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これと時を同じくして、8月1日、朱徳と毛沢東は南昌攻撃を命じた。

やせて、汗にまみれた兵士たちは、南昌周辺の防御陣地に向かって、文字どおり不眠不休の体当たりをつづけたのだが、敵軍の砲火のもとに秋の木の葉のようにばたばたとたおれていった。

朱徳の顔色はしだいに土色に変わってゆき、かすかに緑がかった色合いを帯びてきたようにさえ見えた。

筆者自身、抗日戦争の時期、この場合と同じような情況のもとで同じ光景をみたことがある。
彼の指揮のもとに人びとは死んでいった。
結果がどうなるか、だれにもわからなかった。


24時間ののち、朱徳と毛沢東は指揮下の部隊に退却を命じた。

紅軍は、各部隊のあいだに数マイルの間隔をおいた3つの縦隊となって、武漢へ向かって西に進みはじめた。

その途上で彭徳懐の代表と出合い、江西省北西の森におおわれた山中に集結し、そこで彭軍と合流したうえで、李立三の指令を検討する会議をひらいた。

李立三の指令は、長沙の奪回と第二軍団、第四軍団がすでに兵力を集中しつつあった武漢三鎮の占領を要求していた。


毛沢東はこの方針に異議をとなえ、朱徳と彭徳懐が毛の意見に賛成した。

朱徳は次のような意見を述べたが、これは毛や彭、その他多くの人たちの支持をうけた。

その意見というのは、紅軍は今後必要になってくる陣地戦を敢行するだけの装備をまだもっていないし、訓練もできていない。
長沙につぎこまれた敵の増援ぶりひとつとってみても、彼らは電流を通じた鉄条網で強化された、三段構えの防御陣地を構築している。
武漢の防衛はさらにいっそう強力で、多数の外国軍艦が揚子江上に投錨し、紅軍の方向に砲門をむけて待機している。
このように圧倒的な敵の兵力と強力な装備にたいして攻撃しかけることは、結局紅軍の全滅をもたらし、その結果は、今後数十年間にわたって革命をおしつぶすことになるだろう。


しかし、このような意見はすべて否決され、9月第1週、長沙に対する第2回目の攻撃がはじまり、9月13日の夕刻までつづいた。

数千の農民や労働者が、紅軍の塹壕掘りをたすけ、米や弾薬をはこび、戦場から戦死者や負傷者をはこびだした。
しかし、人間の肉体は、どんなに勇気をふるいおこしたところで、鋼鉄に対抗することはできない。

9月13日の午後8時、ついに朱徳と毛沢東は、彼らの一生のうちでもっとも重大な行動の一歩、つまり、中国革命運動に容易ならない危機をもたらした一歩をふみ出した。

ふたりは、彼ら自身も指導的メンバーの一員である党中央委員会が採決した政策、李立三路線を拒否し、紅軍に長沙からの撤退を命じた。

紅軍は、それぞれ異なった八個縦隊に分散して、江西省に帰り、その月の30日、吉安の近くに集結した。

吉安は、不在地主の城塞であり、南昌に次ぐ要衝として国民党軍の軍司令部があった。



by far-east2040 | 2018-11-19 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編