍線を引いた。

紅軍はラジオをまだもっていなかったが、通信機関と情報網はかなり進歩していて、国民党新聞の軍事報道は紅軍の通信情報とほとんど合っていた。

まだ上海からの報道は来ていなかったが、朱徳と毛沢東はすでに使者を上海に送り、共産党中央委員会の李立三理論への反対を表明していた。

結果がどうであれ、ふたりはこれが正しいと信じていた。





# by far-east2040 | 2019-01-27 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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10月中旬、朱徳と毛沢東と同志たちは、吉安北方の彭徳懐の司令部で軍事会議をひらいた。
そこで、吉安を撤退することを決定した。

というのは、2倍もの数の敵にたいして、その市を死守するための犠牲に耐えられない、と判断したためであった。

彼らが、軍の主力4万人をひきいて撤収して、すでに強化されているソビエト地区に入れば、そこですべての人民からゆるぎない支持を得るだろう。

その東固山基地と広昌の城市の中間の地域において――朱将軍の言葉を借りると、「自己の好む戦場をえらび、迅速な集中と散開によって、われわれをせん滅するために送られてきた敵師団の中の、まずひとつを、つぎにひとつをと、包囲し攻撃することができるだろう」


その後4ヵ月にわたってつづいた戦闘のうちで、とくにひとつを朱将軍は抜き出して、紅軍の戦いぶりの例証とした。

この戦闘は、毛沢東がのちに『中国革命の戦略問題』という軍事教科書を書いたときに、彼の脳裏にあったものと同じであるにちがいない。


「戦史では、ひとつの敗戦が、それまでのすべての勝利の収穫を無とする場合や、また、多くの敗戦ののちのひとつの戦闘の勝利が、新しい情勢を打開する場合が多いのだ」


この一戦闘は――それは、国民党軍の戦争計画すべてを崩壊させてしまったものだったが――1930年の12月末日に張輝サン将軍がひきいる第十八師団とのあいだで戦われたものだった。

張将軍は、ほかに第二十八師団、第五十師団をもち、その3つの師団は国民党軍の中堅になっていた。

すべて欠員のない正規師団で、外国製の武器で完全に装備され、給与も最高だった。



# by far-east2040 | 2019-01-26 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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この決戦の話をする前に、朱将軍は、寄り道をして、紅軍内部での反逆行為のことを話したが、それは、もう少しのことで、形勢を一変して敵に利するものになったろう。

何週も続く戦闘の最中に、ある地主の息子のリュウ・チ・ツァオというものが、東固の農民からなる第二十紅軍をひきいて反乱を起こした。

10月に吉安で入手した反ボルシェヴィキ(AB)団の書類によれば、少なくとも、東固の一人の地主の家族のものが、国民党の秘密情報機関と連絡している、ということはわかっていたのだが、しかもリュウは、吉安の近くの富田地域の防衛の任をあたえられていた。


リュウ・チ・ツァオと東固と興国地方の政治指導者李分林――その家はAB団と連絡しあっていることがわかっていた――は、朱徳と毛沢東が戦っていた李立三主義の、もっとも忠実な信奉者だった。

いったい、いつ、どこで、李立三主義とAB団とのあいだにつながりができたのか、また、いったい、どうして、いつ、こうした指導者たちが、李立三主義からAB団にすべりこんで行ったのか、そういうことは、朱徳と同志たちは、ずっと後になって知ったのである。

とにかく、こうした複雑怪奇なことは別にしておいて、朱将軍は、共産党が一掃しなかった東固の地主階級こそが、第二十紅軍の反乱の真の原因だと信じている。


もちろん、リュウや李文林は、腹の底で考えていることを、農民兵たちに明かす勇気はなかった。
だから彼らは、朱徳を「第二の蒋介石」、毛沢東のことを共産党を裏切る「党皇帝」とののしった。

彼らの雄弁は目的を達し、反乱はおこり、富田地方で、多くの共産党指導者が殺された。

それから彼らは、吉安地方の国民党の勢力地域に逃げてゆき、そこで一派で小さな共産党をつくって、わけのわからない宣言を、つぎつぎに出した。

そのひとつを見れば、朱徳は急に高潔な人物とほめたてられ、毛沢東は反逆者の烙印をおされていて、もうひとつを見れば、毛がほめられて朱が非難されていた。



# by far-east2040 | 2019-01-25 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編

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朱将軍がいうには――いかに包みかくそうとも、紅軍は事実を見抜いたのであり、その明らかな事実とは、国民党軍は、この反乱者にたいして何の行動にも出なかった、ということである。

しまいには、東固の農民たちは、事実を知って、逃亡して元の部隊に帰ってきたのだが、そこでは彼らは、迎え入れられ、再編成され、再教育された。


しかしこの反乱のおかげで、国民党第十九路軍は興国を占領し、張輝サン将軍の第二十八師団は東固を占領した。

東固ではパルチザンと人民が敵とたたかったが、村々は破壊され、何百の人民が殺された。

最後に、彼らは東に逃げて、紅軍の本隊に合流した。


これが、朱徳と毛沢東や幕僚が張輝サン将軍の第十八師団に決戦をいどんで、本隊を粉砕しようと決意したときの、周囲の情勢であった。


朱将軍は、この戦闘がおこなわれた戦場の、略図をえがいていくれた。
そして、敵の司令部と部隊の配置、味方の司令部、戦闘部隊、予備隊、野戦病院、敵の捕虜収容施設なども示した。

また彼は、人民武装隊が配置された地点も示したが、彼らは、紅軍の補助部隊として、敵の小部隊や輸送隊を攻撃し、また一方では、紅軍のために輸送したり、戦場の負傷者を運搬したりした。


朱徳と毛沢東の司令部は、張輝サン将軍が司令部を置いた竜岡から、ほんの四マイルほどはなれた山村にあった。

張将軍の第二十八師団は、彼らの頭のすぐうえの東の方の東固の山を占め、第五十師団は北西のニントウにあった。

彭徳懐の紅軍第三軍団は、敵を牽制するため、竜岡と敵の第二十八師団と第五十師団とのあいだに展開していた。

南と西南に向かって一日の強行軍をすれば、国民党十九路軍のところに着くであろう。



# by far-east2040 | 2019-01-24 09:00 | 第8巻「紅色方陣」改編