2018年 07月 31日 ( 1 )

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             周恩来(『抗日解放の中国』より借用)


ちょうどこの蜂起が崩壊し恐怖に支配されていたころ、イギリスの特別遠征隊が、アメリカ、フランス、日本の陸戦隊とともに上海に上陸した。

そのころ蒋介石の軍も、上海に集結しつつあった。

彼らの上陸の3日後、――2月19日に、上海の労働者はストライキに入ったが、これを1回目として、後に2回のストライキがおこったが、すべて周恩来が組織したものであった。

揚子江下流域の軍閥、孫伝芳将軍は、おのれの全力をあげて、1回目と2回目のストライキにおそいかかり、それをつぶし、大衆への見せしめとして、何百の労働者の首を斬った。


それにひるまず、労働者は3回目のゼネストをやり、3月下旬、ちょうど蒋の軍が上海に近づきつつあったときに、全市を麻痺状態にした。

ピストルをかざした3百人を先鋒として、彼らは、警察署、守備隊本部、それから兵器廠を襲撃した。
そして武器を手に入れて、軍閥孫の部隊とたたかって、全上海地区を追い散らし、そして蒋の軍を市に歓迎するために、代表を派遣した。


私(スメドレー)は、その代表のひとりを知っていた。
彼は鉄道の運転手であったが、労働者の武装隊に投じて、軍閥孫の下の白系ロシア人連隊と、北停車場と鉄道沿線で戦った。
一日一夜、休みなく戦い、ついにその傭兵を根こそぎ追っぱらった。
蒋介石の軍を歓迎する代表使節のひとりとなったことが、彼にはうれしくてたまらなかった。
しかし国民軍先鋒部隊――広西省からきたものーーの司令部についたとき、彼と同志は、冷淡な扱いを受けて、おどろき、とまどったのであった。


「士官たちは、わたしらの歓迎の言葉はきいたんです。
だが一言もいわないで、わたしらをにらんでいた」と、彼はいった。
「蒋の軍が入ったところでは労働者の運動を弾圧している、という噂はたくさんきいていたんです。
が、わたしらは、そういうことは、ひとりひとりの部隊長がやったことだ、と思っていた。
ところで、わたしらは戦って、何千もの同志が死んだんだが、蒋の士官らは、わたしらを敵みたいに扱った。
わたしらが、帰って労働組合の本部にそのことを報告すると、みなのものが不安になった。
だが、われわれはまだ銃をしかとにぎっているんだから、やつらもわれわれに、ひどいことはするまい、と思ったんです」



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by far-east2040 | 2018-07-31 09:00 | 第5巻「大革命について」改編