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             当時の日本の外務大臣加藤高明(Wikiより借用)



気がめいる単調な生活をまぎらそうとして、ときどき、盲自で出会ったフランスの実業家を訪問したが、彼はフランスの生活や制度についての質問によろこんで答え、ヴォルテールの本も紹介してくれた。

朱徳は、何人かの若い共和派士官たちと話し相手になることもできたが、彼らは、彼といっしょに、師団長と師団参謀のルー・シャオ・チェンをののしった。

ルーは1911年の雲南革命を裏切ったとも疑われていた。

革命が勝利を得ると、このふたりの高級軍人は共和派への忠誠を誓ったのである。

蔡鍔が北京に去り、袁が帝制運動をはじめると、彼らは昔の思想にもどっていった。

15年後、朱将軍が江西で中国紅軍を指揮したとき、参謀は蒋介石軍の一師団長として立ちあらわれてきた。


「私は悪党めと戦場でまみえた」と朱将軍は唇を憎悪で引きしめ、そして断乎としていった。

第一次世界大戦がはじまったころには、中国は完全に暗黒につつまれていた、と朱将軍はつづけた。
日本は、連合国のひとつであったが、ドイツ帝国主義が1897年に中国から強奪した大海軍基地青島を占領し、おのれのものにしてしまった。
さらに日本は、1915年早々に、あの悪名で鳴りひびく秘密の21カ条を中国につきつけて、中国を日本の保護領にしてしまおうとした。
袁は、数ヵ月はぐずついたのち、ついに、少し修正しただけで調印したが、それは自己の死亡書に調印したことにほかならなかった。


後に蔡鍔が国民に告げたところによれば、袁世凱は、日本が新帝制を認めるという条件で、その21カ条に調印したのである。

さらに袁は、他の列強にも、帝制承認と引きかえに、圧倒的な権利権益をあたえようとした。


国境線にいた2年のあいだに、朱徳は二度昇進した。

1915年12月には正式に大佐となり、今まで彼の大隊が属していた雲南軍第十連隊の指揮をとることになった。


彼がのちに知ったことだが、この第2回目の昇進は、秘密裏に北京から帰ったばかりの蔡鍔の指示によるものだった。



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# by far-east2040 | 2018-05-21 09:00 | 第3巻『偉大なる道』改編

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            蔡鍔と袁世凱(ネットより借用)



朱将軍がいうには、雲南は国政の舞台からかなりかけはなれていたので、やっと1913年の12月になって、ある人物が袁にむかって、まだ雲南には蔡鍔(さいがく)という「危険な傑物」が野放しになっているが、ああいう人望が厚く、術策にたけた人間は、北京に置いて監視するのが賢明だろう、と警告した。

それで袁は、蔡を暗殺はしないで、北京にくるよう、そしてーー事もあろうに、耕地整理局長と軍事顧問を兼任するように命じた。


雲南の秘密共和党員たちは、何度か小さな秘密会議をひらいたが、結局蔡は、ただちに北京に向かう、と打電した。
もし彼が拒絶すれば、雲南は袁の軍隊にふみにじられ、蔡は殺されるか亡命するかの運命になっただろう、と朱将軍はいった。
蔡の旧師梁啓超は、北京政府の官位についていたので、彼の生命は守ってくれるだろう。
蔡の意図は、雲南の革命的政権を温存しておき、共和派が崩れた陣容をふたたび整えるまで、省を国民党の勢力下に置いておこうということにあった。


雲南を去る前に、蔡は、朱徳が一士官であった第一師団を、フランス鉄路の沿線および国境線に沿って配置することにした。

というのは、あらゆる帝国主義者らは、袁の権力把握に後押しされて、またもや暴れだして、フランスは匪賊や蕃族に武器をあたえ、インドシナを荒しまわらせ、そこでフランス軍は彼らを追い返すという口実をつかんで、雲南に攻めいり、そこを取ってしまおうというのが本心だった。

