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旧正月がきた。

家ごとに正月を祝う赤い紙がきらめき、料理店や金持ちの家からは音楽が鳴り響いていた。

南江西の瑞金という小さな県城では、ちょうど江西省軍一個連隊が帰ってきて、「朱毛匪」の大部分を皆殺しにして、敗残兵は福建省境の向こうに追っ払ったと報告していた。


この大手柄の褒美として、街の要人たちは連隊のために正月の大宴会を開いた。

建物の中に準備された長いテーブルの上には赤いろうそくがいくつも輝き、酒盃のひびき、料理の香り、哄笑が沸きあがっていた。

連隊中が完全に気を許していたので、一人の歩哨さへ任務についていなかった。


テーブルの上にご馳走が並べられ、箸をとりあげたその瞬間、弾丸がとぶようなヒュッという音がした。

たちまち一座は深い沈黙に陥った。

彼らが驚きのあまり口を開けて呆然と見つめている間、森の狼のように痩せた「朱毛匪」が、地からわいてきたように銃をかまえて部屋の中に長い列を作って立ち並んだ。

しゃがれた号令がかかると、彼らはいっせいに立ち上がり、両手を頭上高く差し上げて、闇の中に出ていった。

外では別の幽霊が待っていて、大きな石造りの寺院に彼らを閉じ込めて見張りの兵士を立てた。



「われわれは、やつらの正月の御馳走を、すっかりたいらげた」と朱将軍は大笑いした。


翌朝、紅軍は北東に進み大柏地の山地へ入ったが、後を追って約一個師団の敵の部隊が二つの方向から迫ってきていた。

朱徳たちはできるだけ早く歩いて余裕を作り会議を開き、追撃者を今回限りで徹底的に追い払おうと決議した。

そして戦闘計画を討議したあと大衆集会を開いて、敵を皆殺しにするか、そうでなかれば戦って死のうと拳を上げて誓った。


ものすごい激戦になったが、朱徳は「実にきわめて単純だった」と振り返った。

その夜のうちに林彪が一個連隊を率いて行軍し、戦闘が始まった夜明け前には敵の一個縦隊の真後ろにまわっていた。

紅軍は各自二十発ぐらいの弾薬しか持っていなかったが、すぐに使い果たし、木の枝や棍棒で戦い、太陽が頭の上にきた頃には敵の師団を完全に打ち破っていた。


捕虜は約一千人ぐらいしかいなかったが、その中から百人の貧農出身者を選び出して、紅軍に加わって勝利をおさめる日まで闘い続けてくれと訴えた。

残りの捕虜はむかしながらの傭兵で阿片の常飲者であることはわかっていたので、釈放した。


この大柏地の戦闘は、土地革命や敵の士気に与えた影響において一つの転換だった。

その後敵軍が紅軍を追撃してくる場合は、遠く離れて近寄ろうとはしなかったし、福建の諸部隊はこんなことは自分たちの仕事でないといって福建省へ引き上げてしまった。


数日後江西省中央部の城壁をめぐらした寧都という都市を占領した。

地方守備隊と地主たちは紅軍が近づくとたちまち逃げ出した。

商工会は大昔からの慣習通り国民党の旗を引き下ろして赤旗を掲げ、紅軍に五千ドルの金と市の鍵を差し出した。


朱徳と毛沢東は金は受け取ったが、宴会への招待は拒絶した。

紅軍は地主から食糧やその他の財産をすべて没収し、余分は市の貧民に分配し、全市民の大衆集会を開いた。


さらに紅軍は占領した町や市ではどこでもしてきたように、「犯罪は、階級の問題である」という理由ですべての牢獄にいる囚人を釈放した。

囚人の多くは政治犯で、ひどい拷問で一生治らない不具者にされていたし、その他は個人財産に対するささいな犯罪を犯した貧乏人であった。


寧都に3日間とどまり、紅軍は負傷者、病人、疲労したものを集めて、地主から米や補給物資を没収したうえで、東固山地の基地に向かって西へと行軍を開始した。


この行軍はまるで凱旋行進のようだった。

農民たちが積極的に負傷者や補給物資の運搬を手伝ってくれた。

東固基地にある竜岡の町は農民運動の強力な中心地で、みなが紅軍を歓迎し、それぞれの家庭で歓待したいと申し出てくれた。


ここで朱徳と毛沢東は黄埔軍官学校出身の李文林という人物に出会った。

彼は一個中隊のゲリラを率いて、紅軍を山に案内するためにやってきたのであった。

                            紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-25 15:48 | 朱徳の半生(改編後削除予定)

