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そのときにも、また後日にも、朱徳は、革命軍の諸軍団司令部に配置されていたロシア人顧問のことを、重視したことは一度もなかった。

彼は彼らをほとんど知らないし、やっとあとになって、二人だけ蒋介石といっしょにいるところを、遠方から見ただけだ。
それは、大きく内乱が渦巻いているときであって、新旧の軍閥どもが、中原の舞台を進んだり退いたり、何度も何度も敵になったり味方になったりして、権力をねらって策を弄していた。

彼は、国際共産党と中国での代表とのあいだが割れているという獏としたうわさを耳にし、また、ボロディンと、陳独秀がひきいる中国共産党指導者たちが、国際共産党の政策に反対したということも聞いた。


武漢で一つの要求――朱徳もそれを支持したーーがおこったが、それは、労働者と農民は武器を取って、革命を内側から裏切ろうとするものと戦うということであった。

国際共産党の政策がどんなものであったかは、当時の彼は知らなかったが、とにかく、中国共産党の指導者たちは、ボロディンの賛同を得ながら、労働者や農民が武装することは、国民党との共同闘争を割ってしまう恐れがあるので、認めることを拒否した。

というのは、国民党と割れることは、封建主義と帝国主義にふたたび支配されることになると、恐れたのである。


朱将軍は、ロシア人顧問たちの意見はどういうものだったか、ということに関係なく、大衆を武装させよという大衆の合唱に、おのれの声を加えた。

この中国史上の混乱の時期において彼が発見したものすべては、土地改革と農民運動、つまり革命運動の基礎と彼が考えたものに集中していた。

朱徳は、中国の問題は中国人によってのみ解決される、と感じた何百万の中国人のなかのひとりだった。

彼は、ロシア人の忠告がどうであろうと、中国革命はロシア人の仕事ではないことはわかっていた。

1911年革命はロシア人によって動いたものではなく、また1913年と1915年の革命蜂起も、そうではなかったーーということを、彼は、生涯を物語るあいだに、しばしばくりかえした。

ロシア人は、闘争の方法論をあたえることで、中国を助けた、と彼はいうのだ。

一方蒋介石は、のちの彼の行為があきらかにしめしたように、外国の忠告どころか、中国内政への干渉すらも反対ではなかった。

彼は「彼自身と彼の階級のための外国干渉」は望んでいた。



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by far-east2040 | 2018-08-11 09:00 | 第5巻「大革命について」改編