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大胆な民主主義的改革を導入すれば、華北の経験がしめすとおり、人民のもつあらゆる潜在的な力や熱情が、よびさまされるはずであるが、重慶はそれをやらないで、反動と腐敗の底にますます深く沈んでいった。その上国民党の将軍たちは、しばしば重慶最高司令部の直接の命令の下に、全部隊をひきいて、華北に入って八路軍と戦うために、日本軍側に投じはじめた。


国民党は、その軍の日本軍側への寝返りについて語ることをいっさい厳禁したばかりでなく、それをかくす煙幕として、逆に、八路軍や新四軍は日本と戦っていない、と攻撃した。蒋介石直系の陳誠将軍は、すでに19401月、共産軍は「農村をうろついて、民衆を煽動し社会秩序をみだす」だけだ、と公然と非難の声をあげている。


朱徳と八路軍の15人の指揮官たちは陳誠将軍のでたらめを指摘した。そして、実際の状態を明かにするため、陳誠将軍を河北に派遣するように、正式に蒋介石総統に要求した。行動中の八路軍の状態、負傷兵であふれた野戦病院、人民抗戦部隊の状況、などを見せると同時に、他方日本軍と裏で取引するばかりでなく日本軍の対八路軍戦に協力している国民党軍の現状を実地に見せたい、と思ったからである。蒋総統はその要求を無視した。八路軍と新四軍に対する非難は依然としてつづいた。


八路軍の指揮官たちの要求が通っていたならば、蒋総統の派遣した代表たちは、抗日戦中でもっとも強力な作戦のひとつを目撃することができるはずだった。19408月初旬、朱徳と彭徳懐は長い間計画していた「百団出撃」の命令を下した。それは5ヵ月後に終わったが、この期間に共産軍のますます増大する力に対する国民党の恐怖が頂点に達して、両軍の統一は事実上終わりになってしまった。



by far-east2040 | 2019-05-18 09:00 | 第10巻「歴史との出あい」改編