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外界との通信連絡が確立されたので、朱徳と同志たちは、もはや自分たちは暗闇の中で行動しているのではないと感じるようになった。

薄いライスペーパーに、顕微鏡で見ないとわからないような細字で書かれた、上海からの報告書は、海外においても、帝国主義諸国のあいだに衝突と矛盾があるし、中国においても、南京の蒋介石独裁政権――そのすべての要所要所には、現在、外国人が顧問としてすわっている――の支配をめぐって、帝国主義諸国とのあいだに、衝突と矛盾があることを伝えていた。

インドから転任してきたイギリスの高官が、外交部の「顧問」になっていたし、多くのアメリカ人が財政や交通関係の要職をしめていた。

また、イギリス、アメリカ、ベルギー、フランスの金融業者たちは、中国の工業や、たとえば、江西省南部の大余にある有名なタングステン鉱山を買収するか、合弁会社にすることを計画していた。

また、中国にいる外国人たちは、武器弾薬を蒋介石に売ったり、また蒋介石とつながっているか、あるいは争っている新旧の軍閥に売りつけたりして、もうけがつづくという運にめぐまれていた。

報告書は、中国の新旧軍閥のあいだの衝突についても、詳細に分析していた。


こうして中国が掠奪され、別々の外国の後援者に支持された、蒋介石と広西の将軍が中国の支配権をあらそってたたかっているあいだに、国の多くの地方で、革命闘争が燃え上がりはじめていた。

山東省のような遠い北の方でも、抵抗の島々が建設された。

江西省の北東部では、学校教育を受けた農民、方志敏が農民軍をつくりあげていたし、南の方の広東省の東江地方では、彭湃が今なおパルチザンを指導していた。

また湖南省西部の山岳地帯では、「中国のパンチョ・ヴィリャ」賀竜が、農民軍を編成していた。(”Pancho”とはメキシコの民族独立運動の闘士Francisco Villa のニックネームである。彼は1877年貧農の子として生まれ、ディアスの先制政権に反対し、またアメリカの武力干渉に対してたたかったが、1923年同志3人と共に暗殺された。)


南の方の広西省の西部と南部では、さらに大きな革命的暴動が起こっていた。

広西守備隊は反乱を起こし、広大なパルチザン区域をつくった。

この地方では、人民がみすから村や町の委員会をつくって、支配権をにぎった。

しかし1年後には、蒋介石軍のために大敗北をこうむった広西の将軍が、郷里にかえってきた。

インドシナのフランス領から補給を受けていた広西軍閥の諸部隊は、銃火と剣でパルチザン区域を掃討した。

これら6千の広西革命軍は、戦いながら血路をひらき、山々を越えて、江西南部へやってきた。

朱徳はこれらの部隊で紅軍第六軍団を編成した。



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by far-east2040 | 2018-11-23 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編