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朱徳と毛沢東の命令は彭徳懐その他によって支持されたが、全員の支持はうけなかった。
それは武漢を囲んでいた他の2軍団の撤退を要求したものであった。
その結果、共産党としては、国民党独裁体制にたいする武装闘争の全国的計画すべてを放棄せざるをえなくなったのである。
しかし、これ以外のいかなる決定も、「革命の生きた中核」を破滅させる結果になっただろう、と朱将軍ははっきりいった。
李立三路線は純然たる「冒険主義」であり、しかも、支持すべき根拠もない、ロマンチックなばくちにほかならなかった、と彼はさらにつけ加えた。


朱将軍は、現在いる環境からすっかり抜け出して、かつての、彼の兵士たちが死をかえりみず、突撃を敢行し、敵の砲火のもとに、秋の木の葉のようにたおれていった、あの悲劇的な事態のなかに、まざまざと生きているかのように感じることができた。

やみにまぎれて、何組もの兵士たちが、敵の防衛線のまわりに張りめぐらされた、電流を通じた鉄条網を突破しようとして、あらゆる工夫をこらしては、とびこんでいったが、つぎつぎとたおされてゆき、その場所には、いたずらに、彼らの死体が小さな丘をきずいていったのであった。


紅軍は、農民から50頭の水牛を買いうけ、これを、鉄条網を突破する「生きた戦車」として使い、つづいて味方を敵軍に突入させるという戦術まで、こころみた。

これは、大昔の物語『三国志』からとった策略だった。

電流の通じた鉄条網へ向かって水牛をならばせ、そのしっぽに、農民が爆竹をゆわえつけた。

爆竹に火をつけたまではよかったが、びっくり仰天した水牛どもは、前に突進して鉄条網を突き破るかわりに、四方八方へはねまわって、見ていた人々を逃げまどわせただけだった。

朱将軍の口もとにうかんだ微笑は、この妙計が大いに効力を発揮したのは、キリストが生きていた時代の少し後のことであって、1930年のことではなかった、ということを思いおこして、いささか苦々しくゆがんだのであった。


彼がついに退却の命令をだしたときには、多くの党員のなかには、この措置に抗議したり、彼と毛を非難攻撃したりしたものもあった。

しかし、軍隊は問題なく服従した。
兵士たちは、自分たちの骨のなかの骨であり血のなかの血であると考えてきた指導者たちを攻撃する、あらゆる意見に、むきになって応酬したのであった。

朱も毛も、みずから弁明する必要はなかった。

いや、そういうことができなかったのである。

というのは、彼らは、司令部ともども、すでに江西省西北部の彭徳懐の基地へ向かって移動していたからであった。

千人にのぼる鉱夫の義勇兵を、あらたに選抜して紅軍に加えたのち、彼ら二人と彭徳懐は、吉安近辺での集結点に出かけた。

ついてみると、全部隊が忠実に待ちかまえていたのであった。

毛は、集結した諸部隊に向かって、連隊ごとに、演説をして、長沙撤退の理由を説明し、つづいて、吉安を奪取する戦闘計画を説明した。

朱が部隊の中に入ってゆくと、兵士たちは、いつものようにどっと取りまき、太く頑丈な手で、彼の肩をたたいた。

彼もまた、兵士たちの肩に手をおいて、兵士同士が話し合うのと同じように、たがいに話しあった。



by far-east2040 | 2018-11-18 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編