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1月のはじめに、朱徳と毛沢東が井岡山を出発してから、敵は、この要塞への封鎖を圧縮してきただけでなく、最後には奇襲をかけてきた。

一人の敵兵がえらばれて、腰のまわりに綱を結んで、絶壁を正面からよじのぼってきた。

彼は頂上に達し、つぎつぎとほかの兵士を引っぱりあげた。

彼らは、人目につかない、狭い山道に立っていた紅軍の歩哨を殺した。
数千の敵軍が、どっとこの山道を登ってきて、包囲されていた革命軍におそいかかった。

その結果、約6千人の革命軍は、病院や兵舎で徐々に餓死していった。


彭徳懐は敵軍を押し返して、できるだけ多くの病人や負傷兵を森の中にかくす時をかせごうとつとめた。

はって逃げたものも少しはあったが、やがて狩り出されて、殺されてしまった。

そのほかのものは、寝床に横たわったまま切り殺された。

兵舎と病院は焼かれて灰燼に帰した。

井岡山のすべての家や建物はすべて焼きつくされ、防衛施設は爆破された。


身の毛のよだつようなこの大虐殺のあいだじゅう、雪がふりつづけ、寒風が悲しみの歌を泣きさけびつづけていた。

彭徳懐は、わずか7百人ばかりになった生きのこりをあつめ、これをひきいて、かつて朱徳と毛沢東が通った同じ道を、岩山をわたり、石ころだらけの原野をこえて、進んでいった。
部隊は、この年のはじめに井岡山を出た朱徳・毛沢東軍よりも、はるかに悪い条件におかれていたにもかかわらず、封鎖をやぶって、脱出したときには、もう敵に大打撃をあてはじめたのであった。

紅軍は、ゆくさきざきで朱徳と毛沢東の行方をさがしたが、見つけることができなかった。

あちらこちらで、朱毛軍が通り過ぎたという農民の噂はきいたが、それからさきの行方はふたたび見うしなわれた。

ついに彭徳懐は、朱徳や毛沢東は殺されたのではないかと考えるようになり、単独で紅軍を建設し、大衆革命運動を組織する活動に取りかかった。

多くの農民が、彼のもとに集まり、この瑞金にきた現在までに、ほぼ千5百人の勢力に達するにいたった。


汀州が紅軍の手におちたといううわさをきいたときには、彭徳懐は江西省の西部にいた。

彼はただちに方向をかえ、道を東にとって進撃をつづけ、瑞金守備隊を撃滅したのち、ここを占領し、農民の組織と武装をはじめたのである。


朱徳と毛沢東が同志たちのもとに着いてから、三日三晩続けられた瑞金会議で、彭徳懐がはなした物語は、以上のようなものであった。
上海の使者がもってきた報告と諸決定も研究し、討議された。

しかし、朱徳は、この会議の模様を、つぎのような簡潔で厳格な言葉でかたづけてしまった。

――「われわれは、この諸決定を承認し、ただちに、それを実行にうつしはじめた」



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by far-east2040 | 2018-11-22 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編