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朱徳と毛沢東は四千人の兵を率いて敵の封鎖を突破した。

井岡山の山麓から外界へ通じる道を知っているのは、匪賊になった農民以外いなかったし、誰もあえてこの道を辿ろうとする冒険をおかすものもいなかった。

山道の痕跡すらなく、巨岩と火山の先鋒との混沌とした世界にすぎなかった。


1929年1月の明け方、井岡山と江西―湖南の省境を南へ走る山脈を結びつけるぎざぎざの尾根のいただきを、ぼろぼろの服を着た男女の群れが一列になってはいのぼり始めた。

激しい風雨雪のためにすべりやすく、くぼみには雪がたまっていた。
口を開けている真っ暗な割れ目にすべり落ちないように、互いに手をつなぎ合って少しずつ進んでいった。


夕暮れがせまる頃、彼らは狭くて傾斜した固い火山岩の台地に着いた。

そこで各人が携帯していた冷たくなった米の飯を半分だけ食べた。

互いに身を寄せ合い、震え、咳をしながらその夜をすごした。

夜があけると、ふたたび南に向かって進んでいった。

午後遅くに、大汾の村へ下る雑草の生い茂った細い道に出た。

この村には、敵兵一個大隊が駐屯していた。

この山道で行軍を停止し、残りの米の飯を食べて、夕闇がたちこめてきたときに、音をたてないよう静かに下り始めた。

山道のふもとに着いてから、彼らは大汾の村を包囲し、弾薬を持った数個部隊が村に入ってゆき、たちまち敵の守備隊を制圧してしまった。


「その晩は、われわれは、実によくたべたよ!」と、朱将軍は、いかにも満足そうに、語った。


捕虜たちとはよく話し合った後、釈放した。

捕虜を訓練する計画は持ってなかったし、むしろ彼らに警報を拡げさせて、封鎖部隊に自分たちを追跡させようと考えたからだった。

ところが、封鎖部隊ではなくて、ほかの場所にいた敵軍が警戒態勢についた。

南に向かって急進撃を続けながら、かかしのようなぼろをまとった紅軍の諸部隊は、瞬時に地主と民団を襲撃し、敵から食糧や補給物資を獲得し、地主の家で手に入れた服で着替えをしていった。

そしていたるところで農民に呼びかけ、彼らの昔からの仇敵を一掃させた。


紅軍はこの地方の守備隊を粉砕し、江西省南西部のタングステンの都市大余を占領し、三日間とどまって、弾圧されてきた大衆運動を復活させた。

こうしてわざと敵軍一個連帯に紅軍に追いつく時間を与え、彼らを混乱と絶望の戦闘に追い込み、数百人の戦死者を出させた。


朱徳と毛沢東は退却を命じた。

その後の10日間は、氷に閉ざされた山々の中で四方八方から攻撃してくる敵軍との激戦の連続だった。

紅軍が通り過ぎた雪道の上には、血にまみれた死体が続いた。

昼間しか行動しない敵軍を追い抜くために、紅軍はいつも数時間だけの休息をとり、真夜中ちょっとすぎに行軍を開始した。


村に近づくと、紅軍はまず一人か二人の兵士を先行させたので、農民たちは外に出てきて、紅軍のために米を集め、負傷者や疲労した人を引き取って匿ってくれた。

あとに残って農民の世話になるものには回復したら、農民を組織できるように小銃と数発の弾薬を与えておいた。


「紅軍の兵士を訓練するに当ってのわれわれの方針は、たとえたった一人だけしか生き残らなかったとしても、その一人が人民を蜂起させ、指導することができるようにすることだった」と朱将軍はかたった。

「あの恐怖にみちた時代には、数かぎりない戦闘をまじえたが、あるときはたった一回の戦闘で二百人もの同志を失ったこともあった。
またあるときには、二十人の兵士と一人の黄埔軍官学校出身者とが敵の捕虜になったことがあった。
この二十一人は、そのころ江西省南部のある県を守っていた一個連隊の敵軍に加わった。
二、三ヶ月後、彼らは、連隊全員を指導して、叛乱をおこし、この県をゲリラ基地にかえしてしまった。
その後、ここは、われわれのもっとも強力なソヴェト地区の一つになった」


さらにほかの戦闘では朱徳の妻呉玉蘭が行方不明者の一人になってしまった。

彼女は拷問されてから首を切られ、彼女の首は郷里の長沙の町に送られた。

市の長老たちはその首を棒の上に突き立てて、大通りのさらしものにした。

彼女と同じような考えを持つものに対する見せしめにしたのだった。

                            紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-25 09:00 | 朱徳の半生(改編後削除予定)