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最高の軍事・政治機関であり、中国ソビエト政府の先駆でもある革命軍事委員会の中核はこの時結成された、と朱将軍はかたった。

この委員会は、全国各地の各軍団の司令官と政治委員の全員で構成された。

この機関は「当時においては、観念以上のなにものでもなかった。
というのは、当時、われわれがもっていた通信方法はきわめて貧弱で、もっぱら使者にたよっていたので、ほかの紅軍へ連絡することがほとんどできなかったからだ」と朱将軍はつけ加えた。


このような疑念を胸におさめたまま、6月22日、朱徳と毛沢東は、まず中央委員会がおくってきた国内情勢の分析を要約し、ついで、大都市にたいする攻撃において各軍がはたす任務、行軍の道筋、集結点を明示した命令に連署した。

ふたりの指揮下にある各部隊は、江西省中央部にある市に集結したのち、敵の勢力圏を突破し、江西省北端にある省都、南昌に向かうことになっていた。

南昌を占領したならば、その真北にあたる、揚子江南岸の九江をとり、ついで揚子江沿いに西進して、1911年の革命の発祥地である漢口、漢陽、武昌のいわゆる大武漢三鎮に進撃することになっていた。


同時に、彭徳懐の第三軍団は、江西省北西の基地を出発して西進し、湖南省の首都長沙を占領し、後に北に方向を変えて武漢に向かうはずであった。

そのあいだ、賀竜指揮下の第二軍団は西から、徐向前と張国燾の第四軍団は北から武漢に向かって兵力を集中し、他方、武漢の内部からは1925―27年の「北伐」のときと同じように、工業労働者がゼネストに立ちあがる予定だった。

東と西に向かっては揚子江を抑え、北と南にたいしては北京―広東鉄道を支配する、「中国のシカゴ」と呼ばれる武漢三鎮は、このようにして、中国人民の同盟軍の手中におちるだろう。
武漢がおちれば……全中国もやがておちるだろう。






by far-east2040 | 2018-11-22 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編