朱徳は、つづく2年間を、立派なフランス製の銃をもつ匪賊蕃族と戦いながら、彼らの雇い主が中国領土内に占領の手をのばそうとするのを妨害することですごした。


その国境での2年間は、彼にとって暗くみじめな日々だった。

彼がいうには、雲南の南部は、高山が立ちならぶ、むしむしする熱帯的風土で、瘴気(しょうき)にみちた谷間におりたまる濃い霧は人びとの胸を病ませ、水がひどく悪くて、みなが胃腸をこわしてしまうのであった。



彼は、ときどきは蒙自まで旅をしたが、そこで手紙や新聞や、ときには家で彼を待つ妻からの手紙を受け取った。

新聞は力づけてはくれなかった。

気がくさるような記事ばかりだった。

中国には一筋の光明もささず、西洋諸国は、第一次世界大戦で殺し合いをやっていた。



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# by far-east2040 | 2018-05-20 09:00 | 第3巻『偉大なる道』改編

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           フランク・グッドナウ(ネットより借用)



孫逸仙博士は、借款契約の実行を阻止するための必死のこころみとして、ロンドンの借款団総裁に訴え、もし銀行家たちが強行するならば、流血を見るだろう、と警告した。

孫博士は、彼らからあたかも存在しないかのように無視されたが、たしかに、このむごい劇の主役たちにとっては、彼は存在しないも同然だったのだ。


1913年6月までに、華南の6省がにくむべき善後借款を秘密裏に締結した袁世凱に抗議し蜂起した。

しかし袁は、その借款を使って軍隊を装備し、養成し、財政をまかない、それによって彼の独裁権を確立したので、反乱軍は、ほとんど戦場に行きつかないうちに、たたきつぶされた。

ふたたび孫逸仙や他の共和派指導者たちは首に償金をつけられながら、海外に亡命した。

孫博士は、袁の手先の追求をのがれつつ、東京の友人の家にかくれた。
1913年11月には、袁は国民党を非合法として、党員は見つけしだい射殺せよと命じた。
12月には、儒教を国教とすると宣言し、古来ただ帝王のみの仕事である天帝の祭を復活した。


次に彼は議会を解散してしまい、彼のまわりに、旧軍人や帝政派からなる顧問会議を召集して、国家統治を手伝わせた。

それからまもなく、新しい人物が舞台に登場する――というのは、アメリカ合衆国の市民フランク・グッドナウ博士が、袁の「憲政」顧問として、北京に送られてきた。

1914年の夏までに、グッドナウ博士は、「国体論」と称する奇怪な書類を提出し、それを、袁は、国法とすると宣言し、それをのちに朱将軍は「世界最初のファシスト憲法」であると説明したのである。

この「論」は、袁世凱を全中国の最高執政官とし、国家のあらゆる文官と武官の任免、官制官規の決定、宣戦講和、条約締結、それから爵位授与の権利をあたえた。


2、3週間後には、グッドナウ博士は、もうひとつの書類を仕上げて、袁に、後継者を指名する権利をあたえた。

2、3ヵ月すると、またもや彼は、かの悪名高い「覚書」を提出したが、それには、中国には共和制よりも帝制の方が向くということが論じられ、ただし、あまりはげしい世論の反対を浴びないように事をはこぶべきだ、ということだった。

袁は、彼の全国的な帝政運動の宣伝のために、この覚書を使った。

世論の支持があるように見せかけるため、部下の役人どもに、国中の各地から、彼を皇帝とする帝政復帰の嘆願を打電するように命じた。

「官民の要望もだしがたく」袁は、1916年1月元旦を、彼の即位式の日と定めると宣布した。



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# by far-east2040 | 2018-05-19 09:00 | 第3巻『偉大なる道』改編

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             宋教仁(Wikiより借用)



