2018年 08月 01日 ( 1 )

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              劉伯承(ネットより借用)


国民党右翼のものも、秘密の組織をつくり、南昌では孫文主義学会といっていた。

ひとたび孫逸仙が亡くなると、生前には彼の政策を非難していたものも、彼の名のかげに隠れる方が便利だと考えた。

南昌の国民党右翼の孫逸仙クラブは、まもなく反革命の秘密本部となった。

隠れていたその連中は、1927年のはじめに、蒋介石が南京や上海に進軍して労働者や農民の組合を弾圧しはじめると、はじめて明るみに飛び出してきた。

江西にいた雲南軍もすぐに見ならって、労働者農民の指導者の多くを殺した。


1927年2月中旬、南昌の反動派は、はじめて正体をあらわして、暴力団をやとって、棍棒や鉄棒をもたせ、労働団体代表者の会議を襲撃させた。

会議場内や前面の街頭で、はげしい闘争がおこった。
朱徳は何人かの暴力団をとらえた。
彼らは、孫文主義学会に頼まれたからやった、と公言して、悪びれもしなかった。


この事件の1ヵ月後、四川からの報道がきて、軍閥劉湘軍が、蜂起を弾圧して、数千の進歩主義者を、残虐きわまるやり方で殺した、と知らせた。
朱徳の2人の甥も、殺された中に入っていた。
その蜂起をひきいたのは、後に「独眼将軍」として知られる
劉伯承だった。

彼はかつては四川軍閥の一人だったが、革命に投じて共産党員になっていた。

朱徳は万県にいたときに劉に会っただけでなく、彼を四川に送って、革命支持の民衆組織をつくらせたのである。
朱は、会ったときのことをよく覚えている。

というのは、劉は朱の事務室につかつかと入ってきて、共産党の委任状を卓の上にぱっとおき、それからまた進んできて、朱の肩をぴしゃりと叩いたものだから、朱は、ほとんど床にたおれそうになったものである。
「おぼえとられですか?」と劉の声は高くひびいた。
「何年か前に、省の南の方で会ったですな。
あの時は、わしは、成都軍閥の走り使いになって、雲南貴州の軍と戦争しようじゃないかと、護軍と臭い取引をやりにいったのだったが」


朱将軍はいった。
「劉伯承は、立ってもすわっても、いつも動いている、という男だった。
それから、どうして軍閥稼業をやめて孫逸仙の方に走り、かつ共産主義者になったか、ということを、私にはなした。
私たちは夜が明けるまで話しあい、たがいが、道を探し求めて、ついに共産主義に突きあたるまでの、さまざまなことを語った。
劉が私をたずねてきたのは、
楊森軍隊ではたらきたい、という希望からだったが、私は逆に、劉湘に反抗する革命軍を組織するようにと、私の妻や友への手紙をつけて、南四川に彼を送ることにした。
彼は、生まれつき、組織と指導の能力をもっていた。
数ヵ月のうちに、南四川一帯の進歩的勢力を組織して、軍閥を相手に力づよい蜂起をした。
だが、
劉湘は強力な軍隊を投入して、彼を破り、何千の人びとを殺戮したが、その中には、大湾から歩いて参加した私の甥2人も入っていた。
劉自身は、逃げることができて、漢口に、それから南昌にと、たどりついた」

            

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by far-east2040 | 2018-08-01 09:00 | 第5巻「大革命について」改編