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さて、地主の民団や地方軍と戦いながら、江西南部じゅうを進撃してまわった旋風作戦の話をしているとき、朱徳の社会学者としての一面が顔を出してきた。

これらの地方では、農民たちは、ぼろぼろにくすれた城壁にかこまれた小さい村々に住んでいたと彼はいう。

その城壁には、たいてい門が一つしかなかった。

城壁の内側には2本の汚い泥道があり、この通りに面して、わらぶき屋根のあばら家がならんでいた。

しかもこの通りたるや、雨期には完全に泥沼になった。

天気のいい季節には、通りの両側のふたのないどぶは、腐りかかった廃物でいっぱいになった。


陰気な小屋には入口はひとつしかなく、窓さえない。

小屋のなかの寝床といえば、地面にじかに敷いたわらむしろか、木の足を十文字にのばした上に板をのせ、その上にわらをつみ重ねただけのものかである。

そして、このわらがしき布団でもあれば、掛け布団の役割をつとめるのである。

人民はあまりに貧しくて、かけ布団をかけるなどというぜいたくなことができないので、持っているかぎりのもの――何回も何回もつぎはぎをした、ゆるいズボンと、上着を着たままで眠るのである。

家族が食事をする荒削りの木のテーブルと、腰掛けくらいはたいていある。

泥でこねあげたかまどには、中に鉄の筒があり、その下に焚き口がある。

かまどの上にはどんな料理にでも使う鍋がひとつだけかけてある。

燃料は乾いた草や木の小枝などで、子どもたちが付近の山から集めてくる。

粘土製のめし茶碗は、割れたところを小さなかすがいでうまくつないである。

箸は竹を削って作ったものである。


これらの村々には、いまだかつて文明の光が差し込んだことは一度もなく、病気と悪疫の温床であり、しばしば、恐るべき犯罪の温床でもあった。

小作料――7割という高さで、作物で納めるときはもっと高率になる――、高利の借金、凶作、省軍や地方軍の徴発、これらが農民の死亡率を非常に高くし、農民の家族数を少なく抑えていた。

朱徳の説明によると、農村人口の少なくとも7割が貧農――小作人と、農業労働者で、ほとんどは文盲であった。

市が立つ町や都市には学校は一応あったが、授業料を支払い、子どもたちにきちんとした通学服を着せる余裕のあるものだけに、そういうぜいたくが許されていた。




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by far-east2040 | 2018-11-26 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編