1912年の秋、有名な革命指導者宋教仁は、共和制を防衛する目的で、あらゆる革命団体をひとつにまとめて、新しい統合政党として、国民党を組織した。

雲南で旧同盟会からその新組織に率先してうつっていった人びとのなかに、朱徳はいた。

国民党員は前年とかわらずに秘密行動をとった。

というのは、袁のスパイや暗殺団は、満州朝時代とすこしも変わることなく、国中をうろついていたのだ。

これに引きつづく事態についての朱将軍の物語は、悪夢のような感じをあたえ、主要人物たちは盲目暗愚という劫罰をうけた亡霊のように、永遠に、なんどもくりかえし、歴史的過失をおかすのであった。


1912年の冬に施行された第1回国会選挙は、善後借款の是否をめぐってたたかわれた。

国民党の指導者たちは、死をも恐れないで、国内外で借款反対運動をおこし、中国がこの借款を受けいれることは、のどが渇いた人が毒をのむようなものだ、と叫んだ。


国民党は絶対多数の議席をえて、第1回議会は1913年4月に北京で召集されることになった。

その年の3月に、しばし、あたりに一筋の光明が流れた。

アメリカの新大統領ウッドロー・ウイルソンが、政府はアメリカ銀行家がその借款に参加することは認めないと声明したことが、革命派の人びとに勇気づけた。

その借款は中国の主権を脅かすものだ、と彼はいったのである。

それでアメリカ銀行団は手を引いたが、のちにはふたたび、国際銀行団としてではなく、個々の資格で立ちもどってきた。


アメリカ大統領の声明と、ほとんど時を同じくして、国民党の組織者であり借款反対の国民運動の指導者であった宋教仁が、袁世凱の子分のひとりによって暗殺された。
それは、彼が議会に出席するために北京に向かう途上でおこった。

この暴動にも知らぬ顔をして、アメリカをのぞく5カ国の借款団は、イギリス系の香港上海銀行の北京支店で、袁世凱と会見して、そこでひそかに、外国人のいうがままの条件で善後借款を締結した。

議会の副議長は、その部屋に飛びこんで、借款は憲法違反だと弾劾したが、だれかが手を振り、護衛のものが彼を放り出してしまった。



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# by far-east2040 | 2018-05-18 09:00 | 第3巻『偉大なる道』改編

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            フランス革命を描いた絵(Wikiより借用)


軍官学校が再開されると、彼は、諸省からの多数の候補生と親しく交わることになったが、彼らの多くは、前年の革命に参加するために学校を去って出身省に帰っていた青年たちだった。

あるものは遠く上海や広東まで行っていた。

課業を修了するために帰校してきたのだが、彼らは、朱徳と彼の仲間たちよりもはるかに経験に富み、大人びてもいた。

何人かの教官同様に、他省からの候補生は、すでに袁世凱が共和派に対してテロを開始していたので、亡命者であった。

雲南は、共和派が実権を握っている数少ない省のひとつだったので、亡命者でいっぱいになっていた。


「その連中が、教師や役人や士官になり、あらたにわれわれが雲南府で出した新聞でもはたらいたりして、雲南の生活を充実させた」と朱将軍はいった。

「私は、ひまなときには、たいてい、その亡命者の候補生や教官たちの話、たとえば、袁世凱にやとわれた手先どもが、共和派を逮捕し、投獄し虐殺する話に、耳をかたむけた」


国事として重要な問題は、国際借款団が袁世凱と交渉しつつあった善後借款のことだった。

その条件は中国にとっておそるべき危険がはらんでいたので、すべての国民がこれを非難した。

孫逸仙博士は、外国の銀行家に警告して、もし彼らが押しつける条件で取り決められるならば、中国の国民はその善後借款を無視するだろう、といった。

袁の、反対派への答えは、逮捕、投獄、虐殺であり、またあらゆる役職から共和派を追放することであった。

そして、ただ彼に忠実なものだけを役人とした。


雲南軍官学校の教官になった亡命者のなかに、フランスに留学したことのあるものが数人いた。

朱は中国では革命が失敗したと見えることもあって、フランス人はどうして大革命を成しとげたのか学びたかったので、その連中に、何時間もつづけてフランスの議会制度について質問したりした。



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# by far-east2040 | 2018-05-17 09:00 | 第3巻『偉大なる道』改編