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              彭湃(Wikiより借用)


賀竜についての伝説は山ほどあったが、その多くは、事実だった。
彼の部下や友人は、彼のおもしろく劇的な冒険談にきき入りながら、何時間もすわって、飽きることがなかった。
女性征服者としては、ほとんど類を見ないということであり、彼が小麦畑の刈りあとをまたぎ歩いているところを見ると、しなやかな豹の躍動を思わずにはいられなかった。
軍隊的形式には無頓着で、いつか、あなたは3万の将兵をもちながら、一個連隊しか持っていないなどと、どうしていうのですか、とたずねたとき、彼は頭をふんぞりかえらせて、からからと哄笑して、いった。


「かぞえられんのだ!」


孫逸仙が、1924年に広東革命政権を樹立したとき、賀竜は、自分と自分の軍を孫の指揮下におき、ただちに共産党入党の志願をしたが、あっさりことわられた。

北伐のときには「鉄軍」の旅団長だったが、1926年の末には、第二十軍の指揮官に任じられた。

終始まめに、共産党に志願し、終始断られたが、とうとう10回目の志願のときに、党は根負けをして、彼を錬成してみがきあげないまでも、規律を思い知らせるには、入党させるのがいちばんよかろうと決定した。

彼の軍には、数百の武漢の労働者が入ってきて、その農民兵士に政治的訓練を与えていた。
賀竜はまた、漢口に駐在していたときに広東省の「東江」地方からの数百の農民を入隊させたことがあったが、彼らは、有名な農民指導者――地主の出身の知識人
彭湃に引率されて、「鉄軍」に参加するために大陸を行進してきたのであった。


彭湃は忘れられない名だ。
東江
地方の最初の農民組織者としての彼は、まず自分の家の土地を接収して農民に分配するなど、家族に狂気の沙汰と思われる行為から出発して、農村革命をはじめた。
家族は彼を邸内に監禁したが、共産主義に熟したこの青年は、脱出して組織運動を続行した。
しかし、ついに1930年代のはじめになって、蒋介石にとらえられ、上海で殺された。



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by far-east2040 | 2018-08-04 09:00 | 第5巻「大革命について」改編