2017年 03月 31日 ( 1 )

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外の世界との通信連絡網が確立されたので、朱徳たちはもう自分たちは暗闇の中で行動しているのではないと感じるようになった。

薄いライスペーパーに顕微鏡で見ないとわからないような小さな文字で書かれた上海からの報告書には、帝国主義諸国のあいだにも、南京の蒋介石独裁政権のあいだにも衝突と矛盾があることを伝えていた。


インドから転任してきたイギリスの高官は外交部の顧問になり、多くのアメリカ人が財政や交通関係の要職を占めていた。

またイギリス、アメリカ、ベルギー、フランスの金融業者たちは、中国の工業や鉱山を買収するか合弁会社にすることを計画していた。

中国にいる外国人たちは武器弾薬を蒋介石に売る一方で、蒋介石の味方や敵の両方の新旧軍閥にも売りつけてうまくやっていた。

さらに中国の新旧軍閥のあいだにも衝突があることを伝えていた。


中国が掠奪され、別々の外国の後援者に支持された蒋介石と広西の将軍とが中国の支配権を争っているあいだに、多くの地方で革命闘争が燃え上がり始めていた。

山東省のような遠い北方でも抵抗運動の拠点ができていた。

江西省の北東部では教育を受けた農民の方志敏が農民軍を作り上げていた。

南の広東省東江地方では彭湃が今もパルチザンを指導していた。

湖南省西部の山岳地帯では、メキシコの民族独立運動の闘士パンチョ・ヴィリャに例えられる賀竜が農民軍を編成していた。


広西省の西部と南部ではさらに大きな革命的暴動が起こっていた。

広西守備隊は反乱を起こし、広大なパルチザン区域を作ったが、一年後には蒋介石軍に敗れた広西の将軍が郷里に逃げ帰ってきたのである。

インドシナのフランス領から補給を受けていた広西軍閥の諸部隊はパルチザン区域を掃蕩した。

六千の広西革命軍は戦いながら血路を開き、山々を越えて江西南部へやってきた。

朱徳はこれらの部隊で紅軍第六軍団を編成した。


上海からの報告書には、共産党あるいは特に朱徳と毛沢東が「民主主義革命を達成するために、工業都市にかえって、プロレタリアートと都市の小ブルジョア階級との闘争を指導するかわりに、内陸の孤立した山のなかに退却して、軍事的冒険と匪賊行為をやっている」と非難攻撃する党員の存在にもふれていたことを朱徳は回想した。


「民主主義と人権に関する、これらの空虚な美辞麗句の背後には、革命に対する、裏切りがひそんでいたのだ」と、鼻息あらく、朱将軍はいった。
「中国のような半封建的、半植民地国家においては、人民にとって、もっとも単純な民主主義の権利でさえ、手に銃をとってたたかいとらねばならなかったのだ。
上海や漢口、広東、その他の都市では、演説、新聞、集会の自由、組織の権利を、要求したというだけの理由で、また、逮捕されたとき、法廷で自分を弁護する権利を要求したといういうだけの理由で、労働者やインテリが、路上で、首をきられていたのだ。
『帝国主義』ということばを使ったものは、だれであろうと、ただそれだけで、共産党員だという烙印をおされ、つかまれば、殺されたのだ。

八時間労働制や、賃金のひきあげ、児童労働の禁止などを要求してさえ、いっさい、共匪ときめつけられたし、労働組合の自由という思想も、もちろん同じ結果をまねいたのだ。


「毛沢東と、われわれ多くのものは、はじめから、中国の人民が、民主主義の諸権利をかちとることができるのは、外国帝国主義の下僕である反革命勢力を、武力によって打倒したときだけである、と考えていた。

多くのものは、このことを理解もしなかったし、理解しようともしなかった。
しかし、地主の支配のもとに暮らしている、もっとも単純な農民、あるいは、国内と外国との反動どものむちのもとで働いている、もっとも単純な労働者は、このことを、よく知っていた。
毛沢東と私自身、さらにわれわれが指揮していた部隊はどうかといえば、――われわれはみな銃をすてて、国民党の首切り人のまえに、われわれの首をさしのべるなどという考えは、毛頭もっていなかった」


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-31 13:49 | 朱徳の半生(改編後削除予定)