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             葉剣英(『抗日解放の中国』より借用)



朱徳軍の救援にきた農民たちは、いくつかの大隊に編成された。

自発的に担架輸送隊をつくりあげた5百人の女たちは、戦場の片付けに活躍した。

彼女たちは、戦闘の最中も少しも恐れることなく働き、負傷者を背後の村々にはこんだ。

そこにはさらに別の担架隊がいて、もっと奥地の村へ負傷者を運んだ。
まだそのほかに老人と子どもの部隊もいくつかつくられ、戦闘員のもとに食糧や水をはこんだ。

はだしの農婦たちは、司令部の伝令をつとめ、さまざまな戦闘部隊に命令をつたえ、また迅速に司令部へ報告をもってかえった。
婦人の斥候は、敵軍の動勢に関する情報を、昼夜をとわず、司令部へもってきたが、その内容は詳細でかつ正確だったことには、朱徳も目をみはった。


このときになってもまだ、汕頭の主力部隊からはひとことの報告もこない。
戦闘をはじめて1週間目には、朱徳軍がうけた損害は1千5百、すなわち正規軍の約半分におよんだ。
その上、数百の農民兵が死傷した。

これ以上もちこたえることは不可能になったので、朱徳もついに退却を命じた。

正規軍も農民兵も、生き残ったものは全員、真夜中に上流に集結した。
船頭たちが河を渡してくれ、農民兵がこの小さな縦隊をすばやく北方の山地へ案内していった。

福建省に近い驍平の町で、朱徳の部隊は偶然、賀竜の学生訓練支隊、約3百人と出会い、彼らから「鉄軍」の汕頭敗戦の悲報をきいたのであった。


強力な敵の増援軍が到着して、4日間の戦闘で、「鉄軍」はばらばらに分断され、粉砕された。

参謀部は戦闘部隊から遮断されてしまった。
朱徳はのちになって知ったのだが、彼らはある漁村にのがれ、そこからさらに香港へ密航した。
賀竜劉伯承上海に向かった。
それから、劉はモスクワへいって、赤軍の陸軍大学に入学した。
一方
賀竜は、新しい軍隊をそだて、革命をつづけるために、揚子江をさかのぼって、湖南省西部の彼の故郷へかえった。
葉挺将軍と葉剣英将軍は、香港にとどまり、そして、マラリアの高熱に悩まされて意識不明の状態にあった周恩来看病をした。
病気が全快したのち、周もモスクワへいった。
葉挺葉剣英は華南にとどまって、12月の広東コンミューンで軍隊を指揮したが、これもまた血なまぐさい敗北をこうむった。



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by far-east2040 | 2018-10-09 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編