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2019年 05月 22日 ( 1 )

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戦争の1年間に、政府は、政治犯を釈放し、その管下の人民にある程度の政治的自由をゆるしたが、ふたたび反動が勢力をもり返す不吉なきざしがあらわれた。汪精衞行政院長は、多くの追随者に支持されて「共産主義の匪賊行為」に対する警鐘をうちならし、日本の講和条件を受け入れるよう主張していた。また国民党内の反動的な「C・C団」も、人民の組織と武装に反対し妨害した。汪精衞は、戦争がつづけば中国は共産主義者に乗っとられるだろう、と警告した。


蒋介石は、日本に降伏すれば自分の立場がなくなることを知っていたので、敵のあらゆる和平提案を拒否した。しかし赤い同盟者をおそれる点では汪と同じ立場だった。たとえば1938年の夏には、蒋介石は八路軍の解放した地区を接収するため、特別の部隊を華北に派遣した。それと同時に黄河沿岸の国民党部隊は、解放区に侵入し始めた。一方、延安地区の北境に接する綏遠省西部の国民党軍は、八路軍を共同攻撃するため、日本軍と停戦や同盟を結びだした。


193810月中旬、日本軍が漢口をめざして進撃していたとき、朱徳将軍は国防参議会で協議するため、首都に飛び、前述のような活動に対して警告を発するとともに、民主的改革を全国的に採用するよう要請した。そうした改革によってはじめて、人民の生活を改善することができ、彼らに命がけで戦い守るべきものを与えることができる、と述べた。彼はその論拠として、華北を敵の収奪に対する防壁に変えた八路軍の業績について報告した。選挙される町村の委員会は完全に民主的であって、共産主義者の参加は3分の1に制限されていることを力説した。


朱将軍の提案はたいした成果をおさめなかったけれども、八路軍と弟分の新四軍は統一戦線を守り、国民党軍との緊密な友好関係の維持に努力する気であることを政府に確信させた。


日本軍が1025日漢口を占領してから2ヵ月後、汪精衞と追随者たちは飛行機で重慶を去って、インドシナに行くという奇怪な行動をとった。そこから上海に入り、そして日本人の手に飛び込んだ。19393月、汪は、日本の傀儡政府を南京につくったが、その目的は「共産主義の絶滅」であると宣言した。



by far-east2040 | 2019-05-22 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編