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2018年 07月 13日 ( 1 )

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            パリについたころの周恩来(ネットより借用)


 ふたりは、汽車の旅をして、1922年10月末にベルリンにつき、ただちに周恩来のところに向かった。この男は、自分たちを仲間として迎えてくれるだろうか、それとも、疑いの目で念入りに、軍閥としてのふたりの過去の経歴についてたずねるだろうか。朱は自分の年齢を意識していた。彼の青春は鳴きさけぶ鷲のように飛び去って、いま36歳であり、失意の人として老いている。


 周恩来の部屋の扉がひらかれたとき、ふたりが見たのは、人並よりやや背が高くすらりとした、眼のかがやきの強い、じつにりっぱな、美貌ともいうべき顔の人であった。まじめで聡明な、男らしい顔でもあった。朱は、彼を二十代のなかば、と見た。


 周はもの静かに思慮深く、すこしはにかみすら見せて、ふたりを歓迎し、椅子をすすめて「何か力になりましょうか」といった。


 朱徳はすすめられた椅子をことわり、10歳以上も若いと思われる若者の前に、がっしりと立ち、落ち着いた声で、自分がだれであり、過去に何をなしとげ、いかにして雲南から脱走し、アヘンをやめ、孫逸仙と会談し、上海で陳独秀に入党をこばまれ、自己の新生活と中国の新革命の道をもとめてヨーロッパにきたか、を話した。そして、このベルリンの中国共産党の仲間に加わることを希望し、よく学びよく働き、脚下に灰塵としてよこたわる旧生活にもどる以外のことなら、どんなことでもしたい、という決意をのべた。


 そのあいだ、周恩来も彼の真正面に立ち、癖で頭をすこし斜めに向け、話がおわるまで熱心に耳をかたむけて、それから質問した。


 ふたりの訪問客がすべてを語りおわったとき、周はちらっと微笑しながら、宿舎を見つけるお手伝いをしよう、といい、ベルリンの共産党の仲間に入れるように手続きはするが、申込書が中国に送られてその返事が来るまでは候補者として待ってもらいたい、といった。数ヵ月で返事がきて、ふたりは正式党員として編入されたが、朱の党籍は外部には秘密ということにされた。


 朱将軍は、この処置は必要であった、と説明した――つまり、彼は雲南軍の将軍として、最も古くからの国民党員のひとりだったので、将来、共産党から雲南に送り返される可能性があった。とにかく、過去の経歴や、旧社会とのあらゆるつながりを人びとに知られず「肩から重い荷がおりたようであった」そのころベルリンには、何百人という中国の留学生がいて、多くは豊かな家の子弟であり、今までの彼ならば彼らと交際しただろう。しかし、その連中を彼は避け、終始むさぼるようにがつがつと、多くは彼の息子といっていいほどの若い連中とともに勉強した。



by far-east2040 | 2018-07-13 09:00 | 第4巻「探求」改編