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              彭湃(ネットより借用)


 「鉄軍」が汕頭でばらばらに粉砕されたのち、農民指導者彭湃は分散した兵士を集め、奥地の海陸豊地方へ連れていった。そこに、兵士たちが全部で2千人集まり、彭湃はこれを、パルチザンやゲリラ隊に組織した。これらのパルチザンは、農民たちといっしょになって、土地を没収し、分配した。1927年11月7日、彼らは、労働者、農民、都市の貧民の最初の会議を召集し、小さな海陸豊ソビエト共和国を建設した。中国で最初のこのソビエトは、1928年3月までつづいた。しかし、その3月、軍閥の軍隊は東江地方をじゅうりんし、荒廃させてしまった。村々は瓦礫の山と化し、農民は狩りだされ、数万人が殺された。1929年のこと、筆者は、広東の軍閥どもがお祝いに発行した、写真入りのパンフレットを見たことがある。そのいくつかの写真は、廃墟と化した村の中や、そのあたり一面に、死体が秋の木の葉のようにちらばっている光景をうつしていた。まるまると肥えて、立派に制服を着こなした国民党の将軍たちの写真が、捕らえられ、首をはねられた農民指導者たちのやせた、鋭い顔と並んで、このパンフレットをかざっていた。


 彭湃はこの地方にのこって、30年代のはじめまで、地下の農民同盟を動かしていた。その後、共産党の会議に出席するために、上海へ行ったとき逮捕され、同志を裏切ることをあくまでも拒否したので、蒋介石の部下に首をはねられた。


 「鉄軍」の敗北ののち、朱徳と彼の小部隊は、いまや敵の軍隊と地主どもから、四方八方に追いまわされ、狩り立てられる羽目におちいった。福建省境で小休止し、みじかい会議をひらいた結果、全部で百人たらずの農民兵は、引きかえして彭湃の部隊に加わることになった。また、7人の看護婦のうち、3人は、身体が弱くて、強行軍をする部隊にはついてゆけないので、隊を離れて汀州行くように命じられた。


 この会議で、朱将軍は、部隊が山岳地帯を西に進み、農民運動が強くて戦闘的な湖南省南部に行くことを提案した。朱の参謀長チウ・シー・ティは、すっかり意気そそうしていたので、多くの幹部の支持をうけながら、軍を解散しようと提案した。しかし、朱将軍が、だれもが1丁以上の小銃を持っているし、その他のものは軽機関銃と若干の臼砲をもっているではないかと説得したので、彼らの意見は否定された。弾薬も資金もほんのわずかしか残っていなかったが、食糧は地主から没収することもできるし、弾薬は敵からうばいとることができる。朱将軍のこの主張はみなの支持をうけたが、西方に向かって行軍をはじめてからも、まだ混乱と絶望の気分が部隊をおおっていた。



by far-east2040 | 2018-10-08 09:00 | 第6巻「土地革命の開始」改編