2017年 03月 26日 ( 1 )

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東固の約25マイル南に城壁をめぐらした興国という大きな町がある。

2、3週間後には紅軍の手中に落ち、東固といっしょになって「東固―興国地方ソヴェト区」を結成した。


東固にはすでに小さな病院が建てられていたが、紅軍の病人や負傷者、疲労しきった人たちまで収容できないので、農家の家に招かれて世話になることになった。

この高い台地で紅軍は休養をとり、入浴もした。

しらみを駆除したり、傷ついた足の手当をし、材料を工夫して自分でわらじを作ったりした。

しかし一日も教育を休むことはなく、毎朝どの中隊も教練や演習をしていた。

さらに一日二食の最初の食事がすむと、兵士たちは軍事指導者や政治指導者の講義を聴いたり、討論会に参加した。


そして読み書きのような一般的教育課程はまだ系統的に教えられていなかったが、指揮官たちはできるだけ時間を作って読み書きのできないものに教えようと努力していた。

紙や鉛筆はなかったので、彼らは小さな棒切れで土の上に文字を書いて習っていた。


紅軍が成立して以来、一貫して実践してきたものの一つは、これまでの戦闘や作戦を分析する会議を開くことであった。

朱将軍や毛沢東を含めて、指揮官や兵士全員が参加し、一切の階級を越えてみなが自由に意見を述べる権利を持っていた。

戦闘や作戦の計画が討議されたり、批判されたりもした。

また指揮官であろうと兵士であろうと、個人的行動も批判の対象になり、批判されたものは弁明の機会も与えられた。

しかし、非難が正しいと証明されたときには、批判されたものは紅軍司令部から懲戒処分を受けた。


朱将軍は、このような会議を、きわめて重視していた。

会議は、――と朱将軍はいったーーできるかぎりの方法で、人々を進歩させたし、また紅軍を民主主義的にしてくれた。

こういうやり方によって、――と彼はつづけたーー戦闘でその任務の遂行に失敗したものや、紅軍の民主主義的規律をおかしたものは、階級を下げられ、再教育されたし、また一方、すぐれた智慧や特別の勇気をしめしたものは、昇進した。

同時に、はっきりものをいうことができなかった農民兵も、軍事や、政治、あるいは人間的諸問題について、自分で考え、自分の意見をのべることを、学んだのである。

また農民兵は、古い封建的軍閥軍とは反対に、民主主義的軍隊の性格を学び、慎重さと責任を学び、人間として、また、革命軍の責任ある一員として、自己の価値をたっとぶことを学んだのである。


朱徳は、こういう会議で下級兵士たちが持ち出す質問や思想にいつも深い感銘を受けていた。


「わが軍の将兵は、戦闘の最中には命令に従わなければならないが、国民党軍の兵士のように、命令の意味を理解せずに、ただ命令を受けとって従うということは、われわれののぞむところではない。
われわれは、人民革命軍であり、未来を建設しているものであった」


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-26 11:48 | 朱徳の半生(改編後削除予定)